「もはや自分に生きるのではなく、彼に生きるためです」(二コリント五・一五〜一七) |
最初の集会は、神の幻と神に会う結果から始めました。そこで見たように、ヨブ――「非がない」と主が言われた人――でさえ、主によって取り扱われ、ちりに下らされて、ついには「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と告白しなければなりませんでした。
次に、主はさらに明るい探照灯で私たちを照らし、主が対処しなければならないものが想像の部屋の中にたくさんあることを私たちに示して下さいました。また主は、神に属する深い事柄を取り扱う際のかたくなさのせいで、神の目から見て罪や冒涜があることを示して下さいました。そして、神聖な事柄を話すときは敬虔な畏怖と聖なる敬意・静けさが必要であることを、私たちに示して下さいました。
それから主は、私たちを十字架――十字架でのみ、新鮮な啓示に取り組むことが可能です――に導いて下さいました。主は私たちの信仰の基礎そのものを、再び私たちに示して下さいました。主イエスは私たちの身代わりであり、私たちのために死んで下さっただけでなく、私たちをご自分と共にあの木に運んで下さいました。それは今後、私たちが自分に生きるのではなく、キリストに生きるようになるためです。今、キリストのいのちが実際どのようにして土の器を通して現されるのか、私たちはきわめて明るい光を持つ必要があります。
キリストが私たちの内に住んでおられる目的は、私たちを素晴らしい偉大な者にするためではありませんし、私たちを幸せにするためでもありません。それは、イエスの御心が満足するためであり、私たちを通して人々にご自分のいのちを注ぎ出すことができるよう、私たちを空の器とするためです。おそらく自分でも気づかぬうちに、私たちは経験を求め、自分自身の享受のために慰めや平安を求めていたのかもしれません。
「彼がすべての人のために死なれたのは、生きている者が、もはや自分に生きるのではなく、彼に生きるためです……。」
このすぐ次の節で、復活した主との合一がもたらす分離について示されています。「ですから私たちは、今から後、だれも肉にしたがって知ろうとはしません」。十字架の復活の面に導かれる時、キリストは私たちにとって生ける方となり、私たちは「今から後、彼に生きる」ようになります。そして続いて、私たちは彼の観点から人々を見るようになります。私たちはすべての人を、キリストの愛と死の対象として見ます。私たちは彼らを古い人間的な目で見るのではなく、いわば主の目で見るのです。
キリストの教会の中にある悲しむべき分裂は終わらなければなりません。なぜなら、十字架の天に向かう側では、私たちはキリストと一つであり、したがって、キリストにあるすべての人とも一つであるべきだからです。
この節の意図は、あなたをかたくなにしたり、自分の殻に籠もらせたりすることではありません。キリストの愛があなたを通して人々――彼らのためにキリストは死なれたのです――に流れることができるよう、あなたをかたくなな自己から分離するためなのです。
「たとえキリストを肉にしたがって知っていたとしても、今はもはやそのように知ろうとはしません」。キリストに関する人間的な知識があります。いわば、キリストを外側から知ることです。多くの人はキリストの見解を持つことについて話していますが、もしあなたが本当にキリストにあるなら、キリストに関する諸々の見解にあまり夢中にはならないでしょう。
使徒たちはカルバリの前にイエスを知っていました。彼らは彼と共に歩み、彼の奇跡を見ました。彼らは彼の恵み深い御言葉を聞きましたが、その御言葉を理解せず、彼をも理解しませんでした。彼らは彼と交わることができませんでした。彼が言われたことをことごとく、彼らは多かれ少なかれ誤解しました。彼が霊的な事柄について話された時、彼らは彼が地上の事柄について言われたのだと思いました。彼らは心を尽くして彼を愛しましたが、彼を「肉にしたがって」知っているだけでした。彼らは主の昇天に立ち会い、彼らの知っているキリストは彼らの目に見えなくなりました。彼は言われました、「私が去って行くことは、あなたがたにとって益です。なぜなら、私が去って行かないなら、慰め主はあなたがたのところに来ないからです。しかし、私が行くなら、私は彼をあなたがたに遣わします」。その時でさえ、彼らは理解しませんでした。彼らはペンテコステの日まで理解しなかったのです。
ペンテコステの日、祝福に満ちた聖霊が来臨して、彼らの心の中に住んでおられる栄光を受けた主を彼らに啓示されました。今、彼らは「霊にしたがって」彼を知りました。彼は外側のキリストである代わりに、内側の生ける実際になりました。彼らは、彼と共に苦しむことを喜ばしいことと見なし、彼のためにすべてをすすんで犠牲にしました。
私たちの多くは依然として同じです!私たちは「肉にしたがって」、人間的な観点からキリストを知っているだけです。私たちはキリストに関する理知的な知識を持っています。私たちはキリストに関する知的観念や描像さえも持っています。あなたはひざまづいて、「今、主はここ、私のそばに立っておられます」と自分に言い聞かせて、それから主がそこにおられるのを想像しようとしたことはあるでしょうか?これは「霊にしたがった」キリストではなく、「肉にしたがって」キリストを知ることです。
しかし、キリストが私たちのために十字架上で死んで下さったこと、そして私たちはキリストと共に死んだことを、私たちが理解する時、キリストは私たちにとって生ける現実となり、私たちはキリストに結合されます。私たちはキリストとの合一の中で世の普通の生活に戻り、十字架の光の中ですべての人――彼らのためにキリストは死なれました――と会います。私たちは、神は厳しい方だと言い、神は時としてとても残酷だと思い、神をこわがって十字架から、いのちへの門から退いてきたかもしれません。しかし今、神が私たちをそこに導く十字架こそ、私たちの欲するいのちへの脱出路そのものであることがわかります。私たちはキリストをどれだけ「霊にしたがって」、自分の霊によって知っているでしょう。というのは、「主に結合される者は、主と一つ霊です」と記されているからです。
