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「すべての支配と権威のかしら」であるキリストの中心性と至高性


聖書朗読 エペソ人への手紙一章一五〜二三節、ピリピ人への手紙二章五〜一一節、コロサイ人への手紙一章一三節、二章一〇節、二章一五節

前の黙想では、個人に関するキリストの中心性と至高性について、次にキリストのからだである教会におけるキリストの中心性と至高性について専念しました。今、コロサイ人への手紙二章一〇節「すべての支配と権威のかしら」の意味を考えることにします。この文章と同行するのが、一章の「神は私たちを暗闇の力から救い出して」というこの句です。

コロサイ人たちの大きな過ち

いま読んだこのような手紙の特定の御言葉の意味を正しく理解して真に把握するには、その手紙が書かれた背景や理由を見なければなりません。そこでしばしの間、この手紙に見られる主要ないくつかの点に専念することにします。最初に包括的な点として、キリストのこの絶対的至高性があります。これを信者に啓示して、その中に信者を確立するために、聖霊はこの手紙を書くよう使徒を導かれたのです。この手紙が書かれたのは、ある教えによってコロサイにやって来た一つの運動のためでした。その運動は主イエスを卓越した地位から引きずり下ろして、劣った地位に置きました。この手紙はその間違いを正すものだったのです。その教えの性質はユダヤ教と似非クリスチャン哲学の混合でした。ユダヤ教の要素とキリスト教の要素が織り混ぜられて、幾分魅力的な哲学に仕上がっていたのです。それはおもに、低い位から非常に高い位にまで及ぶ超自然的存在、低い領域や高い領域にいる支配たちや権威たちと関係していました。そして、超自然的な霊的存在の階級が霊と天使と大天使の位にわたって探り出され、次にその中の一員として、しかし非常に高い位にある者として、キリストが示されました。キリストは天使の軍勢、天使の階級の単なる上官のひとりとされました。おそらく、上位に立つ唯一のかしらとされていたことでしょう。そして、このようなものが礼拝の対象として示されたのです。使徒はそれを「わざとらしい謙遜や天使礼拝」とここで述べています。つまり、人々はとても謙遜なふりをして天使たちを礼拝し、霊の領域の上位者たちを崇拝していたのです。それはわざとらしい謙遜や天使礼拝でした。ふたたび読むとわかるように、使徒はこれを地的なもの、人から出たもの、有害で邪悪なもの、徹底的に除かれるべきものとして、すべて拒んでいます。なぜなら、非常に真摯で熱心な宗教心の覆いの下で、それはこの一つの点を巧妙に攻撃していたからです。すなわち、それは神である主イエスの絶対的至高性を攻撃していたのです。それは素晴らしいものでした。それは礼拝を促しました。それはイエスを礼拝するよう導きさえしましたし、天の階級の非常に高い地位を彼に与えました。それは大いなる信心を集め、この手紙からわかるように、ユダヤ教の儀式から受け継いだ外面的祭儀で多数の人を捕らえました。彼らはそれを啓示、素晴らしい啓示として、また受容して守るべき真理として受け入れました。彼らはその危険性を認識しそこなう危険に陥っていました。それはキリストを高く上げ、キリストを礼拝するよう導き、受け入れた人の中に霊的に見える恭しい謙遜な態度を生み出しました。また、彼らに道徳的影響を及ぼして、彼らをとても恭しい民、とても謙遜で熱心な民にしました。彼らはキリストに対する大いなる信心を持ち、霊的なものは何でも大いに敬っていました。しかしそのせいで、その深い所に潜んでいる狡猾な悪魔的要素に対して盲目にされたのです。キリストへの一種の信心を生じさせることや、道徳的向上という要素を伴う神秘的な魂的「キリスト教」(?)を促進することに、サタンは何と成功していることでしょう。しかし、サタンはその中に何かを隠しています。すなわち、サタン自身のもの、サタンの存在、天から投げ出された時よりサタンの内にある持ち味を隠しているのであり、主イエスから神格における地位の絶対性を差し引くものを隠しているのです。

これがこの手紙の背景にあるものです。この手紙が書かれたのは、このグノーシス哲学、この偽りの霊性、この主イエスに対する悪魔的信心を暴露するためでした。また、主イエスは神の愛する御子であるがゆえに、天使の位の頂点にあるだけでなく、あらゆる支配と権威のかしらであること、そして、彼は神格において永遠に神と一つであることを示すためだったのです。神格の満ち満ちた豊かさが肉体の形を取って彼の中に宿っていました。

