これまで、私たちの学びは客観的観点からでした。今、主観的な面について考えることにします。
この教程のこの部分に関して、注意の言葉を一言述べる必要があります。第一区分や第二区分で示された諸々の真理を生徒たちが本当に理解するまで、生徒がこれらの学びにとりかかるのを教師は許してはなりません。生徒一人一人がどれだけ理解しているかを教師が確認できるようになるには、たびたび復習することが必要です。なぜなら、主観的な教えはどれも、堅固な客観的基礎の上に据えられなければならないからです。もしこの客観的基礎が弱いなら、厳しい長く続く誘惑の圧力や、誤謬や狂信の巧妙な影響に、主観的な教えは持ちこたえられないでしょう。
「取得」という言葉の意味
おそらく、「取得する」というこの言葉をこの区分で使う理由を説明した方がいいでしょう。「取得する」という動詞の由来を調べるなら、それが自分自身の用のために何かを受け取る行為を示すことがわかります。そのイメージとしては、ある特定の用途に供するために与えられたものを受け取るために伸ばされた手を挙げることができます。この言葉は、贈り物を受け取るために手を伸ばす以上の自己努力を示すものではありません。ですから、信仰の手を伸ばして神のこの賜物を受け取ることに関して用いるのに、この言葉は適切な言葉であるように思われます。
取得すべきもの
さて、取得すべきものについて考えることにしましょう。この問題に答えるにあたって、キリストの死と復活の代表的な面に、私たちは再び注意を喚起しなければなりません。キリストの死と復活の中に含まれるものはみな、その身代わりの御業を除いて、キリストと一体化されたすべての人にもあてはまります。キリストにあって、私たちは罪に対して死にました(ロマ六・一〜一一)。そして、キリストにあってよみがえり、神に対して生きる者となりました。最後のアダムの命にあずかる者たちは、彼の形に同形化されます。立場的に、贖われた人はみな、キリストが復活したときに復活しました。こうして、彼らは罪と死に対するキリストの勝利を現します。立場的に、彼らはキリストと共に昇天しました。こうして、彼らはサタンと暗闇の全軍勢に対するキリストの勝利を現します。神の計算はキリストの死の代表的な面に基づきます。ですから、贖われた者たちについて述べる時、彼らが将来なるべきものにすでに経験的になっているかのように、神は語られるのです。これに関して、エペソ人への手紙二章四〜六節とローマ人への手紙八章二八〜三〇節を読みなさい。神の計算は、最後のアダムの命が彼を取得した人の中で成し遂げるものに基づきます。神は、失敗や弱さを自覚している人に対して、「あなたはまったく美しい、愛する者よ。あなたには何のしみもありません」と常に言うことができます。誰かが述べたこの言葉は真実です――神こそ、カルバリを信じた最初の方だったのです。
神が何かをご覧になるには、その歴史的現れを待つ必要はありません。教師は生徒たちを導いて、これを理解させなければなりません。「神は、世の基が据えられる前に、私たちを彼(キリスト)にあって選ばれました。それは私たちが御前に責められることのない聖なる者となるためでした」(エペ一・四)。神は世界を創造する前に、遠い将来実現されることになるものを、はっきりとご覧になりました。すなわち、贖われた者たち――贖い主の命を取得すべき者たち――、贖われた者たちの軍勢全体が、最後のアダムの栄化された人性に同形化されて、御前に立つのをご覧になったのです。
神の独特な存在構成
神には過去も未来もないことを思い出さなければなりません。非受造の命にとっては常に現在です。神は存在しておられます。「神の存在の構成は独特です。神は永遠の神であり、それゆえ、いかなる時にも依存しておられません――神は『私は在る(I AM)』であり、この方にとって、過去も現在も未来も、等しく今日です。神にはまるで始まりも終わりもなく、日々の移り変わりや状態の変化もないかのようです」(アーサー・T・ピアソン)。今日の相対性理論の議論に照らしてみると、これらの言葉は完全に合理的であるように思われますし、理解するのは決して不可能ですが、把握することはできるかもしれません。創造と贖いに関して、昔の記者の言葉で、こう述べることができます――「神が語られると、それは成る――数千年前に――しかし、私がそれを見いだすのは、後になってからである」。
今、私たちは理解することができます。主イエス・キリストの栄化された人性を満たしているのとまさに同じ命を、私たちは丸ごと取得しなければならないのです。この命は神の非受造の命であり、人の人格に浸透します。ヨハネの第一の手紙五章一一節を生徒たちに読ませなさい。次に、非受造の命を象徴する大きな円板の上に、これらの言葉を記した小さな金色の円板をとめなさい。(図八参照。)永遠の御子によらない限り、人は決して神の命を受けられないことを説明しなさい。非受造の命は、私たちのために、御子の内に蓄えられています。太陽の前に光が存在していました。しかし、創世記一章に記されている神の再構成の御業の出来事では――光の担い手あるいは容器として、神が太陽を用意されたことがわかります。それは、地球の大気中に光を拡散するためでした。それと同じように、神は御子――御言葉――キリスト・イエスを、非受造の命と光の担い手あるいは容器として用意されました。「彼の中に命があった。この命は人々の光であった」(ヨハ一・四)。これに関連して、「私は世の光です」とキリストはご自分について仰せられました(ヨハ九・五)。神が「御子を持つ者は命を持ちます。御子を持たない者は命を持ちません」(一ヨハ五・一二)と仰せられる時、神が何を言わんとしておられるのかを、私たちはいま理解します。この「命」という言葉は神の命――非受造の永遠の命を指しているのであり、この命を神は私たちのために御子の中に格納されたのです。
図八
取得に関する聖霊の諸々の働き
神が私たちのためにキリスト・イエスの中に備えて下さったものをすべて取得する方法について、今、考える必要があります。言い換えると、これまで客観的に考察してきたこれらの真理が経験的に私たちのものとなる方法について、考える必要があります。
前の授業で分かったように、神の一つ一つの行いとの関連で、神の三重性を考える必要があります。私たちは通常、三位一体の三つの「パースン」について語ります。これは、それ以上に良い表現がないからです。しかし、三位一体は一つの人格であることを注意深く覚えておかない限り、これは誤解を招きます。私たちは神の三重性を決して分けてはなりません。「神はキリストにあって可視化され、しかし、聖霊にあって不可視の活動をなさっている、唯一の神である」と常に考えるべきです。
考えを明確にする目的のために、今、聖霊なる神の諸々の活動について述べることにします。聖霊なる神のおかげで、罪深い人類は贖いの御業を認識して取得できるようになります。この贖いの御業は、父なる神が計画し、子なる神によって実行されました。聖霊の方法は――もしこの言葉を使ってもいいなら――どの取得の局面でも同じです。常に「覆う過程」があり、それに続いて、人は必要を覚えるようになります。次に、カルバリで執行された神の贖いの計画に関する照らしが臨み、その必要を満たします。それに続いて、必要を抱えている人の内で信仰が覚醒し、次に、意志が強められて、選択できるようになります。いま述べた「覆う」という言葉は、創世記一章二節の最後の句、「神の霊、すなわち、神の聖霊が、水の面を動いていた(ヘブル語では、覆っていた)」の中に示唆されています。ストックマイヤー牧者は「創世記の黙想」の中で、混沌としている地上を再構成することに関する聖霊の御業と、損なわれた罪人における聖霊の御業との間の類似点を示しています。この予備的働きに関して彼は言います、「神の御霊は神の御言葉のための道を用意します。神が御言葉を語られる前に――(三、六、九、一四、二〇、二四、二六節)神の御霊はその道を備えておかなければなりません。御霊は浮かび、動き、その塊を覆われます。雌鶏が自分の卵を覆うように」。罪人はそれまで混沌とした世界の中に住んでいましたが、その世界の中から恵みに目覚める前に、不安がその人の上に臨まなければなりません。これは聖霊がその人を覆っているのです。神学者たちはこれを「聖定の恵み」と名づけています。私たちがその人のために祈っている人の中で、この予備的御業が成就されなければならないことを、教師は説明しなければなりません。公の集まりや個人的会話の中で、私たちが祈って神の御言葉を述べている時、聖霊は私たちの言葉や執り成しを用いて、この不安や欠乏感を生じさせて下さいます。この不安や欠乏感は成長して行き、神学用語で言うところの「認罪」に至ります。罪を認めている罪人は、自分の必要を満たすカルバリを、必ず示してもらわなければなりません。そして、これを聖霊は進んで行って下さいます――十字架に付けられた救い主を啓示して下さるのです。救い主が罪を担って下さったおかげで、罪人は罪の領域から永遠の命の領域に移ることができるようになりました。信仰が覚醒して、カルバリの贖いの御業はもはや罪人全般のための歴史の一齣ではなくなり、「彼は私のために死んで下さったのです」と罪人は叫びます。罪人は悔い改め、場合によっては強い感情を示すこともあります。しかし、強められた意志を行使して罪の領域から永遠の命の領域に移ることを選ばない限り、その人は真に再生されません。この意志の行使は悔い改めと呼ばれています。これは「信仰運動の通例」です。
意志の行使としての悔い改め
「悔い改めは意志の行使である。これはどれほど強調しても強調しすぎることはない。その初期のうちは、喜びの感覚や、神と和解したという感覚は、まったく無いかもしれない。『生活の仕方が悪く、間違っており、神を傷つけて悲しませている』という意識や、ある願いしかないかもしれない。この願いは、『生活を改めて、山々を形造り、風を創造された方、朝を暗闇にし、地の高き所を踏まれる方を求めよう』という決意に変わる。
悔い改めは信仰の別の面と見なすことができる。両者は同じコインの裏表であり、同じ行いの二つの面である。考えを明確にするために、悔い改め(repentance)と懺悔(penitence)の使い方を区別するといいだろう。前者は、意志の最初の行使について用いる。その時、意志は神の霊によって力づけられて生かされ、死んだ業から離れて生けるまことの神に仕えるようになる。後者は、年月がたつにつれて、御霊の示しによって力強く造り込まれた諸々の感情から発する。私たちの罪が引き起こした痛みや悲しみ、そして私たちの祝された主に与えている痛みや悲しみを、聖霊は示されるのである。悔い改めは一度きりだが、懺悔は絶えずである。悔い改めは意志においてであり、懺悔は心においてである。」(F.B.マイヤー)
クリスチャンたちが悔い改めの性質をもっとよく理解していれば、「神の子供でも永遠の命を失うおそれがある」ということを証明するためにたびたび引用される聖書の節、たとえばヘブル人への手紙六章六節によって悩まされることはなかったでしょう。教師はこの主題に十分な時間をかけて、悔い改めと懺悔の違いを生徒たちがはっきりと理解できるようにしなければなりません。事の性質上、悔い改めは――そう定義したように――決して繰り返されえない行為であることを、生徒たちは理解しなければなりません。五つ目の厚紙を教師が示すなら、生徒たちがこれを理解する助けになるでしょう。この厚紙は他の四つの厚紙と同じ大きさですが、縦ではなく横に置きます。その中央には十字架があり、十字架の左には黒い円板があります。その黒い円板の上には「罪と死の領域」と記さなければなりません。十字架の右には金色の円板を置き、その上には「キリスト・イエスにある永遠のいのちの領域」と記します。(図九を見よ。)
図九
先に進んで、次のことを示しなさい。罪と死の領域の中にある罪人が、その領域を離れて、キリスト・イエスにある永遠の命の領域に入ることを選ぶ時、その人は実際に、一方から他方に経験的に移ります。門として立っている十字架が、その信仰による接触で開き、その人を中に通します。しかし、その門はその人の後で閉じ、十字架の命の側からは決して開かず、その人が戻るのを許しません。
この選択がなされる時、永遠の命、神ご自身の非受造の命がある一定量、人の霊の中に到来します。生徒たちはこれをとてもはっきりと理解しなければなりません。その人は今や真に再生されています。すなわち、再び生まれています。再生の次の定義に、生徒が慣れ親しむようにしなさい。
再生とは誕生による神との関係である
再生は誕生による神との関係であり、瞬間的かつ解消不能です。ここで、罪に染まった「霊」と「魂」と「体」を象徴する黒い円板の中央に小さな金色の円板を置き、ヨハネによる福音書一章一二節とヨハネ第一の手紙三章一〜三節を読むよう生徒たちに求めなさい。(図十を見よ。)誕生による関係は決して解消されえないことは明らかです。子供は父親の命令に従わないかもしれませんし、父親の心を悲しませて父親からさまよい去るかもしれません。しかし、その子は依然として父親の子供です。他の諸々の関係はなくなるかもしれません。仕事の提携関係は解消されるかもしれません。婚姻関係は無に帰すかもしれません。友人たちは分かれるかもしれません。しかし、誕生による関係は解消不能です。
図十
