この学びの第二区分に入る時、授業を受けている生徒たちは、第一区分で述べた事柄をよく理解している必要があります。さもないと、人類を贖うための神の素晴らしい御計画の遂行を、完全に理解することはできないでしょう。
苦しむ三位一体
この贖いの御計画は、三位一体の神の苦しむ聖愛の現れです。そして、この苦しみはカルバリにおける歴史的現れに先立ちます。教師はこの事実を強調しなければなりません。メイビー博士は「十字架の神聖な理由」の中でこう述べています、「深い意味において、神は十字架上で『死を味わわれた』のです。十字架は、カルバリに立てられる前に、天にありました。イエスの地上の母親であるマリヤの心を貫く遥か前に、剣が天の御父の心を貫きました。この有史以前の神の苦しみは、キリストの犠牲的生涯の一部であっただけでなく、そのすべての源泉でもありました。『神はそのひとり子を賜ったほどに、世の人を愛された』のです」。
苦しむ三位一体のこの見解は、「聖なる神は、ただ御子の贖いの御業によってのみ、罪人を滅ぼさないよう引き止められる」という誤った教えの受容を不可能にします。メイビー博士は続けて言います、「これまでしばしば、父なる神は無情な抽象的主権者として示されてきました。そして、罪人を御父から守る存在として、御子が御父に対抗する地位に置かれてきました。これは福音の体系にとって災いだったのではないでしょうか?この観念は真の父権を大いに傷つけてきたのではないでしょうか?そして、神の主要な関心事は抽象的で愛のない栄光を維持することであり、キリストはこの水準を保つためにあらゆる苦しみを耐え忍ばれ、他方、人はその恩恵にあずかるかのように、思わせてきたのではないでしょうか?」。
前述したことを証明するために、次の節を読ませなさい。コリント人への第二の手紙五章一九節、テモテへの第一の手紙三章一六節、使徒の働き二〇章二八節後半。「彼(神)がご自身の血をもって買い取られた」という表現に注意しなさい。この表現は、三一の神の唯一性だけでなく、イエス・キリストの神性をも証明します。私たちは今、「世の基が置かれる前から定められていた小羊」について述べている節を、よりよく理解することができます。ペテロ第一の手紙一章一八〜二〇節、黙示録一三章八節。「贖いは、その原則において、また神において、永遠である。しかし、贖いは永遠ではあるが、人に効力を及ぼす時は歴史的である」(メイビー博士)。これは真実です。
予表された神の小羊
さて、この歴史的出来事を詳細に調べることにします。興味深いことに、旧約聖書は贖いの達成の事実だけでなく、それが成就される方法も予表・予告しています。この犠牲的要素が、一筋の真紅の紐のようにページを貫いています。最初それは、創世記三章二一節に見られます。この節を生徒たちに注意深く読ませなさい。主なる神が罪深い夫婦に着せたこの「皮」とは何だったのでしょう?一つの手がかりを与えている創世記四章二、四節に注意を喚起しなさい。主なる神はアダムに、一頭の小羊をほふって、必要な覆いを用意するよう指示された、と信じるのが合理的ではないでしょうか?聖書全体を通して、小羊が罪のためのいけにえの供え物と関係している事実を考えるなら、これは論理的推論ではないでしょうか?主なる神はアダムに、最上の愛情を惜しみなく注いできた一頭の小羊――おそらく、とっておきの小羊――を取って、なんら死に値することをしなかった無垢な信頼しきっている獣の体に、自分の手で鋭い火打ち石を突き立てるよう指示された、と信ずべきあらゆる理由があるのではないでしょうか?命の血が流れ出た時のこの人の気持ちを想像できるでしょうか?次に、彼がその皮から自分の罪のために必要になった覆いを造りはじめた時、この犠牲的死の意味を教えてもらう必要はあったでしょうか?彼は自分の内側深くで、自分の罪のために犠牲になった命は、その罪の結果を覆うだけでなく、それを効果的に解決する、さらに尊い命の型・象徴であることを知っていた、と私たちは信じることができるのではないでしょうか?
