前の章の最後で述べたことに続いて、支配たちや権威たち、この暗闇の世の支配者たち、そして天上にいる悪霊の軍勢の領域における、十字架の地位と意味に来ることにします(エペソ人への手紙六章一二節)。
ふたたび、私たちは次のことを心に留めなければなりません。すなわち、十字架がこの領域の中にもたらされるのは、教会にあってであり、教会によってなのです。教会の構成単位である個人がこの国を攻撃したり、それを覆そうという意図をもってその中に入ることは、常に危険です。キリストだけがこれをなしえます。あるいは、その征服者である彼に対してのみ、それは屈服します。繰り返しますが、キリストは団体的方法で示されます。この原則、その遵守・無視・違反と関係している、膨大な霊的歴史――輝かしい歴史と悲劇的歴史の両方――があります。これには頭首権の問題全体が含まれています。主は決していかなる個人にも、頭首権を預けたり、任せたりはされません。教会における独裁や個人支配は、教会の大原則――キリストの主権的頭首権――を積極的に破るものです。ですから、新約聖書の「監督」は常に複数形であって、決して単数形ではありませんでした。長老たち(複数)であって、長老(単数)ではありませんでした。権威に関する限り、それは団体的なものあって、個人的なものではなかったのです。
これは、新約の方式を堅く守れば、その結果、キリストの頭首権がすべての支配たちや権威たちに対して絶大な威力を及ぼすことになる、という意味ではありません。歴史は反対のことを示しています。しかし、この失敗はこの原則が間違っていることを示しているわけではありません。それはただ、方式よりも霊的立場の方が重要であることを示しているにすぎないのです。
しかし、私たちの主題について考えることにしましょう――この主題においては、そのような点は結果にすぎません。私たちがとてもはっきりとしていなければならない包括的要点は次のことです。すなわち、十字架の究極的地位は、十字架の起源たる領域の中にあるのです。十字架は、被造物の支配権をめぐる宇宙的戦いのまさに中心に据えられているのです。
被造物の支配権をめぐる宇宙的戦い
ここでは、「宇宙的(Cosmic)」という言葉を「地を超越した」という意味で用いることにします。それは地球、地球の周りの天、そして彼方を含みます。これは時間の外側の永遠であり、一地域の外側の宇宙です。そこには、贖いを超えた十字架の一つの面があります。贖いは第一に、時間とこの世に関係しています。それは人の罪と永遠の滅びに関係しています。しかし、贖いはサタンのためでも、「自分のおるべき所を捨てた天使たち」(ユダの手紙六節)のためでもありません。前者に関して聖書が最後に述べているのは、彼が火の池の中に投げ込まれて「代々の時代に至る」(黙示録二〇章一〇節)ということです。(同じ句が、教会における神の栄光に関して用いられています[エペソ人への手紙三章二一節]。一方は他方と対をなしており、同じ期間続かなければならないのです。)堕落した天使たちについては、「大いなる日の裁きのために、暗闇の下で永遠の鎖につながれており」(ユダの手紙六節)、「地獄へと(中略)暗闇の穴(鎖)へと投げ込まれ、裁きのために(救いのためではありません)閉じ込められています」(ペテロ第二の手紙二章四節)と述べられています。
被造物の支配権をめぐる宇宙的戦いについて私たちが話すのを聞いて、「無限の力強い永遠の神が戦いに巻き込まれるなんて、どういうことだろう。神は一言で、御腕の一撃をもって、ご自分の道を邪魔するものをことごとく消し去ることができないとでも言うのだろうか」と困難をおぼえる人がいるかもしれません。この知的困難を克服するには、創造は道徳的根拠に基づくことを思い出さなければなりません。創造において、神は道徳的条件をご自分に課しました。それゆえ、彼の着かれた地位では、道徳的根拠のみに基づいてその権威が働きます。ご自分の道徳的性質と一致する根拠を持つ時だけ、彼は救いのために介入されます。その根拠が明らかに手の施しようもないほど彼の道徳的性質に敵対している場合、彼の介入は裁きと滅びという結果になりましたし、これからもそうなるでしょう。神はご自分の道徳的完全性の根拠を御子であるイエス・キリストの中に用意して確保されました。そして、この根拠は御子を信じる信仰に対して与えられます。これが信仰による義の立場です。キリストと彼の中にある神の義を頑固に最後まで拒むなら、その人は別の領域に追いやられることになります。「こういうわけで、私たちは主を畏れることを知っているので、人々を説得するのです」(コリント人への第二の手紙五章一一節、この「畏れる」という言葉は強い言葉であり、実際には「恐れる」です)と使徒パウロが言った時、彼はこの領域のことを言っていたのです。