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第七章
いのちの勝利


「私は生きている者である。私は死んだが、見よ、いつまでも生きている。そして、死とハデスの鍵を持っている」(黙示録一・一七、一八)
「御座の中央と御座の周囲には、四つの生きものがいた」(黙示録四・六)

これらの節をその直接の文脈の中で見るなら、そして黙示録全体の文脈の中で見るなら、それらは途方もない勝利を表していることがわかります。もちろん、聖書の頂点を成している黙示録は、小羊の究極的勝利の書です。ここには、あらゆる領域にわたる絶対的勝利があります。しかし、その勝利の格別な特徴は、「私は生きている者である」と仰せられる御方の場合も、また四つの生きものとそれが表しているすべてのものの場合も、それがいのちの勝利であるということです。それはいのちの勝利なのです。

主ご自身のこの声明は、途方もない勝利の声明です。「私は生きている者である。私は死んだが、見よ、いつまでも生きている。そして、死とハデスの鍵を持っている」。これは勝利であり、生きている御方によるいのちの勝利です。同じことが四つの生きものの場合にも言えます。最終的に、私たちは天にいて、御座に着いています!これは途方もない勝利です。これは、長きにわたる大きな戦い――いのちの論争――の結果です。この戦いは園の中で始まり、この黙示録で終わります。

聖書の中心問題――いのち

聖書は多くの区分に分けられます。霊的順序にしたがって、一つの区分が他の区分に続きます。それらの区分はみな、最初から最後まで、一つのことを中心としており、一つの問題に集中しています。それはいのちです。あらゆる問題、あらゆる課題、あらゆる議論、あらゆる困難は、いのちに関するものです。これらの聖書の異なる区分は、この一つの問題、この一つの論争の別々の面に他なりません。

T.旧約において

(A)いのちの各面

最初に、短い導入区分があります。その区分は創世記の最初の三つの章からなっており、いのちの問題全体とそれに関する議論を導入します。これが、これらの章で述べられていることの核心です。園の中で起きることは、いのち、永遠のいのちと関係があります。これはいのちの木によって象徴的に表されています。こうして、この戦いが始まり、この論争が始まります。これは代々にわたって長く続いてきた論争であり、聖書全体を貫いています。これは、私たちが結末に至るまで続きます。しかし、その結末は勝利のいのちの木です。いのちがそこにあります。

(1)贖い:祭司

旧約の一つ目の主要な区分は創世記四章から申命記までであり、この同じ問題の新しい形を示しています。それはいのちに関する試練です。今、この試練は個人的な形ではなく、団体的な形を取ります。第一は種族であり、次は国家です。この区分の大半は、イスラエル史における特別な四十年――荒野の四十年――で占められています。ご存じのように、四十という数は試練、試み、苦難の期間を常に意味します。この区分は、試練にある一国家の記録であり、いのちの問題と関係しています。しかしここでは、いのちは贖いと関係しています。これが中心テーマです。この期間のしるしは祭司祭壇です。大いなる祭り、大いなる供え物、恵みの御座、注がれた血――これらすべてが中心です。いのちに関する一切の懸案は贖いに集中しており、贖いに基づいています。人々はこれに関して試みられます。この区分は死んだ人々で終わります。二人の人を除いて、全国民が荒野で滅びます。彼らは試みを受けて失敗しました。彼らは偉大な贖いの働きの恩恵を受け継ぎませんでした。

(2)権威:王

第二の区分はヨシュア記からエステル記までであり、いのちの試練は今、他のものと関係しています。この区分は祭壇、祭司、血、贖いの問題を取り扱っていますが、今や、おもな特徴・要素は権威のそれです。これはヨシュア記のまさに冒頭から始まります。ヨシュアは、抜き身の剣を持って立っている一人の人を見ます。その人は自分を万軍の主の将であると名乗り、ヨシュアはこの人にすべてを委ねるよう命じられます。その瞬間、権威に関する一切の懸案が導入されます。この期間のしるしは御座であり、いのちはこれと関係しています。今、いのちの問題は神の民の間の神聖な権威と結びつけられます。天の統治が、一定の秩序をもって、彼らの間に確立されます。

(3)回復:預言者

一時の間、ヨブ記から雅歌の区分を飛ばして、旧約の最後の区分、イザヤ書からマラキ書までの区分にやって来ます。この区分は、この同じものの別の面を導入します。それは、預言者たちの訴えによる試みです。その訴えとは何でしょう?国家は道を誤り、神から離れ、霊的生活から転落しました。預言者は主に立ち返るよう訴えます。人々はその訴え、預言者たちの呼びかけの下で試みられます。ここでのしるしは預言者、その人です。この試みの結果は、またもや死です。なぜなら、そこに具体化・表示されているいのちの原則がまたもや破られたからです。