今アダムの心の中で、約束された「女の種」がほふられた小羊と結びついたのではないでしょうか?彼は今、「かかとを砕く」ことは約束された方の犠牲を意味し、蛇の「かしら」を砕くことは「女の種」が成就する輝かしい究極的結末を意味することを、理解したのではないでしょうか?ほふられた小羊の覆いを身にまとった時、彼はそれにより、約束された方の犠牲的御業と罪やサタンに対する完全な勝利とによって、自分が彼と一体化されることを認識したのではないでしょうか?アダムとエバが神の贖いの御計画をどの程度理解したのか、私たちにはわかりません。しかし、聖霊なる神の照らしを通して、彼らが神のほふられた小羊を信じるのに十分な理解を得たことはわかります。
この時から、罪のためのいけにえの思想が人の心に宿りました。ですから、アベルが神の指示通りに、いけにえの供え物にするために自分の小羊を連れてきたのを、私たちは見ます。後に、イスラエルのエジプトからの脱出と関連して、聖書は過越しの小羊について述べています。この過越しの供え物は、荒野の幕屋や後のエルサレム神殿で継続的に記念されました。実に創世記から黙示録まで、聖書全体を通して、ほふられた小羊の象徴や実質が見られます。
人は命の木への既得権を失う
今、創世記三章二二〜二四節を読む必要があります。もし正しく理解するなら、この節は人類の成員に、贖いと輝かしい子たる身分の尊い希望を与えます。ロザハム訳からこの節を読みましょう。「そこで神であるヤハウェは言われた。『見よ!人は善悪を知ることに関してわれわれのひとりのようになった。それゆえ今、人が手を伸ばして、命の木からも取って食べ、代々に生きることがないように』。そこで、神であるヤハウェは人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取られた土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、命の木への道を保つ(あるいは、守る)ために、エデンの園の前に、ケルビムと回る炎の剣を置かれた。」
「神であるヤハウェ(あるいは、エホバ・エロヒム)」は、欽定訳では「神である主」と訳されています。この表現は、人が創造されるまで聖書に出てきません。(創二・四、七を見よ。)それは「自分自身を啓示する、自存する方」、現された神を意味し、それゆえ永遠の御子を暗示します。旧約でエホバと訳されているヤハウェは、贖う神の御名です。それは新約のキリストを暗示します。創世記一章二六節等に見られるエロヒムは、完全な三重性における神を暗示する複数名詞です。この節と少なくとももう一つの節(創一一・七)で使われている「ヤハウェ・エロヒム」は、「われわれ」という人称名詞と同じく複数形です。
「善悪を知ることに関して」という表現は、絶対的に神に依存し続ける結果生じる経験的知識よりも、独立した行動の結果生じる経験的知識を、人が選んだ事実を示します。この表現は、人類の成員は「おのおの自分の道に向かって行った」という宣言の言い替えです。二二節は未完了時制で、説明するのが困難です。しかし、象徴としての命の木に関して前に述べたことをすべて慎重に考慮するなら、この難解な句は理解しやすくなります。おそらく次のような言い換えが、この言葉を語られた時の神の御心をよく伝えるでしょう。「人は命の木から食べることを選ぶかわりに――命の木から食べていたなら、人は永遠の命と不死を得ていたでしょう――善悪を知る知識の木から食べることを選んだので、人はエデンの園から送り出されて、自分の選択の結果を悟らなければならない」。前に注意したように、「………しないように」という表現は不確実性を意味しません。神がエデンの園から人を送り出されたのは、命の木が象徴するものを人から剥奪するためではなく、人に「自分は命の木への既得権を持っている」と思わせないためでした。人は命の木への権利を失いました。
命の木への道は保たれる
しかし今、次の貴重な事実に注目しなさい。すなわち、人は命の木から食べる既得権を失いましたが、その木への道は守られており、人に対して開かれています。ですから、その道を選ぶなら、人はその木への権利を持ち、その実を自由に食べることを許されます。命の木へのこの道を守るためになされた素晴らしい備えに、注意深く注目しなさい。神の聖と愛は、それによって罪深い人が神の命にあずかるよう、一つの道を用意しました。命の木を取り囲むケルビムと回る炎の剣は、この神の聖と愛の絵図であり、見る者に畏敬の念を生じさせます。しかしおそらく、「なぜこのように絶え間ない守りが必要なのでしょう?」と問う人がいるでしょう。それは、サタンができることならその道を閉ざそうとしているからです。サタンは、もしこの道が罪深い人に対して開かれ続けるなら、人に対する自分の支配が永久に終わるであろうことを、ただちに認識しました。彼の諸々の狙いは成就しないでしょう。この道とは何でしょう?神の小羊のいけにえの供え物――神の贖いの御計画です。
サタンは命の木への道を閉ざそうとする