権威と力を憐れみ深く行使するには、神はそれにふさわしい根拠を持たなければなりません。それと同じように、サタンも自分の権威を行使するには、自分の性質にふさわしい根拠を持たなければなりません。神からその根拠を取り去るなら、彼はあなたのために働くことはできません。神にその根拠を与えるなら、彼は動かれます。聖別による力の意義はすべてここにあります。「彼らの不信仰のために、彼はそこでは力あるわざをあまりなさらなかった」。同じように、サタンにその根拠を与えるなら、彼の権威が確立されます。彼の根拠を取り去るなら、彼は無力です。ですから、彼の王国を確立するための彼の狙いの一つは、堕落させることなのです。なぜなら、その時、神は救えないことを、彼は知っているからです。これは道徳的問題です。ですから、戦いが荒れ狂っています。この戦いは、職務上の個人的立場に基づく、ふたりの主権者の間の戦いではなく、義なる君主と不義なる君主のふたりの君主によって代表される、二つの道徳的秩序の間の戦いです。
この方面で、十字架は贖いを超えて進みます。そして、悪の軍勢が座を占めている領域で、十字架は教会を道徳的にも霊的にも権威ある立場に置きます。「十字架によって彼は勝利されました」。これは、十字架がサタンからその道徳的根拠を奪ったからです。
教会は天的なからだです。これは、教会は霊的にも道徳的にもサタンの領域の外にあることを意味します。「暗闇の権威から解放して(中略)愛する御子の王国の中に移して下さいました」(コロサイ人への手紙一章一三節)。教会は霊的権威を持つために、分離・聖別する力である十字架のあらゆる恩恵に浴して立たなければなりません。サタンの一つの狙いは教会を堕落させることです。支配たちや権威たちに対する格闘(エペソ人への手紙六章一二節)は、物質的なものではありませんし、有利な立場を得るためでもありません。この格闘は「悪魔の策略」に対してなのです。この策略は二重です:訴えの矢のための拠点を得ることと――これは信仰による私たちの義や正しさの否定です――地的で肉的な聖くない立場へと堕落させ誘惑することです。このことから、用意されている武具の霊的・道徳的性質がわかります。
教会は、救いと贖いの福音を、サタンの王国そのものにもたらすわけではありません。ただ、サタンに捕らわれている人のもとにだけもたらします。それは、解放されるのかそれともサタンと共にとどまるのか、彼らに選択肢を与えるためです。悪の軍勢に対して教会は立ちます。それは、十字架によるイエス・キリストの道徳的主権を表すためであり、彼にあって立つことにより権威を行使するためです。
その立場はこうです。世界が造られる前に、神は一つのかしらの下に全被造物を集めることを決定されました。そのかしらとは御子でした。これは永遠のご計画の中で決定され、取り消すことも変更することもできないものでした。単なる強制や機械的命令では決して最善に達し得ないこと、そして、最善に達するには信仰、愛、積極的聖潔(受動的無罪性ではありません)が必要不可欠であることを、神は御存知でした。また、悪の誕生と破壊的な体系の働きを、神は予見しておられました。そこで、神はその体系に対して究極的に勝利するために、「世の基の前から(文字通りには、世の基が置かれる前から)ほふられていた小羊」を備えて下さったのです。これはすべて予見されていたことでした。そこで、小羊は永遠から時間の中にやって来て、文字通り――潜在的にではなく――ほふられたのです。この死により、悪の力の根拠は取り去られ、「万物をキリストの内に」という当初の御旨とのつながりが回復されました。教会――選ばれたからだ――は十字架のこの根拠に基づいて生み出されました。キリストは「万物の上にかしら」となるために「教会に与えられました。この教会はキリストのからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」(エペソ人への手紙一章二二、二三節)。教会は出て行って、一時的な知覚できる世界の彼方に、サタンの霊の王国の中に、キリストの権利を打ち込みました。すると、効果があったのです!――しかし、それは霊的な天的立場から教会が落ちるまでのことでした。十字架は依然として教会の道徳的な戦闘斧であり、悪の体系は依然としてその投げ落とす力を感じることができます。教会は、
(1)十字架の意義
(2)十字架が教会に与える地位
(3)すべての武具を身につけて積極的に攻撃すること
に応じなければなりません。
私たちの目的は関連する問題を詳しく取り扱うことではありません。各々の問題はたやすく一冊の本になるでしょう。私たちが目的としてきたのは、キリストによる神の永遠の普遍的御旨全般における十字架の地位を指摘することです。
