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第2部


ですから、こう記されています――「彼らはモアブの国を出た」。なぜでしょう?彼らが復活の良い知らせを聞き、それを信じ、それに基づいて行動したからです。「それはすべて空言です。本当だと信じてはいけません。たんなる噂話です」と彼らは言いませんでした。

彼らはその知らせを信じました。復活があったのです。彼らは信仰を行動に移し、その方向に進み、それを信仰によって取り、それが本当であることを見いだしました。

あなたや私が自分の生活の中で何度も行うよう要求されているのは次のことです――死人をよみがえらせる神を信じ、信仰によってあの復活を握り、明確な行動で自分をそれに委ねること、行いによって自分の信仰を証明することです。この立場の上で、私たちはキリストの復活の成果を受け継ぐのです。呪いは取り除かれます。モアブは呪いの下にありました。呪いの下にとどまっていました。呪われた国、呪われた民でした。モアブ自体は依然として呪いの下にありました。しかし、彼らはその呪いの土地を離れました。それは復活のためでした。

この中に新約聖書の教理を見ることができるのではないでしょうか?呪いはこのように、この被造物全体を覆っています。しかし、イエスは私たちのために呪いとされ、裁きを耐え忍び、私たちが義とされるために復活されました。そのおかげで、私たちはこの復活の立場に基づいてモアブの地、呪いの場所を離れ、キリストの復活の成果にあずかるのです!それは何と豊かなのでしょう!

モアブの地に戻らないよう注意しなさい。地と接触して戻らないよう注意しなさい。依然として呪いの下にある領域に、あなたの霊の中で触れることがないよう、注意しなさい。この世は依然として呪いの下にあります。裁きの下にあるものに、霊の中で、生活の中で、自発的に触れることがないよう注意しなさい。なぜなら、霊のいのち、豊かさ、喜び、平安をふたたび奪われてしまうからです。地との接触に注意しなさい。

次に、復活による神の働きは、ご自分の場所を正常にするためであることに注意して下さい。神の場所はベツレヘムであり、ベツレヘムは「パンの家」を意味します。ベツレヘムを覆う飢饉がある時、それはその名の正反対です。

この書全体を貫いて展開しているもう一つの線は、いくつかの節に見られます。

二章一節「ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属する一人の裕福な有力者がいた。その人の名はボアズであった」。

二〇節「ナオミは嫁に言った、『その方は私たちの近親者で、買い戻しの権利のある私たちの親類の一人です』」。

三章九節「彼は言った、『あなたはだれか?』。彼女は答えた、『私はあなたのはしためのルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためを覆ってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから』」。

一二節「ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がいます」。

四章一節「そこでボアズは門のところへ上って行って、そこに座った。すると見よ、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類の人が通りかかった。ボアズは、彼に言葉をかけた。『ああ、もしもし、こちらに立ち寄って、おすわりになって下さい!』 。それから、ボアズは、町の長老十人を招いて、『ここにおすわり下さい』と言ったので、彼らもすわった。そこで、ボアズは、その買い戻しの権利のある親類の人に言った、『モアブの国から帰ってきたナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻して下さい。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせて下さい。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから』」。

「すると彼は言った、『私が買い戻しましょう!』。 そこで、ボアズは言った、『あなたがナオミの手からその畑を買う時は、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツも買わなければなりません』」。

「その買い戻しの権利のある親類の人は言った、『私は自分でそれを買い戻すことはできません。私自身の相続地を損なうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻して下さい。私は買い戻すことができませんから!』」。

ローマ人への手紙三章二四節「無代価で、彼の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、義とされるからです」。

コリント人への第一の手紙一章三〇節「しかし、あなたたちがキリスト・イエスの中にあるのは、神によるのです。このキリストは私たちに至る神からの(中略)贖いとなられました」。