これまで述べてきたように命の木への道は守られました。これが象徴する神の御旨を悟ったその瞬間から、サタンはその腐敗した知恵と利己的な力をすべて一つの目的に傾注しました。神の贖いの御計画を挫折させることに傾注したのです。この世にはじめて生まれた子供であるカインに対して、サタンが成功を収めたことがわかります。カインの知性は罪深い遺伝のせいですでに汚されていましたが、その知性にサタンはある思いを吹き込みました。その思いとは、屠られた小羊以外の何か別のいけにえの供え物をささげるというものでした。創世記四章一〜八節に記されている二つの供え物の記事を生徒たちに読ませなさい。そして、各々の意義を説明しなさい。六節と七節のロザハム訳はとても助けになります。「そこでヤハウェはカインに言われた、『なぜあなたはこれを怒っているのですか?なぜ顔を伏せるのですか?もしあなたが正しいことをしているなら、顔を上げるべきではないですか?しかし、もしあなたが正しくないなら、入口に罪を担うものが横たわっています』」。この最後の句は、主なる神が次の事実に注意を喚起された事実を示しています。すなわち、アベルは自分の群れから取った一匹の小羊を供え物として彼に与えるつもりだったのです。アベルはそうすることを望んでいたことを、まさにヘブル語本文は示しているように思われます。なぜなら、アベルはこの象徴を理解しており、自分のいけにえをささげることにより、神の小羊を信じる信仰を表明したからです。(ヘブ一一・四を見よ。)アベルの模範に従うよう、カインはさんざん機会を与えられましたが、意図的にそれを拒みました。神の贖いの御計画と、屠られた神の小羊を信じることとを拒否した最初の罪人は、カインであることがわかります。
次に、この贖いの計画の実行を妨げようとするサタンの試みについて見ることにします。事実、サタンはカインを導いて自分の兄弟を殺害させ、こうして女の種の約束を無効にしようと計画しました。というのは、サタンは将来を見通すことができず、この約束された方がベツレヘムに生まれることがわからなかったからです。紛れもなくサタンは、アダムやエバ同様、この来たるべき方はエバの子供であると見込んでいました。
旧約聖書の大部分は、贖い主が出ることになっているこの種族、部族、家族の歴史を扱っています。興味深いことに、どの世代でも、サタンはこの約束された方の誕生に関する諸々の預言を無に帰そうとしてきました。ダビデの王家の系統が絶滅するかのように思われる時が幾度もありました。しかし、神はヨアシの場合のように、それを阻止されました。(二歴二二・一〇〜一二を見よ。)ありとあらゆる偶像崇拝や邪悪さがこの国に災厄をもたらしましたが、約束された贖い主に関する神の御言葉は文字通り成就しました。神・人の誕生後、サタンはこの方を殺そうとしました。この方のバプテスマの後、サタンは巧妙な誘惑により、この方を支配しようとしました。神・人の地上の務めの間ずっと、それをなすようこの方に与えられた御業を、サタンは邪魔し、無に帰し、阻止しようとしました。神・人は、「私は自分の羊のために『自分の命を捨てます』」と言われましたが、ゲッセマネの園でその命をサタンは奪おうとしました。(ヨハ一〇・一四〜一八参照。)用いうるあらゆる方法を尽くして、サタンは神の贖いの計画の遂行を妨げようとしました。
神の贖いの成就―― 一つの決定的な行い
すでに述べたように、人類を贖う神の愛と聖は一つの決定的行いとして現されました。これをもう少し詳しく調べることにしましょう。神がこの罪の問題の解決に取り組まれる場合、それは数世紀に及ぶ過程の形を取るのではなく、一つの行いによって成就される、と推定できるように思われないでしょうか?
しかし、「あらゆる時代や経綸の罪人たちを、神はどうやって法理的に一瞬で取り扱えるのだろう?」という質問があるかもしれません。それはただ、彼らの公的頭首を取り扱うことによってであり、代表者としてのこの方の数々の御業を彼らが自分の選択する力を用いて個人的に承認することによってです。ですから、イエス・キリスト以後、その地上の歩みにおいて、非受造の(永遠の)命の領域の中に生きる、最後のアダムとしての依り頼む、聖なる、勝利の生活が明らかになりました。この方には、最初のアダムの種族に関して代表者として行動する覚悟がありました。この方は、最初のアダムの種族とご自分を同一視されました。罪のない者であるこの方は、命、聖潔、平和、愛の領域の中に生活しておられましたが、最初のアダムの子孫たちが住んでいたこの領域の罪で毒された大気の中に、人性をもって自発的に下ることをよしとされました。個人的には、彼に罪はありませんでした。代表者として、全人類の罪が彼の上に置かれました。そして、彼の人性は「罪と死の法則」の作用範囲内に来ました。この「罪と死の法則」は完全に不動のものであることを、私たちは見いだしました。その時、彼は代表者として、罪深い人類がそれに値する、この打撃、滅び、刑罰を担わなければなりませんでした――神の聖がこれを要求したのです。
この罪を担う方の無罪性のゆえに、神の聖があがめられることは明らかです。罪人たちはこの一撃を受けるに値しました。この罪の無い方はそうではありませんでした。ですから、「イエスの死は、罪人全員の死よりも、義なる支配の正統性を示す、輝かしい証拠だったのです」(メイビー博士の「十字架の意義とメッセージ」から)。