(B)いのち基礎である十字架

さて、これらの要素をすべて一緒にすると、旧約がいのちの問題について教えていることがわかります。それはすなわち、神が人に経験させようとしておられる満ち満ちたいのちは基本的に十字架に基づく、ということです。十字架は大いなる犠牲的贖いであり、死んでまた生きておられる御方の身代わりの御業です。神と人にとって重要なことは、歴史上ただ一つしかありません。それは永遠のいのちの問題です。ですから、満ち満ちたいのちは第一に、十字架と十字架が意味するところのものに基づきます。十字架が私たちの生活の中に適用されて、基本的かつ主要な現実となる時だけ、あなたや私はこのいのちを知り、このいのちを得、このいのちの中で増し加わることができます。十字架は、私たちが受け入れて同意すべき教理であるだけでなく、私たちの中に働く力を持っているのです。

なぜなら、十字架は初めに起きた出来事に反対して立つからです。園の中で人の全性質は変えられてしまいました。人は、神が造り、意図されたものとは異なる被造物になってしまいました。人にとってすべてが悪化しました。人は癒されることができません。人は治療されることができません。人はいのちをなくし、失いました。人は今や閉め出されており、死ななければなりません。人がこのいのちを得るには、神の御心にしたがって構成されている別の人、新しい人が到来しなければなりません。罪が贖われ、罪人が視野から除かれ、新しい人がもたらされたこと――これが十字架のメッセージです。

(1)祭壇

いのちの最初の受容と獲得は十字架に基づきます。そして、いのちの漸進的増加も十字架に基づきます。エゼキエルの宮において、川がどのように祭壇の道を流れ下るのか、すでに指摘しました。いのちは常に祭壇と密接に関係しています。原則として、いのちは決して十字架を離れることはありません。キリストの死の法則が私たちの中に働くとき、その程度に応じて、またその程度にまで、キリストの復活の法則が私たちの中に働きます。この二つは常にバランスを保っています。より多くの死はより多くのいのちを意味します――より深い死はより深いいのちを意味します。神の霊はこのバランスを保たれます。神の霊はこれに関してとても実際的です。

(2)御座

しかし、このいのちの問題はこれで終わりではありません。いのちはさらに、生活における主の絶対的主権に基づきます。生活の中に、祭壇だけでなく御座も到来します――生活の中にキリストの主権に対する完全な服従があるようになります。王職の全期間にわたって、人々に関する限り、すべてが君主政治を中心としていました。それが神の意図した通りのものであった時、そこには何といういのちがあったことでしょう!ダビデの統治の終わり頃とソロモンの統治の四十年を考えてみなさい。なんといういのちの時でしょう!なんという満ち満ちた時でしょう!なんという視覚教材――なんというたとえでしょう!歴史上、なんという栄光の実例でしょう!神がしかるべき場所に御座を据え、しかるべくその座に着かれる時、状況が統治に関する御心にかなっている時、人々が王を持つことを喜び、その人を王として尊び、完全に王に服する時、それに続いて栄光がやってきます!

しかし、王座が堕落する時、王職が汚される時、すべてが変わります。よく知られている一つの例をあげましょう――ウジヤ王の例です。彼の統治の初めの頃、状況は良く、すべてが素晴らしいものでした。しばらくの間、その素晴らしい状況が続きました――いつまででしょう?彼が繁栄する時までです!ああ、繁栄の危険性!その時、彼の心は高ぶり、彼は別人になりました。自己と「私」が現れました。偉大なウジヤ王は神に打たれ、らい病で死にました。王座は汚され、地に落ちました。しかしその時――「ウジヤ王が死んだ年、私は高く上げられた御座に座しておられる主を見た」とイザヤは記しました。堕落した王座と、それに続く人々の状況に対抗して、天の御座がもたらされます。今や、いのちの試みはその御座と関係しています。