さて、愛する人たち、いま述べたことから、終末の時代にいる私たちへの導きを得なければなりません。あなたは私が述べたことを取り上げて、まさにこのような性格を帯びているもの――それは将来地上で大いに流行するでしょうが、この本質を欠いているでしょう――に対して適用することができます。しかし、これはそのような理解や知識や導きや予防措置を与えてくれるかもしれませんが、私がこれを述べるのはそれが目的ではありません。キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストは絶対的に至高であり、唯一至高です。あの階級に属する者としてではありませんし、あの階級の頂点にある者としてでもありません。キリストの階級は他のあらゆる階級を遙かに超越しています。キリストの至高性は彼のような者が他にはいないことによります。キリストは天使の階級には属していません。キリストは被造物ではありません。キリストは永遠に神と一つです。もちろん、あなたにとってこれは新しいことではなく、あなたをあまり熱狂させることでもありません。なぜなら、私たちはみな真心からこれを信じているからです。あなたもそうであることを私は希望します。あなたがこれを信じること、あなたがここに立つこと、少しも疑ったりためらったりすることなく、「あなたはキリスト、生ける神の子です」と言えることを、私は希望します。

御業が示すキリストの至高性

さて、これを述べて、これを見たので、この手紙の主要な点の一つとしてこれと関係している事柄に進むことができます。キリストの絶対的至高性と関連しているのは、御業が示すキリストの至高性です。天使、大天使、支配、権威といった他のあらゆる階級と比較して、キリストがどう異なっているのか、またどう優れているのかを、ここで使徒は示しています。それは、キリストがそのような御方である事実を述べているだけでなく、どうしてそうなのか、どのようにしてそうなのかを示しています。それは御業によるのです。これがこの手紙で述べられていることがわかります。一章一三節の偉大な御言葉、「神は私たちを暗闇の権威(原文)から救い出して、愛する御子の王国の中に移して下さいました」を見ましょう。この御言葉を天使や大天使にあてはめることはできません。天にも地にも、これをあてはめることのできる他の存在はありません。これはキリストの大能の御業を示しているのです。そして、これは二章一五節に記されているキリストの御業でした。「彼は支配たちや権威たちを取り除いて(原文、はぎ取って)公然とさらしものにし、それ(彼の十字架)によって彼らに勝ち誇られました」。キリストがこれを行われた時、キリストは私たちを暗闇の権威から救い出して下さいました。そして、私たちは神の愛する御子の王国の中に移されたのです。いかなる天使も、これを行いませんでした。いかなる大天使も、支配たちや権威たちをはぎ取りませんでした。キリストは彼らを公然とさらしものにして、ご自分の十字架によって彼らに勝ち誇られました。これを行ったのはキリストだったのです。王国はキリストのものです。それは神の愛する御子の王国であり、王国は彼のものです。この王国が彼のものであるのは、征服によってであり、勝利によってであり、他のすべての支配たちや権威たちを追放したことによります。また、この世の主権を得ようとしたこれらの他の者たちを、彼の勝利により公然とさらしものにしたことによります。彼の十字架の力のゆえに、王国は彼のものなのです。「万物は御子を通して、御子のために創造されました」と使徒がここで述べているように、彼は万物の永遠の相続者として予め定められていました。しかし、この彼の権利を何とかして奪い取ろうとする権威や力がありました。彼の十字架は、そうした他の権威や力を、彼がすべて対処した場所なのです。至高性は彼の御業に基づきます。

もちろん、主イエスの個人的至高性を認識するのは大切なことです。愛する人たち、彼が成し遂げた御業の偉大さを認識すること、彼をあの個人的至高性にもたらした御業の偉大さを認識することは付随的なことです。ピリピ人への手紙二章にあるように、神の愛する御子は、神と等しい地位から低く、低く、低く下って、ついにはまったくむなしくなられました。彼は「実に死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に」なられました。「しかも」と使徒は言います。「しかも」――人の目には誉れある死でも、尊い死でもありませんでした――「十字架の死」――「それゆえ」(十字架の死というこの理由により、これを根拠に、このために)「神もまた、彼を高く上げて、あらゆる名にまさる名を彼にお与えになりました。それは、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものが、イエスの御名の中で、すべてひざをかがめるためであり、そしてすべての舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」。キリストの至高性の根拠は、彼がなさった御業の比類なさと卓越性なのです。

