「この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみます」
(ヨブ四二・五、六)
ヨブの物語を見ることにしましょう。そして、彼の霊的経歴をできるだけ短く描写しましょう。それは、あのように特別な方法で神が彼に啓示された時の彼の立場を理解するためです。
第一に、彼の人となりに注目して下さい。次に彼の精神的経験、それから彼が生きた人生に注目して下さい。
「ヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ一・一)
これは神ご自身によるヨブの描写です。ヨブは神に対して真実であり、まったき心の者であり、誠実でした。彼は単一な目の持ち主で、神と人に対して正しくありました。
ヨブがいかに神を恐れ、罪を恐れているかについて語る時、神はヨブについて、「この人は潔白で」と言われました。また、彼は自分の意志を完全に神に明け渡している人であったことがわかります。書き記されている恐ろしい出来事がすべて彼の上に下った時、彼はただちに「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言いました。
つまり、ヨブは誠実で、正しく、正直で、神を恐れ、完全に神の御旨に服していたのです。
二九章には、神の御前におけるこの内側の潔白さの結果である、ヨブの外側の生活が描かれています。この章でヨブは自分の過去の経験を詳しく話し、自分がどのように神との交わりの中を歩んだのか、神の「秘密」がどのように自分に啓示され、日ごとに神が自分に現れて下さったのかを示します。
彼は大いに敬われていたので、彼が町の中に入ると、人々は彼に対する敬意と尊敬の念で話すのをやめました。ヨブは言います、「私が町の門に出て行くと、若者は私を見て身をひき、年老いた者は立ち上がった。つかさたちは話すのを控え、首長たちの声はひそまった。私について聞いた耳は私を賞賛し、私を見た目は私について証しした。それは私が、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出したからである。死にかかっている者の祝福が私に来た。私はやもめの心を喜びで歌わせた」。
なんと麗しい人生でしょう!彼は神の光と神との明るい交わりの中を歩みます。皆が彼を尊敬し、彼はすべての人から敬われます。彼は自分の人生を人々のために費やします。しかし、この時のヨブの言葉を読んで下さい、「そこで私は言った、私は自分の巣の中で死ぬであろう」(一八節)。
ヨブは心の中でこう言っていたのではないでしょうか、「神が私を重んじ、私を用い、私を通して働かれる所に、いま私は到達しました。万事申し分ありません」。このように霊的台座の頂点にいる人として描写できます。神ご自身があらゆる方法で彼について証しされます。「そこで私は言った、私は自分の巣の中で死ぬであろう。私は自分の日を増そう。私の根は水に向かって延び、夜露が私の枝に宿ろう」。
自分の霊的財産や霊的富をヨブが数え上げ始めたおそれもあります。彼は自分を見、自分がいかに尊敬されて用いられているのかを見ます。「私の」が忍び込んで、彼は言います、「私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々と矢を放つ。人々は私に聞き入って待ち、私の意見に黙していた。私の言葉の後、彼らは重ねて話さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。彼らは雨を待つように私を待った」。
次の章は次々に十字架の道を示します。このような繁栄の描写の後、ヨブは言います、「しかし今は―――」「今、彼らは私をあざ笑う」「私の魂は私の内側に注ぎ出され、悩みの日々が私を捕らえた。……神は私を泥の中に投げ込み、私はちりや灰のようになった」(ヨブ三〇・一、一六、一九)。
「なぜヨブは所有物をすべてはぎ取られる必要があったのでしょう?」と私たちは疑問に思うかもしれません。これは、神が彼のためにすべてを行った後、彼が「私」「私の」と言い始めたからではないでしょうか?もし私たちが自分の霊的経験や奉仕について「私」「私の」と言い始めるなら、確かに神は私たちをちりの中に下らせる方法を見つけなければなりません。
これが、最も用いられた子供たちの多くに対して、主が今日行っておられることです。「ああ、昔のようだったら」と言っている人が大勢います。彼らはヨブの経歴に似た霊的経歴を述べることができます。彼らもまた、「私はあざけりの中にあり……私の魂は注ぎ出され……私はちりや灰のようになった」と言うことができます。
三〇章二五節から三一章の最後まで読んで、ヨブが六〇回近く「私」「私の」と言っているのを見て下さい!