あまり詳細に立ち入らなくても、これがかなり実際的であることは明らかだと思います。主の統治、権威、御座は、たんなる抽象的概念や観念ではありません。それはとても実際的なものであり、宮の中に、神の家の中に直接もたらされます。いのちは、神の家の中に見いだされる主の権威に完全に服することと結びついています――これはきわめて現実的な原則です。彼の教会である彼の家の中で、霊のからだである彼の宮の中で、実際的方法で主に服従することには何という恩恵が伴っているのでしょう!そこには途方もないいのちの祝福があります。人々がこう言うのをよく聞きます、「主の民の間で受けた祝福のゆえに、主にどんなに感謝しても感謝しきれません」――そこでは彼が主だからです。他方、真の王がおらず、めいめいの人が自分の目に良く見えることを行っている、キリスト教圏をご覧なさい。そこには何の権威もなく、なにをなすべきか知っている人はだれもいません。これは恐ろしい惨めな状況です。これはいのちではありません。いのちは、主ご自身によって確立される、この神聖な権威の問題と結びついているのです。

イスラエルについても、彼らの歴史のこの区分の結末は死でした。ソロモンでさえ、道を誤りました。その王座に関して、イスラエルとユダの王座に関して、何という悲劇が続いたことでしょう!王の時代のなんと暗い結末でしょう!――これはみな、御座が犯され、脇にやられたためであり、権威の原則が拒否されたためです。

(3)預言者の回復の務め

それから預言者たちの期間です。これは何を意味するのでしょう?これは次のことを意味します。ここに、神からのメッセージを持つ人々がいます。それは神の民を回復するためです――彼らを教え、彼らを構成し、彼らを建て上げ、彼らを主を知る知識の恩恵にあずかる民とするためです。新約に進むなら、おそらくこのことが最もよくわかるでしょう。

U.新約において

新約において、マタイによる福音書からユダの手紙までの部分には、霊的に対をなすこれらの三つの要素があります。それから黙示録では、すべてが満ち満ちた豊かさの中で一緒にされます。

(A)いのちの各面

(1)十字架:祭司

最初に福音書です。福音書の結論は何でしょう?各々、異なるメッセージ、異なる面を持っていますが、共通する一つの結論があります。それは、贖いの小羊がささげられたこと;罪の担い手として、罪のためのいけにえとして、キリストが人々に渡されたこと;いけにえとしてだけでなく、人々の仲保者――祭司――として渡されたことです。これらはみな、いのちと関わりがあり、いけにえとして、仲保者として、贖い主として、ご自分を渡された御方と関係しているいのちと関わりがあります。十字架は最後に四福音書を一つにまとめ上げます。

(2)御座:王

使徒行伝に進みます。何を見いだすでしょう?御座が据えられて、王がその御座に座しておられます。彼は高く上げられ、天で大能者の右に座しておられます。王がそこにおられます。イエスが御座についているおかげで、なんといういのちが使徒行伝の中に見られることでしょう!戦い?たしかに、恐ろしい戦い、多くの戦いがあります――しかし、彼が御座に着いているおかげで勝利です!

(3)教えと回復:預言者の務め

次に、ローマ人への手紙からユダの手紙には、主の民がそれによって建て上げられるべき一切のことがあります。これらの手紙に盛り込まれているすべての教え、すべての指示、すべての光、すべての啓示は、建て上げのためです。そして、それはみないのちと関係しています。十字架に基づくいのち;キリストの絶対的な権威と至高の頭首権と関係しているいのち;私たちの成長、私たちの発達、私たちの成熟と結びついているいのちが、指示により、教えにより、完全な御言葉により、示されています。これがこれらの手紙の結果です。それはいのちか死かの問題です。たとえばローマ人への手紙において、これはきわめて明らかではないでしょうか?他のすべての手紙についても同じです。

しかし、「私たちは否応なくいのちの増し加わりを持つようになるだろう」とか、「それは自動的に生じるだろう」などと思わないようにしましょう。主の事柄の中で教えを受け、主が与えて下さる光に応じる時だけ、私たちはいのちの増し加わりを持ちます。主の御言葉があるのにそれに従わないなら、私たちは自分の中のいのちを窒息させてしまいます。すべての教え、すべての指示は、私たちがさらに豊かないのちの中に入るためなのです――それは生きた教えであるべきです。もしそこからさらに多くのいのちが生じないなら、教え、集会、特別集会には、まったく意味や価値はありません。

これは旧約の預言の区分に対応します。これは、神の民に対する神の当初の完全な御旨を回復するためであり、神の民をその完全な御旨の中に導いて、神のいのちを彼らの中に増し加えるためです。

(B)いのちの三つの基礎

このように、いのちはこれらの三つの要素に基づいています。これをはっきりと理解しましょう。このいのちの問題はとても大きな事柄です――実に、これは大切な唯一のことなのです。