旧約聖書が予示していたキリストの死に方
さて、この裁きによる死に方について考えることにしましょう。使徒の働き二章二三節でこれが述べられているのがわかります。「この方は、神の定めた計画と予知によって渡されましたが、あなたたちはこの方を捕らえて、邪悪な手で十字架に付けて殺したのです」。この死に方は旧約聖書に示されていたのでしょうか?過越の小羊はユダヤ人の祭壇上にささげられました。しかし、磔殺による死はユダヤ人の処刑法ではありません。周知の通り、当時、ローマ帝国が不遜な世界の支配者であり、パレスチナはその統治下にありました。ですから、神の小羊はローマの十字架に付けられたのです。比喩的に言って、全世界がこの十字架を見ることができました。ローマが征服するよりも早い時代やマケドニヤの支配の間に彼が死に渡されていたなら、その死はあまり壮観ではなく、外部に対してあまり印象的でもなかったでしょう。神は贖いの計画を実行するために、人類史の中の適切な時を選ばれました。
*素晴らしいことに、この贖いの物語はすべて、星空に記されました。人が創造される遥か昔、星座が蛇、乙女、子供について告げ、そしてとりわけ明るく、南天の空に十字架を輝かせていたのです。
*注記: この主題について調べたい教師は、シースによる「星々の福音」の写しを得るといいでしょう。
頑丈な梁がカルバリに実際に立てられる前の数百年間、神は十字架を示唆するものをたくさん与えて下さったように思われます。過越の小羊の体は、焼かれる前に木の棒の上に付けられました。それによって形造られた十字架を見ずに、イスラエル人が過越の小羊を用意することは決して無かったでしょう。その体が垂直方向に伸ばされれば伸ばされるほど、水平方向の端から端までは短くなりました。私たちから見ると、この類似は実に驚きです。しかし、昔の人々がそれにどんな印象を抱いたのかは分かりません。
十字架の形は、幕屋の調具の配置の中に見られます。また、竿の上の蛇も十字架について物語っています。(出四〇・二〇〜三〇、民二一・八、九を見よ。)
スコフィールド博士は、詩篇二二篇のことを「磔殺による死の絵図」として描写しています。この詩篇を生徒たちに読ませなさい。そして、キリストの磔殺の詳細を、著者がほぼ完全にすべて描写していることに、注意させなさい。著者はまるで、数百年前に書いているのではなく、その光景の目撃者だったかのようです。スコフィールド博士はこう付け加えています、「磔殺がユダヤ人ではなくローマ人の処刑法だったことを思い出すとき、霊感を示すこの証拠にあらがうことはできません」。ですから、小羊だけでなく十字架も旧約聖書の中に予示されていたことが明確にわかります。これは使徒の働き二章二三節で述べられている神の予知と完全に一致します。
磔殺の物語
さて、四福音書が語る磔殺の出来事について、生徒たちは読まなければなりません。マタイによる福音書だけが与えていて、他の物語には見られない、この出来事の諸々の詳細に注意しなさい。それらの詳細について黙想しなさい。マルコによる福音書の御言葉を調べて、他には見られない表現があるかどうかを見なさい。ルカの記事の中にある表現で、その福音書に固有なものに注意しなさい。また、ヨハネによる福音書の中の詳細で、他の福音書から省かれているものを見つけなさい。この光景全体が心眼の前に鮮やかに浮かび上がるまで、これらの物語をまとめあげなさい。十字架におけるキリストの様々な発言を順序通りに並べて、それらの発言について時間をかけて祈り深く黙想しなさい。イザヤ書五三章一〜九節を読ませて、注意深く、恭しく、一つ一つの節を思い巡らせなさい。六節を読む時、教師は円形の穴が空いた黒い円盤を、厚紙に描かれた「神・人」の象徴である星の上にかぶせなさい。この円形の穴はこの星の中心を示すものでなければなりませんが、「魂と体」を示す他の円を完全に覆わなければなりません。(図六を見よ。)彼の本質的神性の上に罪が置かれることはありえなかったこと、しかし、その目的のために彼の人性がこの世にもたらされたことを説明しなさい。(ヘブ二・九を見よ。)イザヤ書五三章六節の「すべての」という言葉に注意を喚起しなさい。全人類の罪が彼の上に置かれました。そして、私たちの咎のために、「この打撃が彼の上に降りかかりました」(ロザハム訳)。その証拠は、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか?」という、この恐ろしい叫びの中に見いだされます。その少し前に、この方の口は、「父よ、あなたがわたしの願いを聞き届けて下さったこと、常に聞き届けて下さることを、私は知っています」(ヨハ一一・四一、四二)と発言していました。この発言は罪なき彼の人性にとって自然な発言でした。しかし今、聖なる神から分離された罪人たちの種族の叫びを、彼は発します。
図六