私たちの卓越した地位

さて、この手紙の三番目の点に進みます。これはまったく栄光です。この偉大な客観的現実と、キリストとその御業の至高性により、私たちの心は感動するにちがいありません。しかし、どうやってその中に入るのかを見なければなりません。一、二の節が助けになるでしょう。コロサイ人への手紙二章一二節を見ましょう。「あなたたちはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、キリストを死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストと共によみがえらされたのです。あなたたちは違反により、また肉の無割礼により、死んでいましたが、神はあなたたちをキリストと共に生かし、私たちのあらゆる違反を赦して下さいました」。「もしあなたたちがキリストと共に死んで」――「もし」を省いて肯定文にしてもかまわないでしょう――「あなたたちはキリストと共に死にました」。「もしあなたたちがキリストと共に復活させられたのなら……」。パウロは前に、「私たちはキリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた」と述べています。これを二重の肯定として取ることができるでしょう――「あなたたちはキリストと共に死にました」、「あなたたちはキリストと共に復活させられました」。「……上にあるものを求めなさい。キリストはそこで神の右に座しておられます」。右手は常に栄誉と権威の場所であり、キリストはそこにおられます。「なぜなら、あなたたちは死んだのであり、あなたたちのいのちは、キリストと共に神の中に隠されているからです」。「互いに偽りを言ってはなりません。あなたたちは古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって、全き知識に至るよう、新しくされつつあります。その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人はありえません。(中略)キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」。これが、これまで述べてきたことの恩恵にあずかる道です。この十分な結果に至るまで、キリストの御業を貫き通すことが必要です。すべての支配と権威の領域において、暗闇の権威の領域において、キリストの絶対的勝利の十分な結果に至るまでです――言っておきますが、この十分な結果に至るまで彼の御業を貫き通すことが必要なのです。罪の赦しは大いなる祝福であり、私たちの罪の贖いは大いなる祝福であり、最後に地獄から救われて天に行くことは大いなる祝福です。私たちは一瞬たりともそれらを軽視しませんし、それらの偉大さや荘厳さを減じることもしません。なぜなら、それらは無限の代価を払って私たちのために買い取られたからです。しかし、ふたたび言いますが、私たちは十分な結果に至るまでキリストの御業を貫き通す必要があるのです。そしてその十分な結果は、支配と権威の領域に、暗闇の権威、暗闇の支配の領域に及ぶものなのです。これは単なる罪(複数)の赦しや罪(単数)からの救いの問題ではないことを、罪人が知ることが重要です。罪人は知らなければなりません。救いにより、敵であるサタンの権威、支配や権威の権限は、すべて滅ぼされ、打倒されたのです。そして、サタンのあの権利、あの権威、あの合法的支配から、罪人たちは救い出されました――なぜなら、この御言葉がそう述べているからです――キリストにより、その十字架によって、救い出されたのです。これは、サタンにはもはや何の権利もないので、何の権威もないことを意味します。サタンの権威はサタンの権利に基づくものであり、サタンの権利は私たちの心の状態に基づきます。十字架はこの状態を取り扱い、サタンの権利の根拠を滅ぼし、除き去って、サタンの権威を打ち破ります。これを最後まで貫き通しなさい。今や、キリストにあるものはすべて私たちのためです。キリストご自身が敵に対してご自分の至高性を体現しておられます。なぜなら、キリストの中には敵の足がかりとなる根拠――敵がその上で野営し、合法的権威を築き上げ、束縛するための根拠――が何もないからです。キリストの中にはそのような根拠はまったくありません。私たちが信じる時、キリストは私たちの内におられます。すでに指摘したように、信仰によってこれを理解するなら、サタンの権威は打ち破られます。なぜなら、私たちの内にはキリストがおられるからです。私たちの内にはキリストがおられ、キリストの中にはサタンの権利の根拠はまったくありません。罪から解放されるだけでなく(ふたたび言わせて下さい)、サタンの権威からも解放されること、これは途方もないことです。「神が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか?」「キリストは死んで、さらに復活させられました」。この意義は何でしょう?訴える者が来て、私たちを訴えようとします。私たちの返答の根拠は何でしょう?おお、私たちの返答の根拠は、「キリストは死んで、さらに復活させられました」です。罪に対して、またサタンの権威のあらゆる根拠に対して勝利されたキリスト、これが敵の訴えに答える道です。あなたや私は決して自分で敵に当たることはできません。毎回、敵は最高の論陣を張るでしょう。しかし、私たちが敵にキリストを示すことができるなら、敵に何ができるというのでしょう?「……この世の君が来ます。彼は私の中に何も持っていません」。これは主イエスの御言葉です。敵に何の権威があるというのでしょう?キリストの死と復活により、敵の権威はすべて滅ぼされました。「神が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか?」「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」。あなたはこれを理解しておられるでしょうか?これが神が設けて下さった備えです。私たちがキリストをもっとよく直ちに理解してさえいれば、これが勝利の道であることを見いだしていたでしょう。勝利を私たちの内で実際のものとして下さる聖霊の御業は、何に基づいているのでしょう?良くなろうとする私たちの努力に基づいているのではありません。私たちが良くなろうと努力している時、聖霊は決して私たちを助けて下さいません。私たちは永久に努力し続け、努力しながら死ぬかもしれません。「救われる道、聖別される道は努力である」と思っているなら、聖霊は私たちを助けて下さいません。聖霊は何と協力して働かれるのでしょう?私たちの完全であり、私たちの救いであるキリストを、私たちが信仰によって理解して、自分のものとすることです。「おお、そうなのですが、私たちは罪深く、問題がたくさんあります。私たちは自分の実際の状態に対して目を閉ざすべきなのでしょうか?」とあなたは仰るかもしれません。あなたはキリストに対して目を開かなければなりません。自分自身や自分自身の罪を見ることをやめて、あなたのために神に至る完全である主イエス、あなたに対する神からの完全である主イエスを見つめなさい。あなたが信仰によって彼を取る時――「問題は私がいかなる者かではなく、おお、主よ、あなたがいかなる御方かなのです」――「私自身は悪い者です。『私の中に、すなわち私の肉の中には、善なるものが宿っていません』。しかし主よ、あなたは私の救い、私の義、私の聖、私の聖別です。私はこうしたものをすべて求めてあなたにすがります」――聖霊は私たちにこれを適用して下さいます。聖霊の活動の根拠は、私たちのキリスト理解なのです。これが解放の道です。