第一に、いのちは私たちの経験の中に働く偉大な十字架の現実に基づきます。

第二に、いのちは私たちの生活の中できわめて実際的なものとされる、キリストの絶対的な至高の頭首権に基づきます。これはただたんにイエス・キリストを「主よ」と呼ぶ問題ではありません。主は、彼を「主よ」と呼びながら、彼が言ったことを行わない人たちがいることを話されました(ルカ六・四六)。それはまったくの偽善でした。そうではなく、主権は彼に対する完全な服従、従順を意味します。主は、とても単純な多くの方法で、これをきわめて実際的なものとされます。

第三に、この大いなる問題であるいのちは、主が私たちに知って欲しいと願っておられるすべてのこと、そして主が私たちに知らせるために備えて下さったすべてのことを、私たちが知ることと結びついています。私たちは自分の経験から、ある程度、これを確認できるのではないでしょうか?主の御言葉を携えて、主の御前で待っているとしましょう。おそらく、なじみ深いどこかの節を黙想している場合もあるでしょう――すると静かに、あるいは突然に、以前見たことのないものを見ます。そして見ることを通していのちがもたらされます。見ることは何かを行います。御言葉を黙想しているとき、これが何度も起きるのを私は経験しました。繰り返し読んできたものが、それまで見たことのない新たな力、新たな意味をもって、突然迫って来るのです。そして、大きな助けになります。御言葉は川を流れさせます。なぜなら、主は御言葉が私たちに対していのちとなるよう定められたからです。

それから、いのちは私たちの知識と結びついています。ですから、私たちに知識を得させるために、これらすべての手紙があるのです。主の御旨は私たちが御子を知る完全な知識に至ることである、とパウロは何度もはっきりと述べています。私たちの訳ではこのように訳されておらず、普通はただ「知識」となっていますが、ギリシャ語の単語は時として私たちの「知識」という言葉よりも強い言葉なのです――それは「完全な知識」、「認識」、「認知」です。いのちである初歩的な知識があります。「永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされた者、イエス・キリストを知ることです」(ヨハネ一七・三)。これが始まりです。しかし、これは始まりにすぎません。さらに豊かな知識があります。それは初歩的な知識よりもはるかに大いなるものであり、より多くのいのちを意味します。これはみな、これらの手紙の中心です。

黙示録:勝利のいのち

黙示録に戻ると、すべてがそこにあります。創世記と他のすべての書がそこにあり、すべてが統合されています。あらゆる試みに決着がつきます。サタンは判決を受けて、法廷から追放されます。罪は「ほふられた小羊」(黙示録五・一二)により決着がつきます。無秩序と不従順に決着がつきます――王が御座に座しておられます。御座の前で完全な光が明るく輝いています。御座の前には七つの火の明かり――神の七つの霊――があります。そして、まったく完全な知識、完全な視力、完全な啓示を象徴する、目で満ちた四つの生きものが、ここで勝利のうちに御座を囲んでいます。そこには十字架による御子の勝利があります。そこには聖霊、いのちの霊の主権があります。それらがみなこの黙示録の中にあり、全聖書が要約されています。今や、いのち――満ち満ちたいのち、勝利のいのち――です。最後の描写は、「彼は水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。それは神と小羊の御座から出ていた」(二二・一)です。

主の民は復活を体現しなければならない

さて結論として、これをさらに自分たちに適用しましょう。これが真実であって、たんなる理論、観念ではないなら、これは私たちをなにかとても大きなものに巻き込みます。それは私たちをこの途方もない論争の中に巻き込みます。この論争の上であらゆる問題が荒れ狂っています。悪魔はできることなら、人がこのいのちを得る邪魔をしようとしますし、そのいのちを持っている人の中でそれを抑圧して、消そうとします。彼はもし可能ならば、考えうるあらゆる手段を用いて、そのとてつもない悪魔的知恵により、このいのちに対抗しようとします。最後に神は勝利をおさめられます。しかし、これは戦いであり、現在の争点です。

これは争点であり、イエスの証しです。これはなにか私たちが巻き込まれているものです――この勝利のいのちの証しは私たちの間で体現されなければなりません。あなたはこれを理解しておられるでしょうか?私たちに対する、教会に対する、個々のクリスチャンに対する一つの争点は、私たちが復活の中でキリストの絶対的な勝利の証しにならなければならないということです――主イエスの復活は、クリスチャンの信条の一部ではなく、クリスチャンの存在そのものの一部でなければならないのです。これが、あらゆる種類の非常に深刻な敵対や反対から、主が決してご自分の民を守らなかった理由です。これは、教会と主の民はイエスの証しを体現しなければならず、キリストの復活の力の表現でなければならない、という単純な理由によります。これが、死――終結――のように見える多様な経験を私たちが何度も通る理由です。ただしこれは、私たちが霊的な民の場合、本当に主の御旨の道にある民の場合です。