まことに、「罪をまったく知らない方が、私たちのために罪とされた」(二コリ五・二一)のです。まさにこの時、彼はすべての人のために死を味わっておられました(ヘブ二・九を見よ)。死とは「外界との交流がなくなること」であることを思い出しましょう。神は依然として彼の周りにおられましたが、かつて経験したことのない恐るべき何かが彼の人性の上にのしかかっていました。その何かとは、神に応答しないものであり、言い尽くせない苦しみを引き起こすものでした。その何かとは人類の罪という大きな山であり、それが彼の人たる魂を砕いたのです。
神・人の身代わりの苦しみ
神・人のこの身代わりの苦しみを理解できるでしょうか?できません。神がキリストにあってご自分の苦しむ愛と聖を現された、あの恐るべき時のこの奥義を、私たちは決して理解できません。しかし、神は私たちを創造する時、低い水準で身代わりとして苦しむ能力を与えて下さいました。これは、この苦しみの時をかすかに理解する助けになります。多くの人が他人のために苦しんできました。ある人々の場合、この身代わりの要素があまりにも強いため、彼らは他人のまさに人格的雰囲気の中に入り込んで、他人が経験していることを実際に感じているかのように思われます。わがままな子供の非行のせいで苦しみを被っている敬虔な父や母にとって、まさにそうだったことがしばしばです。しかし、このような苦しみは、たとえそれがもっとも辛くて犠牲的なものだったとしても、この罪の無い方の苦しみを私たちに理解させることはできません。この方は、一人の人の罪ではなく、人類全員の罪を実際に感じたのです。イザヤ書五三章で魂という言葉が贖い主の苦しみに関して三回見られることに注意しなさい。一〇節〜一二節を読みなさい。前に見たように、魂は自己意識の座です。ですから、この語がこの節で使われているのは、大いにもっともなことです――なぜなら、この方の全人格が、罪との接触の恐るべき衝撃を感じたからです。心理的に、彼は最も恐るべき「複合体」を経験しておられました。罪が、彼の罪の無い性質の上に置かれて、その魂を死に至るまで注ぎ出させました。彼の愛と従順の姿勢は常に、「見よ、私はあなたの御旨を行うために来ました」でした。しかし今、全人類の罪であるあの恐るべき神への敵意が、人たる自分の魂の上に置かれるのを、彼は感じました。私たちに贖いをもたらしたこの身代わりの苦しみは、私たちの主の人性の内なる人の中に生じたことを、生徒たちに印象づけなさい。
神・人は身代わりで罪を担い、その罪によりその人たる魂は砕かれました。それだけではありません。彼はまた、サタンの敵勢全体に取り囲まれました。それはまさに、彼が語っておられた、「暗闇の時と力」でした。(ルカ二二・五三。)サタンと、その堕落した使いたちや悪鬼どもが、彼を包囲しました。それはサタンにとって戦略的な瞬間であり、自分の力を十字架上の御方の上に傾注し尽くしました。この御方は、それまでサタンを撃退して征服してこられましたが、今や、神の御顔から分離された苦しみの中、罪人として十字架に懸けられています。「神は彼を見捨て、迫害し、取り去られた」が、まことに彼の心の声でした。
この瞬間、遥か昔にサタンに関して述べられた、「あなたは彼のかかとを砕く」という預言が成就されました。ああ、この時の暗闇!不可視の領域でなされていたこの恐るべき戦いに、自然の諸力が応答したのも不思議ではありません。(マタ二七・四五参照。)
突然、大きな勝利の叫びが十字架からあがります――「成就した」。そして次に、平安の中で、「父よ、私の霊を御手に委ねます」という声が続きます――こうして、すべてが完了しました。
自分たちのメシヤを渡して十字架に付けた信心深いユダヤ人たちは、特に聖なる過越の安息日に彼が十字架に付けられたままではまずいと、大いに心配しました。彼らはこの安息日を汚すことを入念に避けました。彼らはまた、疑いなく、人々の反応を恐れました。多くの人が敬っていたこの人、その恵みを人々が受けていたこの人の、瀕死の苦しみを見ることを許されたら、人々はどう反応するでしょう。磔殺による死は、ゆっくりした、延々と続く過程であり、十字架に付けられた人は十字架上で何時間も生き延びることがしばしばでした。ですから、これを知っていたので、この三人の犠牲者の足を折って死を早める許可を、彼らはピラトから得ました。それにしたがって、兵士たちは進み出て、「彼と共に十字架に付けられた最初の者と、もう一人の足を折った。ところが、イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが見えたので、彼の足を折らなかった」。ヨハネによる福音書一九章三一節〜三三節。これは預言の成就だったことに注意して下さい。この詳細さえも、イスラエルの家族が食べた過越の小羊との関連で予示されていましたが、これにも注意して下さい。小羊を出す時、骨を一本も折らないよう、とても気をつけていたのです。(民九・一二、詩三四・二〇を見よ。)彼がすでに死んでいるのを見つけて、兵士たちは驚きました。壮年の男性の場合、これはとても異例なことでした。彼らはその死を説明できませんでした。しかし、自分に対する命令を忠実に果たすために、「兵士の一人が槍で彼の脇を貫いた。すると、ただちに血と水が流れ出た」。これが目撃証人の証しであり、愛された弟子であるヨハネの証しです。ヨハネはこの出来事を大いに強調しているように思われます。なぜなら彼は、証人としての証しに関して、こう付け加えているからです、「この証しは真実です。彼が真実を述べていることを、彼は知っています。それは、あなたたちが信じるためです」。この証しの意義は何でしょう?この証しは、すでに述べられている真理を、どのように確立するのでしょう?医者なら教えてくれるでしょう。この死は実際に心臓破裂によって引き起こされたものであり、神・人が私たちのために「罪とされた」時に経験した、恐るべき苦しみの結果だったのです。