私たちの図に示されている領域が、あと一つだけ残っています。しかし、その考察に移る前に、力は立場の問題であることを二重に強調するため、この章にさらに付け加えることにします。
立場と力
紛れもなく、宗教団体の中で――特に福音団体の中で――今日もっとも頻繁に使われている言葉は「力」という言葉です。メッセージや祈りは、この言葉が基調をなしています。この言葉から発する動き、この言葉に向かう動きが常にあります。世界中どこでも同じです。
知らない言葉で話される話や祈りを聞いていると、ある言葉がほぼ単調に繰り返されます。尋ねてみると、それはこの言葉であることがわかります。しかし、これは驚くほどのことではありません。力の欠如や力の必要性は、様々な方法であらわにされ、告白されています。神の民の間にいる霊的な思いを持つ人によって、直接的に謙遜に告白されるだけではありません。工夫や機知に富んだ宣伝、「離れ業」、組織、促しなどの騒々しい見せかけによっても暴露されます。こうしたことは悲しいことに、本来の意図とは別のこと、すなわち、いのちの欠如をより多く表しているのです。
この問題をあらゆる角度から一般的に考察し始めるつもりはありません。基本的な一つの点だけを扱うことにします。これは聖霊を受けることよりも基本的なことです。この問題は聖霊との関連で扱われることはほとんどありませんが、この問題を扱わなければ、いかなる論文も確かに完全とは言えません。主は次のことを大いに明確にされました。すなわち、ペンテコステが到来するには、とても深くて力強いあることが起きなければならないのです。ペンテコステは原因であるだけでなく、実際の結果でもなければなりませんでした。始まりであるだけでなく、多くのことの結果でもなければなりませんでした。保証であるだけでなく、証印でもなければなりませんでした。ヨルダン川におけるキリストの油塗りに相当するものが彼のからだである教会の構成員の上に臨むには、彼の死の中へのバプテスマ、「罪の体」の葬りによる彼との結合が必要でした。彼の死は旧創造に対して扉を閉ざすことでした。最初のアダムは対処されて、もはやまったく神の顧みや承認を受けない地位に追いやられました。彼は死んだと勘定されました。そして、包括的な「最後のアダム」だけが神の豊富を受けることになりました。いにしえの神の僕たちが油を注がれた時代、その塗り油に関してとても明確なはっきりとした指示が与えられました。この聖なる油は決して人の肉の上に塗ってはならず、それに似たものを造ろうとすることも禁じられていたのです。
この油は常に聖霊の象徴です。そして、「肉」は「アダム」の古い堕落した性質の象徴です。十字架につけられていない男女の上に聖霊が臨むことを、神は断固として拒否されます。「彼の死に同形化されること」が、力に至る唯一の道です。力を求める私たちの動機は、すべて火によって試されます。私たちは個人的な影響力、人気、名声、威信、歓待、成功、示威、この世の王国に属するものを求めているのでしょうか?「自分の動機は完全に純粋である」と私たちは思うかもしれません。しかし、前述したものの一つまたはすべてに対して死に、「人々からさげすまれ、拒絶され」、自分の名を悪しきものとして捨てられ、(見たところ)働きが本当に行き詰まる時、その時はじめて、なぜ神の働きの中で自分が地位を得ようとしているのか、その真の目的や動機に私たちは実際に直面することになります。内外のあらゆるものが死んで消滅することは、良い試験です。真に用いられた神の人の多くは、この道を行きました。私たちの肉の上に聖霊が臨むことを――それがひどい肉であろうと、洗練された魂的な教育された肉であろうと――神は許されません。ペンテコステが来る前に、カルバリがなければなりません。神の火が来る前に、祭壇と供え物がなければなりません。その供え物は、すべてが焼き尽くされる全焼の供え物でなければなりません。疑いもなく、私たちの主の弟子たちは、彼らの主が十字架につけられた時、野心、期待、幻想、自信などに関して、完全な死を通りました。彼らは今後の人生で自分たちを支配することになるその死を深く味わったのです。彼らの見解、考え、「確信」、方法、価値観、判断基準、性質、気性、個人的影響力、そして生活全般が、その死の支配下に来ました。そして、彼らが死の中へと深くバプテスマされればされるほど、彼らはいっそう豊かに彼のいのちの中へと――自分のいのちの中にではなく――よみがえらされたのです。それぞれの経験は、以前の経験よりも危機的なものであり、決定的なものであり、恐ろしいものでした。「いったい何か残るものはあるのだろうか?」と、しばしば彼らはいぶかったにちがいありません。しかし、こうしていのちがますます豊かになっていったのです。例として、使徒の働き一〇章、コリント人への第二の手紙一章八〜一〇節などを見て下さい。