この誕生による神との関係の意義を授業の生徒たちが真に理解しない限り、クリスチャン生活の行程は遅々とした不確かなものになるでしょう。多くの人はこう考えているようです、「神の命令に故意に背いていない間は、自分はクリスチャンであり続けます。しかし、自分が間違いだと思うことを何かしでかそうものなら、自分は恵みから落ち、永遠の命を失ってしまいます」。再生の時に受けた命は非受造の命――決して変わりえない神の命であること、そして、神は彼らをご自分の子供たちと呼ばれることを、クリスチャンたちが覚えることができてさえいれば、神の御前における自分の立場が揺れ動く感情によって決定されるようなことを許していなかったでしょう。罪人が自分の罪深い失われた状態を進んで認め、罪から神へと明確に向きを変え、キリスト・イエスにある神の命を取得する時、まさにその瞬間、その人は神の子供になります。なぜなら、永遠の命の領域内に置かれるからです。ですから、その人は今や、霊の中に命を持っており、神が生きておられる限り、その命はそこにとどまります。(ヨハ一・一二、ロマ八・一六、一七を見よ。)これが再生の意味です。その人はまた、義とされます。(ロマ八・三〇を見よ。)
義認の定義と例証
生徒たちは義認の意味を学ばなければなりません。それは――神の御前における新しい立場です。新生の前、その人の立場は罪人の立場でした。今では、神の子供の立場です――新約聖書の言葉を用いると、「聖徒」です。この義認は私たちの義しい行いによるのではなく、神に対する私たちの姿勢によります。生徒たちがこれを理解するには、一つの例証が役に立つかもしれません。義認は私たちの選択の結果であって、私たちの良い行いに対する報いではありません。テニスンの「乞食の召使い」という詩を見ると、コフェチュア王が貧しい身なりをした裸足の乞食の少女を自分の女王にしたのを見いだします。結婚前、王に対する彼女の立場は、貧しい乞食の召使いの立場でした。しかし、結婚したとたん、女王になったのです。この身分の変化は、王の妃になることを選んだ彼女の選択のみに基づいていました。結婚後、彼女は自分の立場にふさわしい服を着ることができましたし、王から授かった宝石で身を飾ることもできました。しかし、彼女の身分の変化は、そのような行いによるものではありません。実は、衣服が変わったのは、その前に身分が変わっていた結果だったのです。「私は哀れな失われた罪人です」と言っていた人でも、次の瞬間には、「私は王の子供です」と言うことができるのです。
信者の領域
贖う恵みの性質を極めて注意深く生徒たちに示さなければなりません。恵みは悔い改めた人に神が賜る無代価の好意です。しかし、この好意は神が与えることを願っておられるものです。以下の節を読ませなさい。エペ二・四〜一〇。ロマ五・一五、二一。ロマ三・二三、二四。また、同様の節を探しなさい。
再生は、クリスチャン生活における、最初の取得の転機です。新しい命の原理が信者の霊の中に入りました。そして、信者の人格は新しい領域の中にあります。信者は「キリスト・イエスの中に」あり、キリストの命が信者の中にあります。信者の状態はまったく変更不能です。こう考えないことは、信者を包むこの命の不変的性質を疑うことです。「領域」という言葉を使うことに関しては、A.T.ピアソン博士の次の引用が助けになるでしょう。「円は私たちを取り巻くが、それはただ一つの平面上のことである。しかし領域は、あらゆる方向から私たちを包囲して包み込む。床の上に円を描いて、その円周内に踏み込むなら、あなたがその円の中にあるのは、ただその床の高さに限られる。しかし、もしその円が領域になりうるものであって、あなたがその中にいるなら、その領域はあらゆる方向からあなたを取り囲む――上下左右からあなたを取り囲む。さらに、あなたを取り囲むその領域はまた、その外側にあるすべてのものからあなたを分離する。また、そのような領域が強くなるにつれて、その領域はまた、その内側にあるすべてのものを、その外側にあるすべてのものから守るようになる――外部のあらゆる敵や危険から守るようになる。さらにまた、その領域は、その内側にいる人なら誰にでも、その領域内にあるものを何でも供給する。これは、特に新約聖書が明確に教えている偉大な真理を理解する助けになるであろう。新約聖書全体が示しているところによると、キリストは信者の全生涯及び存在の領域であり、この真理には次のような状態が含まれている:第一に、キリスト・イエスはご自分の命の中で信者を取り囲んで包囲しておられる。第二に、彼は信者をご自分の中に分離して、あらゆる敵対的影響から隔離しておられる。第三に、彼は信者をご自分の中で、信者の命を脅かすあらゆる危険や敵から守っておられる。第四に、彼はご自分の中で、必要なものをすべて与えて下さる」。「キリスト・イエスの中にある」という表現と、「あなたたちの内におられるキリスト」という表現のこの二つ、あるいはこれに相当する表現は、福音の物語全体を示しています。書簡の中でこのような表現が何度も用いられていることがわかります。このような表現のいくつかを、生徒たちに自分で見つけてもらうといいでしょう。エペソ人への手紙の第一章の中に、このような表現が何とたくさんあるのかに注意しなさい。
再生された人に関する神の究極的御旨
さて、今、再生された人の生活に関する神の究極的御旨に、教師は注意を喚起する必要があります。すでに見たように、神は世の基が置かれる前から、御子の形に同形化されるよう、贖われる人を選び出されました。また、さらに見たように、神が最初のアダムを創造した時、神の御心には栄化された最後のアダムがありました。ですから、贖われた人に対する神の御旨は、その人が栄光の中にある人のようになることです。
型への同形化
よく知られているように、どの水準にある命も、妨げがなければ、その型と同じになります。言い換えると、生命は最終的に、個々の生命原理の特徴的性質をすべて現すようになります。もし必要なら、教師は型という言葉の様々な定義を説明して、聖書の学びにおけるその二重の用法に関して生徒たちが混乱しないようにして下さい。型への同形化のこの法則は、次のように例証することができるでしょう――植物の命はほとんど無限の序列、群、族を示しますが、この事実にもかかわらず、元の胚芽には何の違いも認められません。それぞれの胚芽の中には不可視の生命原理が宿っており、その生命原理が創造者が設計された通りに、植物の命に特定の形を与えます。ですから、オークと百合の元の胚芽はまったく同じように見えます。顕微鏡を通して調べると、何の違いも見えません。しかし、ある胚芽の中にはオークの命があり、別の胚芽の中には百合の命があります。そして、個々の生命原理にしたがって、この大きく異なる二つの命の形態が発達します。
動物の命にも同じ事が言えます。元の胚芽には何の違いも認められませんが、一つの胚の中にある個々の生命原理が、ある動物を形造って陸に住まわせます。他方、別の胚の中にある生命原理は、ある動物を形造って水の中に住まわせたり、大気中を飛ぶようにしたりします。
個々の生命原理は、その命の独特な姿を形造るだけでなく、成長条件が満たされるなら、その命がその型に全く同形化されるようにします。例をあげて説明しましょう。百合の小さな緑色の新芽が地面から現れる時、百合の命がその中にありますが、その型にはまだ同形化されていません。その新芽は百合の命の特徴的性質をまだすべて現しているわけではありません。しかし、この美しい百合の命が、艶のある緑色の茎の頂を飾る、素晴らしい芳醇な花によって、完全に現される日が来ます。この百合は今や型に同形化されています。
創造者なる神は、様々な命の一つ一つが各々の型と同じ形になるよう備えて下さいました。植物の命の水準、動物の命の水準、人の命の水準のどれも、これに違いはありません。諸々の条件が満たされるなら、確かに同形化されるのです。さて、各々の生命水準における、この諸々の条件の性質について考えることにします。
植物の命は単純な、意識を持たない命です。ですから、成長と型への究極的同形化のための神の備えへの応答は、無意識的で自動的です。百合はただ、太陽の光を浴び、雨水と露を飲み、必要なものを土地から吸収するだけです。同形化のための神の備えに対するこの応答は、ルカによる福音書一二章二七節に見事に示されています。
動物の命は意識を持つ命ですが、自己意識を持つ命ではありません。ですから、成長のための備えに対する応答は、異なる種類のものです。詩篇一〇四篇二一節とルカによる福音書一二章二四節にこれが示されているのがわかります。神は動物たちに食べ物を備えて下さいますが、動物たちはそれを「集め」なければなりません。百合とは違って、動物たちは移動する器官を持つものに造られています。成熟の成長段階に達するには、移動器官を用いなければならないのです。
人の命は自己意識を持つ命であり、その成長条件を考えると、次のことがわかります。すなわち、人は選択する力や、肉体能力に加えて知的・道徳的能力を持つ者に創造されているので、神の備えに対する応答は動物よりも高度なものになります。道徳的、知的、肉体的に、型への同形化を実現するには、人は自分のすべての力を用いなければなりません。しかし、人は自分の努力では「身の丈に一キュビト」も加えることができません。人はただ、内なる生命原理が型への同形化に成功するよう、神から授かった選択する力を用いるだけです。
さて、型への同形化のこの法則が、再生された人の命というさらに高い水準で、どのように現されるのかを見なければなりません。新しい生命原理が人の霊の中に導入されたことを、私たちは思い出さなければなりません。瞬間的再生の時まで、人の中には非受造の永遠の命の閃きはひとかけらもありません。この事実については、この一連の学びの第一区分ですでに示しました。しかし、教師はこれを絶えず生徒たちに示し続ける必要があります。なぜなら、多くの人がこの主題に関して誤った観念を抱いているからです。私たちはまた、生物学が告げる事実を思い出さなければなりません――「ある水準にある命は、より高度な水準の命を生み出すことはできない。しかし、ある水準にある命が、より高度な水準の命をそもそも経験するよう定められているとするなら、そのような命を受け入れるための有機体が用意されているにちがいないし、高度な水準から低次の水準への伝達手段が用意されているにちがいない。それは、直接的・瞬間的賜物として、この新しい命を受け取ることができるためである」。この文章と神が記された御言葉は完全に一致します。神・人は伝達手段として用意された方です。そして、人はみな、より高度な水準の命を受け入れるために「用意された有機体」です――これは、この命のための器として創造された霊と、この命を選ぶために創造された力のおかげです。人が意志を用いてこの命を選択するとき、この新しい生命原理は、コリント人への第二の手紙五章一七節で述べられている「新創造」を、人格の中に形造ります。そして、成長条件が満たされるなら、型――栄化された神・人――への同形化が実現されます。
クリスチャンが型に同形化されるための条件
その条件は何でしょう?次の通りです――全人格を神に完全にささげて、「御旨を願わせ、行わせて下さる」神の御業に絶えず頼ること、そうして、「栄光から栄光へと」造り変えられて、遂にはキリストが人格の中に完全に形造られるようになることです。(ピリ二・一三、二コリ三・一八、ガラ四・一九を見よ。)
まったき献身がこの取得の第二の転機の特徴である
このような献身が、信者の生涯における二番目の明確な転機の特徴です。しかし、この主題は、クリスチャンの働き人たちによってあまりにも無視されていますし、あるいは、混乱を引き起こしたり、狂信に導くような仕方で示されています。造り変えの御業のためには、全存在を明確に神に渡すことが絶対に必要です。これまで忠実にこの授業についてきた教師なら、生徒たちを導いてこれを理解させるのに、あまり困難を覚えないでしょう。こうすることだけが合理的行いです。なぜなら神は、人の意志に逆らって、その人の人格を「小羊の命」で満たすことはできないからです。もしその人の性格が古いアダムの命を現し続けるなら、その人は栄光へともたらされる息子にはなりません。
すでに見たように、神の贖いの計画はカルバリで法理的かつ決定的に決着がつきました。しかし、クリスチャンがキリストのかたちに同形化されうるようにならない限り、「神の贖いの計画は実効上決着がついた」とは言えません。キリストは人類一人一人のために身代わりの苦難を受けて下さいましたが、もし人々がそれによって彼の命にあずかって、彼のかたちに同形化されることが可能になっていなければ、人々に対する神の御旨は実現していなかったでしょう。人類一人一人が、彼とのそのような合一の中に入らなければなりません。それは、彼の死が自分の死となり、彼の命が自分の命となるためです。「『キリストは他者のために死なれた』と述べる時、それには前提条件がある。つまり、そのような人、真の信者は、キリストとの奥義的な活き活きとした合一の中に入らなければならないのである。それは、このようにキリストと一体化されることにより、その信者が自己の命と罪に対してキリストと共に死に、次に、復活の命の力の中で再び生きるためである」(「十字架の意義とメッセージ」から)。恐るべきことに、多くのクリスチャンはキリストの死の身代わりの面しか見ておらず、その生活は口では言えないようなこと――「キリストは私のために死んで下さいました。ですから、私は好きに生きることができます」――を表しています。
