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第2章
十字架と聖霊


「イエスはバプテスマされると、直ちに水から上がられた。すると見よ、天が彼に開かれた。そして彼は、神の霊が鳩のように下って、ご自分の上に来るのをご覧になった。」(マタイによる福音書三章一六節)

「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。なぜなら、『木にかけられる者はみな呪われる』と書かれているからです。それは、アブラハムの祝福がキリスト・イエスにあって異邦人に及ぶためであり、私たちが信仰を通して、約束された御霊を受けるためです。」(ガラテヤ人への手紙三章一三、一四節)

いま取り組もうとしている問題は、十字架と聖霊です。最初に言っておきますが、これは聖霊のパースンと働きに関する論文ではなく、聖霊とキリストの十字架の関係をおもに強調するものです。

御霊によって働かれる神

この問題に直ちに取りかかる前に、覚えておくと助けになる予備的事項がいくつかあります。それは一般的性格のものです。第一に、聖書がとてもはっきりと示しているように、神がご自分の包括的御旨のある面を実現するために動かれる時はいつも、彼は御霊の媒介によってそれをなさいます。神が何かを生じさせるために着手される時はいつも、神の霊がその知恵、その力、そのエネルギー、その創始者、その継続者、その完成者です。聖書をざっと眺めただけでも、これは誰の目にもきわめて明らかだと思います。

私たちはこれを創造において、すなわちこの世界の創造において見ます。神の霊が媒介者としてそこにおられ、行動を開始し、推進されます。この宇宙的秩序を生じさせることに関して、神の霊が常に臨在しておられます。

イスラエルの歴史や生活についても、同じことが言えるのがわかります。彼らの生活と彼らの生活様式はすべて、神の霊の事柄でした。神の霊は彼らの先祖たちと共に働き、火と雲の柱として彼らをエジプトから導き出し、彼らを荒野で養われました。彼は、キリストのあの偉大な象徴――幕屋――を組み立て、作成し、構成するために、彼らの中の人々に賜物を賦与されました。ベザレルとオホリアブは、幕屋に関するあらゆる種類の働きのために、神の霊によって特に賜物を賦与された人々でした。他の多くの点や関連からも、神の霊がイスラエルの生活や歴史に関するこのあらゆることの責任を負っておられたことがわかります。神は御霊の媒介により、ご自分の御旨、あるいはご自分の偉大な御旨の特定の面を成就されたのです。

これらに言えることは、主イエスの生活や働きの場合にも言えることがわかります。主イエスは聖霊から生まれ、御霊によって油塗られました。そして務めを行い、教えを説き、働きを遂行されました。これはみな、御霊の油塗りによりました。そして最終的に、「永遠の御霊を通して」傷のないご自身を神にささげられました。ここでもあらゆる点で、神は御霊によってご自分の働きを遂行しておられます。

次に教会に進みます。代々にわたる神の御旨のこの偉大な面もまた、聖霊の御手の中にあることが十分明らかになります。教会は聖霊によってペンテコステの日に生み出されました。そしてその時から、すべては御霊に委ねられ、御霊がすべてを遂行しておられます。

教会について言えること、その召命、その使命、その目的について言えることは、聖書によると、そのすべての構成員、すべての個人にも言えます。神の子供の生涯はみな、御霊から生まれて、御霊により開始されます。次に御霊の導きの下で、主のあらゆる御旨、御思い、道に導かれ、御霊によって完成されます。救い、聖化、栄化は、すべて神の霊によります。

これがとても初等的な考察であることは承知しています。にもかかわらず、これは基本的なことです。なぜなら、「人は神の御旨を実現するための、道徳的、知的、霊的資質を自分の内に持っていない」ということがその前提だからです。もし神の御旨を実現することが人に可能だったなら、神の御霊は来臨する必要がなかったでしょう。しかし、御霊が来臨されたということはまさに、「神がご自分の働きをなさねばならず、さもなければ、それは決して成就されない」ということ――「人は神の偉大な御旨の一片すら全く実現することができず、御霊なしでは、そのどの部分も決して実現されない」ということの、神聖な一大宣言なのです。これが、神の霊が神に属する事柄の責任を常に負っておられることの意味です。なぜなら、この領域では人は何もできないからです。

ですから聖霊の降臨は、神ご自身が降臨して、新しい霊的創造、霊のコスモス(私はこの言葉が大嫌いですが、この言葉は「世」よりも多くの意味を持っており、創造物以上の何かを意味しています。それは秩序立った体系です)を推進し、構成し、完成される、ということに他なりません。聖霊なる神が降臨されたのは、新しい秩序立った霊の体系、霊のコスモス、全く霊の性質に属する事柄――そこでは、自然の物理的な事柄は影、型にすぎません――を推進し、構成し、完成するためなのです。

キリストは包括的な霊の体系である

さて、この霊の秩序、体系、摂理の型は、神ご自身の御子であるイエス・キリストです。キリストは巨大で包括的な霊の体系であり秩序です。これは、「彼はひとりの人、個人ではない」ということではなく、「彼は何かそれ以上の御方である」ということです。彼のパースンは、この巨大な包括的体系――神の御思い、神の要素、神の法則、神の原理、神の性質の体系――を体現しています。この物理的宇宙は法則や原理から成る巨大な体系であることを私たちは知っており、ますます学びつつあります。それは巨大なひとまとまりであり、相互に関連し、相互に依存し、作用や力や流れによって一緒に動き、驚異的な秩序や調和を持つものとして結ばれています。自分自身の独立した道を行くものは何一つなく、関連していないものは何一つなく、他のものによって影響を受けないものは何一つありません。一つの素晴らしいまとまりです。この物理的宇宙を知るには、一生それに費やしても足りませんし、一生かけて学んでも足りません。現在の地点に達するだけでも、始祖以降のあらゆる世代が必要だったのです。しかも、最高の知識人が認めているように、この宇宙についてまだわかっていないことに比べると、現在の知識はそれに遠く及ばないのです。何がまだわかっていないのかを知っている人々の著書を数冊読むなら、この宇宙の距離や早さ、光の進む速さ等について読むなら、あなたは目眩めまいがするでしょう。それは巨大な秩序です。それを理解するには、一生かけて学んでも足りません。