これだけが力を意味する当初の立場でしたし、今もそうです。個人であれ、団体であれ、天然のいのちの深い死から発したのではない力らしきものはすべて、本物に似せて作られた油です。それは真の油ではなく、したがって、最も深い意味における神の油塗りではありません。しかし、この立場の問題には、さらなる要素があります。この世と肉の中にサタンは法的権利を持っていました。サタンが主張するこうした法的な権利や根拠を、キリストは対処しに来られました。それは、その根拠を滅ぼして、それらの権利をご自分で所有するためでした。彼の十字架――彼はこれをバプテスマの時に受け入れました――の光と力により、そして、予め定められていた神に選ばれた「この世の君」としての彼の地位に基づいて、キリストは神秘的な権威を持っておられました。この権威はあらゆる領域で承認され、常に他の権威の上に置かれます。ギリシャ語のエクスーシア(exousia)は、欽定訳では「力」と訳されており、改訂訳では「権威」と訳されていますが、もっと正確には「支配権」と訳されるでしょう。たとえばマタイによる福音書七章二九節で、この上位支配権が承認されているのを見て下さい。そこでは、この支配権が律法学者たちの支配権の上に置かれています。マタイによる福音書八章九節では、それは百卒長の背後にあるローマ帝国の支配権の上にあります。マタイによる福音書二一章二三節では、パリサイ人たちがこの神秘的な支配権を認識していたことを白状しています。この語は新約聖書の中に九四回出てきますが、これはとても啓発的です。サタンはこの世の支配権を主張しました(ルカによる福音書四章六節)。その時、キリストは彼の主張を否定しませんでしたが、十字架に行き、「今、この世の君は追い出されます」と叫ばれました。そして、キリストはサタンとその主張の根拠をすべて対処し、勝利のうちによみがえって言われました、「天においても地においても、いっさいの支配権が私に与えられています。ですから、あなたたちは全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」(マタイによる福音書二八章一八、一九節、逐語訳)。
この勝利の光の中で、そして、彼がこの立場をご自分の内に持っておられたがゆえに、彼は弟子たちに「見なさい、私はあなたたちに敵のあらゆる力(デュミナス、dunamis――原動力)に対する支配権を与えました」(ルカによる福音書一〇章一九節)と言われたのです。彼が人類のためにご自分でこの支配権を獲得された後――なぜなら、彼は神の子としてそれをご自分の内に持っておられたからです――彼は弟子たちに、「聖霊があなたたちの上に臨む時、あなたたちは力(デュミナス、dunamis――原動力)を受けます」と約束されました(使徒の働き一章八節)。「エクスーシア(exousia)」がなければ、「デュミナス(dunamis)」はありえません。すなわち、立場がなければ、原動力はありえないのです。
神は、権威の立場にある人にだけ、ご自分の力の裏付けをお与えになります。キリストの死、葬り、復活、昇天、統治の中へと合併されておらず、これを現在霊的に経験していない人は、この立場にはありません。十字架によるキリストの支配権は、彼のからだの構成員たちを通して、共同で機能しなければなりません。キリストは支配権を持っておられます。あらゆる点で彼との一体化を受け入れてこれを主張するなら、そうして、彼の勝利が承認されていないあらゆる領域で、敵の原動力に対するあの権威の使者となるなら、私たちは彼の中へと合併されます。御霊による生活により、私たちは上からの――「かしら」からの――指示を識別して受容することができますし、次に状況に命じて敵の働きを活動停止させることができます。新約聖書の中の「破壊する」という言葉は、「活動停止させる」を意味します。これは「悪魔の働き」と関係しており、カルバリの立場に基づいて「彼のからだである教会」により漸進的に実現されます。これは通俗的な悪魔払いではありません。なぜなら、私たちの中で、また私たちを通して、聖霊が主導権を握られる時だけ、それは効果を発揮できるからです。私たちは聖霊の「力づけ」を経験しなければなりません。疑いもなく、聖霊が使徒たちや最初の弟子たちに証印を押して油を注がれた理由は、彼らが勝利の主と絶対的に結合されていたこと、そして、彼らが自分たちの法的権威――人々に対する権威ではなく、サタンとその王国に対する権威――を認識していたことでした。ガラテヤ人への手紙二章二〇節は、永遠に状況に対する鍵なのです。
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