「自分の生活の中に悪いものは何もない」という主張にこだわるべき、ありったけの理由を彼はあげます。これは、すばらしい霊的経験や祝福された実り豊かな奉仕の後に忍び込む「私」の狡猾さを、とても鮮やかに示しています!
自分がいかに憐れみ深かったかを述べるヨブの言葉の中に、自己憐憫が見られます。しかし、彼はまったく憐れみを受けません。彼は呻きます:
「私は困難の中にある人のために泣かなかっただろうか?私の魂は貧しい者のために悲しまなかっただろうか?私は善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗闇が来た」。
彼は自分の非のない歩みについて話し、自分を秤にかけるよう神に訴えます。自分が空しく歩んでこなかったこと、自分の足が偽りに向かったことはないことを、彼は完全に確信していました。自分は地位上のいかなる高ぶりからも免れていた、と彼は主張します。それは、彼が自分のしもべたちの不平をないがしろにせず、「私を造られた方はこの人をも造られたではないか!」と自分に言い聞かせて、自分のもとに来るすべての人に喜んで耳を傾けていたからです。次に、彼は自分の私心のなさを述べ、「もし私が貧しい者の望みを退けたり、一人だけ食物を食べたことがあるなら」(一六節、改訂訳欄外)と言います。
彼はまた、貧しい者に対する自分の親切さ、彼らを利用しない自分の正しさ、富に対する自分の無頓着さについて語ります。「もし、私が、着る物がなくて死にかかっている者や、身をおおう物を持っていない貧しい者を見たとき」「もし、私が、自分の富が多いのを喜び、私の手が多くの物を得たので、喜んだことがあるなら」(一九、二〇、二五節)。
「私、私、私!」が何度も出てきます。「もし、私が、私を憎む者が滅ぶのを喜んだことがあるなら……私は自分の口に罪を犯させず、呪って彼のいのちを求めなかった。私は旅人に戸口を開いた。もし、私が、自分の咎をふところに隠して、自分のそむきの罪をおおい隠したことがあるなら」。
このようにヨブは次々に自慢したので、その話を聞いていた友人たちはついに何も言えなくなってしまいました。「この三人の者はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである」。真実な聖書は、この正しい人に関する実際的な真理を付け加えます。「ヨブは神よりもむしろ自分自身を義とした」。
このような自己義認から次のことがわかります。すなわち、「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と彼に言わしめる、さらに深い神の啓示を彼が必要とする理由が、ヨブの苦難から明らかになったのです。
同じように、主は私たちの上で御手を翻して、絶えず私たちを砕かれた状態に保たなければなりません。それは、使徒パウロでさえ、「私が高ぶり過ぎないように、肉体に一つのとげが与えられました。それは私を打つサタンの使いです」(二コリント一二・七)と言わなければならなかったからです。
「自分は思いやりがある」という考えにふけったり、絶えず自分をひいき目に見て、他人と比較したことはないでしょうか?「私は利己的ではありません」と言いつつ、人の身勝手さをとても厳しく注意したことはないでしょうか?人を裁く霊の危険性が忍び込んではいないでしょうか?
パウロは言いました、「それは私自身の義を持つのではなく、私がキリストの中に見いだされるためです」(ピリピ三・八、九)。神の目に忌まわしいのは、私たちの自己満足と「私」「私の」という物言いです。
神の啓示は「私」「私の」「私のもの」の忌まわしさに関する光を私たちに与えます。そこで、私たちはこう言うようになります、「主イエスよ、これからは『あなた』『あなたの』となりますように。私たちは自分自身を守るより、主とその取り扱いを義とします。あなたを見上げるようすべての人を導くことよりも、キリストと共に苦しみを受けるのにふさわしい者とみなされることの方が遙かに大きな祝福です。首長――『王』――として人々の上に君臨することよりも、イエスと共にその十字架の交わりの栄誉にあずかることの方が遙かにまさっています」。
これがこの午後の霊的写真ではないでしょうか?あなたは自分に向かって、「主がご自分に対する全き心に私を導いて下さった時のことを、私は覚えています。罪人のかしらである私に対するあわれみのゆえに、神に感謝します。主は私の意志を征服されたので、試みの時、私はためらうことなく、『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』と言うことができました」と言っていないでしょうか?