これまで、取得の各転機における聖霊の御業の「方法」について述べてきました。まず、聖霊が「覆うこと」により、遂には欠乏感が呼び覚まされます。次に聖霊は、この必要を満たすものとしてカルバリの幻を示し、信仰を刺激し、意志を力づけます。その後、各人が選択を行います。再生から聖化へと導かれるクリスチャンにもこれが言えることがわかります。
聖化の二つの面
聖化には献身と造り変えの働きが含まれることを見ることにします。献身は瞬間的ですが、造り変えは過程であって、栄化が実現するまで決して終わりません。これを心に留めて、この転機における聖霊の御業を追うことにしましょう。
再生された人は、勝利の生活が不可能であることを、見始めるようになりました。昔の諸々の習慣が大いに現れて、その人は悲しみます。堅く決意しても、誘惑の時に際して、効果がないことがわかります。このような信者の状態は、ローマ人への手紙七章二二〜二四節に、よく描写されています。聖霊は、「自分は何かを必要としている」ことを理解させるのに成功しました。今、聖霊は囁かれます、「もう一度カルバリを見なさい。見なさい――キリストはあなたの罪のために苦しまれただけでなく、あなたをご自分と共に十字架に連れて行かれたのです。あなたの古い自己は、キリストと共にそこに釘づけられ、キリストと共に墓に葬られました。こうして、古い自己は終わったのです。それは、キリストの命だけがよみがえるためでした。自分の人格の中にキリストがよみがえって勝利の生活を送ることを、あなたは望むでしょうか?」。将来被りかねない苦難や損失が心に示されるため、しばらくの間、その人はためらいます。しかし、キリストの切なる愛が勝利して、その人は「はい」と言うようになります。この返事は変更不能であって、すべてを含みます。その人は心の底からこう言います――
「そうです、主よ、 この唯一の大いなる永遠の『はい』を、 私の主は万物に語りかけて下さいます。 私がすでに知っているものや、これから知るものにも、ことごとく まったく経験したこともない方法で。」
神の子供の人生で、これは幸いな瞬間です。なぜなら、今や、聖霊は造り変えの御業に自由に取り組むことができるからです。この造り変えの御業により、キリストの形への完全な同形化が、最終的に実現されます。
注記: この「古い自己」は、ローマ人への手紙六章六節で「古い人」と呼ばれています。聖霊は信者の内側をキリストの命で満たして下さいますが、この御業に自分の全存在を明け渡す信者は、自分の「古い人」――神の権威に逆らってきた古い罪深い自己――は、まさにキリストと共に十字架に付けられ、キリストと共に葬られ、決してよみがえることはない、と「見な」さなければなりません。そして、「古い人」が残した罪の染みから、聖霊は自分の全存在を清めて下さる、と信頼しなければなりません。他方、この新しい居住者は、ご自分にとって完全に満足できるような方法で、信者の存在を造り変えて下さいますが、この事実に信者は安息します。
取得の第一と第二の転機の対比
以下の引用は、取得の第一と第二の転機の違いを描写しています。
「罪に対する勝利を経験することに私たちが失敗しているのは、次の事実のためではないだろうか?すなわち、聖霊の油塗りによって各自内側を満たしてもらう必要があることを、私たちが認識してこなかったためではないだろうか?聖霊の油塗りは私たちのかしらであるキリストの上に注がれ、キリストのからだの各肢体をも含む。確かに、再生される時、私たちはある程度聖霊を受ける。神の御霊なしでは、誰も『再び生まれる』ことはできないからである。しかし、これは聖霊の豊かさを知ることではない。単純な例証がこれを理解する助けになるかもしれない。不快な臭いや蒸気を放つ澱んだ水たまりでいっぱいの一面の沼地を見ているとしよう。そのすぐ上には美しい湖があり、透明なきらめく水でいっぱいである。この美しい水を見るとき、『この水がその下の荒れ地に流れ込むなら、状況は一変するだろうに』と思わずにはいられない。しかし、堅固な石造りのダムが、その実現を阻んでいる。しかし、ある日、そこを通りかかると、そのダムに側溝ができており、今では、この透明な、命を与える水の小川が、下の沼地全体に流れているではないか。すでに大きな変化が起きているが、そこは依然として、きれいな水の小川の両岸とも、見苦しい泥溜まりのままである。『ああ、この水が下に流れて、この場所全体に押し寄せたなら、その景観は何と美しくなることだろう』と、自然に叫ばずにはいられない。少しして、またそこを通りかかると、見よ、何という変わりようか!誰かがダムに水門を設けて、水が下に向かって流れ出ていたのである。この水は沼地一面を速やかに覆いつつあり、遂には、よどんだ水の泥溜まりはみな覆われて、目に見えるのは湖のきれいなきらめく水だけになった。私たちが『再び生まれる(再生される)』時、それは側溝を設けることにたとえられる。神の命が聖霊を通して私たちの霊の中に流れ込み、私たちをまさにキリスト・イエスにある新創造とする。しかし、ああ、私たちの存在の周辺部分は、実際には、この命によって触れられていないままなのである。私たちが聖霊の内なる満たしと支配に確かに服して、『私はいかなる代価を払っても、あなたによってキリストの形に造り変えてもらうことを選びます』と告げる時、永遠の御霊は新たな方法で私たちの内側にご自分を現して下さることを、私たちは理解するのである。この聖霊の御業は、水門を開くことにたとえられる」(「一体化」より)。
この取得の第二の転機の結果を象徴的に示すために、教師はこうすることができます。「霊」「魂」「体」の三重丸を記した黒い円板の上にとめられている小さな金色の円板の上に、それより少し大きい金色の円板を置きなさい。その円板からは様々な方向に八本(以上)の光線が伸びていて、体を象徴する円に触れそうになっています。(図十一を見よ。)お望みなら、造り変えの進捗段階を描写するために、同じ形をしたもっと大きな象徴を、後で加えることができます。霊・魂・体を象徴する三重丸を描いてある金色の円形を、部分的に覆われている黒い円板の上に置けるようになるとき、これは将来の信者の栄化を象徴するものとなります。(図十二を見よ。)
図十一
図十二
取得の第二の転機に関する忠告と警告
この転機に続く外面的顕現に関して、賢明ではない教えがあまりにも多くなされています。そのため、この時、超自然的な現象の大きな表れがあると期待するよう、クリスチャンたちはしきりに導かれています。そして、多くの場合、誠実な人々は大きな混乱に陥ります。このような教えが引き起こす熱狂や苦しみをさんざん見てきたある人が、以下のような忠告を書き記しています。この忠告は授業の生徒たちの役に立つでしょう。
「神の臨在が『その家の部屋中』を覆うとき、どのような外面的顕現がそれに伴うのか、あるいは、何かの顕現があるのかどうかは、あまり重要ではない。『主はその聖なる宮におられ』、そしてそれ以降、主はご自分の方法で清め、浄化し、ご自身を現して下さる。贖われた人にはこれがすぐにわかる。(中略)この第二の明確な転機は、様々な教師たちの各自の観点にしたがって、様々な名前で呼ばれている。ある人はこれを『第二の祝福』と呼んでおり、別の人は『聖化の祝福』と呼んでいる。他方、他の人々はこれを『聖霊のバプテスマ』と言っている。また、『清い心の祝福』『完全な愛』『油塗り』『ペンテコステ』等として示されることもある。これらの用語はどれも、キリストの贖いの御業の取得の第二段階をある程度描写してはいるが、それに関する真理をすべて適切に言い表しているものは、おそらく一つもない。それゆえ、クリスチャン生活のこの段階で聖霊が啓示される真理に必要不可欠であるとして、どれか特定の用語を受け入れるよう教義的に固執するのは賢明ではない。教えるとき、大いなる単純さが必要である。それは、この経験に関する真理を示すとき、この経験の名前をこの経験そのものよりも、無意識のうちに際立たせてしまわないようにするためである。名前ではなく、明け渡しこそ、肝心なのである。再生された人が、賢明に、はっきりと、明確に、聖霊の完全な支配に委ねるなら、その人はその後、油塗られたキリストと一体化される――聖霊の豊かさと一体化される。そして、その結果、カルバリの十字架と復活の命の力を経験的に知るよう、一歩一歩導かれるようになる。
聖霊の支配に委ねた内なる結果はどの人も同じだが、その外面的現れは気質や訓練に応じて変化する。外面的にすぐに現れる結果については、注意深く見守る必要がある。なぜなら、この時点におけるサタンの誘惑は、とても巧妙だからである。ほとんどどの事例でも、感情が――感情の役目は『内なる』人と『外なる』人との間の交信を仲介することである――この新しい秩序の影響をすぐに受けてしまい、知性が明確に活動できるようになる前に、自分の要望を表現するよう体に要求する。多くの人が、歌を歌ったり、神を賛美したり、手を叩いたり等して、自分の喜びを表すのを、私たちが見かけるのは、この事実による。他方、他の人々の場合、通常の肉体活動がやんで、存在全体が大いに静まり、聖なる畏れと礼拝の表情を浮かべるのを、私たちは目にする。こうした顕現や、命名可能な他の顕現は、合法的なものであり、非難したり、抑えたりしてはならない。しかし時として、自然ではなく、邪悪な類の超自然的力の結果である、と見なすべき顕現もある。サタンは聖霊の真似をしようとしており、神からであると人に信じさせるような顕現を生じさせようとしている。その目的は、クリスチャンの心の中に混乱を生じさせて、造り変えの御業を阻止し、クリスチャンの振る舞いによってこの真理が不信や不評を被るようにすることである。
感情が著しく刺激される時、存在の深みで神の御声に静かに耳を傾けることと、神が書き記された御言葉の知識とが大いに必要である。御言葉を息吹かれた聖霊は、「すべてが礼儀正しく、秩序のうちになされるようにされる」のであって、不作法なことや不必要なことをするよう人を導くことは決してない。これを覚えよ。これを心に留めて、自分が経験する肉体的顕現や、他の人々に見られる肉体的顕現を検証するべきである。その結果、聖霊から発しているように思われた多くの顕現は、肉体的性質によるものであること、したがって、それは自分の霊的状態が高まったことを証明する代わりに、自分の存在の外周部分がまだ完全には明け渡されていないことを示すものであることが分かるかもしれない。もし、そのような顕現が続くことを頑なに許すなら、私たちは悪霊どもに扉を開くことになるかもしれない。悪霊どもは、極めて酷い結果を生じさせる諸々の顕現を引き起こすであろう。
聖霊がこれらの顕現を光で照らされる時、私たちは次のことを見るよう導かれる。すなわち、体の過度の揺れや痙動、体が長い間平伏した状態にあること、その他命名可能な諸々の顕現は、聖霊なる神の真実な深い命が存在の周辺部分をまったく満たしているわけではないことを、常に示すものなのである。正常な平伏状態には異常な要素や邪悪な超自然的要素は何もない。そしてそれは、認罪の結果、ひどい罪人にも臨むし、あるいは、偉大な啓示の結果、立派な聖徒にも臨む。しかし、それは長く続くことはない。後者の例として、ダニエル、エゼキエル、ヨハネについて、聖書は記している。聖霊は人の霊の中に入り、魂の力の中に浸透して支配し、次に、体の力を服従させる。それは、存在全体が実際に神の意のままになるためである。これを心に留めておくなら、不要な外面的顕現は狂信やクリスチャンの未熟さを示すものであることが分かるであろう。成熟した聖徒は静かで、よく落ち着いており、御霊によって支配されているのである」。
聖霊に明け渡すことの内面的結果
さて、聖霊に明け渡した内面的結果に注意する必要があります。第一に、キリストがますます現実的になります。聖霊は自分から語るのではありません。聖霊は自分に注意を引くのではありません。常にキリストの栄光を表されます。(ヨハ一六・一四。)初期の使徒的教会では、聖霊の御業の顕著な特徴が次のことだったことに注意して下さい。すなわち、聖霊は当時の信者たちに、十字架に付けられ、復活、昇天して、栄光を受けた主と一体化されたことを、悟らせたのです。他のこと――しるしや不思議、奇跡や賜物――は、そのような一体化と比べて、二次的なものにすぎませんでした。実に、自分の主と一体化されたことを悟らないなら、そうした外面的・二次的なものはみな、初期の教会にとって極めて有害であることが判明していたでしょう。
第二に、新たな光が神が書き記された御言葉を照らします。聖書は、まさに御霊が息吹かれた神の御言葉とみなされるようになります。そして、主が音声を発して語られた言葉であって、完全に従う必要があるものとして、大きな尊敬と恭しさをもって取り扱われるようになります。不明確な節から覆いが除かれたかのようであり、新たな美しさと栄光の中でキリストが啓示されます。特に、贖い主としてのキリストの御業に光が当てられ、その栄光が現されます。(ヨハ一六・一五を見よ。)
第三に、罪に対する実際的勝利が実現し始めます。キリストが私たちの代表として死なれた死は「罪に対する死」であったこと、そして、この死により信者はキリストと一体化されたことを、クリスチャンは認識します。また、キリストが復活して罪が存在しない領域、義が治めている領域に至ったように、信者もこの新しい命によりキリストと一体化されました。そして、信者がこの真理に「信頼する」(あるいは、この真理に基づいて行動する)結果、信者は内住の聖霊により日常生活の中で勝利を得るようになります。信者がこの真理に信頼する時、聖霊は神が仰せられることを確証して下さいます。