しかし、私の親愛なる友よ、すでに述べたように、この物理的宇宙は霊的宇宙の象徴、型にすぎません。キリストは宇宙です。霊的法則、霊的原則、霊的力の宇宙です。キリストは巨大な統合体であり、素晴らしい調和です。あなたがこれを把握し始めるとき、使徒たち自身が主を知るために熱心に取り組んでいた時、彼らが何を見ていたのか、あるいは何を見始めていたのかを、あなたは理解し始めます。「それは私が彼を知るためです」(ピリピ人への手紙三章一〇節)。「私は、私の主キリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、すべてのことを損失であると勘定します」(ピリピ人への手紙三章八節)。キリストを学ぶ生涯の最後の時であるにもかかわらず、また、人が口にすることを許されていない素晴らしい啓示を天で受けた後であるにもかかわらず、彼は依然として、「それは私が彼を知るためです」という途方もない探求に取り組んでいるのです。

次に、「主をさらに知りなさい」「主を知る知識に進みなさい」という促しが信者に対して絶えずなされ、ますます強まっていきますが、その理由がこれからわかります。また、ある小さな前置詞の意味もわかります。この前置詞はとても印象的だと思います。それは知識、キリストを知る知識、神を知る知識、主を知る知識について述べているだけではありません。彼らは「グノーシス(gnosis)」というこの語をしばしば用いているだけでなく、後でわかるように、さらに進んでから「エピグノーシス(epignosis)」というこの組み合わせを導入しています。「私たち全員が完全な知識に達するまで……」(エペソ人への手紙四章一三節)。今や単なる「知識」ではありません。これは知識の豊かなエペソ人に書かれています。(この単語のこの特別形の用法を調べるなら、それがとても印象的であることがわかるでしょう。なぜならそれは、霊のいのちがかなり成熟した段階をも超えた所に、信者を連れて行こうとしているからです。)ですから、彼らは自分自身探求し、聖徒たちをも促します。なぜなら、彼らは聖霊の啓示により、キリストのこの巨大な包括性を幾らか垣間見たからです。彼は宇宙であり、霊的に新らしい全く別の体系です。誰がそれについて何か知っているでしょう?私たちはキリストについて何を知っているのでしょう?私たちは長年主の民だったかもしれません。私たちは長く生きれば生きるほど、そして、キリストに属する事柄とますます関係を持ち、ますます接触するほど、ますます自分の無知に圧倒されるようになります。なぜなら、キリストは広大な土地であることを、ますます理解するようになるからです。彼は私たちを遙かに超えており、私たちは彼を理解することができません。「兄弟たちよ、私は自分が理解したとは思っていません」(ピリピ人への手紙三章一三節)。これを言っているのは、自分の行程の終わり近くにあるパウロです。「私は求めています」「それは私が彼を知るためです」。たしかに、キリストは神の御思い、神の法則、神の原則、最高に実際的な性格を帯びているあらゆるものの宇宙です。私はこの文章を強調したいと思います。なぜなら、私が述べていることは何かとても抽象的だと見なされるおそれがあるからです。

しかし、類比、型に戻りましょう。この物理的宇宙の中にあるものは抽象的でしょうか?実際的な意味や価値はないのでしょうか?活動しているこのような力や法則こそ、この地球上での生活を可能にしているものであることを、私たちは知っています。天体がこの地球に及ぼす影響がなかったなら、何が起きるでしょう?海の潮流は天体によって支配されています。潮が海岸に満ちる時はいつも、それは天にある巨大な支配的物体への応答です。潮が引いて遠のく時はいつも、それは天の力に従っているにすぎません。潮には価値があり、何らかの意味があります。他の多くのことも同様です。この地球上における私たちの生活は、この秩序ある宇宙と外界から働く影響のおかげで可能なのです。このキリストの宇宙の中に生き、神によって定められた偉大な目標に到達するには、キリストの法則に応答すること、キリストの影響に反応すること、このようなことに関する知識が必要です――なぜならこの領域では、私たちがこのようなことを知ること、私たちがキリストにあって理解力を持つこと、私たちが賢くあることが、神の御旨だからです。この物理的宇宙について言うと、そこから恩恵を引き出すのに、私たち全員が科学者になる必要はありません。そのようことをまったく理解していなくても、私たちは毎日恩恵を受けています。しかし霊の領域では、私たちが知識を持つことが神の御心なのです。

聖霊によってキリストの偉大さを見ること

このようなことはみな、私たちを聖霊に関する事柄全体に至らせます。結局のところ、私たちはキリストについて何を知っているのでしょう?彼を私たちの救い主、私たちの贖い主、私たちの主、私たちの大祭司、高き所におられる私たちの弁護者として知っていたとして、結局のところ、私たちは彼について何を知っているのでしょう?何も知らないのです。パウロはこれらのことをすべて知っていましたが、ここでは何も知らない者として語り、行動しています。なぜなら、まだ知らないことがすでに達した知識を遙かに上回っていたからです。私たちは何も知らないのです。