エペソ人への手紙一章一四節「この聖霊は、私たちの嗣業の保証であって、神ご自身の所有の民の贖いをもたらし、神の栄光の賛美に至ります」。

さて、ルツ記の黙想を続けることにします。

この素晴らしい本は、そのわずか数ページの中に、神の贖いの完全な計画の数々の原則と性質をすべて含んでいます。これまで見てきたように、この本には、この地上における私たちのクリスチャン生活の歩みにとって、本当にためになることが記されています。また、救いの偉大な教理に関するこれらの偉大な面も記されています。この午後、私たちはふたたびそれを見ることにします。そして、今のこの黙想では、たったいま読んだローマ三章二四節「キリスト・イエスにある贖いにより」という句を網羅することにします。

ルツは私たち自身の失われている状態を、いきいきと、はっきり、力強く、私たちに示しています。彼女の出生を見てみましょう。彼女の出生は何と希望のない始まりだったことでしょう。あなたはおそらくモアブの起源をご存じでしょう。モアブは近親相姦、実の娘とのロトの近親相姦の結果でした。これはさい先の良い、有望な出だしではありません。その後、国家としてのモアブの上に、団体的に呪いが下されました。その呪いとは――申命記二三章に記録されています――「アモン人とモアブ人は永遠に主の会衆に加わってはならない」というものでした。このような状況の中に生まれることは、かなり希望のないことでした。この世には神も希望もありません

そして、士師記に見られるこれらの悲劇的な状況の結果、エリメレクとその妻と二人の息子は契約の地を離れ、困難と災いがモアブで立て続けに彼らを襲いました――義理の父が亡くなり、彼女の夫も亡くなりました。助け手も保護者もいません。死の嗣業です。これは私たちの生まれながらの状態を詳細に示しています。私たちは罪の中に生まれ、違反の中で育ちます。私たちが生まれた世界、そして、生まれながら私たちが属している種族の上には、呪いが臨んでいます。「この世には神も希望もない」――この新約聖書の句がまさにあてはまります。これが罪人の状態であり、私たち各自の生まれながらの状態です。ここには助け手がいません。「違反と罪を通して死んでいた」とパウロは言います。死です。

これがこの書にとてもはっきりと示されている背景です。人の損失や絶望は、決してキリスト・イエスにある贖いに至ることはありません。

すでに見たように、良い知らせがどうにかモアブに届きました。その良い知らせは、「復活、大麦の刈り入れがあった」という知らせでした。復活が進行中でした。そして、その知らせが遠くにいるこれらの惨めな人たちに届きました。彼らは、荒廃と呪いと裁きの地、全く希望のない地であるモアブを離れ、復活の地であるベツレヘムに行きました。彼らがそこに来た時、復活を通して、贖いの輝かしい働きがすべて成就されたのです。復活による贖いです。「イエス・キリストの死者の中からの復活により私たちを再生し、生ける望みを持たせて下さいました」――これが福音です。キリストの復活の立場の上に全き贖いがあるのです

もちろん、これはあなたたちをだれも興奮させることはありません。これはきわめて明白です。なぜなら、あなたたちはこれをとてもよく知っているからです。あなたたちはこれをすべて知っています。しかし、本当でしょうか?もしこれが魅力や新鮮さを失うようなことがあるなら、神が私たちをあわれんで下さいますように。

しかし、贖いは復活の立場に基づいていただけでなく、贖い主との合一の立場にも基づいていたのです。これは特別な段階です。贖う親類との復活による合一。これは次の段階です。これは福音の核心であり、総計であることを思い出しましょう。私たちは福音を断片に分解して、赦し、贖い、義認などについて語ります。しかし、それらはみな、この一つのことの一部なのです。贖いの総計と核心、救いの総計と核心は、贖い主との生ける合一なのです。

贖いは出来事、教理、真理ではありません。贖いは生ける方との関係です。

これが贖いをこんなにも可能性と潜在性に満ちたものにします。ルツは自分の惨めな状態から救われることができたかもしれませんし、その地にやって来て個人的な恩恵にあずかることができたかもしれません。しかし、ボアズとの結婚によって、どれだけ多くのものが彼女に与えられたのかを見て下さい。当時のことだけでなく、この本の最後の言葉も見て下さい。そして、この本の最後の言葉から後の時代を見て下さい。これからふたたびそれを見ることにします。