死から出たいのちに関するパウロの経験

私の言わんとしていることがわからなくても、心配しないでください――死から出たいのちはじきに十分やって来ます!しかし、死から出たいのちを知り尽くしている多くの人々がいます。私たち自身の内にあるもの、あるいは私たちの外にあるものが、私たちをすっかり絶望させ、終わらせるかもしれません。この満ち満ちたいのちの問題に関係している人がいるとしたら、それはこの人パウロです――彼は復活について話せる第一人者でした。第一に主イエスの復活について、次に信者の生ける経験としてのこの復活について、パウロが述べたことをすべて要約するとこうなります、「彼の大能の力の働きにしたがって、信じる私たちに対して働く彼の力が、どんなに卓越して偉大であるかを、あなたたちが知りますように。神はその大能の力をキリストの内に働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、彼をご自分の右に座らせ………」(エペソ一・一八〜二〇)。

「彼の力の卓越した偉大さ」――復活の中でキリストを死人の中からよみがえらせた――が「信じる私たちに対して」働きます。これは声明としては途方もないものです。こんなことを言う人は、これ以外に決して何も知るべきではありません。この人は言います、「私たちは生きる望みを失い、自分自身のうちに死という判決を持ちました」。ああ、しかし、彼はそこを離れませんでした。彼の言葉の結びは、「それは、私たちが自分自身に信頼するのではなく、死人をよみがえらせて下さる神に信頼するためでした」(二コリント一・八、九)です。彼は、絶望から復活の新しい経験の中に、すべてが終わって諦めなければならないように思われる所から復活の力強い別の経験の中に入ったのです。よく気をつけて下さい、この人は決してその経験で止まりませんでした。生涯の最後の間際に、それまで復活の力をさんざん経験してきたにもかかわらず、彼はなおも言います、「それは、キリストとその復活の力とを知るためです」(ピリピ三・一〇)。ここに、全生涯を通して、どん底の恐ろしい道を歩んだ人がいます――死のように見える彼の経験の一覧を読んで下さい(二コリント一一・二三〜二七)。「死に瀕したこともしばしばです」と彼は言い、それがいかなるものだったのかを告げます。しかしそれでも、彼はまさに死に対する勝利――復活――の化身なのです。

さて、私の要点はこうです。すなわち、好むと好まざるとにかかわらず、これが証しの道です。そしてこれが、主の民がこのような経験をすることを主が許される理由です。これが、溢れるばかりの圧倒的な死のように見えるものに彼の教会がさらされることを、主が時として許される理由です。教会が絶望しているように見える時、サタンが決定的に勝利して、教会が溺れているように見える時、再びそれが到来します。それは到来するだけでなく、以前よりも強くなって到来するのです。それは、エジプトにおけるイスラエルに関する古い証しです。「苦しめられれば苦しめられるほど、彼らは数が増えた」(出エジプト記一・一二)。これは復活の原則です。蘇生だけでなく、力強い増し加わりです。それは主です。神にまつわる一切のことは、この主要問題であるいのちと密接な関係にあります。ですから、それはそのようなものとして現されます。あなたや私はその化身でなければなりません。教会はその化身でなければなりません。これが証しです。証しはある一組の教理や教えではありません。証しは、「イエスは死人の中からよみがえって生きておられる!」ということなのです。

