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第7章
生きている方

「なぜあなたたちは、生きている方を死人の中に探しているのですか?」(ルカ二四・五、欄外)


これまで、キリストの十字架とカルバリで成就されたその御業について、それから、キリストと共に十字架に付けられたことを知った後、引き続きキリストの死に同形化されることについて話してきました。さらに、私たちは土の器による新しいいのちの現れを見ました。ごく普通の弱い土の器であるにもかかわらず、この土の器は神の忍耐、神の愛、神の謙遜を現します。

私たちは神の幻から始めました。ですから終えるにあたって、私たちはキリストのパースンに戻らなければなりません。なぜなら、キリストとその復活の力を知る時だけ、私たちはキリストの死に同形化されることができるからです。

最初に、復活がキリストにとって何を意味したのかを見ましょう。女たちは死んだキリストを見るために墓へ行きました。彼らはまだ、キリストを復活の主として知りませんでした。キリストの死について話す時、キリストが生きている方であることを忘れないようにしましょう。一生、死んだキリストを礼拝し、聖金曜日毎に十字架につけられたキリストのために泣く人々がいます。もしあなたたちの中に、墓を見つめてキリストの死しか考えない人がいるなら、どうか聖霊が生ける主であるキリストに光を当てて下さいますように。

なぜあなたたちは、生きている方を死人の中に探しているのですか?彼はここにはおられません。よみがえられたのです」と天使の使者は言いました。これを聞いた時、女たちは怖じ惑いました。彼らはキリストを墓の中に探しに行き、墓が空であることを発見しました!空の墓のゆえに神を賛美します!女たちが弟子たちのところに戻って、キリストが復活したことを告げた時、弟子たちは女たちを信じず、「たわ言」にすぎない、と言いました。復活した方ご自身が近づいてこられるまで、私たちにとっても「たわ言」である場合がしばしばです。

後に、弟子たちが二階の部屋に集まったこと、そしてユダヤ人を恐れて扉が閉ざされていたことが記されています。彼らはカルバリへ行き、一切の希望を打ち砕く霊的なカルバリを確かに通過しました。しかし、イエスを生きている方として知るまで、彼らは神の力と強さに満ちた証人になることはありませんでした。死は消極的です。積極的な力をもたらすのはいのちです。

キリストご自身にとって復活は何を意味したのでしょう。ローマ人への手紙一章四節、「死人の復活により、力の中で神の御子と示された方」。復活により、彼が神の御子であることが示されました。もう一度エペソ人への手紙一章一九、二〇節を読みましょう、「神の大能の力の働きにしたがって(中略)神は、その大能の力をキリストの内に働かせて、彼を死人の中から復活させ、彼を天上でご自分の右に座らせ、すべての支配、権威、力を遙かに超えて……」。

次にローマ人への手紙六章九節を見ましょう、「キリストが死人の中から復活させられて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを知っています。彼が死んだのは、ただ一度、罪に対して死んだのであり、彼が生きるのは、神に生きるのです」。この節からわかる四つの明らかな点があります。第一に、復活によって彼が神の御子であることが示されました。第二に、彼は暗闇の軍勢を上回る勝利の地位に上げられました。第三に、死はもはや彼を支配しませんでした。第四に、彼は新しい領域に入りました。その領域の中で、彼はカルバリの地上側の面で生きることをやめて、十字架の神側の面でただ神にのみ生きたのです。

ローマ人への手紙六章三〜六節から、キリストの復活は私たちの霊的復活の原型であることがわかります。

「キリスト・イエスの中へとバプテスマされた私たちはみな、彼の死の中へとバプテスマされたことを、あなたたちは知らないのですか?こういうわけで、私たちは死の中へとバプテスマされることを通して、彼と共に葬られました。それは、キリストが御父の栄光を通して死者の中から復活させられたように、私たちもいのちの新しさの中を歩むためです。もし私たちが、彼の死の様の中で彼に結ばれるなら、彼の復活の様の中にもあるでしょう。」

ここにすべての物語があります。私たちはどのようにキリストの復活の力にあずかるのでしょう?彼の死の様の中で彼に結ばれることによってです。言い換えると、キリストの十字架を生き生きと知るよう聖霊に導かれることによってです。この節に関する注釈の中でコニーベアはこう述べています、「この意味は、『キリストの死の実際にあずかり、キリストの死の様を経過することによって』のようである」。これは心の中で同意することや、堅く信じる姿勢以上の何かを意味します。聖書は、キリストの死の中にしっかりと移されること、キリストの死に同一化されること、その十字架において非常に実際的な方法でキリストと交わることについて述べています。

このようにキリストの死の実際にあずかるなら、それに続いていのちの中でキリストに結ばれるであろうことを、私たちは完全に確信することができます。私たちはキリストの死にあずかるだけでなく、キリストのいのちにもあずかります。この事実はローマ人への手紙六章八節で繰り返されています、「しかし、キリストと共に死んだなら、彼と共に生きることにもなる、と私たちは信じています」。いわば、その死は目的に達する手段なのです。日常生活のためにキリストの復活の力に身を委ねることについて、私たちは何を知っているのでしょう?