イエスの死の肉体的原因
ストラウト博士は、イエスの死の肉体的原因というこの主題について、とても明快な科学論文を書いています。その論文の中で、彼は心臓とその機能について描写した後、強烈な感情の結果、この器官が拡張状態にあったことを、続けて描いています。彼はこう付け加えています、「若くて活発な被験者の場合、心嚢の中に集められた血液は、すぐにその成分に分かれてしまう。すなわち、血清と呼ばれる青い水っぽい液体と、血塊と呼ばれる深赤色の軟らかい凝固体とに分かれるのである」。ですから、「すると血と水が流れ出た」という記述は、心臓破裂を示唆しています。しかし、他にも示唆がいくつかあります。医者であるルカが記した福音書では、血の汗について記しています。これは精神的苦しみによって引き起こされた心臓裂傷を示しています。「苦しみの中で、彼はさらに熱心に祈られた。そして、彼の汗が大きな血の滴のように地に落ちた」(ルカ二二・四四)。他の医者たちもこの記述について言及してきました。次のことをわかって下さい。彼らはイエスの死の肉体的原因が心臓破裂であり、ひどく恐ろしい致命的苦しみの結果であることを、明快に証明しています。そして、少なくとも一人の不信仰な医者が、イエスが人類のために罪を担われたことを証明するこれらの肉体的証拠に感銘を受けて、彼を贖い主として信じるよう導かれたのです。
イエスの死の肉体的原因についてのこの知識の光に照らして見るとき、ゲッセマネの園の光景は、何と大いに神聖なものになることでしょう。その場所で、神・人は人類の罪の大気の中に入り始めました。そして、苦しみが強まるにつれて心臓が膨張して行くのを、彼は感じることができました。それは命にかかわることでした。四肢は冷たくなり、呼吸は困難になりました――これらの兆候が何を示すのか、彼はご存じでした。さらに苦しみは増し続け、血の汗の大きな滴が地面に落ちて、死が近いように思われました。それでも、彼は十字架に行かなければなりません。ゲッセマネで死ぬことはできませんでした。神に対する信頼は決して揺るぎませんでした。「そして、その場所に、天から彼に御使いが現れて、彼を力づけた」(ルカ二二・四三)。彼は静かに、自分を捕まえるために来た暴徒と会い、煩わしい不法な裁判を経過し、様々な侮辱を被り、自分の重い十字架を取って、磔殺の丘に向かって行きました。ああ、私たちの心は彼――「カルバリの人」――神の小羊を偲びます!
埋葬
今、命のない体が十字架から取り下ろされ、葬りのために整えられます。この方は優しい目で、地上の務めの間、何度も群衆をご覧になり、自分の周りの小さな子供たちをかわいがって微笑まれました。その目は今や、死により閉ざされています。この方は御手をもって、らい病人、盲人、耳の聞こえない人、口がきけない人、病人に触れて下さいました。その両手は、十字架から体を取り下ろされる時、力なく体のわきに垂れ下がりました。嵐をしずめ、悪鬼どもを追い出し、死人をよみがえらせ、命と希望の言葉を語られたその御声は、今は沈黙しています。少し前に、「私は復活であり、命です」と言われた方は、今や、死の中に静かに横たわっています。イエスは死なれました。
次に、その体は墓の中に置かれ、大きな石がその墓所の入口に転がされました。(マタ二七・五七〜六〇。)もしピラトがその石の上に碑文を刻むよう配慮していたなら、「ユダヤ人の王であるイエス、ここに眠る」と記していたでしょう。サタンが碑文を記していたなら、「私が征服したナザレのイエス、ここに眠る」となっていたでしょう。しかし、神が碑文を記しておられたなら、「罪深い人類、ここに眠る」となっていたでしょう。
キリストの死の二つの面
私たちの代表であるイエス・キリストに言えることは、私たちにも言えます。この事実に何度も何度も注意を喚起する必要性を、教師は経験するでしょう。授業の生徒たちが神の贖いの計画に関する理にかなった適切な観念を得るためには、彼の死の二つの面をはっきりと見てもらわなければなりません。贖いに関する諸々の真理を示す時、「キリストが死んで下さったのだから、自分は死ななくてもよい」「彼が自分の罪のために苦しんで下さったので、自分は刑罰を免れることができる」と聴衆が感じるような方法で示してはなりません。むしろ、「この打撃が彼の上にふりかかった時、自分も処刑された」「彼が死を被った時、自分も彼にあって死んだ」ことを、はっきりと示さなければなりません。(二コリ五・一四とロマ六・一〜一一を見よ。)罪の無い最後のアダムは、最初のアダムの罪深い種族全体を御腕の中に集めて、カルバリに連れて行かれました。この打撃は、彼と彼が包含したすべての人の上に降りかかりました。そして、罪人として、全人類が神の聖の水平線から姿を消しました。