しかし、御霊の降臨、御霊の到来は、次の事を目標としていました――その目標とは、私たちをこの巨大な宇宙(それはキリストです)の中に、この素晴らしい霊の体系の中に、キリストを体現する事物の秩序の中に導くことであり、また、私たちにキリストの意味を知らせ、その知識を絶えず発展成長させることです。私がこれを考えた時、これが私に臨んだ時、それは私の心に凄まじい印象を与えました。しかし、自分が受けた印象を伝えきれていないことを私は承知しています。私はこれらの使徒のずっと後に立っていますが、彼らの言うことを聞くと、「この人たちは明らかに何か途方もないものをキリストの中に見たのであり、その結果、自分の理解や自分の達成に満足する霊的満足の性質を帯びたものは、彼らの生活の中から一掃されてしまったのである」という印象を第一に受けます。彼らは自分が垣間見たものによって、知りうるものをすべて知るべく全力を尽くす人になりました。それは彼らが知識欲旺盛な探求心の強い人だったからではなく、「この知識は自分の生活において、また、からだ、キリストのからだ、彼の教会と関係する自分の生活において、神の御旨の完成に至るものである」ということを見ていたからです。教会とその構成員がキリストの偉大さを垣間見ない限り、教会は決してその実現に至ることはありませんし、教会の個々の構成員も決して成長することはありません。霊的成長の道は聖霊の啓示によってキリストの偉大さを垣間見ることです。これがパウロがこう祈った理由です、「あなたたちの心の目が照らされて、彼の召しの望みがいかなるものか、聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富がいかなるものか、また信じる私たちに対する彼の力の卓越した偉大さがいかなるものか、あなたたちが知ることができますように」(エペソ人への手紙一章一八〜一九節)。彼が「彼を知る『エピグノーシス』(epignosis、完全な知識)を得させ、知恵と啓示の霊」をあなたたちに与えて、あなたたちがこれを知ることができますように。キリストがいかに巨大であり、いかに偉大であるかを新たな方法で見ること――これが教会が成長する方法であり、聖徒たちが増し加わる方法なのです。

神の民の間に今日存在しているあらゆる必要の中で、最も必要度の高いものの一つは、ちっぽけなクリスチャン生活で満足してしまう霊的満足から解放されることです。これにあなたは同意されるでしょうか?彼を知ろうとする本当に十分な探求に欠けているのです。これは悲しいことですし、悲劇的なことです。ああ、これを和らげ、覆うことがおそらく必要です。「自分は知ることを願っており、進むことを願っています」と言う多くの人がいます。しかし、彼らの探求、彼らの願いは、使徒パウロの場合と同じ性格、同じ性質のものではありません――「私は、私の主キリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、すべてのことを損失と勘定します」。すべてのことです。

多くのクリスチャンやクリスチャンの働き人に関して、もしあなたが彼らの働き、彼らの組織、彼らの体系、彼らの属している宗教的事柄に触れるなら、あなたは恐ろしい抵抗にあいます。主への愛慕からではなく、このようなものへの執着から、偏見や疑いといったものが生じます。人々が主を慕い、主だけを求めさえするなら、現存するあらゆる偏見や疑いの九五%は除かれるでしょう。偏見や疑いを生み出すのは、このようなものなのです。私たちは自分の事柄を落とし、主だけに関心を払う必要があります。いかなる状況においても、「これは何らかの方法でキリストの度量の拡大に貢献するだろうか?」という問いが私たちの唯一の問いでなければなりません。もし貢献するなら、私の心はそれに賛同します。それが現存する制度にどんな影響を及ぼすかは問題ではありません。もしそれが私たちの知らないキリストを知る知識に至りうるなら、それは重要です。重要なのはキリストです。私たちの教会、私たちの交わり、私たちの伝道、私たちの組織、私たちの伝統ではなく、キリストです。彼は大いなる拡大と解放の要因です。私たちを束縛しているもの、私たちを小さく、卑しく、取るに足りない、気むずかしい者にしているのは、こうしたことです。キリストは解放して下さいます。キリストは拡大を与えて下さいます。ああ、彼を見なさい!ああ、シバの女王のように私たちも御霊によって導かれることができますように。彼女は導かれてソロモンの王国、彼の栄光、彼の食卓、彼の僕を示されました。ついに、彼女は息をのんで言いました、「私はあなたの事績とあなたの知恵について聞き及んでいました。しかし、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、それを信じませんでした。けれども驚いたことに、私はその半分も知らされていなかったのです」(列王記上一〇章七節)。しかし、ソロモンよりも大いなる方がここにおられます!あなたや私に必要なのは、聖霊による内なるキリストの啓示から来る、あの拡大です。そして、私たちは解放されます。私たちが彼をもっとよく見るようになるにつれて、このような他のものはあるべき所に収まるようになります。

ですから、これこそまさに聖霊来臨の意味です。もう一度言いましょう、私たちは何を知っているのでしょう?私たちの知識は何とちっぽけなのでしょう!ああ、しかし、神はこれを知っておられ、神の霊が来臨されました。何のためでしょう?私たちに奉仕するため、私たちが用いるためでしょうか?そうして、私たちに優位性、重要性、名声、誉れを与えるよう、利用されるためでしょうか?ちがいます。彼が来臨された目的は、神の御子を聖徒たちの中に絶えず豊かに増し加えること、キリストを教会の中で神がご覧になっている通りの方にすることであり、これ以外にありません。それは彼が教会の中で、「すべての中ですべてを満たしている方の豊満」となるためです。これが聖霊来臨の目的です。聖霊を持つとき、私たちは何という嗣業を持つのでしょう!――「御霊は私たちの嗣業の保証です」(エペソ人への手紙一章一四節)。嗣業はすべて聖霊と密接に関係しており、聖霊によって保証されます。御霊を持っているなら、その豊かさは潜在的にすべて私たちのものです。