罪人のための脱出路であるキリスト

みじめな人が叫ぶのを聞いて下さい。「私は、自分でしたいと思うことを行わないで、かえって、したくないことを行っています」。この浮き沈みの生活、決意しては失敗する生活のすえに、彼は叫びます。「私はなんとみじめな人でしょう!誰が私を救い出してくれるのでしょう?(中略)私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」。みじめな人のための脱出路は何でしょう?キリストを理解することです。「今日は良くなろう」と決意し、その日の終わりに戻ってきて悔い改めざるをえないような、苦闘、決意、努力ではありません。そうです!脱出路と勝利の積極的根拠は、信仰によってキリストを握ることなのです。この道を試しなさい。神は御子を尊んでおられ、御子を信じる私たちの信仰を尊んでおられます。「キリストは死んで、さらに復活させられました」。キリストは勝利しておられます。「あなたたちの内におられるキリスト」「……すべての支配と権威のかしら」。これが救われていない人が必要としている事実です。この力に基づいて回心していれば、最初から私たちはもっと強い信者になっていたでしょう。最初救われた時にこれを知ってさえいれば、長い年月の末に私たちに臨んだものの中に、私たちは飛び込んでいたことでしょう。おお、完全な救いの宣べ伝えが必要です!キリストの御業をその十分な結果に至るまで伝えるなら、あなたはまったく別の種類の回心者を得るでしょう。「あなたの罪は赦されます。そして、あなたは地獄ではなく天に行きます」――多分これよりもう少し多くのこと――だけではありません。完全な救いはこれよりも無限に優ったものなのです。私たちがキリストの完全な御業を宣べ伝えてさえいれば、私たちの得る回心者たちはもっと速く先に進んでいたでしょうし、現在の大多数よりも遙かに早く成熟に達していたでしょう。そして、私たちの大会のほとんどは全く必要ないことに、私たちは気づいていたでしょう。なぜなら、大会のほとんどは、本来なら回心の時に達しているべき地点に、私たちを至らせるものだからです。