キリストの贖いの御業について大いに黙想していた、ある若いクリスチャンは、「キリストが自分のために死んで下さった時、自分は罪人として、受けるに値するものを、どのように受けたのだろう?」と知的困難を覚えました。彼女は神の御言葉が述べている数々の事実を信じていましたが、彼女の正義感はこう言いました、「私は自分の罪のために罰せられるべきです。私がしたことのせいで他の人が罰せられるのは、公平ではないように思われます」。神は彼女が必要としている照らしを与えて下さいましたが、それはとても貴いことでした。ある晩、夢の中で、自分の愛する人が被告人として、正義を代表するいかめしい渋面をした人の前に立っているのを見ました。悪い行いをしたその人の顔は、罪を認めて恐れている表情をしていました。あたかも、正義の杖が今にも、その人の受けるべき恐ろしい罰を執行しようとしているかのようでした。その重い杖が被告人の差し出された手の上に降りかかろうとしたその瞬間、その若い女性は、愛の権化となって前に進み出て、その罪人の手の所に自分の手を上向きに置き、その打撃をすべて受けました。被告人は、「自分は受けるべき刑罰を受けた」という表情をしました。そして、それと同時に、悪行に対する真の悲しみを示しました。苦しむ愛の介入と身代わりの行いによって目覚めた悲しみでした。その時、この若い女性はわかったのです。自分は罰せられたこと、罪人として受けるべき刑罰を自分は個人的に受けたこと、しかし、キリストがその打撃の力を感じて下さったことがわかったのです。
ここに一体化と身代わりの両方を見ることができます。「キリストは私のために死んで下さった」と言う時、それは私たちにはあずかれない彼の死のある要素のことです――(この「打撃」の力のことです)。これは彼の死の身代わりの面です。「キリストにあって私は死にました」と言う時、それが示す事実は、私たちは代表者である彼の死の中で彼と一体化されたということです。
キリストが「味わわれた」死
しかし今、彼の死の身代わりの面について、もっと真剣に調べることにしましょう。彼が「すべての人のために死を味わわれた」とは、どういう意味でしょう?(ヘブ二・九を見よ。)これが分解以上のことを言っているのは明らかです。この死はいかなるものだったのでしょう?前の授業で述べた、「死とは外界との交流がなくなることである」という死の定義を、もう一度思い出しましょう。これが罪の合理的結果です。罪人たちは神に応答することができません。この応答不能性は、神からの分離の自覚を生じさせます。すでに見たように、人に関する限り、この分離は永遠に続きます。神からの永遠の分離は、永遠の死を意味します。これがキリストが「味わわれた」死でした。
ですから、次のことがとてもはっきりとわかります。もし彼がヨセフの息子であって、奇跡により、罪深い両親から生まれた子供を罪無き者とするために遺伝の法則が無効にされていたのだとするなら、ご自分の種族の罪のためのいけにえになろうとする彼の親切な試みは、彼をこの永遠の死に巻き込んでいたでしょう。そして、この種族の構成員の状態には何の違いも生じていなかったでしょう。非受造の命を持つ方だけが、その力に捕らわれることなく、永遠の死を「味わう」ことができました。「命の御霊の法則」の下にある方だけが、「罪と死の法則」が作用している領域内にやって来て、それを超えて復活することにより、それを無効化することができました。
とても単純な例証により、生徒たちはその意味を理解できるでしょう。一羽の鷹が険しい岩山の上にとまって、断崖を眺めています。すると、一匹の蛇が音もなくその岩に這い寄ってきて、その鳥の体にがっしりと絡みつきます。両方とも断崖の縁から落ちますが、底に着く前に、鷹はからみつく蛇をほどいて、空高く舞い上がります。他方、蛇は下の地面に落ちます。蛇は、地面に向かって引き寄せる重力によって支配されます。鷹は重力の力を感じますが、浮力の力によってそれに打ち勝ちます。
神・人は「死を担う体と命を与える力とをもって」(メイビー)この世界に来られました。ですから、彼は永遠の死の領域に下ることができ、その非受造の命により永遠の死を超越してよみがえりました。そこに行くことを選択しなければならない人々を、彼はご自分と共に連れて行くことができました。
神の贖いの御計画の要求をすべて満たすには、キリストの死を超えたものが必要であることが、今や分かります。神の聖の要求は満たされましたが、神の愛の要求も満たされなければなりません。神は息子たち(sons)――神の命にあずかる者たちを欲しておられます。ですから、義であり、聖である、栄化された人類の新しい体制・種族のかしらとして、最後のアダムが現されなければなりませんでした。罪深い人類のこの造り変えは、創世記一章二節が述べている神の再構成の御業に似ているように思われます。それを「新創造」(二コリ五・一七)と呼ぶのがふさわしいかもしれません。
キリストの復活