ローマ人への手紙六章に関する光を持っていて、単純な信仰により、「自分はキリストの死の中でキリストと一体化されており、キリストの復活にあずかっています」という姿勢を取る人々がいます。しかし、彼らがキリストの死の様にしっかりと結ばれていないことは容易にわかります。他の人々はこれを理屈と称してこれに反対し、「自分たちはもっとよいものが欲しいのであり、聖霊に自分たちの間で実際的な働きをして欲しいのです」と言います。死の中でキリストに結ばれることについて、聖霊が彼らに教え始められると、彼らは他の極端に走ってしまいます。そして、彼らはあまりにも長く墓にとどまるため、彼らを力づけて絶えず勝利の中を歩ませる神の力の痕跡はまったく見あたらないのです。

いのちは死の中から生じることを忘れないようにしましょう。キリストの死によりキリストの中にしっかりと移されなければならないことは真実です。しかしまた、私たちはキリストの復活の中でキリストに結ばれなければなりません。キリストの死を知るように導かれる時、あなたはキリストの力づけるいのちを求めて、キリストに身を委ねなければなりません。さもないと、実際生活においてあなたは無力でしょう。イエスの十字架に関して神が私たちに与えて下さった光のゆえに、そして私たちをその死に同形化するその方法に関して神が私たちに与えて下さった光のゆえに、神に感謝しましょう。それだけでなく、キリストの復活の力を知り、キリストとの生ける合一の生活を送るようにしましょう。

最も暗い戦いの時、かつてない辛い試みの時、もしキリストに結ばれているなら、あなたはこう言えるでしょう、「この問題に関して、私は復活した私の主と共にあります。私はこれに屈することを拒みます。私は彼と共に勝利の地位に立っているからです。私は死人をよみがえらせて下さる神を信じます」。

ただこの方法によってのみ信仰は完成されることができ、ついには窮地の中でも生きて勝利することのできる信仰になります。

キリストの復活により、死はもはや彼を支配することはないことを、私たちは見ました。これは私たちにも霊的に成就されるでしょう。四方を取り巻く致死的な雰囲気のまっただ中で、私たちはその影響を被っているのでしょうか?キリストの復活の力のおかげで、それは私たちを凍えさせることはできません!私たちは生きている方であるキリストに結ばれているのです。したがって、私たちの周囲にあるもので、私たちを支配したり引きずり倒す力のあるものは何もありません。私たちの周囲にある死は、もはや私たちを凍えさせることはありません。むしろ、私たちは復活した主との合一により、キリストのいのちによって、死の雰囲気を圧倒し、死にかけている人々に対するいのちの使者になるのです。

コリント人への第二の手紙一三章三、四節に示されている、キリストの復活の力を示す実際的方法について、簡単に見ることにしましょう。

「あなたたちは、キリストが私によって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたたちに対して弱くはなく、あなたたちの中で強いのです。なぜなら、彼は弱さを通して十字架につけられましたが、神の力を通して生きておられるからです。私たちも彼と共に弱いのですが、あなたたちに向けられている神の力を通して彼と共に生きます。」

実際、私たち自身は常に弱いのです。そして、キリストの力が自分たちを通して働いているのがわかるのは、まさにその力が他の人々の中に働いているのを見ることによってなのです。キリストが自分によって語っておられる証拠を、あなたは求めているのではないでしょうか?ここに証拠があります。キリストは他の人々の中で強くあり、あなたを通して彼らを祝福しておられます!パウロはあたかもこう言っているかのようです、「私は自分が弱いことを知っています。しかし私は、自分がキリストのいのちによりキリストと共に生きていることを知っています。なぜなら、キリストがあなたたちコリント人の内に働いておられるのを私は見ているからです」。神のいのちと力が自分たちの内に働いていることを、私たちは周囲の人々に対するその効力によって知ります。これは、自分自身や自分の経験を見ることから私たちを遠ざけます。

ですから実際の経験上、次の三つがあります。第一に、私たち自身は常に死と弱さに渡されます。それは、いのちが他の人々の上に流れ出るためです。第二に、私たち自身に対しては常に死です。それは、自分自身に信頼するのではなく、死人をよみがえらせて下さる神に弱い自分を委ねるためです。第三に、神の力を認識できるのはただ、それが生み出す効力によります。神の力を常に感じるとは限らないのです。

ヘブル人への手紙一一章一七、一九節は、復活の力の別の面を見せています。

「信仰によって、アブラハムは試みられた時、イサクをささげました。(中略)神は死者の中から人を復活させることができると考えていたのです。」

これはキリストの復活を知るさらに一つ進んだ段階であり、神が私たちの信仰を成熟させる方法を示しています。実際生活全般における姿勢は、「父よ、あなたはこれを復活させることができると信じて、私はこれを放棄します」というものでなければなりません。この時、ためらわずに万事をその祭壇に向かわせることができます。私たちの所有物すべてに関して、さらに神の賜物に関しても、「神は死者の中から人を復活させることができる」と信じて、それらを放棄する信仰――これが復活の力なのです。

終えるにあたって、イエスご自身が私たちの間におられることを思い出しましょう。彼は生きている方であり、幕の内側におられる生けるキリストです。彼は常に私たちのためにとりなしておられます。注ぎの血が私たちに適用されつつあります。私たちはシオンの山に、仲保者キリストに、注ぎの血に来ています。開かれた天を通して、神の御子キリストが私たちのために神の御前に立っておられること、そして私たちはキリストにあることを、私たちは見ます。開かれた天を頭上に伴って出て行く時、こう言いましょう、「妨げるものは何もありません。注ぎの血が御父の前で私を擁護してくれるのがわかります。道は澄みわたっています。神が私を助けて下さるので、私たちの間に曇りが生じることは二度とありません」。ですから今後、「生きている方を死人の中に」探すのではなく、神の右手に探すようにしましょう。私たちはキリストと共に「愛されている方にあって受け入れられて」います。このビジョンをもって終えることにします。アーメン。