これは最初から最後まで、実に多くの方法で、神の民の歴史の中に示されています。あなたは主の民でしょうか?あなたは彼のいのちを受け取ったでしょうか?すべてが終わって、もはや前途が尽きたように見える地点、生きる望みさえ失う地点に、あなたは一度ならず来たことがあるかもしれません。しかし、信じて下さい、神はそれで終わりにはされません。神は前よりも多くのいのちが生じるようにされます。これが証しをもたらす神の方法です。悪魔に立ち向かい、悪魔と戦うのは、まったく結構なことです。しかし忘れないで下さい、死の君である悪魔に対する真の返答は、いのちを握ることなのです。言葉ではなく、いのちです。言い回しではなく、いのちです。言葉で悪魔を攻撃する方法ではなく、いのちです。答えは私たちの中にあるいのちです。ですから黙示録では、主に敵対して現れるものがすべて、最後の力の一滴までも使い切り、それから打ち破られて粉々になるのを見ます。なぜなら、いのちが立ち上がって勝利するからです。これはたしかに重大な仕事です。それは多くの戦いと、抑圧・試練・絶望の長大な時間を含みます。しかし、これがいのちの証しの道なのです。もしいのちがそれとは反対のあらゆるものと対峙させられなければ、私たちはこのいのちが何か知ることはできないでしょう。それは証しです。ですから、ヨハネは手紙の中で言います、「これが証しです。すなわち、神が私たちに永遠のいのちを与えられたこと、そしてこのいのちが御子の中にあることです」(一ヨハネ五・一一)。神が私たちに永遠のいのちを与えられたこと、これが証しです。証しはいのちです。

いのちの回復のために行動する天の軍勢

これが、この黙想で述べようとしてきた一切の点の本質です。というのは、たとえすべてを述べ尽くしたとしても、また異なる面で象徴されているすべての特質を「生きもの」が備えているにしても、結局のところ、「生きもの」は生きているものだからです。彼らの主要な特徴は生きているということです――彼らは生きているのです。

さらに、彼らは生きて強い影響を及ぼします。これに関して、私はエゼキエルの幻の意味を大いに喜んでいます。この問題について、エゼキエルは大いに私を助けてくれました。ご覧のように、エゼキエルの時代、すべてが道を誤りました。神の民は神から離れ、神を拒絶しました。彼らは他の神々を慕いました――偶像礼拝が蔓延していました。そして、神の栄光は上に昇って行き、彼らから去りました。これは恐ろしい光景です。その時、「生きもの」、ケルビムがただちに視界の中にやって来ます。

この時点の生きものに関して、他の箇所には見いだせないものに何があるでしょう?エデンでは、いのちの木への道を守るため、彼らは園の入口に立っています(創世記三・二四)。幕屋と宮では、恵みの御座の上で、幕と覆いの上で、そして他の場所で、彼らは静かに休んでいます。すべてが安息しています(出エジプト二五・一八、二六・一、三一・一、列王上六・二三、歴代下三・一〇)。ところがエゼキエル書に来ると、彼らは安息を妨げられ、みな立って働いています。彼らは騒乱、騒ぎの中にあります。エゼキエルのこの幻に関してここで述べられていることはみな、何かがなされなければならないことを告げています。ここに安息はありません。すべてが動いています――途方もないエネルギーの光景です。この状況のために、心配して気遣っている一つの霊があります。いのちに関するこの問題全体は、恐ろしい戦いになりました。ここに、解決されるべき状況があります。この状況はすべて、今の神の民にもあてはまるものであり、なんとかして克服されなければなりません。なぜなら、それは死という結果になるからです。そこで、生きものが途方もない活動を開始します――彼らはみな活動します。

状況が悪化する時、主はただ座して諦めてしまうのではありません。主は、「これは良くありません。私たちはこれに関して何もすることができません」とは言われません。そうであることを、私はうれしく思います。その時こそ、主が反応される時なのです。私は間違っているかもしれませんが、生きものによって表されているものが今まさに、大いに活動し始めているように感じます。現存する物事の状況に関して神が動いておられる、という新たな感覚があります。神はこの状況を黙って受け入れていないこと、神はこの状況下で座り込んでいないこと、神はこの状況によって打ち負かされていないことを、神は私たちに告げて下さるでしょう。この状況は神の手に負えないものではありません。神は決着をつけて下さいます。これで終わりではありません。終わりはこれよりも良くなるのです!

これを信じるでしょうか?信じないなら、すっかり諦めてしまった方がいいでしょう。しかし、神は動いておられる神です。神は次の一事を目標にして動いておられます。すなわち、あなたや私の中からいのちの川の豊かな奔流が流れ出て、絶対的勝利をおさめることです。自分自身に対する私たちの絶望や、目にする状況の絶望的様相――そのすべてに対抗して、たとえどんなに光景が暗くても、神は依然として完全な輝きの中でご自分の証しを持たれると信じましょう。神の証しは、イエスを死人の中からよみがえらせたことです――この証しは人の器の中に、そして神の選びの民からなる大いなる団体的器の中に盛られます。主は私たちがこれを信じるのを助けて下さいます。

私を信じる者は、聖書が言っているように、その人から
生ける水の川々
が流れ出るようになる