さて、私たちは御霊から教わらなければなりません。聖霊は書物や手引き書のようなものから私たちを教えるのではありません。彼は、たんなる講演、講話、講義によって、私たちを教えるのではありません。そのような言葉によってではありません。聖霊は実際の経験によって教えるのです。そして、キリストを教えるための聖霊の道具は、キリストの十字架です。聖霊がキリストの十字架を私たちの内で実際のものとされない限り、あなたや私は何も学ばないでしょう。私たちは間もなくこれに来ます。

キリストの統一性

私はまず、キリストの偉大さ、キリストの巨大さ、そして、「聖霊はこの偉大さを教会の中にもたらすために来られた」という事実を強調しました。これと密接に関係している細かい点がたくさんあります。私たちは、この物理的宇宙の法則、関連性、依存性、相互依存性に触れました。キリストはこれです。理解するのは困難ですが、キリストはこれです。次に、教会はキリストの再産出でなければなりません。それは、キリストのからだの中に相互関連性や相互依存性のこのような霊的法則がすべて見いだされるようになるためであり、からだのいかなる構成員も他の構成員に向かって、たとえ相手の距離や場所がどれほど離れていたとしても、「私はあなたを必要としません」(コリント人への第一の手紙一二章二一節)と言えなくなるためです。頭は足に向かって――足は末端の器官です!――「あなたは私から遠く離れているので、あなたには頼りません」と言うことはできません。それはありえません。「目は手に向かって、『私はあなたを必要としません』と言うことはできません」。近くても関係ありませんし、距離も関係ありません。この関連性がからだを一つの完全なまとまり、一つの完全な合一、一つの完全な調和に構成します。すべてが相互に依存しており、相互に関連しています。これがキリストです。「キリストも同様だからです」(コリント人への第一の手紙一二章一二節、ギリシャ語)。

御霊の領域では、この種のことが起きています。これを認識するには、もちろん、霊的知覚が必要です。自分の生活の近辺からはまったく説明がつかない私たちの霊的経験の大部分は、もしかすると、私たちから地理的に遠く離れた神の子供たちや神の子供に起きていることのためかもしれません。この世界の反対側で、ある人の生活の中に、あるいは主の民の一つの群れの中に、凄まじい戦いが起きているのかもしれません。御霊は一つなので、私たちはその戦いに巻き込まれ、何かを経過し、祈るように動かされます。こうして、その問題は一つの共通の問題になります。地理はそれとは関係ありません。非常に多くの場合、私たちは自分が通っている経験の意味を理解しません。自分の霊的経験の中に何かがあること、何かが起きていること、戦いが進行していること、圧迫があることはわかりますが、自分の身の回りにはその理由が見あたりません。今ここで見渡せる範囲内には、その原因は見あたりません。しかし、未解決の何らかの問題、どこかで霊的戦いが起きている何らかの問題があります。御霊は一つであり、からだも一つなので、私たちはその戦いと密接に関係しているのです。これが合一であり、キリストの調和です。これが新しい霊の体系である一つからだの法則の相互作用です。これがいかに真実か、これがどれほど実際的か、私たちの中には知っている人もいます。教会がこれに関する理解を持ち、その理解にしたがって生きてさえいれば、敵にとってどれほど打撃だったことでしょう!神の子供たちはなんと頻繁に、自分の経験、出来事、他の人の生活に起きていることを誤解してしまうのでしょう。敵は誤解を植え付けて、当事者たちを一つにして勝利のために協力させるかわりに、誤解によって引き離します。教会がこの霊の合一、この霊的相互関連性、相互依存性を見て、それに打ち込んでいたら、教会はこの宇宙の中でどれほど力あるものになっていたでしょう!これが霊の体系であり、キリストです。それは彼のからだの中に構成されなければならず、彼の教会の中に再産出されなければなりません。

あなたはこう言うでしょう、「教会全体に関する限り、それには望みがありません。それはとても美しい理想ですが、その実現の見込みはどうでしょう?」。私たちはそれをこのように片づけることはできません。私たちは戻らなければなりません。それはおそらく、私たち二人の間から始まるでしょう。そしてそれは、教え、勝利、理解の十分な基礎になるでしょう。神の二人の子供が完全に調和することですら、戦いの大きな理由になります。しかし、それが神に対してどれほど効果的かを理解して下さい!戦いが荒れ狂っているのはこのためです――それはただ、決定的な関係にある二人の神の子供を引き離すためなのです。サタンは常にこれを試みてきました。これをなすために、何ということが起きるのでしょう!