この「分離」は何を意味するのでしょう?他の人々より優る者として、あなたを台座に据えることではありません。キリストによって所有されることを意味するのです。それは、キリストがあなたを分離してご自分のものとし、ただご自分の御旨のためだけの者とするためです。分離は、他の人々から遠く離れて立って、「私はあなたがたより聖い」と言うことではありません。主の臨在があなたによってとても鮮やかに現されるため、他の人々が主の臨在を感じて、主に引き寄せられることなのです。
次にこう記されています、「ですから、だれでもキリストにあるなら、その人は新創造です」。この「ですから」という言葉は、一四節で据えられた基礎を示しています。「ですから」、だれでもキリストの死の中に植えられているなら(なぜなら、キリストと共に「すべての人が死んだ」からです)、その人は新創造です。その人は神からの新しいいのちを得、新しい領域に入り、「自己」の古い領域を離れました。そして今、キリストに属する新しい領域の中に生きています。
「キリストにある(in Christ)」ことは何を意味するのでしょう?パウロは「キリストにある」ことについて、なんと多く語ったことでしょう。「にある(in)」というささやかな言葉に注目して、書簡を見て下さい。キリストの領域の内側に生きているというだけで、私たちに万物が与えられているのです。なぜなら、万物はキリストにあって私たちのものだからです。
私はこれの良いたとえ話を聞いたことがあります。上映中の映写スライドがあって、講師が海の絵を見せていました。彼は最後に、たくさんの人が溺れている嵐の海の絵をスクリーンに写しました。突然、水の中から一つの岩が浮上しました。その岩の上には十字架があり、十字架の上にはキリストがおられました。溺れている人たちの中の一人がその岩に流されました。彼女は十字架の足にしがみついて、助かりました!彼女にできたことは、ただしがみつくことだけでした。ついに、十字架上のキリストが身をかがめて、荒れ狂う海からご自分のふところに彼女を引き上げられたようでした。次に、彼女はもう一つの小さな泉に触れて、消えてしまいました。彼の中に入って、見えなくなったのです。
これは素晴らしい視覚教材です。絶えず自分自身に占有される代わりに、自分はキリストの中に安全に隠されていると思いなさい。そうすれば、あなたはキリストの力によって自分自身から引き上げられ、キリストにあって生きるでしょう。
再び、十字架は中心線であると仮定することにします。一方の側には地的な領域があり、他方の側には天的な領域があります。最初、私たちは地的な側にいて、罪の重荷の下にありました。神の霊はこの時、私たちの身代わりである方が十字架上で私たちの罪を負って下さったことを私たちに示されます。私たちは、「彼はあの木の上で私の罪をご自分の身に負って下さった」と言って、平和を見いだします。しかし、ああ、私たちは主が天的ないのちの供給を送って下さることを期待しつつ、古い領域に戻ってしまい、その中を歩み、その中に生きます。私たちは罪の赦しを受け入れ、「さあ、地的な領域に戻って、主のために働こう」と言い、まるで主が私たちに世界を任されたかのように行動します!私たちが進めるのは、消耗するまでのことです。私たちは祈り、激しく働き、ついには疲れて、「他に何かあるにちがいない」と言うようになります。主は、私たちが自己努力の終焉に至るのを待っておられました。主は「十字架に戻れ」という呼び声を送って下さいます。ついに、私たちは自分が誤った立場に立って働いていたことがわかるようになります。そして、私たちは主がこう言われるのを聞きます、「私の道を邪魔していたのはあなたです。私は私の働きを自分で行うことができます。私にはただ空の器が必要なのです。あなたは自分の罪から離れましたが、自己を保っていました。今、来て、自己を離れ、私があなたを置いた立場に着きなさい。私が死んだ時、あなたは私の中で十字架上にいたのです!」。
いのちの領域の中で、「私はキリストと共に十字架につけられました」と私たちは確かに言うことができます。十字架は今、私たちと古い地的ないのちとを分ける力として立ちます。
御霊のあらゆる祝福が、キリストにあって天上で私たちに与えられています――十字架の天的な側で与えられています。神は「キリストにあって私たちを共によみがえらせ、共に天上に座らせて」下さいました。あなたはキリストの死の中に植えられたので、今、あなたはキリストのいのちによってキリストに結ばれています。ですから、あなたの内なるいのちとして「キリストがあなたの中に(Christ in you)」おられるだけでなく、あなたも「キリストの中に(in Christ)」あるのです。キリストはあなたの周辺、あなたの環境、あなたの領域です。あなたがキリストの領域の中に生きているなら、人々はあなたに会う時、キリストに会います。なぜなら、キリストはあなたを取り囲んでおられるからです。私たちは「主にある(in the Load)」という表現をしばしば使いますが、本当にその意味を知っているのでしょうか?
キリストにあって私たちは新創造になります。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなり、すべてが神に属するものとなります。
私たちは決して、この祝福された生活の中に苦闘して入るわけではありませんし、自分自身の努力でその生活を学んで知るわけでもありません。
キリストが御業を成就されたことは、すでに事実です。自己の努力をやめ、信仰によってキリストの中に隠れ、「今から後、私はキリストにあります。キリストは私の隠れ場です。私はすすんで古いものを過ぎ去らせ、毎日すべてを新しくして下さるキリストに信頼します」と言う必要があるのは、私たちなのです。
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