第四に、神の愛が日常生活の中に現されます。それは、他の人々のための自己犠牲によります。今や、義務感からではなく愛から、神への奉仕がなされます。「私は奉仕をしなければなりません」の代わりに、「私は奉仕がしたいのです」と心の中で思うようになります。
第五に、神の経綸的計画を照らす光が増し加わります。特に、キリストの来臨に関する預言を照らす光が増し加わります。キリストは聖徒たちのために来臨し、その王国がこの世に外面的な方法で現されるとき、聖徒たちと共に来臨されます。クリスチャンはキリストの再来の光の中に生き始めるようになります。これはクリスチャンにとって理論以上のことです。これは絶えざる明るい見通しであり、期待です。「聖霊はあなたたちに来たるべきことを示されます」(ヨハ一六・一三)。
第六に、キリストの復活して栄化された命によりキリストと一体化された結果、復活の力を前味わいできることをクリスチャンは認識します。最終的に、この復活の力は、携挙の時、「まばたきする」間に、その体を変化させます。この前味わい、もしくは「保証」(二コリ五・四、五を見よ)は、ローマ人への手紙八章一一節に示されており、内住する聖霊は死ぬべき体を毎瞬生かして、信者が自分に与えられた仕事を完了できるようにして下さいます。このように生かされるのは、死すべき体であって、死んだ体ではないことに注意して下さい。死すべき体をこのように生かすのは、携挙の時の最終的御業ではありません。携挙の時、死すべき体は変えられますが(一コリ一五・五二を見よ)、この生かしは日々の経験です。
第七に、祈りと奉仕に力があるようになります。なぜなら、自分は「すべての力」を持っておられるキリストと一体化されている、と信者は見なすからです。
魂の命の啓示
教師は生徒たちを導いて、この経験は多くの人が考えているような究極的なものではないことを、理解させなければなりません。これはむしろ実際的造り変えの始まりです。キリストの死によるキリストとの一体化がますます深まるよう聖霊は信者を導かれますが、これが進むにつれて、造り変えは段階的に進みます。この死は罪に対する死だけではなく、生まれながらの命、あるいは魂の命に対する死でもあります。クリスチャンの活動のあまりにも多くが魂的な性質から発しているため、真に霊的な人はまれにしか見られませんし、たとえ見られたとしても、理解されることはありません。クリスチャンはみなキリストの中に(in)あり、多くのクリスチャンがキリストのために(for)生きることを願っています。しかし、日々の生活でキリストの(of)現れを持つことは、まったく別の問題です。パウロは「私にとって生きることはキリストです」と真に言うことができましたが、どれくらいのクリスチャンが同じように言えるでしょう。
神・人が地上で過ごされたとき、彼の中には罪がありませんでした。しかし、自分の人間的感情や情愛が自分の務めを方向付けるのを、彼は絶えず拒否されました。また、啓示された神の御旨を離れて、自分の無垢な知性によって導かれようともされませんでした。彼は、この世に生まれた人の中で、もっとも依り頼んでいる御方でした。ですから、彼の生活はみな神から出ていたのです。
彼はラザロが死ぬこと、そして、マリヤとマルタの愛と信頼に満ちた信仰が厳しい試みにあうことをお許しになりました。御父の時が来る前に、優しい同情心からベタニヤに行くことをなさらなかったのです。
信者を治める聖霊の支配の二次的証拠の一つは、魂の命に関するこの照らしです。このように魂を認識することがクリスチャンの正常な成長のしるしであることを授業の生徒たちに示すなら、自己の命の深みが啓示される時でも、生徒たちが困惑することはないでしょう。また、自分の「聖潔」や「絶対的完全」を誇りたくなることもないでしょう。最も成熟している聖徒は最も依り頼んでいる人であることを覚えておいて下さい。
造り変えは過程である
献身は新生と同じように瞬間的ですが、造り変えは過程である事実を強調して下さい。また、「聖霊に満たされる」という表現が新約聖書の中に見られますし、熱心な信者たちもこの表現をしばしば引用しますが、これは最終的なものではありません。これがむしろ示しているのは、信者の人格を満たす方の支配的な力です。新約ギリシャ語に通じている人なら、容易に次のことがわかるでしょう。すなわち、ここで使われている時制から、人格は一度限り永遠に聖霊で満たされて、それ以上聖霊の臨在が臨むことはない、という考えは否定されるのです。この語が示す絵図は、決して尽きることのない泉につながっている管であり、それを通して水が常に流れ続けます。水で一杯の堅く栓がしてある瓶ではありません。
「それで最後となるような御霊の個人的満たしの約束は、聖書のどこにもない。我々は満たされるよう命じられているが、これは一つの取得の転機としてであり、日々の刷新の過程に通じるのである」(J.スチュアート・ホールデン「力の代価」より)。
ですから、明け渡されたクリスチャンの正常な日々の生活は、こう描写できることがわかります。「毎時の清めと毎時の満たしのために、毎時の救い主を毎時信じる信仰。救い主に信頼する時、救い主は私を満たして下さる。救い主に信頼している限り、救い主は私を満たして下さる。信じ始める瞬間、その瞬間から私は受け始める。信じ続ける限り、主はほむべきかな、私は受け続けるのである」(チャールズ・インウード)。
サタンに対する勝利
さて、新たな主題を導入しなければなりません。信者は、罪に対するキリストの死によってキリストと一体化されたことと、自己の命の支配から解放されたことを現さなければならないだけでなく、サタンに対するキリストの勝利をも現さなければなりません。多くのクリスチャンはここで失敗します。なぜなら、サタンに対する勝利を実際に勝ち取る必要があることを、まったく見ていないからです。彼らはこの勝利のことを、過去形ではなく未来形で語ります。ですから、キリストの昇天の意義に、教師は再び言及しなければなりません。キリストの昇天は、キリストがサタンの空中の領域を通過して、力ある征服者の威厳ある静けさをもって神の右手に「着座」する前に、悪の全軍勢をすでに征服していたことを示しています。エペソ人への手紙一章二〇〜二三節、コロサイ人への手紙二章一五節、ヘブル人への手紙二章一四節、ヨハネ第一の手紙三章八節を、蛇の頭は砕かれていることを生徒たちがはっきりと理解するまで、何度も何度も生徒たちに読ませなさい。生徒たちがこれを理解して、その結果訪れる自由と勝利の感覚を覚えることができるよう、祈りなさい。
アンドリュー・マーレーはこの真理を見事に表現して、「目に見えない世界では、十字架は勝利の象徴である」と言いました。キリストはサタンを征服して、サタンとその悪の軍勢を「さらしもの」にされた、と神の御言葉は宣言しています。この事実は、勝利の主と一体化されたクリスチャンは敵のすべての力に勝利できることを示しています。
サタンは完全に敗北していますが、人を自分の力の中に依然としてとどめておけるよう、自分の敗北を人が知らないままにしておこうとしています。聖霊がキリストの勝利を啓示して、信者がカルバリの勝利者と一体化されたことを見る時、信者は敗北者の手の及ぶ領域を通り超えて、「悪しき者が触れる」ことのない場所に移ります。(一ヨハ五・一八を見よ。)
それ以降、信者はサタンのことを敗北した敵と見なすようになります。信者は征服者なる方に結ばれ、この方に完全に依り頼んで、敗北した敵のあらゆる力に対してこの方の権威を行使します。(ルカ一〇・一九を見よ。)サタンのことを敗北者として語るよう、生徒たちを励ましなさい。この単純な表現は、この表現を用いている人がカルバリの勝利に関する真理を見いだしたこと、そして、勝利者なる方と一体化されていることを、邪悪な知的存在者たちに伝えます。
目には見えないけれども現実である霊の世界の状況について、聖書がこの主題について光を投じていることをみな、生徒たちがより良く理解するよう、教師は導いた方がいいでしょう。
サタンは全能、全知、偏在の存在ではないことを、私たちは覚えておかなければなりません。なぜなら、全能、全知、偏在は、ただ神だけの属性だからです。「サタンは神の諸々の属性を有している」と私たちに思わせることを、サタンは好みます。そして、これはそうであると思っているかのように、多くのクリスチャンは話しています。通常、サタンはどこにでもいるかのように述べられています。将軍の指揮下にある軍隊を示すのに将軍の名が用いられるように、サタンの名がその使者たちを示すのに比喩的に用いられています。この点でサタンは将軍のようです――サタンは自分の指揮下にある軍勢を持っています。この軍勢には様々な異なる階級や権力があり、サタンが注意深く立てた戦争計画を実行します。こういうわけで、エペソ人への手紙六章一〇〜一八節は、サタンの指揮下にあって神の民に対抗している、支配者たち、権力者たち、この世の支配者たち、邪悪な霊どもについて述べています。また、クリスチャンの武具についても描写していることがわかります。この節を注意深く学ぶなら、キリストの命を毎瞬取得して、サタンに対するキリストの勝利に関する神の御言葉を信じているクリスチャンは、どの戦いの中でも「圧倒的な勝利者」であることがわかります。
ここで以下の引用が教師の助けになるかもしれません。「サタンに対するキリストの完全な勝利の真理と、勝利の主と完全に一体化されたという真理を示されている贖われた人は、自分が安全な場所にいることを知るようになる。そして、自分の命はキリストと共に神の中に隠されており、それゆえ、悪しき者が自分に触れることはないという事実に頼るようになる。人格的存在としてのサタンについては、なすべきことはただ一つである。それは、確かな勝利の静けさの中に座しておられる昇天した主と一体化された事実に依り頼むことである。この勝利の姿勢と御霊による絶え間ない祈りはまた、この敗北者の空中の使者どもに強力な影響を及ぼす――この空中の使者どもは強い力を持つ堕落した御使いであり、国々や、自分に割り当てられたそれぞれの地域に対して、特別な力を揮っているように思われる。ダニエル書一〇章、特に、一三、二〇、二一節を見よ。この箇所で、サタンのこれらの君主たちのふたりの名があがっている――ペルシャの君とギリシャの君である。神の御使いのひとりであるミカエルについても述べられている。(この章とそれに先立つ章を読んで、神の民の祈りとこの空中の活動との間の関係をさらにはっきりと理解せよ。)
サタンのこの空中の使者どもと直接的に戦う役目は、贖われた人類ではなく、神の空中の使者たち、聖なる天使たちに委ねられている。しかし、それでも、悪鬼どもに対する権威が我々に与えられており、我々は御霊の導きにしたがってこの権威を行使しなければならないのである」。悪霊ども(あるいは悪鬼ども)は、今日、人々に対してこのように途方もない影響を及ぼしています。この事実は、熱心なクリスチャン全員に、悪霊どもの罠を取り除く方法に関して神が与えて下さったすべての光と、捕らわれている人々を解放するのに必要な知識とを願う気持ちを起こさせます。
悪鬼とは何者か
「悪鬼とは何者か?」という質問があるかもしれません。新約聖書に描写されている悪鬼につかれた人々の事例をよく調べると、「悪鬼は被造物の中で天使的階級に属するものである」という考えに行き着きます。さらに、悪鬼を示す言葉は、天使を示す言葉であるアンゲロス(angelos)ではなく、ダイモン(daimon)です。初期の教会教父たちは、「悪鬼は邪悪な死者(人間)である」と信じていましたし、現代の多くのクリスチャンもこの信条を共有しています。ハルデマン博士は最近の著書「死者は生者と交信できるか?」の中でこう述べています、「聖書が教えるところによると、死者の中のある部類のものは戻って来て、生者の体の中に入り込み、それに取り憑く。この者たちは『悪魔ども(devils)』と呼ばれているが、『悪鬼ども(demons)』という言葉を用いるべきである」。
もし悪鬼憑きという主題を見過ごすなら、私たちが生きている危機的時代にとって決定的に重要な真理を省いたかどで、教師は間違いなく有罪になるでしょう。人々が悪鬼どもにうっかり根拠を与えてしまう方法について、授業の生徒たちは注意深く教わらなければなりません。悪霊どもの圧迫に絶えず勝利の内に抵抗するには、カルバリの勝利者と一体化されたことを認識することが絶対に必要であることを、生徒たちは見なければなりません。自己憐憫、高慢、嫉妬、落胆、過度の愛情の霊を現すことは、操るために――完全な憑依には至らなくても――悪霊どもが必要としている立場を与えかねないことを、生徒たちは教わらなければなりません。
狂信的な宗教的見解を抱くことは常に、間違った行いをするのと同じように、悪霊どもに対して扉を開くことになります。過去数年間、クリスチャンの働き人、宣教士、その他の献身的な神の子供たちが、悪霊どもに操られて大きな被害を受けてきました。この事実は、この道筋に沿った必要な教えが差し控えられてきたことを示しています。この主題はあまりにも理解されていないため、「クリスチャンが悪鬼憑きを経験することはありえない」という見解を、多くの人が固持しています。しかし、一オンスの経験は、一ポンドの理論の価値があります。多くのクリスチャンは、存在のどこかの部分に悪霊どもが働いていることに気づいており、新約聖書に記録されているこれらの事例のように解放されない限り、この操りは続きます。