しかし、この贖いは何かから救うだけのものではありませんでした。それは何かに至るよう救うものだったのです。その何かは、彼女の人生に個人的に便宜や恩恵をはかる一時的なものではありませんでした。それはすべてを持つ方、彼女を凄まじい莫大な遺産に導いた方だったのです。

そうです、贖い、救いは、合一です。生ける方との生ける合一なのです。

こうして私たちはこの合一により、キリストにあって私たちのものである遺産に導かれます。

さて、詳細を注意深く見ることにしましょう。ルツが嗣業を失った原因、嗣業の喪失の原因は、最初の結婚による合一のためでした。嗣業に関するこの問題が持ち上がった理由、この嗣業に関する困難な問題が持ち上がった理由は、彼女がエリメレクの息子と結婚したためでした。彼女が嗣業と何の関係もなかったのはまさに、ただあの結婚による合一のためだったのです。嗣業はすべてに意味を持たせました。しかし、最初の結婚によるあの合一のせいで、嗣業は失われました。

あの最初の結婚は最も近い親類に光を当てていると思います。それはボアズではなく、他の人でした。最も近い親類です。

生まれつき私たちに最も近い親類とは誰でしょう?古いアダムです。彼がとても近い親類であることを、私たちは知っています。実に、彼はあまりにも近すぎるのです。彼は常に突出しており、常にその場にいます。遠く離れていることは決してありません。

ボアズは「私よりもっと近い親類がいます」と言いました。これはまさに真実です。これに取り組んだり、説明しようとする必要はありません。なぜなら、これが元々どれほど真実であるか、私たちは知っているからです。とても近い親類がいるのです。

この解き明かしはとても興味深くないでしょうか?あなたが新約聖書を知っているなら、特にローマ人への手紙を知っているなら、私が話すよりも遙かによくこれを理解することができるでしょう。それは素晴らしいと思います。うっとりするほどです。ボアズは贖う親類となるべき者です。しかし、もっと近い親類がいます。第一に、その人に責任があります。責任は第一に、最初のアダムにあります。この状況に対する責任、それに関して何かを行う責任です。能力のことではなく、責任のことを言っているのです。

ですから、ボアズは言います、「これを彼に任せて、これについて彼に何ができるか見ましょう」。これは、「人は自分の中に、自分の天然のいのちの中に、自分の遺伝的性質の中に、贖いを見いだすことはできるのか?最も近い親類である古いアダムの中に贖いを見いだすことはできるのか?」という問題を提起します。これこそまさに、主が遵守される原則ではないでしょうか?主は人に自分の失われた状態を確信させます。次に、一時の間、その人にしばしばある経験を通らせます。その経験によって、自分の内に救いはないことを、その人はますます知るようになります。事実、私たちの偉大な贖う親類は、この類のことをなさるのです。彼は言われます、「いいでしょう。もし自分を救えるなら、自分を救いなさい。私は後に立っています。私はあなたにチャンスを与えましょう。古いアダムに完全なチャンス、開けた道を与えましょう。ヒューマニズムに完全な活動の自由を与えましょう。それに何ができるのか、それが何をするのか、見ることにしましょう」。「自分で自分を救うことができる」「人の性質の中には、自分を贖い、自分を変えるのに必要な、善と可能性と力がすべて備わっている」と言ってきた世をご覧なさい。さて、その答えはどうでしょう?