御霊のあらゆる働きの基礎である十字架

これは私たちを、これまで取り組んできた十字架と聖霊に至らせます。なぜなら、御霊のあらゆる働きの基礎及び扉は十字架だからです。旧新約聖書についてたとえ少ししか知らなかったとしても、あなたはこの二つを一緒にしているものをすぐにたくさん思い出すでしょう。型に戻ると、この二つが一緒にされているのを見ます。祭壇の上の火――祭壇は十字架の型であり、祭壇の上の火はいけにえを焼き尽くす御霊の型です。あるいはまた、出エジプト記一七章にある、打たれた石とほとばしる水――これも十字架と御霊です。新約に来ると、私たちの主がバプテスマをお受けになったヨルダン川は、彼の死と葬りと復活を型として示しており、直ちに天が開かれて、はとのような形をした御霊が彼の上に下る結果になります――これも十字架と御霊です。これを心にとめてイスラエルの国家としての出発点に戻ると、ほふられた小羊、注がれた血、その後ただちに責任を担う雲と火の柱があります――これは偉大な包括的実際である、カルバリとペンテコステです。常にこのようです。この二つは常に一緒です。ここに挙げたものは、神の御言葉の数ある中から一部を抜粋したにすぎません。神の御言葉は、この二つの緊密で不可分な一体性を示しています。

主イエスを見ると、ご存じのように、彼は聖霊についてはっきりとした特別な方法で話すのを、受難の前の晩まで保留されました。彼が慰め主の来臨について、また、その来臨が彼らにとって何を意味するのかを話し始められた時、十字架の影が彼の道を完全に覆っていました。また、自分の両手と脇腹、釘で貫かれた両手と裂かれた脇腹を示すことができるようになるまで、彼は「聖霊を受けなさい」(ヨハネによる福音書二〇章二二節)とは決して言われませんでした。バプテスマにおける彼の象徴的な死に際して御霊が彼の上に臨んだように、御霊は彼を実際の十字架に導かれました。彼は十字架で「永遠の御霊を通して傷のないご自身を神にささげられ」ました(ヘブル人への手紙九章四節)。必要とあらば、もっとたくさん集めて、この二つ――十字架と御霊――がどのように一緒にされているのかを示すこともできます。十字架は御霊に導き、御霊は常に十字架に戻ります。

なぜ、十字架は御霊の働きの基礎なのでしょう?ガラテヤ人への手紙三章の節がその答えを与えます。それは、呪いが存在しており、今や呪いが旧創造の上にのしかかっているからです。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました」。あるいは文字通り正確に訳すと、「私たちの代わりに呪いとなって」です。人類はもともと呪いの下にあり、聖霊は決して決して呪われたものの上に臨むことはできません。依然として呪いの下にとどまっている人に対して、御霊の約束は決して成就されることはありません。呪いは取り除かれなければなりません。なぜなら、塗り油は肉の上に注がれてはならないからです。「人の肉の上にそれを注いではならない」(出エジプト記三〇章三二節)。呪いは取り除かれなければなりません。キリストは私たちの代わりに呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。それは私たちが御霊の約束を受けるためです。御霊のために道を切り開くため、呪いの下にある状態や状況をすべて取り除くこと――これが答えです。そのために十字架が必要であり、私たちのために呪いとなられた御方との信仰による一体化が必要なのです。聖霊がある人の生涯の中で実際に働きを開始される時、その生涯の行程や歴史は、一面において、「肉は呪われたものである」ということを本人に痛感させるものになります。これは耳障りかもしれませんが、事実です。

この世界で、御霊を持っている人ほど、肉の呪われた性質をすぐに認めて承認する人はいません。肉がいかに呪われたものであるかに気づくことが、まさに栄光への小径です。これは一つの面です。紛れもなく、私たちの多くはこれをいくらか経験しています。聖霊は十字架の意味を確かに知らせて下さいます。その意味とは、「十字架は呪われた場所であり、私たちはキリストにあってそこにいる」ということです。道にある障害物は除かれなければなりません。

ここでガラテヤ人について使徒は言います、「あなたたちは御霊によって始めたのに、肉によって完成されることを望むのですか?」。この節をこう述べて、この質問をとても強い、とても恐ろしいものにしています。御霊によって始めたのに――始められるということ、前進の見込みがあるということは、あなたが呪いの外にあるということです――呪いの下に戻ることによって完成されると思っているのですか?いいえ、そんなことをすれば再び扉を閉ざし、将来をまったく断ち切り、前進の道を断つだけです。「あなたたちは御霊によって始めたのに、いま肉によって完成されるのですか?」。厳密には述べられていませんが、とてもはっきりと暗示されているのは次のことです。すなわち、御霊によって始まったからには、始めた時の立場に基づいて、ただ御霊によってのみ続けることができるのです。つまり、十字架により、あなたは呪いのあの立場を離れ、常に離れ続けるのです。言い換えると、始める時、十字架が導く地点に来る必要があったように、前進するには、その地点に常に居続ける必要があるのです。

しかし、御霊によって始めた時だけ、御霊によって続けることができます。これは呪い、古い人、呪われた古い人を取り除く十字架によってのみ可能でした。ですから、御霊によって続けるには、進み続けて御霊の目的、意図、目標に至るには、継続的な肉の切断、十字架による肉の切断の継続が必要です。ですから、御霊は常に十字架を明確に示されます。そして、十字架は御霊の御旨をすべて可能ならしめます。

私たちは自己の磔殺に携わってばかりいるべきではありません。聖霊がそれをなして下さいます。私たちは御霊によって歩まなければなりません。それには、御霊に従いさえすればいいのです。これは積極的なことであって、消極的なことではありません。

新約聖書の書簡の中で、御霊の手段である十字架が多くの面にわたって適用されています。その中のいくつかを見ましょう。最初は「ローマ書」です。

十字架と罪深い肉の体

七章に至るまで、すべてが十字架の周囲を巡り、十字架を中心としています。十字架は大いなる帰結であり、すべてがそこに至るよう定められています。使徒はこの頂点に至るために邁進します。この七つの章に記されていることはみな、六章三〜一一節、特に三、五、六節に述べられている立場を目的としています。「キリスト・イエスの中へとバプテスマされた私たちはみな、彼の死の中へとバプテスマされました。(中略)私たちは彼の死の様の中で彼に結合されました。(中略)私たちの古い人は彼と共に十字架につけられました。それは罪の体が無効にされるためです」。この立場が確立されて、私たちがその立場に立たない限り、御霊にあるいのちの啓示は示されません。しかしこれが基礎となる時、御霊の臨在と働きに関して、私たちはこれに続くものをすべて持ちます。