十字架に付けられ、復活、昇天し、栄光を受けた主と一体化されたことにしっかりと依り頼むこと、そして、絶え間ない賛美が、自分に群がる悪鬼どもの狡猾な働きから、信者を安全に保ちます。
言葉を語らなければならない時もあります――特に、束縛されている魂を解放しようとしている人々の場合や、すべてのクリスチャンに臨む特別な苦難の時にそうです。多くの人が以下の言葉を用いてきましたし、その結果からその価値が証明されています。「私は敗北した敵からのものをすべて拒否します。私は神からのすべてのものに服します。そして、カルバリで流された主イエス・キリストの血を、自分と打ち破られた敵の全軍勢との間に置きます」。この言葉を大声で話さない限り、その結果を理解することはできません。語られた言葉は目に見えない世界に力を及ぼすことを、私たちは覚えておかなければなりません。暗闇の軍勢は、私たちの霊の奥底にあるものが分かりません。私たちの霊的・精神的知覚を通して、神が私たちに啓示して下さらない限り、そこで何が起きているのか、私たちにも分かりません――しかし、目に見えない存在者たちは、私たちの言葉を聞き、私たちの顔を見つめ、私たちの行動に注意しています。ですから、私たちの言葉は神の書き記された御言葉に記録されている通りに事実を常に述べる必要がありますし、私たちの顔は信仰から来る平安と喜びを示すものである必要があります。また、私たちの日々の歩みは御言葉によって整えられる必要があります。決して、落胆の言葉を発したり、書いたりしてはなりません。元気のない「あら、まあ!」という言葉ですら、見張っている暗闇の軍勢がすぐに目を付ける落とし穴になりかねません。
賛美の姿勢
神を賛美するというこの問題は、たいていのクリスチャンが理解している以上に、遥かに重要な問題です。何度も繰り返される「主を賛美せよ」という命令には、ある理由があります。賛美がご自分の子供たちに及ぼす影響を神はご存じです。ですから、一度ならず何度も何度も、賛美の言葉を発するよう神は彼らに命じておられます。落胆の言葉が敵に対して扉を開くものだとすると、賛美の言葉はその扉を閉じて鍵をかけるものです。さらに、賛美の言葉は敵を遠くに追いやります。悪霊どもにとって、信頼に満ちた神の子供の賛美ほど不快なものはありません。また、賛美のいけにえほど神に真に栄光を帰すものはありません。「賛美の翼に乗って、あらゆる望ましい感情と神の溢れ出る傾注が、我々の心と生活に臨む。これは我々の愛や我々の賛美ではなく、神ご自身の賛美である。『主を賛美せよ』と命じておられる神に従え。(中略)しかし、『そうしたい気持ちがない時でも、賛美できるのでしょうか?』と言う人がいるかもしれない。神を賛美せよ、なぜなら、それがあなたに対する神の御旨であり(一テサ五・一八)、神はあなたの気持ちに応じて顧みて下さるからである」(エドガー・セルー)。神は御民に神を賛美することを命じられました。そして、全員が従わない限り、特定の状態が実現されることはありません。(詩六七・五、六を見よ。)
心理学的・生理学的観点から見ると、賛美の価値を評価するのはほとんど不可能です。なぜなら、この命令に従う時、霊的、精神的、肉体的領域で実現される有益な諸々の結果を一覧にするのは不可能だからです。クリスチャンたちが絶えず神を賛美し始めるとき、その結果は何でしょう?きっと、偉大な解放が全地で実現されるでしょう。そして、神の民の賛美の響きが立ち上る時、天が清められるのを天使たちは目にするでしょう――そして、神が栄光をお受けになるでしょう。しかし、平均的クリスチャンは、「主を賛美せよ」というしばしば繰り返される命令に文字通り従うのは愚かで狂信的なことである、と考えており、その代わりに、賛美したいと感じる時だけ神を賛美することにしています。
造り変えの心理学的考察
さて、造り変えの主題について、心理学的に考察することができます。教師は生徒たちにローマ人への手紙一二章一、二節を読ませなさい。一節は、全存在を完全に献げることについて述べています。全存在とは、その前にすでに述べられていたものであり、魂と霊の明け渡された力を現す、明け渡された体のことです。二節は、造り変えの実際の過程を、思いを新たにすることとして描写しています。この表現をより良く理解するには、精神・知的器官と人の三部分の他の力との関係を説明しなければなりません。
霊の力によって、私たちは神、神との関係、各被造物との道徳的関係を知ります。神の人との交信は、直感、すなわち知的器官の行使とは別の直接的知識の形を取ります。しかし、それに基づいて行動する前に、知性が御霊のこれらの直感を扱わなければなりません。知性はまた、愛情や感情の要求、肉体感覚の履歴をも扱わなければなりません。ですから、知性の重要性がわかります。
エデンの園でサタンはエバの知性を攻撃したことがわかります。エバは霊の中に神の御旨に関する直感的知識を持っており、その時まで彼女の知性は神の御旨を注意深く考慮していましたが、サタンは嘘をその直感的知識の代わりにしようとしました。サタンは「神のように(神と等しく)」なるという選択肢を吹き込んで、その可能性についてエバに思い巡らせました。そしてついに、この素晴らしい見通しにまったく幻惑されて、エバは選択する力を用い――致命的行いをしてしまいました。
箴言二〇章二七節に「人の霊は主のともしびである」とあります。再生の時、聖霊なる神によって灯されるのは、このともしびです。すでに見たように、キリスト・イエスにある神の新しい命は、再生の瞬間に人の中に入り、存在全体に浸透すべきものです。しかし、これは新しくされた思いを通してのみ実現します。もしクリスチャンが新しくされるために自分の全存在を神に献げることを拒むなら、新しくされていない思いが霊の直感を扱うことになり、その結果、クリスチャンの成長や造り変えは大きな被害を受けることになります。多くのクリスチャンは自分の思いを神に明け渡すことを拒んでいますが、それでも、「自分は神の深い事柄を理解できる」と思っています。彼らは永遠の真理について語り、宣べ伝え、本を書きます――しかし、彼らはそれらを理解しそこないますし、他の人々を導いてそれらを理解させることにも失敗します。なぜなら、神の事柄は霊的に識別されるものであり、彼らの思考は天然的な思いによってなされているからです。これが、多くの人々――彼らが真に「上から生まれて」いることは確かです――の今日の教えの問題に対する解決法であり、これ以外の方法でこの問題を解決することはできません。もちろん、再生されていない人々には、新しくされた霊すらありません。彼らはクリスチャン生活に関係するものを何も理解できません。神とその永遠の御旨に関して彼らが述べることはどれも、神の書き記された御言葉に述べられている真理と正反対です。彼らの教えは非聖書的で冒涜的であるだけでなく、非論理的で幼稚であり、新しくされていない人格の暗愚さと弱さをさらしています。
神に対して「解消不能な包括的承諾」の返事をしたクリスチャンはすぐに、新しくされた知性の力の状態を悟り、それを現すようになります。知性は霊の直感をますます賢く取り扱えるようになります。言い換えると、神・人なる方の知的命がその人の天然的知性の中に現されて、罪に由来する暗闇と弱さから解放し、さらにその天然的力を強めるようになります。
使徒パウロはクリスチャンたちに、自分をまったく神に献げるよう、絶えず懇願しました。なぜなら、そうすることによってのみ、クリスチャンたちは実際的造り変えを経験することができ、それによって「何が善であり、受け入れられる、神の完全な御旨なのかを立証する」ことができたからです。(これらの形容詞の順序と意味に注意して下さい。)聖霊のこの造り変えの御業がなければ、クリスチャンたちはある程度この世に同形化されていたでしょう。つまり、「この世の神」であるサタンの指導の下にある、巨大なこの世の体系に同形化されていたでしょう。(二コリ四・四を見よ。)
「同形化する(conform)」とは、「〜にしたがって形造る」ことを意味します。例をあげましょう。金属細工師が熱い金属を鋳型の中に流し込むと、その金属は冷えて、鋳型の形を取ります。家政婦がフルーツジュースをゼリーの鋳型の中に注ぎ込むと、それは固まって、ゼリーはその鋳型の形になります。この金属とフルーツジュースは各々の鋳型に同形化されています。私たちの周囲にある巨大なこの世の体系の影響を受けるのは、クリスチャンにとってとても容易です。無意識のうちに、仕事、教育法、社会的慣習、衣服、出費、娯楽、会話といった事柄で、クリスチャンたちは「キリストに従います」と告白しつつも、この世の諸々の道に従ってしまいます。多くの場合、彼らはキリストを第一にすることを真に願っています。クリスチャンはサタンの鋳型に同形化されるのではなく、神の鋳型に同形化されるべきです。神の鋳型とは御子の似姿(ロマ八・二九)、つまり、主イエス・キリストの栄化された人性です。
「造り変える(transform)」という言葉は、基本的本質の変化を示唆することに注意して下さい。他方、「同形化する(conform)」は、ただ形の変化だけを表しています。金属が鋳型に同形化される時、その本質は変わりません。ゼリーが鋳型の中に置かれて固まる時、そのゼリーの成分はフルーツジュースとまったく同じです。実際には造り変えは何も起きておらず、同形化が起きただけです。
いかなる人も、内側に変化がない限り、つまり、その人格の中に新しい命がもたらされない限り、神の鋳型に同形化されることはできません。この新しい命は人格全体に浸透する目的のためであり、遂には造りかえの結果、完全な同形化が実現します。教師は生徒たちにコリント人への第二の手紙三章一八節の改訂訳を読ませなさい。もし可能なら、ロザハム訳とウェイマス訳を読ませなさい。「主の御霊」のこの造り変えの御業は段階的であること(ある栄光の段階から別の段階へと進むこと)に注意して下さい。
見つめているものを反射すること
教師はまた、ここで使われている鏡の絵図に注意を喚起しなければなりません。鏡にできるのは、見ているものを反射することだけです。クリスチャンも、自分が見ているキリストを、その程度に応じて、日常生活の中で反射します。もしその顔に覆いがかかっているなら、不完全にしか見えません。ですから、神に明け渡して、その覆いを取り去ってもらわなければなりません。心を覆うこの覆いと、盲目にされた知性に、注意を喚起して下さい。この章に述べられているように、不信仰なイスラエル人がまさにそうでした。また、神の民との対比に注意して下さい。「私たちはみな、覆いのない顔で」主を見ます。しかし、私たちはしかるべき明瞭さで主を見ているでしょうか?多くのクリスチャンの知性に覆いがかかっているように思われないでしょうか?彼らは悲しむべき薄明かりの中に生きていて、キリストを不完全にしか反射していないように思われます。威厳ある征服者の輝かしい美しさを絶えず見つめて、自分の生活の中でこの方を反射する特権を持っているのに、その有様なのです。
鏡と同じように、見ていないものは反射できないことを思い出しましょう。もし身代わりの御業におけるキリストしか見ていないなら、罪とサタンに対するキリストの勝利を現すことはできません。あるいは、言い換えると、あらゆる点でキリストを自分の代表として見ないなら、聖霊は私たちの日常生活の中でキリストの命を現すことはできません。では、どうやってキリストを見るのでしょう?神の書き記された御言葉がキリストについて述べていることを見つけ出して、自分が読むすべての御言葉を信じることによってです。
「同形化は目的であり、造り変えは道である。栄光から栄光へ、同形化に向かって上昇する。我々は栄光から栄光へと、御子と同じ形に造り変えられつつある。一歩一歩、自己の不満という恥から抜け出て、小羊の命の栄光の中に入りつつある。栄光から栄光へと進み、遂には同じ形になるのである。(中略)『自分は赦されただけでなく、神の御子の形に同形化されるようあらかじめ天の御父によって定められていた』という意識に人が目覚める時、あらゆるものがその重要性、重み、力を失う。喜びで有頂天になるおそれや、悲しみに打ちのめされるおそれはない。いかなる環境も、私たちを最初のアダムの悪しき形や私たちの悪い性格から、神の御子の完全な形にもたらすものなのである」(ストックマイヤー牧師「聖別された者たち」より)。
聖霊との静かな協力
教師は、聖霊との静かな協力の状況に授業の生徒たちが導かれるよう、造り変えの主題のすべての面を示さなければなりません。聖霊なる神は、神がキリストにあってカルバリで買い取られたすべてのものを、明け渡された人格に取得させることに、決して失敗しません。これを生徒たちは見なければなりません。クリスチャンが日々維持すべき姿勢は、以下の言葉に示されています。「今後、キリストの十字架を、聖霊の御手の中にあるナイフであって、私たちの罪に染まった自己の命を屠るものと見なそうではないか。そして、私たちの栄光を受けた主の復活・昇天の命を、無尽蔵の貯蔵庫と見なそうではないか。この貯蔵庫から聖霊は、私たちが霊・魂・体のために必要とするものを、毎時供給して下さるのである」。
ここまで注意深く授業についてきた生徒たちは、「福音」をキリストの身代わりの御業――これはまったく尊いものです――に限定しようとはしないでしょう。今後、生徒たちは完全な福音のメッセージを認識して信じることができるようになり、それを生かし出して告げ知らせることを熱心に願うようになるでしょう。