しかし、あなたはこう付け加えることができます。「私はかつて光の中を歩んでいました。しかし今は、荒涼とした寂しい荒野の中にいるかのようです。かつて私は神との透明な交わりを持っていました。しかし今、神は語って下さらないかのようです。私は人々のために『用いられ』ました。しかし今、神は私とまったく無縁であるかのようです。かつて私は首長として座していました。しかし今、私は孤独な片隅に追いやられ、あざけられています。彼らは私を成功した人気の働き人と思っていました。今、彼らは、『彼女はまったく“用いられて”いないようだ』と言っています」。
このようなことのただ中にあって、あなたは万事における自分の潔癖さを根拠にして自分を慰めます。あなたの憐れみ深い心!あなたはなんと無私だったことでしょう!あなたは人々に対してなんと親切だったことでしょう!人々が何をしても、あなたは彼らのように行動しませんでした!あなたは、「私をこの試みの道に導かれたのは神です。私はこの世が与えうるあらゆる栄誉を受けるよりも、むしろ神と共に歩みます」と言う代わりに、自分自身を義とすることに熱中していたのではないでしょうか?人々の間で王や首長として座すことができる間は、小羊の霊を持つ方法を学ぶのは容易ではありません。
ヨブに対する神の啓示により、彼の自己は停止し、「私はちりと灰の中で悔い改めます」と彼は言いました。「私はもはや自分自身を義としません」。そして転機がやってきました。「主はヨブに彼が以前持っていた倍のものを与えられた」。これが常に「主の結末」です!今、神は安心してヨブに二倍の分を与えることができました。
主は今日、私たちに言われるでしょう、「子よ、あなたを剥ぎ取ることは私の喜びとするところではありません。しかし私は、あなたに『私の』と言ってほしくないのです。私はあなたに、『主よ、すべてはあなたのものであり、私のものではありません』と言ってほしいのです。私はあなたに、自分自身によってではなく、私によって生きること、そしてすべてをただ私にあって所有することを学んでほしいのです」。
このように、何かを自分自身のものとして所有することから引き離される時、主は以前の「二倍のもの」を私たちに与えることができます。
ヨブに与えられた「二倍のもの」は長子の分け前を暗示します。長子は常に二倍の分け前を得ました(申命記二一・一七)。霊の領域において、イエスは死者の中からよみがえった長子でした。そして、私たちは長子である彼に結合されて、彼の分――御霊の二倍の分け前――にあずかります。エリヤがエリシャに、「あなたは難しいことを求める!」と言ったのも不思議ではありません。しかし、これこそ神が私たちのために備えて下さっているものなのです。ただし、私たちは喜んで神に導いてもらう必要があります。神は私たちにヨルダンの道をくぐり抜けさせ、向こう岸のキリストにあるいのちの中に導いて下さいます。そこでは、神は大いに安心してご自分の豊かさを私たちの上に注ぎ出すことができます。それは、何も自分のものではないこと、すべては神のものであること、神を離れて何も持たないことを私たちが学んだからです。
どうか今日、首長として座す地位を欲したり、キリストの働きにおいて「ひとかどの者」でありたいと願う代わりに、小羊の道を歩む喜びを聖霊が私たちに示して下さいますように。人々の賞賛を求めないようにしましょう。自分が口を開くとき、他の人はみな口を閉ざさなければならない、と思い込むのではなく、イエスと共にへりくだりの道を行きましょう。そして、彼と共に人々の信仰のいけにえと奉仕の上に注ぎ出される、隠れた生活をますます求めましょう。
今日、私たちの心構えはどうでしょうか?私たちの前に二つの道があるのが見えないでしょうか?一方の道は外面的な賞賛と栄光の道であり、他方の道はへりくだりと犠牲の道です。私たちはどちらを選ぶのでしょう?
主だけが、小羊に従いたいという真の願いを私たちの内に起こすことができます。主はイエスの小羊の霊の麗しさを私たちに示し、自己栄光の別の生活の忌まわしさを私たちに啓示されます。どうか主が、小羊の行くところにはどこへでも従ってゆく道を、私たちに啓示して下さいますように。
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