「神の霊があなたたちの中に住んでおられるなら、あなたたちは(中略)御霊の中にいるのです。しかし、もしだれでもキリストの霊を持たないなら、その人はキリストのものではありません。」(八章九節)

「キリスト・イエスにある、いのちの霊の法則が、罪と死の法則から、私を解放しました。」(八章二節)

「霊の思いはいのちと平安です。」(八章六節)

など。

ここで、次の事実が特に強調されています。すなわち、聖霊が信者の内に働くには、そして、信者が「からだ」(一二章)を真に知るには、罪の体(これはキリストの外にある人であり、罪深い創造物であって、裁きと罪定めの下にあります)はすべて――ましなものになるよう、矯正、治療、改善、教化されるのではなく――十字架につけられ、葬られなければならないのです。罪を除かれて、罪を赦されるだけでなく、その人自身も除かれなければなりません。人は神の視界から去らなければなりません。人の善(?)、人の悪もです。人はもともと、もはや神の御旨の光の中にない種族に属しています。神はこの種族を去り、「新創造」を造られました。復活したキリストは「多くの兄弟たちの間の長子」です。彼は「最後のアダム」です。これが意味するのは、新しい種族、新しい人類の最初の者として、彼は最終的な御方であり、他の者は必要ないということです。この「最後のアダム」は、復活によって「死者の中から最初に生まれた者」となる前に、後方に退かれました。そして、最初のアダムの全種族を集めて、代表者としてそれを神の完全な裁き――神にまったく見捨てられる裁き――に渡されました。「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか?」と彼は叫ばれました。これが、最初のアダムにある全種族に対する、神の究極的な御心です。「自分はキリストと共に死に、キリストと共に葬られた」ことを認識するように、そしてこの立場を取り、これを宣言するように、私たちは求められています。新約聖書が述べているように、これがバプテスマが行う宣言であり、バプテスマの際、これが宣言されます。

この問題全体に関して、述べなければならないことがまだたくさんあります。しかしそれを、「『ローマ書』にある立場は神の基礎であり、すべてを含んでいる」という包括的見解にまとめることにしましょう。聖霊に治められている生活は、古い人の終わりとしての十字架の意義に連れ戻されます。一つの基本的な転機があるでしょう。しかし何年にもわたって、最初の包括的立場に戻らざるをえないような、多くの危機が生じるかもしれません。また、私たちに耐える力があるなら、新たな問題が生じるかもしれません。十字架が確立する最終的立場、また聖霊の働きの目標である最終的立場は、次のような立場です。すなわち、すべては――どの方面、どの関係も――あらゆる点でキリストだけでなければならず、私たちであってはならないのです。こうして私たちは、コリント人への第一の手紙に記されている、十字架の次の特別な適用に導かれます。

十字架と生まれながらの人

ここでは、当事者はキリストの中にあります。「キリストの中で義とされる」ことに関する「ローマ書」の状況に関する限り、立場に問題はありません。彼らの立場は完全です。彼らはキリストを自分の身代わりとして受け入れています。問題は「彼らが肉の中にある」ことではなく、「肉が彼らの中にある」ことです。彼らは大部分、天然的な動機によって影響されており、動かされています。彼らの場合、霊の人を圧倒しているのは、生まれながらの人あるいは魂の人です。コリント人への第一の手紙の中の「生まれながらの」は、ギリシャ語では「魂の」です。使徒は、彼らの思い、心、意志が、聖霊によるキリストの思いの代わりに支配していることを指摘して、「魂的」であることの意味を説明しています。彼らの理屈、判断、考え、価値観――「この世の知恵」――は、非霊的で非キリスト的な振る舞いという結果になります。魂の命は最も霊的な領域にも入り込みます。たとえば、霊の賜物を自分の栄光のために用いたり、主の食卓を自己満足にしてしまうこと等です。こうして、「キリストにある」完全な目的に向かう彼らの歩みは遅くなってしまいます。彼らは霊的ではなく、「肉的」です。成長した者ではなく、「赤子」です。

これに関連して使徒は言います、「私はあなたたちの間ではイエス・キリスト、十字架につけられた方のほかは、何も知るまいと決心したからです」(コリント人への第一の手紙二章二節)。必要なのは、一般的な意味で私たちを救われた男女にする十字架の適用ではありません。魂の命が私たちの内で御霊のいのちを圧倒する時、私たちを自分の魂から解放する十字架の適用です。十字架は御霊の道を切り開かなければなりません。対処されるべきは、私たちの魂の命の支配なのです。

ガラテヤ人への手紙に来ると、私たちは十字架と聖霊の別の面に進みます。それは十字架と律法主義です。

十字架と律法主義

この手紙の中に御霊と十字架に関する節がどれほどたくさんあるのかを思い出して下さい。次の二つの一連の節を見て下さい――(a)三章二、三、五、一四節:四章六節:五章五、一六、一七、一八、二二、二五節:六章八節 (b)二章二〇節、三章一節、五章二四節、六章一四節。