そこで、イエスの体が墓に納められてから三日目の日に、石が入口から転がってなくなっているのが見つかりました。キリストは復活しました。ああ、輝かしい復活の朝!これは私たちにとって何を意味するのでしょう?教師は、この出来事について記録している様々な節を読ませて、比較させなければなりません。復活後の最初のキリストの顕現は、マグダラのマリヤに対してでした。ヨハネによる福音書二〇章一四〜一八節を見なさい。二番目の顕現は、マタイによる福音書二八章九節に述べられています。他の顕現の順序は次の通りです。三番目の顕現については、ルカによる福音書の二四章一五〜三二節。四番目はルカによる福音書二四章三四節とコリント人への第一の手紙一五章五節。五番目はルカによる福音書二四章三六〜四三節。六番目はヨハネによる福音書二〇章一九〜二五節。七番目はヨハネによる福音書二〇章二六〜二九節。八番目はヨハネによる福音書二一章。九番目はマタイによる福音書二六章三二節と二八章一六節。十番目はコリント人への第一の手紙一五章六節。十一番目はコリント人への第一の手紙一五章七節。十二番目はコリント人への第一の手紙一五章七節。十三番目は使徒の働き一章九〜一一節。十四番目はコリント人への第一の手紙一五章八節。各々の引用について学びなさい。そして、目撃者の人数や階級に注意しなさい。ご自分の栄化された体についてキリストが何と述べておられるのかについても、よく注意しなさい。栄化された体の十字架前の体との相違点に注意しなさい。
福音書の記録の中で復活は最もよく証明されている事実である、と言われています。これはその重要性を示しています。なぜなら、復活がなければ、彼の死の有効性を示す積極的証拠は何もないことになるからです。(ロマ四・二五、一コリ一五・一二〜二一を見よ。)
復活したキリストには、ガリラヤを歩いて教えてまわった頃と同じ人格が見られます。その優しく見通す目は昔のように光を放っていますが、新たな輝きを帯びています。釘で傷ついた両手は、病んで必要を抱えている人々に祝福の中で分け与えた頃と同じですが、その地的性質は消え失せました。弟子たちは、驚きと畏れの中、自分たちの栄化された主を見つめます。しかし主は、ご自分が「まったく同じイエス」であることを、弟子たちに確信させます。彼はご自分に触れること、両手の傷と槍で傷つけられた脇腹の傷の治った跡を調べることを、弟子たちに許されます。(ヨハ二〇・一九〜二九。)彼は弟子たちの前で食事をし(ルカ二四・四一〜四三)、彼らの日々の必要を顧みて、朝食を用意されます。(ヨハ二一・一〜一四。)
復活の力を理解できるでしょうか?できません。なぜなら、復活の力は神に属しているからです。しかし、私たちはそれを経験するでしょう。私たちの主の栄化された体は、私たちの栄化された体がどのようなものになるのかを示しています。一つの原子も失われずに、変えられます。教師は今、星を取り囲む黒い円を取り除いて、霊・魂・体を象徴する三重丸の上に、同様の三重丸と言葉が書いてある金色の円板を置かなければなりません。この星は神・人の神性を示しており、彼の栄化された人性を象徴する金色の円板の上にあるのがわかります。(図七を見よ。)
図七
キリストの昇天
キリストは復活の体により四十日間地上にとどまられました。この事実に注意を喚起しなさい。それから、もうひとりの自分である「慰め主」を送ることを弟子たちに約束した後、彼は天に昇って行かれました。彼は、天から目に見える形で戻って来ることを弟子たちに告げ、ご自分の現れに備えて目を覚ましているべきことを弟子たちに要求されました。(使一・九〜一一を見よ。)
打ち破られた敵――横奪者サタン――の領域を、神・人は勝利の内に通り抜けて上に昇り、敵対する君主たちや支配者たちをご自分から払いのけられました。彼はこの敵どもに「十字架によって勝利した時、彼らを捕虜として大胆にさらしものにされました」(コロ二・一五、ウェイマス訳)。
「天そのもの」、第三の天に、神・人は昇って行き、神の贖いの御計画を完全に実行して、「神の右手に座しました。その時から、敵がご自分の足台にされるのを待っておられます」(ヘブ一〇・一二、一三)。
イエスが十字架上で語られた「成就した」という御言葉を、神は確証されました。復活と昇天の力を示すことによってです。人類のための神の贖いの御計画は完全に実行されました。なすべきことは一つも残っていません。永遠の命と永遠の子たる身分が、それを選んで受け入れるすべての人のために用意されています。
「日の下にはひとりもいない、 その上にも、この広大な地上のどこにも、 天のどこにも、 神とキリストに等しい者は。 すべてを結集してもこれを無に帰すことはできない、これは成就されたのだから! 徹底的に、輝かしく、 素晴らしく、勝利のうちに、 神ご自身がこれを為して下さった! 我らはそれを維持する。 キリストの十字架の御業には無限の価値がある。 罪の根源を対処し、 その結果をことごとく対処する。 そして、神は安息し、キリストは安息しておられる。信じる人も 安らかに、しっかりと、喜んで安息することができる、 たとえ天と地が過ぎ去っても。 授かった命の中で十分に喜ぶことができるのだ。」 ――マラキ・テイラー