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顔と顔を合わせて
〜神の人モーセの生涯〜
序文

ジェシー・ペン-ルイス著

"Face to Face"
Preface
by Jessie Penn-Lewis


顔と顔を合わせて」が、ただ神とだけ共に過ごす、毎回の「静思の時」の質の保証でなければなりません。しかし恐るべきことに、今日のあらゆる知識にもかかわらず、すべての神の子供たちが、この本の題名が示唆する神とのあの直接的な交わりを持つほどに、神を知っているわけではありません。「心の目」が「見る」ことのできる神との交わりがあります。とはいえ、やがてもたらされるであろう完全な視力と比べれば、「私たちは鏡にぼんやり映るものを見ている」[1]にすぎません。

神と「顔と顔を合わせて」まみえる交わりが存在します。その交わりにより、私たちはダビデがしたように「主に尋ね」、答えを得ます。その交わりにより、私たちは主と交流を持ち、主の御思いの啓示を受けます。その交わりにより、私たちは理解力をもって私たちの神の目的を知り、その中に入ります。

この本のメッセージは、特に「静思の時」のために書かれています。ここでは、モーセの生涯を振り返ることにしましょう。それは、「神の幻」の中から教訓を得るためであり、モーセの内なる生活を垣間見ることによって、どのように彼がエジプトの宮殿から王の王なる方の「臨在の部屋」へと導かれたのかを見るためです。聖なる記録は告げます、「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起こらなかった。モーセは主が顔と顔を合わせて知られた者であった」(申命記三四・一〇)。しかしモーセは、かつてこの世の国、異教の宮殿に生きていました。彼は、他の人々と同じように、キリストに従うことを決断しなければなりませんでした。一歩一歩、彼は主を知ることを学び、主にまったく従うことを学びました。そしてついに、彼は永遠なる神の友となったのです。それまで、神をそのように知った人はほとんどいませんでした。

「モーセには、顔と顔を合わせて神を知ることが可能だったかもしれません。しかし、私の環境や、当時とかなり異なる今日の状況では、私がそうするのは不可能です」と言う人はいるでしょうか?

モーセもまた、「自分の環境は自分に不利です」と確かに言うことができたでしょう。彼はこう言えたでしょう、「パロの異教の宮殿から遠く離れて、平和な天幕生活を送っていたアブラハムには、エホバと顔と顔を合わせて交わることが出来たかもしれません。しかし、エジプトにいる私がこの環境でそうすることは、不可能です!」

ヘブル人への手紙三章五節は告げます。「モーセはしもべとして神の家全体に忠実でした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」。私たちは御子に結合されて、子どもの立場を与えられました。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人なのです」(ローマ八・一七)。

「顔と顔を合わせて」神と交わることは、神の子どもである私たちの生まれながらの権利です。もし私たちが主を知ることを願いさえするなら、聖霊は私たちを、信仰から信仰へ、栄光から栄光へ導かれるでしょう[2]。そして、私たちは実際に、「もはや奴隷ではなく、友」[3]となるでしょう。

「顔と顔を合わせた」交わりが意味するのは、まず第一に、私たちはいつでもどこでも、目に見えない方と霊的に交われるということです。第二は、血を注がれた恵みの御座を通して語られる主の御声を、私たちは心の中に聞くことができるということです。

神の御前で待つ時、「私はあなたの御顔を慕い求めます」と叫びましょう。そうするなら、主は御顔を私たちの上に輝かせて下さるでしょう。そして、私たちは習慣的に主の御顔の光の中を歩み、主の栄光を見、主と会話するでしょう。

あなたの御顔を私に示して下さい。
神聖な美しい一瞬の輝きを私に見せて下さい。

そうすれば、あなた以外のものを
私は決して思わず、決して夢見ないでしょう。

弱い光はみな暗くなり、
劣った栄光はみな消え失せるでしょう。

もはや二度と、地上の美しさを、
美しく思うことはないでしょう。


訳者による注

[1] 一コリント一三・一二
[2] 二コリント三・一八
[3] ヨハネ一五・一五