この授業の教程では、贖いの完全な行程を示そうとしてきましたし、各主題の関連性をできるだけ明確に示そうとしてきました。
私の願いは、この聖書の学びの方法に従う生徒たちが、全聖書を貫く神の贖いの計画という真紅の紐を見いだせるようになることであり、この贖いの計画が人類に対する神の永遠の御旨に対して持つ関係を認識するようになることです。
贖いの学びの補足の教程として、旧約聖書の出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、それから、新約聖書のヘブル人への手紙を学ぶと、大きな益があるでしょう。神の贖いの計画の詳細がすべて、これらの書の中に描写されており、論理的順序で示されていることがわかります。しかし、生徒たちが神の御言葉に述べられている教理的真理を明確に認識していないうちは、型としての贖いを生徒たちに示してはなりません。また、生徒が注意深く書簡を調べて、この教程で示された様々な主題に関して書簡で述べられていることを確認するようになることが必要です。例えば、コリント人への第一の手紙一五章一〜四節、ヘブル人への手紙一〇章一二〜一七節、ヘブル人への手紙九章二八節で、自分が宣べ伝えた福音について使徒パウロが述べていることに注意して下さい。これはこう要約できるかもしれません。キリストは私たちの罪のために死んで、葬られ、復活して、神の右手に昇られました。そして、キリストは再臨されます。これらの決定的な真理が、新約聖書全体を通して、何度も何度も述べられています。これらの発言は「聖書にしたがった」ものであることが常に示されていることに注意して下さい。神が書き記された御言葉の素晴らしい調和がここに示されています。新約聖書が告げている歴史的出来事を、旧約聖書の著者たちはそれが成就する数世紀前から予測していました。神の贖いの計画の歴史的執行に関する詳細全体が、カルバリの十字架の数千年前に、様々な方法で型として示されていたのです。
学んだ学課の短い要約
学んだ学課の短い要約として、授業の生徒たちは以下の文章を暗記するといいでしょう。
キリストが死なれたのは、人類の罪の問題を解決して、神が子たる身分を、それを受け入れることを選択するすべての人に、常に授けることができるようになるためでした。 キリストが葬られたのは、古いアダムの命は断ち切られたことが明確に認識されるようになるためでした。 キリストが復活したのは、人類が新たな頭首(最後のアダム)をいただくようになるためでした。 キリストが昇天したのは、その主権が宇宙中に現されるようになるためでした。
信者たちの合一
贖いが必要になった状況、カルバリにおける神の贖いの計画の執行、取得の諸々の転機と結果について考えたので、今、一つの主題に迫ることにします。その主題は、前に述べたものほど重要ではないかもしれませんが、それでも、熱心なクリスチャンにとって大いに重要です。その主題とは、信者たちの合一です。つまり、キリスト・イエスにある神の命を受けた者たちの合一です。
生物学的には、ある水準にある生物の合一ははっきりと分かります。例えば、動物の命に属する特徴的な基本的性質があり、それは植物の命には見られないものです。すべての動物が備えているこれらの特性は、非常に様々な族があって、この命の現れにも顕著な違いがあるにもかかわらず、造られたすべての動物を統合する役割を果たしています。
また、人の命の水準でも、固有の本質的合一が見られます。使徒パウロはこの生物学的真理を表現して、神は「一つの血統から、人々からなるあらゆる国民を造り出して、地の全面に住まわせた」とアテネ人に宣言しました(使一七・二六)。
もし低次の各水準にある命について、この本質的合一が成り立つとするなら、最高の水準にある命――再生された人の命――にも同じ固有の原理が見つかるはずである、と自然に期待すべきではないでしょうか?この合一が存在することを、神の御言葉は明確に告げています。なぜなら、エペソ人への手紙四章四〜六節に、「からだは一つ、御霊は一つ、あなたたちが召された召しの望みは一つ。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。万物の神また父は一つ。この方は万物の上におられ、万物を貫き、万物の内におられます」とあるからです。この合一の現れを求めて、ヨハネによる福音書一七章に記録されているあの素晴らしい祈りをキリストは祈られました。「私は彼らの中におり、あなたは私の中におられます。それは、彼らが成就されて一つとなるためです――あなたが私に与えて下さった栄光を、私は彼らに与えました。それは、私たちが一つであるように、彼らが一つとなるためです」。
エペソ人への手紙のこの節は、どの世代、どの経綸の信者も、イエス・キリストにあって神の命を共有していることを示しています。つまり、彼らは永遠の命、もしくは非受造の命を持っており、この命は彼らの合一の基礎であることを示しています。
彼らはまた、まったく同じように救われています――「恵みにより、信仰を通して、あなたたちは救われているのです」(エペ二・八)。また、彼らはみな栄化されます(ロマ八・三〇を見よ。)「彼は義としたものを、さらに栄化して下さいました」。しかし、この合一は画一性を意味しません。なぜなら、低次の命の水準ですら諸々の違いが見られるように、この水準の命は、型に同形化される時でも、画一性を生じさせることはないからです。「ある星の栄光は別の星の栄光とは異なる」ように、贖われた聖徒たちの栄化された命も互いに異なります。
ですから、合一と画一性の違いを心に留めて、信者たちの合一を示す別の尊い節を学ぶことにしましょう。
キリストのからだの有機的合一
コリント人への第一の手紙一二章一二節「体は一つであっても多くの肢体があり、またこの一つ体のすべての肢体が多くあっても、体は一つであるように――このキリストも同様です」。「このキリスト」というこの表現は、個体としてのキリストのことではなく、肢体たちによって完成されるキリスト――団体的キリスト――のことです。これは有機的合一であり、個体としてのキリストはそのかしらです(エペ四・一五を見よ)。そして、御霊の中でキリストに結合されて、その命にあずかっている者たちはみな、肢体たちです。人体の比喩にしたがうと、人体が有機的結合体であるのは各々の肢体を流れる命の血のおかげですから、永遠の命にあずかっている人はみな、この有機的結合体――このキリスト――の肢体でなければならない、と私たちは判断します。
キリストのからだに関する経綸上の教えがいかなるものであれ、有機的にこのからだは再生されたすべての人を含むものでなければなりません。
人体――物質的な死すべき体――の頭の中にあるのと同じ血が、体の各肢体を隈なく流れています。ですから、その中を命の血が流れている体の一片といえども、「それは体の一部ではない」と言うなら、それは極めて馬鹿げたことです。なぜなら、肢体は同じ命の血によって結ばれているからです。それと同じように、キリスト・イエスにある神の命は、キリストの奥義的からだのすべての肢体を結び合わせます。ですから、彼の命にあずかっている人は、どの経綸にその命を受け入れることを選択したかにはよらず、このからだ――キリストはこのからだの高く上げられたかしらです――の一員であるにちがいありません。
経綸という言葉の意味
ここで経綸(dispensation)という言葉の意味を説明した方がいいでしょう。この言葉に関してファー博士は言います、「『経綸』という言葉が時の一区分という意味で用いられることはめったにない。この言葉は働きの方法、経済を意味する。この言葉はしばしば時を意味し、時代の同義語として用いられることもある。七つの経綸がある。『楽園の経綸、ノアの洪水以前の経綸、族長の経綸、モーセの経綸、メシヤの経綸、クリスチャンの経綸、千年王国の経綸』である」。
ごく簡単に言うと、この異なる七つの経綸は、聖霊なる神が人に決定的真理を啓示するのに用いる七つの異なる方法です。しかし、ここでまた、多様性における一つに注意しなければなりません。さもないと、経綸の教えは啓発するよりも混乱させるものになってしまいがちです。たとえ方法は違っても、啓示される真理はどの時代も共通しています。各経綸の特別な啓示を注意深く調べるなら、これがわかります。これらの啓示から最終的結論を導くと、啓示された数々の真理は人類に対する神の永遠の計画、つまり、永遠の御子を信じる信仰による子たる身分であることがわかります。
どの経綸でも、人々は誠実にこう言うことができました、「神は私たちに永遠の命を与えて下さいました。この命は御子の中にあります。御子を持つ者は命を持ち、御子を持たない者は命を持ちません」。
楽園の経綸では、この命は園の中央にあった命の木によって象徴されていたことがわかります。人が命の木を選んでいれば、それにあずかれたでしょう。これが人を教える神の最初の方法でした。しかし、人は啓示された神の御旨に従わなかったので、教える別の方法が必要になりました。ですから、私たちは「屠られた小羊」を目にしますし、今や、この罪を担うものとの一体化が罪深い人に対する神の啓示であることがわかります。
この時から、神の素晴らしい贖いの計画が、バラの花びらのように、経綸から経綸へと進むたびに、かぐわしさを増しつつゆっくりと開いていき、満開に至るのがわかります。前の経綸に続くどの経綸も、罪の極度の罪深さと、神が愛によって備えて下さった素晴らしい贖いの計画の完全性を、ますます明らかに啓示する役割を果たしてきたことがわかります。どの経綸でも、人が神の子供になるのは、ただ信仰という決定的行いによってでした。再生された人はみな、「私は罪人です――恵みによって救われたのです」と言いました。
このように、諸々の経綸の統一性がわかります。また、諸々の経綸や時代は、神の永遠の骨組みの一時的足場としての役割を果たしているにすぎないことがわかります。また、諸々の経綸をトウモロコシ畑の畝にたとえることができます。収穫の時が来るまで、一つの畝で育っているトウモロコシは、別の畝で育っているトウモロコシと区別することができます。しかし、すべてのトウモロコシが箱の中に貯蔵される時、どの穂がどの畝で育ったのかを告げることは不可能です。ですから、経綸上の諸々の方法や、神の偉大な贖いの計画の遂行の際に明らかに見られる多様性を過度に誇張しないよう、私たちはとても注意しなければなりません。「多様性は素晴らしい――合一はさらに素晴らしい」(アドルフ・サフィア)。最終的に、この宇宙に見つかる人類は二種類だけになるでしょう――神の永遠の命にあずかっている人と、そうでない人です。
この有機的結合体を完成するには信者全員が必要である
教師はここで、非受造の命を象徴する大きな金色の円板に取り付けた小さな丸に注意を喚起しなければなりません。そして、この丸は贖われた人全員を象徴すること、つまり、キリスト・イエスにある神の非受造の命、永遠の命で満たされている個人の総計を象徴することを説明しなければなりません。この聖徒たちを神の家族と見なすこともできます。この家族のどの構成員も個人的にキリストに結ばれていますから、この聖徒たちがからだ――キリストはそのかしらです――を構成することがわかります。
人の肉体の形成の比喩にしたがうと、この奥義的からだの形成は隠れた秘密の過程であることがわかります。文字通りの人の肉体に関する詩篇一三九篇一六節の表現は、この奥義的からだにもよく当てはまります。「あなたの目は、まだできあがらない私のからだをご覧になりました。そして、あなたの書に私のすべての肢体が書き記されました。その諸々の肢体は絶えず形造られて行きましたが、その時はまだ何もなかったのです」。
永遠の御子は偉大な犠牲の御業のために人の肉体を必要とされました。そこで、「あなたが私のために備えて下さった体」(ヘブ一〇・五)と仰せられます。御子はこの贖いの御業を現すために一つのからだを必要としておられますから、このからだについても、御子は「あなたが私のために備えて下さったからだ」と言うことができます。そして、神はご自分の書の中にこのからだのすべての肢体を書き記されました。「その諸々の肢体は絶えず形造られて行きましたが、その時はまだ何もなかったのです」。というのは、黙示録一三章八節と一七章八節を読むと、屠られた小羊の命の書にこの世の基が置かれた時から記されていた名について記されているからです。また、エペソ人への手紙一章四節を読むと、この肢体たちは「この世の基が置かれる前から彼にあって」選ばれていたことも記されています。
体が目に見えないものを表現するためであるように、贖われた人がすべてそろってはじめて、神が人類のために永遠の御子のうちに蓄えられた永遠の命の度量を完全に現すことができます。この命を現すには、あらゆる時代と経綸の聖徒たちが全員必要です。そして、「この世の基が置かれる前から選ばれていた」最後の人がこの命を取得して現さない限り、キリストの奥義的からだは有機的に完成されえません。
「彼らがみな、私たちにあって一つとなりますように」というキリストの祈りは、まだ完全にはかなえられていません。
「あらゆる時代のすべての聖徒たち、 あらゆる地方と言語の聖徒たちは、 その時、こぞって礼拝する、 完璧な歌をもって。」