まさに、贖いの恩恵にあずからせようとする人に対して、主はこれをはっきりと自覚させます。最も近い親類、古い人、古いアダムは全く何もできないことを、主はその人に分からせます。ご自分だけが贖い主となる地点に、主は導き上られるのです。主はこの地位を誰とも分かち合うことはありません。

ですから、主はご自分の方法で、最も責任のある者にこの責任を負わせます。主は言われます、「さて、もしできるならやってごらんなさい」。私はあえて言いますが、「自分も他の人も自分を救うことはできない」とすっかり希望を失う地点に達しない限り、誰も贖いの恩恵に生き生きと真にあずかることはできません。私たちが救われた後も、「結局のところ、この働きをすることができる近親者は、私たちの内にも外にも、主をおいて他にはいない」ということを私たちに分からせるため、主はますますこれを強調されるのではないでしょうか。

「ところで、私よりも近い親類がいます。これについて彼に何ができるのか、見ることにしましょう」とボアズは言います。こうして、ある意味で、彼は他の人のために後に立ちます。それはその人にチャンスを与えるためです。

親愛なる友よ、もしあなたが自分のクリスチャン生活の始まりやその他の時点にいて、自分の救いや聖別のために依然として奮闘し、どうにかして贖いを実現しようと奮闘努力しているなら、主はそのままあなたを放っておかれるでしょう。「だめです、自分はそれに関して何もすることができません」という訴えが法廷に響かない限り、自分の力がまったく無力であることが判明しない限り、主はそれに関して何もなさらないでしょう。これは救われていない人だけでなく、クリスチャンたちも覚えておくべきことです――私はローマ人への手紙にしっかりと付き従っていることがわかるでしょう。なぜなら、ローマ人への手紙はクリスチャンに宛てて書かれており、ふたりのアダムについてだからです。そうではないでしょうか?

さて、古いアダム、最も近い親類に対する希望の扉を一度限り永遠に閉ざしてしまう地点に達するのですら、長い時間がかかる人もいるでしょう。ボアズは第一に彼に責任を負わせ、挑んで言います、「さて、ところで、これについてあなたはどうされるのでしょう?状況はこの通りです。責任はあなたの戸口にあります。あなたはそれについてどうされるのでしょう?」。

それについて彼には何もできないことが、やがて必然的にわかるようになります。ああ、彼は最初に素振りを示して応答し、「私がそれをします――私がそれをします」と言います。しかし、「私はこの問題を取り扱うことができます。この状況を救うことができます。私は自分を救うことができます」と立ち上がって言う者がいたとしても――それは贖いの意味がまったくわかっていないからなのです。

ですから、それにはもっと深い意味があることを、ボアズはその人に知らせます。それにはもっと大きな意味があるのです。それはこの法的な手続きを行うことだけではありません。イスラエルの家の中に永遠に残る証しを起こさなければならないのです。それは復活の証しです。

古い人にはこれは無理です。その真の意味が古い人に示される時、「私はそれに関して何もすることができません」と彼は言います。

なぜ彼には無理なのでしょう?なぜこの無力さが彼の上にのしかかっているのでしょう?これを見て下さい、「私自身の相続地を損なうことになるといけませんから」。

正直に言って、私にはこの意味がまったくわかりません。しかし、新約聖書の光の中で解釈するなら、その意味に迫れると思います。古い人はがんじがらめです――自分の益、自分のことでがんじがらめなのです。古い人はこれに関して何もすることができません。なぜなら、古い人はあまりにも自分のことでがんじがらめだからです。この最も近い親類はそうでした。彼の無力さは、彼が自分の状況を何とかするので精一杯だったからです。自分の相続地を顧みるので精一杯だったからです。贖いに関して、彼に何ができたというのでしょう?