それでは、この二つ――十字架と聖霊――の組み合わせの意味は何でしょう?ガラテヤ人たちは、「あなたたちは……しなければならない」「あなたたちは……してはならない」という古い律法の命令、宗教的規定や規則から成る体系の外面的要求、律法主義という拘束服に戻るよう促され、誘惑されていました。律法主義はユダヤ人だけでなく、恒久的な傾向です。それに陥ることは極めて容易です。御霊を持っている人でも容易に、他の人に律法を課して、「あなたはあれやこれをするべきです(するべきではありません)」「あなたはあれやこれをやめなければなりません(取り入れなければなりません)」と言い始めてしまいます。こうして、律法の束縛という拘束服が課せられることになります。そして、「最も必要なのは律法ではなく、御霊が内側で主となることであり、そうなる時、多くのものは落ちて行き、主が自分に何を求めておられるのか、本人にわかるようになる」ということが忘れられてしまいます。使徒がこの手紙で述べているように、これが子たる身分と自由の道です。内なる主は信頼できる御方です。人々の生活を支配するために、その上に手を置く必要はありません。ここではっきりと言っておきましょう。律法的抑圧や危機的問題の焦点とされるものは、ガラテヤ人へのこの手紙ではたまたま特に割礼でしたが、人やクリスチャンの儀式、形式、命令、遵守もそうなりえますし、しばしばそうなっているのです。そうしたものも重要かもしれませんが、次のことはどんなに強調しても強調しきれません。すなわち、実際のところ本当に十字架が生活の中に造り込まれて、伝統、一般受け、御霊から離れた文字にすぎないあらゆるものへの隷属から解放し、聖霊の絶対的主権を生活の中に確立するなら、そのようなものは最も重要なものに安らかに準じるようになりますし、なるようになって、(主が必要とされるものは)律法的な死んだ方法によってではなく、生ける方法で導入されるようになるのです。しかし、代々の遺物から解放した十字架の働きは、なんと力強いのでしょう!固定性や終着性は律法体系の特徴であり、霊的成長や拡大を不可能にします。愛のない義が致命的なように、いのちのない真理も致命的です。偏見や疑いは、何らかの宗教的事柄への隷属の結果であって、御霊の実ではありません。

最も完全な新約的秩序や枠組み、また御言葉の文字に対する最も熱心な忠誠があったとしても、いのちと油塗りにほとんど全く欠けていることもありえます。これは大抵、経験的な深い十字架の働きの欠如と、それによる御霊に対する妨げのせいです。

十字架と聖霊のこれらの面はどれも、一冊の書物になるほどの内容がありますが、ここでは要点を与えることしかできません。ここで、「エペソ書」「コロサイ書」として知られている一組の手紙に進むことにします。もっと正確に言うと、これらの手紙はある地域の諸教会への回覧状でした。ここでは、特別な適用は地からの解放と関係しています。

地からの解放

目的はキリストの豊満です。「コロサイ書」では、からだである教会のかしらとしてのキリストの豊満です。「彼は、教会であるからだのかしらです。(中略)それは、彼の中に全豊満が宿るためです」(一章一八、一九節)。「このキリストの中に、知恵と知識のすべての宝があります」(二章三節)。「彼の中に全豊満が宿っており(中略)あなたたちは彼にあって満たされています」(二章九、一〇節)等。

「エペソ書」では、豊満は教会の中のキリストにあります。「彼を万物の上にかしらとして教会にお与になりました。教会は彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」(一章二二、二三節)。「それは、あなたたちが満たされて、神の全豊満へと至るためです」(三章一九節)。「私たちすべてがキリストの豊満へと至るまで」(四章一三節)。

これはみな、「永遠の御旨」「御旨の計画」の対象であることが啓示されています。それは永遠の過去にまで遡り、「代々の時代」に至ります。それは広大で言い尽くせない神の御旨であり、すべての人がそれに達するわけではありません。使徒は教会のために、多くの労苦、苦しみ、苦闘といった代価を払いました(コロサイ人への手紙一章二八節〜二章一節)。

これに「達する」には、十字架の特別な適用と、それに続く聖霊の働きが必要です。これらの手紙で特に特徴的な句は「天上」です。「エペソ書」では五回記されており、その主旨は「コロサイ書」に続きます(参照、エペソ人への手紙一章三、二〇節:二章六節:三章一〇節:六章一二節:コロサイ人への手紙三章一、二節)。この句は霊的な地位、いのち、使命を意味することが示されています。文脈を見ると、それにはとても実際的な意味があることがわかります。もちろんそれは、特にからだである教会と関係しており、団体的です。しかし、からだについて言えることは、そのすべての構成員にもあてはまります。ですから、個人的な勧めがたくさんあるのです。あの「豊満」を強調することとの関連で述べられているその実際的意味は、天的であり、霊的です。ですから、主の民は――「救い」ではなく「御旨」に達しようとするなら――天的な線上に生きなければなりません。そうして、支配的要因である、地的なものにすぎない特徴を、すべて後にしなければなりません。たとえば、国民性があります。「ギリシャ人もユダヤ人もありえません」。私たち自身についても、また他の人についても、私たちはこの立場を離れなければなりません。もし私たちが国家的立場――これは国粋主義だけでなく、気質や性向をも意味します――の上に立つなら、霊的成長は妨げられるでしょう。同じことが社会的立場――「奴隷、自由人」、民族的・文化的立場――「未開人、スクテヤ人」、宗教的儀式――「割礼、無割礼」にも当てはまります(コロサイ人への手紙三章一〇、一一節)。