このように、将来のある時、キリストは「ご自分の魂の苦しみをみて満足される」ことがわかります。
聖徒はみな恵みにより信仰を通して救われた
栄化されて贖われた者たちのこの大いなる一団の構成員はみな、「恵みにより信仰を通して」救われました。この事実に教師は再び注意を喚起しなければなりません。どの時代、どの経綸に恵みが取得されたのかは問題ではありません――みなが同じように小羊に賛美の歌を歌います。小羊の血により、彼らは自分の諸々の罪から洗われたのです。
新約の聖徒だけでなく旧約の聖徒も、カルバリの小羊に信仰を置き、それによって永遠の命を受けました。この事実はヘブル人への手紙一一章にとても明確に示されています。今、これを注意深く読まなければなりません。この章を学ぶと、信仰の性質もわかります。信仰とは、それに基づいて行動するほどに、神の御言葉を信じることです。ここに述べられている人はみな、神の御言葉に基づいて行動したことに注意して下さい。「信仰により、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、それにより、義であるとの証しを得ました。神が彼の献げ物を証しして下さったのです。それにより、彼は死にましたが、なおも語り続けています」。「信仰により、エノクは死を見ることがないよう移されました。神が彼を移されたので、彼は見えなくなりました。彼が移される前に、神に喜ばれている者と、証しされていたからです」。この人々は新約の聖徒たちや今日の聖徒たちより劣っているのでしょうか?彼らの「証し」は私たちの証しより劣っているのでしょうか?決してそんなことはありません。むしろ、彼らの大多数はクリスチャンの大多数よりも進んでいるのです。
アダムから七代目のエノクについて考えてご覧なさい。彼は主の来臨について預言しました。「主は数千の聖徒と共に来られる。それは、すべての者に裁きを執行するためであり、また、彼らの間にいる不敬虔なすべての者たちに対して、彼らが敬虔さを無視して犯したすべての不敬虔な行いと、不敬虔な罪人たちが主に背いて語ったすべての暴言とのゆえに、有罪を宣告するためである」(ユダ一四、一五を見よ)。悪人は「騙し騙されながら、ますます悪くなる」こと(二テモ三・一三を見よ)、そして、キリストの出現が近づくにつれて、この世は良くなるのではなく、急速に邪悪で不敬虔なものになっていくことを、誰が彼に教えたのでしょう?この同じ聖霊がこれらのことをパウロに啓示されました。聖霊はこれらのことを私たちにも示して下さいます。聖霊に関して、キリストは昇天の前に、「聖霊は来たるべきことをあなたたちに示します」と言われました。キリストはご自分の聖徒たちと共に来臨してこの世を裁かれることを、聖霊はエノクに啓示されました。そうであるからには、キリストはご自分の聖徒たち――備えのできた目を覚ましている者たち――のために来臨して、恐ろしい大艱難の期間が始まる前に、不敬虔なこの世から連れ出して下さるという事実をも、聖霊は同じように明らかに啓示されたのではないでしょうか?そして、エノクはキリストの来臨の光の中で生きたのではないでしょうか?確かに、エノクは洪水前の経綸の中にありましたが、目を覚ましている聖徒たちに劣りません。今日、目を覚ましている聖徒たちは、携挙の用意が整う前に、神に喜ばれているという証しを得ることを求めています。時間的な隔たりは全く何の違いも生じさせません。このエノクたちは、霊、歩み、目的において一つだったのです。
信仰の英雄たちのこの一覧は長い一覧ですが、完全ではありません。名前を記されていないとても多くの人々が、「信仰を通して良い証し」を得ました。一人一人に神との関係について尋ねるなら、「私は恵みにより信仰を通して救われた罪人です。そのおかげで、神の子供なのです」と答えるでしょう。経綸上、外面的には、旧約の聖徒たちは大昔の時代にいたように思われます。しかし、彼らの信仰告白を聞く時、また、彼らが非受造の(永遠の)命――この命に過去はありません――にあずかった事実を思う時、彼らを身近に感じます。この一つを感じます。
アベルの名前がこの信仰の巻物の最初に現れます。しかし、神の屠られた小羊に信仰を置いた最初の人は彼だったのでしょうか?「信仰とは、それに基づいて行動するほどに、神の御言葉を信じることである」という信仰の定義を心に留めて、アベル誕生の少し前に遡って見てみることにしましょう。
この一連の学びの別の区分で、屠られた小羊に関するアダムとエバの姿勢に注意を喚起しました。屠られた小羊の血が流されたのは、彼らが服を着せてもらうためでした。そして、宣言がなされましたが、それは聖霊なる神の照らしにより、アダムとエバが神の贖いの計画を十分に理解して、神の屠られた小羊に信仰を置くようになるためでした。その証拠は創世記三章二〇節と創世記四章一節に見つかります。アダムは、サタンの頭を砕く「女の子孫」に関する神の御言葉を信じました。それゆえ、信仰をただちに働かせて、自分の妻をエバと呼びました――この名は、彼女がすべての生者の母、人類の母となることを意味しただけでなく、神が語られた来たるべき方への確信に満ちた期待の表明でもありました。この確信に満ちた信仰の姿勢をエバも取りました。エバはカインが生まれた時、「私は一人の人を得ました――ヤハウェが言われたように」(創四・一、ロザハム訳)と叫びました。
この主題に関して、極めて助けになる本である「ヤハウェ・キリスト――記念すべき御名」からの引用を示すことにします。「カインが生まれた時のエバのこの叫びは、『私は彼を得た、来たるべき方を』と訳した方が原文により忠実な表現になるであろう。ヤハウェ(Yahveh)という言葉はハバ(Havah)という古代の語根から派生したものである。この語根から、当初の『息をすること』という『本源的意味』を通して、ヘブル語の二つの動詞『在る』と『望む』が生じた。『息をすること』から、存在のしるしとして、『在る』が派生し、『息をすること、あるいは、あえぎ求めること』から『望む』、『願う』が派生した。これに照らして見るとき、『私は彼を受けた、約束された方、待ち望んできた方となるべき者を』というエバの叫びは、二重に意義深い」。カインは「約束された方」ではないことを知って彼らは落胆しましたが、それでも、三番目の子供につけたセツという名が明らかに示唆しているように(創四・二五を見よ)、神の御言葉を信じる信仰を失いませんでした。そして、セツの子孫からこの女、マリヤが生まれ、その子イエスこそアダムとエバの信仰の対象だったのです。彼らの名がヘブル人への手紙一一章に言及されていないのには、明らかな理由があります。彼らは人類の祖でした。彼らの罪は、遺伝の法則のゆえに、人類一人一人に影響を及ぼしました。彼らの信仰は個人的な問題であって、人類の状態に何の影響も及ぼしませんでした。アダムは最初の代表者でした。ですから、代表者としての性格を帯びているアダムの行いだけを、神の書き記された御言葉の中に明示することが必要だったのです。彼の信仰は個人的行為であって、彼自身にしか影響を及ぼしませんでした。代表者としての性格を帯びていなかったのです。これは、アダムの長子であるカインが神の屠られた小羊に信仰を置くことを拒否した最初の人である、という事実によって明示されています。
小羊の婚宴
「キリストのからだ」という絵図によって示されている信者たちの有機的合一について考えたので、今、愛と献身的愛情という観点から、信者たちの合一について考えることにします。この主題に関して、聖霊は別の比喩を用いておられます。それが最も完全に述べられているのは黙示録一九章七節と黙示録二一章九〜二七節であることがわかります。これらの節では結婚式の絵図が使われており、贖われた者たちの主との関係および相互の関係に関する、極めて尊い数々の真理を伝えています。
結婚の真の意義は二者の合一です。この二者は同じ命の水準にあり、その心は不滅の愛によって永遠に結ばれます。この結婚は、小羊なるキリストと栄化された信者たちとの結婚です。「その花嫁は用意を整えた」という御言葉は、この婚宴は花嫁の準備にかかっていることを意味するように思われます。ああ、花嫁が用意を整えるのを、小羊はこんなにも長く待ち続けてこられたのです。この団体的花嫁を構成する者たちの中には、大艱難の期間に自分たちの地的展望を滅ぼされてはじめて、用意を整える者もいるでしょう。
黙示録七章九節を読むと、この短いけれども恐ろしい大艱難の期間のあいだに、「いかなる人も数えることのできない大群衆」を見ます。この人々の名は世の基が据えられた時から小羊の命の書に記されていました。彼らは神の贖いの栄光の計画の完全な輝きを直ちに悟ります。そして、自分たちが見たものをすぐにすべて取得し、さらに恐ろしい艱難の諸々の災いから連れ出されて、御座の前に、小羊の前に立ちます。彼らは白い衣を着て、手にはシュロ(勝利の象徴)を持っています。そして、自分たちより前に来た贖われた者たちの歌に加わります。全聖書の中でこの節ほど、神の優しい言葉にできない愛が示されている幸いな節はありません。この節を注意深く読んで下さい。そして、大艱難の勝利者たちのこの大きな一団に関して使われている一つ一つの言葉に注意して下さい。なぜなら、いま私たちが祈っている人々の何人かが、そこにいるだろうからです。
ミード氏は極めて助けになる黙示録の注解の中でこう述べています。「意義深いことに、この最も輝かしい出来事(小羊の婚宴)を、霊感を与える真理の御霊は、四章や五章ではなく、まさにここ(一九章)に置かれた。というのは、『神の教会、キリストの花嫁は、四章の幻で告げられている時の前に、世から完全に除かれる』と信じている者たちが正しいとするなら、ある余地を設ける必要があるように思われるからである。この人たちは、『大艱難の間に生じる聖徒たちや殉教者たちはキリストのからだではなく、贖われた者たちの別の部類に属する』と確信しているが、このような見解を支持する御言葉は全聖書の中に一つも見つからない。それだけでなく、この学びの課程で指摘してきた多くの事柄からわかるように、この大艱難の期間中に救われた者たちはみな、『からだの肢体仲間』なのである。このからだはキリストの教会、『長子の教会』である。そして、いま考えているこの節こそ、これを示すさらなる決定的証拠なのである。なぜなら、この落ち穂拾いの携え挙げで最後の聖徒が携え挙げられるときはじめて、『その花嫁は用意を整えた』という宣言がなされるからである」。
教師は、「キリストの花嫁」というこの主題を、キリストのからだの主題同様、単純かつ論理的に扱わなければなりません。「からだは命と性質における一つを物語り、花嫁は相互の愛と献身的愛情による合一を物語る。これにはまったく何の矛盾もない」(マックス・I・ライヒ)。
信者はどのようにしてこの花嫁の一員になるのか
すでに見たように、キリストの命を受け入れる瞬間、人はキリストのからだの肢体になります。そして、キリストに対して「解消不能な包括的承認」の返事をする時、花嫁の姿勢を示す、キリストとの深くて愛に満ちた、あの心の合一の中に入ります。愛は感情以上のものです。愛の試金石は、どう感じるかではなく、他の人のために何を為すかです。ですから、小羊の婚宴の前に、キリストと有機的に一つである人はそれぞれ、愛と献身的愛情によってキリストと一つになります。さらに、各聖徒は、この結婚が執り行われる前に、栄化されます。すなわち、各自の創造された人格は神の非受造の命に満たされます。地上の体さえも不死性を帯びます。各自の人格は滅ぼされるのではなく、罪を取り去られて、永遠の命に満たされます。これに注意して下さい。
「宴」という言葉は、長きにわたって待ち望み、熱心に望んできた結末の成就を喜ぶことを意味します。小羊の花嫁が「神の栄光」を放ちつつ小羊の傍らに立つ時、言葉ではこの花嫁の美しさを描写できません。
「彼は、喜びであり顧みの対象である花嫁を導く、 幸いな歌をもって御父の御座へと。 曇り無き目で花嫁は自分の神を見る、 顔と顔を合わせて神を見、見るところにしたがって歩む、 過去のように信頼しつつ歩むだけでなく、 自分の目で永遠の光を見つつ。 偉大な救いの奥義が示される、 無限の愛のこの高貴な幻の中で。」
大淫婦――小羊の花嫁の対極
さて、キリストの贖いの御業の顕現に関連して起きる次の出来事に、聖書を学ぶ生徒の注意を向けさせなければなりません。
この艱難の期間の間、この世は一連の未曾有の災いを通りました。その頂点が小羊の花嫁の対極である大淫婦の滅びでした。バビロンと称されている都の絵図が示されています。バビロンという言葉はバベルから派生したものであり、混乱を意味します。この絵図から、黙示録一七章と一八章に描かれている、サタンのこの世の体系の包括的性格がわかります。