生活上、これは真実ではないでしょうか?経験上、これは真実です。この別の問題は、あまりにも私たちを占有して、私たちを忙しくします。天と永遠と神に属する事柄に関して何かを行おうとするなら、そうなります。神について考え始めるなら――それは地上のこの世における私たちのささやかな分を損なうことになるでしょう。これこそ、キリスト・イエスによる救いと永遠の安寧が人々に示される時、人々がしばしば直面する問題です。彼らは言います、「そうですが、ああ、放棄することがどういうことか、代価がどのようなものか、友人や私の立場等がどうなるのか、考えてみて下さい。永遠の事柄というこの別の問題に取り組むなら、私は自分の相続地を損なうことになるでしょう。贖いの問題を考え始めるなら、この世の私の楽しみを損なうことになるでしょう」。

もちろん、これは完全に間違っています。しかし、人々はあまりにもがんじがらめなのではないでしょうか?自分のことでがんじがらめなのです。古い人は自分を顧みることでこのようにがんじがらめなため、この事柄を享受する自由がないのです。古い人の無力さは、この世に対する隷属のためです。この世の君に対する隷属と重労働のためです。古い人は贖いに関して何もすることができません。

さて、これが確立され、証明され、決着がつく時、ボアズがただちに介入します。古い人はそれを放棄して、道からどかなければなりません。

さて、クリスチャンの方々。罪人たちと同じくあなたたちの問題は、自分の贖いを達成しようとしていることです。神を喜ばせるものを自分自身の内に見いだそうとしていることです。自分自身の贖いや救いを何とかして達成しようと、古い人が奮闘努力していることです。ああ、主がそれを達成するには、この古い人はそれを諦めて、道からどかなければなりません。私たちがその地点に達しない限り、主は決してそれをして下さらないでしょう。主の道からどきなさい!私たちがこの立場に達する時、贖う親類、私たちの大いなるボアズが介入して、引き受けて下さるのです。

しかし、次のことに注意して下さい。ボアズに関して、これは本当に注意すべきことだと思います――彼は決して強制したり、自己主張したりしませんでした。彼は言わば後に立って、ひたすら待ちました。自己主張や強制は一切ありませんでした。

この午後、真に主のものではない方がここにおられるとしても、主はあなたの贖い主となるために、ご自分をあなたに押しつけることはなさいません。主は自己主張して引き受けることはなさいません。「主こそ、これをすることができる唯一の方です。主こそ唯一の方です」と言う所にあなたが達するまで、主は待たれます。

ですから、ボアズはこれに手をつけませんでしたし、所有するために自己主張もしませんでした。主は他のどの道――この道ならうまくいくのではないかと思われる道――にも十分な機会をお与えになります。そして、他の力がすべて尽き果てて、「主にはできます。それができるのはただ主だけです」という理解に私たちが達するまで、主は待たれます。ボアズにはそれをすることができました。しかしそれ以上に、彼は待っている間、それをすることを心から望んでいたのです。

正直に言いますが、「私よりも近い親類がいます。私たちはその人にチャンスを与えなければなりません」とボアズがルツに言った箇所に来た時、私は動揺しました。おそらく、あなたがこのささやかな本を読んでいた時にも、そうだったでしょう。「この人はこの女性を心から愛している」ということがここでわかります。彼は彼女を欲しています。しかし、彼はそれをまったく隠して、このもう一人の人にチャンスを与えています。ああ、このもう一人の人が引き受けたらどうなるのでしょう。かわいそうなボアズ。

まさに、あなたや私に対して、主イエスは関心と愛に満ちておられます。主は私たちを得ることを心から願っておられます。しかし、他のすべてのものが道からどかない限り、私たちは決して主の真価を認めないであろうことを、主はとてもよくご存じです。ですから、主は中途半端な忠誠は受け入れません。半分しか持たないで次席を占めるくらいなら、すべてを手放す用意が主にはあるのです。主はあらゆる危険を冒されます。「別の救い主を見つけることができるなら、いいでしょう、見つけなさい。これに関して私が何かを行うには、あなたはまず、私がすべてとなる地点に達しなければならないのです」。主は妬み深くそのような地位を欲しておられます。主にはできます。主は願っておられます。主は切望しておられます。しかし、それはおそらく隠されているのでしょう。主は縛られてはいません。主は自由です。主には他の関心や興味は何もありません。主はこのもう一人の人とは違い、何にも興味はありません。主はこのようなすべてのものから自由なのです。