要点は、キリストは天におられるということです。彼は「からだのかしら」としてそこにおられます。キリストは本質的に、新しい人類を代表する天の人です。この分裂した、相争う、混沌とした、混乱した人類の代表ではありません。彼はそれとは別であり、異なっています。神聖な豊満は、このような御方である彼にあってのみ、知ることができるでしょう。私たちはあらゆる点でこの人類の立場を離れ、キリストの立場――そこでは「キリストはすべてのすべて」です――に基づいて生きなければなりません。

そうでないことをするのは、キリストをおとしめることであり、キリストを分割することであり、キリストを制限することです。

この天的な地位と豊満に教会を導くため、聖霊は来臨されました――教会は「一つからだ」として、分派や分裂を認めることも、それに耐えることもできません。そんなことをすれば、自分自身が滅びてしまいます。ですから、この一組の手紙では、聖霊についてたくさん記されているのです。参照、エペソ人への手紙一章三節(「霊の祝福」の代わりに「御霊の祝福」と訳されるべきです)、一章一三、一四、一七節:二章一八、二二節:三章五、一六節:四章三、四、三〇節:五章九、一八節:六章一七、一八節:コロサイ人への手紙一章八節。

しかし、この御霊の働きには、十字架が真に地と天の間に来ること、そして――それゆえ――霊的な真の理解力をもって、私たちがキリストと共に天で自分の地位に着くことが必要です。「キリスト・イエスの中で、私たちを彼と共に天上に座らせて下さいました」。

「エペソ書」では進んだ立場が示されているため、十字架はほとんど当然視されています。

「私たちは彼の血による贖い、すなわち違反の赦しを受けています」「信じる私たちに対する彼の力の卓越した偉大さ(中略)彼はその力をキリストの内に働かせて、彼を死人の中から復活させ」「あなたたちが死んでいた時(中略)あなたたちを彼と共に生かし、私たちを彼と共に復活させ」「あなたたちは古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」(エペソ人への手紙一章七、一九節:二章一、六節:四章二二、二四節)。

コロサイ人への手紙では、これはさらにはっきりしています(参照、二章一一、一二、一三、二〇節:三章三、九節)。

これらの手紙に示されているのは、巨大な啓示、「広大な土地」、無尽蔵の富です。地的な動機に基づいて生き、それによって動かされるようになるなら、私たちは自分をそこから締め出すだけです。ここでは、好意的であろうと、好意的でなかろうと、イギリス人、アメリカ人、中国人、ドイツ人などについて、差別的に話すことは禁じられています。社会的区別や、古い人類の他のいかなる特徴も禁じられています。もしそれが私たちの携わる領域であり、考慮すべき唯一の対象だったなら、私たちはかなり影響を受けていなければならなかったでしょう。しかし、キリストの権益の中で、また教会の中で、私たちはこれらすべてに対して十字架につけられています。そして私たちは今、ただキリストの立場に基づいて、信者と会うことを求めます。ただこうすることによってのみ、からだの建造が可能です。天然的構成と宗教的受容の両方に関して、主の民の間には他にもたくさん分裂の要因があります。十字架は万能の救済手段です。霊的豊満達成のため、神の霊は十字架を必要とされます。

さしあたって、私たちの最後の言葉はピリピ人への手紙からです。これは復活のいのちの頂点です。

十字架と御座

第一に、キリストの場合が例としてあげられています。「この方は、神のかたちの中に存在されますが(中略)ご自分を空しくし、奴隷の形を取り(中略)ご自分を低くして、死にまでも、しかも十字架の死に至るまでも従順になられました。それゆえ、神は彼を高く上げ、あらゆる名にまさる名を彼にお与になりました」(二章五〜九節)。

次に、「上に召して下さる栄冠」(三章一四節)と彼が呼んでいるものを、使徒が大いに切望しているのを見ます。これはまるで、ラオデキヤ教会の勝利者に対する招きや約束と同じに見えます。「勝利を得る者を、私と共に私の座に着かせよう」(黙示録三章二一節)。

これらの御言葉から明らかなように、(1)すべての人が「達する」わけではありませんし、(2)達するには十字架の特別な働きが基本です。十字架は私たちの「心構え」を対処しなければなりません。「この心構えを持ちなさい」。「自分自身を空しくし」。パウロの中にこの「心構え」が見られます。「私はすべての事を損失であると勘定します(中略)それらをちりあくたと勘定します」。キリストもパウロも、地位、権利、評判、利益といった個人的な「益」を、すべて御座に繰り入れました。これが十字架の道、十字架の働きでした。「死に至るまでも従順になられました」。「彼の死に同形化されて」。

これはみな、おおむね「心構え」の問題です。ピリピには、その「成長」や「達成」を実際に阻む状況が存在していました。それは「栄冠」に対する実際的脅威・威嚇であり、「上に召して下さる召し」に対する実際的挑戦でした。二人の人が一つ心ではありませんでした。衝突し、仲違いしていました。個人的利益や地的動機がこの軋轢の原動力だったようです。十字架がこの「心構え」を対処して、キリストの心構えのために道を開く時だけ、自分がキリスト・イエスに捕らえられた目的を理解する道が開かれました。サタンは、聖徒たちが御座に来るのを、ひどく邪魔します。あの御座とあの卓越した御名は、サタンの最終的破滅を意味します。自己に対する死とキリストに対する復活の結果ではない「心構え」だけが、あの神聖な「召し」を挫折させうることを、サタンは知っています。ですから、この御座結合の背後にはすべてがあります――「御霊は常に十字架によって働き、十字架は常に御霊に導く」という真理を、特別に累積的に適用する、「ローマ書」「コリント書」「ガラテヤ書」「エペソ書」「コロサイ書」「ピリピ書」があるのです。