生徒はこの「バビロン」を文字通りの都と思ってはなりません。そう思うなら、この象徴を理解しそこないます。文字通りの都が示されているのではないことは、いくつかの節により、特に一八章二四節により証明されます。この節を読むと、「彼女の中に、預言者たちと地で殺されたすべての者たちの血が見いだされた」とあります。この句により、この都は再建された文字通りのバビロンを意味する、という考えは排除されます。それに加えて、文字通りのバビロンの都は決して再建されることはない、と神は言われました。(イザ一三・二〇を見よ。)しかし、この恐るべき予測はバビロン州やバビロニアにはあてはまりません。この州には、バビロン市陥落以降、まったく住人がいませんでしたが、この都の跡地は今日に至るまで残っており、瓦礫の山です。この廃墟に関して、ある著者はこう述べています。「バビロンを襲った破壊以上に徹底的な破壊は想像することができない――その跡地ですら議論の的だったほどである」。著名な学者であるジョン・アーカートは、「預言の不思議さ」という比較的最近の本の中で、バビロンの都の廃墟の現状について数ページ費やしています。この都の現状は、イザヤ書一三章二〇節の預言が文字通り成就したものだというのです。シースはこの悪魔の花嫁―都のことを「神からの組織的離反の集団全体」と述べています。この句は、この節全体を解釈するための鍵を私たちに与えてくれており、聖霊は比喩的・絵図的方法でサタンによって建造される都を示しておられることがわかります。この悪魔の花嫁―都は、神の屠られた小羊に信仰を置くことを意図的に拒んだ人々から成ります。
小羊の婚宴が天で祝われている間、大淫婦は下界で破滅に直面します。言い換えると、サタンの巨大なこの世の体系は終わりを迎えます。そして今キリストが、栄化された従者たちと共に地に戻って来て、「敵をご自分の足の足台とされます」。そして、すでに存在していたけれでも、それまで目に見えなかった王国を地上で現されます。
キリストとその従者たちによる地上の統治
呻いている全被造物は、今や、「腐敗の束縛から解放されて、神の子供たちの栄光の自由の中に入ります」。(ロマ八・二一を見よ。)アダムが罪により支配権を失った結果、被造物である動物や植物は言いようのない呻き声を発するようになり、諸世紀を通してその呻き声が聞こえました。しかし今、まったく一変します。なぜなら、最後のアダムとその「子孫」、贖われた多数の人々が、今や全土で支配権を行使するからです。獣たちはもはや互いを餌食とすることはなくなり、イザヤ書一一章六〜九節、六五章二五節に描写されているエデンの状態に戻ります。トゲ、イバラ、雑草が地を苦しめることはもはやありません。植物は、正常な青々と茂った美しさと、創造時の豊穣さとを、ふたたび祝います。
詩人たちが夢見た政治的・経済的・社会的状態、そして、政治家たちや改革者たちが熟考してきた政治的・経済的・社会的状態が、今や実現します。そして、この栄光の千年期により、かつてなかったほど、カルバリにおけるキリストの贖いの御業の成果が現されます。教師は、この幸いな時の理想的な諸々の状態を描写している数々の節に注意を喚起しなければなりません。その時、
「彼の祝福は溢れ流れる、 呪いの見つかる所を遥かに超えて。」
例えば、イザ一一・四〜九、三五、六五・二一〜二五、ミカ四・一〜四。
新しい天と新しい地
しかし、千年期がどれほど栄光だったとしても、それはキリストの贖いの御業の最終的顕現ではないことがわかります。罪は人類を荒廃させ、被造物である動物や植物に大きな変化をもたらしただけでなく、地球自身にも大きな傷跡を残しました。
前に、この惑星の混沌とした状態について考えましたが、それはサタンの罪の結果でした。人の罪は、私たちの地球に大きな地形的変化や気象的変化をもたらしたため、神の再構成の御業が再び必要です。私たちはこれを覚えておく必要があります。
この主題について詳説することは賢明ではないかもしれませんが、それでも、生徒たちの注意をペテロ第二の手紙三章五〜一三節に向けてもいいでしょう。この節では、「かつての世界」の水のバプテスマと、今の世界を待ち構えている火のバプテスマとの対比が示されています。
自然科学の学生ならよく知っているように、この種の大火災を示唆するものには事欠きません。そして、この破局が差し止められているのは、ただ奇跡的介入のおかげであるように思われてきました。しかし、この破局は千年期の後にならない限り起きえないことを、私たちは知っています。その時、神の時が到来して、この地球をあらゆる罪の痕跡から完全に清めます。地球は滅びないことを、詩篇一〇四篇五節、一一九篇九〇節、伝道の書一章四節等の節に見られる神ご自身のお告げから、私たちは知っています。また、この出来事の後にも、地上に諸国民がいることからもわかります。(黙二一・二四〜二六を見よ。)
「いかなる大変動や災害が新たにこの惑星に降りかかったとしても、それはノアの洪水ほど酷いものでないことは確かである。なぜなら、当時、神は契約を結んで言われたからである、『私は人のゆえにもはや再び地を呪わない。私は、このたびしたように、すべての生き物を再び打つことはしない』(創八・二一、二二)」(シースによる「黙示録講義」より)。
注記:A.T.ピアソン博士の「誤りなき多くの証拠」の中の「大洪水の理論」に関する記事を生徒が注意深く読むなら、この記述をよりよく理解して評価することができるでしょう。
諸元素が溶解する(あるいはバラバラになる)この期間の間、神が地上の被造物をどのように顧みて下さるのかはわかりません。しかし、神はそうすることを約束して下さいましたし、そうして下さるでしょう。
黙示録二一章を読むと、新しい(あるいは新しくされた)天と地について記されています。今、神が贖われた子供たちの最終的出現を見ることが許されます。それは書き記された御言葉の最後のページに示されています。
「聖徒たちとイエスの殉教者たちの血に酔っている」(黙一七・五、六)大淫婦が最初に示された時、それは「バビロン」の性格を啓示するためでした。バビロンの性格とは「神からの組織的離反」です。そしてその次に、バビロンの都が、この組織的離反の完全な終局的顕現として示されました。それと同じように、染みのない衣を着て輝かしい美しさを放つ小羊の花嫁が最初に示されます。それは、信者の一団の愛と献身的愛情を啓示するためです。今、この「聖なる都」は、その秩序立った究極的出現により、信者たちの一体性を現します。
聖なる都――小羊の花嫁
「これは神の都であり、同時に人の都でもある。この都の長さ、幅、高さは文字通り等しい、と読者は一瞬たりとも思ってはならない。これは比喩的表現であり、霊的観念を伝えるものである。(中略)奇妙なことに、この都は人々から建てられているかのように描写されている。この都は群衆なのである。(中略)贖われた人々から建てられているこの都は、万民に開かれているが、神と親しい者だけが中に入れる。この都はまた、花嫁の都でもある。新エルサレムは小羊の花嫁である。そして、妻が夫のものであるように、信仰と愛の聖なる婚姻によって小羊のものでない者たちは、この神の都の中に分け前を持つことは決してないし、持つことを願うことも決してないであろう」(A.T.ピアソン博士の「聖書と霊的批評」から)。
エペソ人への手紙二章一九〜二二節に描写されている「聖なる都」が「生ける石たち」から建てられているように、この栄光の都は贖われて栄化された人々から建てられています。この都に合一だけでなく多様性も見ることができます。文字通りの都の場合、その中にある建物の大きさは均一ではありません。大きいものもあれば、小さいものもあります。この都の場合も、広い住まいもあれば、比較的小さいものもあります。しかし、みな同じように神の栄光にあずかり、最も高価な宝石の光で輝きます――水晶のように透明です。使徒パウロ、ペテロ、ヨハネのことを、多くの聖徒たちと比べて、高層ビルと見なすことができます。また、エノク、エリヤ、他の旧約の聖徒たちのことを、大きな構造物として思い描くこともできます。しかし、この都のどこにも、完全な洗練された調和に欠ける住まいはありません。
とりわけ、この都は神の住まいです。この学びの開始にあたって、建造物の比喩と親子の比喩という二つの比喩の奇妙な組み合わせが見られるいくつかの節に注意しました。ここでもこの二つの比喩が再び見られますが、完全に解き明かされています。ここでは、世の基が据えられる前から「選ばれていた」都が示されており、「その設計者と建設者は神です」。そしてまた、贖われて栄化された大群衆も示されています。彼らのことを神は御腕に抱いて、栄化された息子たちと呼ぶことができます。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は彼らの中に住み、彼らは神の民となる」(黙二一・三)。
そして今、キリストは「自分の魂の苦しみを見て、満足する」ことができます。なぜなら、呪いは取り除かれ、彼に贖われた者たちは御顔を見、その御名(彼の御性質を意味する)がその額に記されていて、永遠に彼に仕えるからです。
今、私たちは神のパラダイスを見ます。エデンのパラダイスはその予型でした。この神のパラダイスでは、「水晶のように輝く命の水の川が、神と小羊の御座から流れ出て」います。ここにはまた、命の木もあります。エデンの文字通りの木ではなく、文字通りの木が象徴しているものです。もはやケルビムと回る炎の剣で守られていません。カルバリのいけにえが永遠にその道を開いたからです。興味深いことに、ここ(黙二二・二、一四)で使われているギリシャ語は、植物が生長した文字通りの木を意味するのに使われるデンドロン(dendron)ではなく、木から出来ているもの――文字通りには木材や梁――を示すキシロン(xylon)です。同じ言葉がガラテヤ人への手紙三章一三節でも使われており、それゆえ、カルバリの十字架を示唆します。ですから、この節でこの言葉が使われているのはとても意義深いです。なぜなら、これは次の事実を啓示しているからです。すなわち、罪深い人が命の木の実にあずかることは、カルバリの贖いの御業をすべて取得することを意味するのです。言い換えると、これは神の屠られた小羊とその死と復活の中で一体化されることです。「その葉は諸国民の癒しのためであった」という表現は、この幸いな時代に贖いの成果が全面的に取得された良い結果について述べたものであり、今日の諸国民を特徴付けている自己中心性、嫉妬、憎しみ、争いがなくなったから実現されたのではないでしょうか?
命の木への生得権は罪により失われました。しかし、自分の衣を小羊の血で洗った者たちは今や、贖いのおかげで、命の木から自由に食べる権利を持ち、こうして門を通って都の中に入ります。門は閉ざされることはありません。招くかのように開かれたままです。これは私たちに次のことを示しています。代々の時代に至るまで、小羊の命を受け取る者は誰でも、カルバリにおけるキリストの贖いの御業を取得できるのです。
クリスチャンが持つべき姿勢
私たちは贖いの取得と現れについて時代毎に辿ってきました。今、神が私たちに与えて下さったこの素晴らしい啓示の観点から、クリスチャンの持つべき姿勢について考えることにしましょう。
クリスチャンは、十字架に付けられて復活した勝利の昇天の主と一体化されたことを絶えず認め、主の命に毎瞬しっかりと依り頼まなければなりません。主の贖いの御業の完全さを、主の来臨前に、主が望んでおられるように十分に示すには、そうしなければなりません。
聖霊なる神は、主が勝利されたように勝利する「小さな群れ」を用意されつつあります。この勝利者たちについて、「彼らは小羊の血と証しの言葉によって勝利した。彼らは死に至るまで自分の命を愛さなかった」(黙一二・一一を見よ)と言えるようにならない限り、キリストは戻ることを望まれないでしょう。
黙示録二章と三章の、勝利者たちに対する数々の約束に注意して下さい。これらの約束には何らかの意味があります。
独善的主張は、キリストの来臨を待ち望んでいるクリスチャンに似つかわしくありません。ですから、最初の携挙の時に誰が携え挙げられるのかに関する特定の見解を受け入れるよう、教師は固執してはなりません。おそらく、東洋の収穫期のことや、それに関連した様々な献げ物についてさらに注意深く学ぶなら、今日の多くの先端的理論は大変革されるでしょう。
考慮すべき主要な問題は、各自用意は整っているのか、昔のエノクのように神と共に歩んでいるのか、ということです。クリスチャンは覚えておかなければなりません。神・人の命はそのからだの各肢体のためであり、瞬間毎のものなのです。
クリスチャンは「栄光の中にあるこの人の命」を、ひたすら、絶えず、生かし出さなければなりません。これは辛い張り詰めた生活ではなく、むしろクリスチャンの正常な生活です。私たちは他の人々にこの命を流す経路であり、そうする時、自分も新鮮にされます。
これは幸いな生活です。なぜなら、自分の必要を悟って、まったく依り頼むからです。その結果、自己の力や自尊心から守られます。
日々毎瞬、私たちは自分のあらゆる必要のために、彼の豊かさから引き出します。
絶えず、私たちは歌うことができます――
ひとりの人が栄光の中におられます、 その命は私のためです。 彼は純粋で聖く、 勝利を得ており、自由です。 彼は知恵があって、愛情深く、 優しい方です―― 栄光の中にある彼の命が、 私の命でなければなりません。 ひとりの人が栄光の中におられます、 その命は私のためです。 彼はサタンに打ち勝ちました、 束縛から彼は自由です。 命の中で彼は支配しています。 彼は王にふさわしい方です。 栄光の中にある彼の命が、 私の命でなければなりません。 ひとりの人が栄光の中におられます、 その命は私のためです。 彼には何の病もなく、 何の弱さもありません。 彼は強くて活力に満ち、 快活な方です。 栄光の中にある彼の命が、 私の命でなければなりません。 ひとりの人が栄光の中におられます、 その命は私のためです。 彼の平安は不変であり、 彼は忍耐強い。 彼は喜びと輝きに満ち、 見ることを期待しておられる、 栄光の中にある彼の命を、 私が生かし出すのを。