伝道者はこれを知る必要がある

信者にはこれが必要です。働き人、福音伝道者、人々と関わっている人にも、これが必要です。これを宣べ伝えるなら、もちろん、あなたは人気者の伝道者にはならないでしょう。地獄があなたに立ち向かい、主の民の多くがあなたに反対するでしょう。前にもましてこれがよくわかるようになるでしょう。しかし、これが必要なのです。異教徒の例を考えましょう。異教徒の場合、はっきりしていて、明らかです。しかし、啓蒙された文明的な人々にも、同じことがあてはまります。ただ、あまりはっきりとはしておらず、文明や膨大なクリスチャン伝統によって覆われているだけです。しかし、異教徒の場合、とてもはっきりしています。異教からの多くの回心者たちが抱えている問題は何でしょう?彼らは罪の赦し、罪からの救い、主イエスを信じる信仰に関しては、かなり進んでいます。しかし、おお、霊の世界、悪霊、暗闇の権威の恐怖が彼らにつきまとい、彼らを追跡し、追いかけます。この恐怖が彼らを追撃し、非常に多くの場合、彼らを引きずり倒して、ふたたび束縛の中に連れ戻してしまうのです。これを恐れる恐怖、父祖たちの伝統から抜け出す行動の結果を恐れる恐怖、そして霊の領域での結果を恐れる恐怖のせいで、何が彼らに起きるのでしょう。何が彼らを襲うのでしょう。彼らはふたたび恐れの虜になり、道を離れ、逆戻りしてしまうのです。

「私たちを暗闇の力(原文、権威)から救い出して、愛する御子の王国の中に移して下さった」御方を最初から聖霊の力によって彼らに宣言し、これを取り入れていれば、私たちは別の結果を見ていたでしょう。これを彼らのところに持って行って下さい。

愛する人たち、異教の国々と同じように、この国にも同じことが言えます。しかし、すでに述べたように、それには覆いがかかっています。暗闇の権威は、異教の国々と同じように、ここでも現実です。同じ福音が必要なのです。人々の背後にいる霊の軍勢に対してキリストのカルバリの御業の衝撃力を打ち込まない限り、完全な解放が成し遂げられることはないことを、あなたは見い出すでしょう。敵は私たちをふたたび恐怖の虜にしようとしていますが、それがどういうことか私たち信者は承知しています。暗闇の権威は私たちにとって非常に現実的です。私たちには経験があります。もし彼らに降伏するなら、私たちはおしまいです。敵は暗闇の権威で私たちを侵害しようとします。もしそれに屈服し、降参し、それを受け入れるなら、私たちは打ち負かされます。私たちが主のものであるなら、キリストは内におられ、キリストは至高です。それをまったく感じていなかったとしても、またとてもひどい気分だったとしても、私たちは前進しなければなりません。自分には到底告白できそうになくても、私たちはそれを告白します。なぜなら、それは神の事実だからです。そして、神の事実を証言し始める時、私たちは勝ち進むのです。敵は信者たちに暗闇の権威を受け入れさせようとしますが、それがどういうことか信者たちは承知しています。神の真理の上に立ちなさい。神は私たちの感覚と共に変わることはありません。神は私たちの意識と共に変わることはありません。私たちのこの人生全体は移ろいゆくものであり、天気の変化よりも速く移り変わります。しかし、神は移ろうことなく、変わることなく、治めておられます。キリストは「昨日も今日も永遠に同じ」です。もしキリストが内におられるのなら、キリストが来て下さっているのはとどまるためです。そして、勝利は信仰によります。これを信じ、この上に立ち、これを握りなさい。キリストは万物の主であり、「すべての支配と権威のかしら」です。この最後の完全な結果に至るまで、私たちはこれを貫き通さなければなりません。サタンは時々、「自分は卓越した地位にあり、至高の地位にある」と私たちに信じさせようとします。しかしカルバリ以降、そうではありません。私たちはそこに立ちます。

主は、あらゆる領域で至高である愛する御子により、私たちに新たな喜びを与えて下さいます。

我らの目のきらめきと感謝の輝き
喜びと改悛、確信と静けさを帯び
全生涯を通して、また生涯の後も
感動して絶え間なき賛美の歌に至る
しかり、生と死、悲しみと罪を通る時も
これまでと同じく、キリストは私に対して十分な御方
キリストは初めであったがゆえに終わりであり、
キリストは終わりであるがゆえに初めなのです。