しかし、石の上に刻まれた文字による死の務めでさえ栄光と共に来て、モーセの顔にあった消え去っていく栄光のゆえに、イスラエルの子たちが、彼の顔を見つめることができなかったのなら、まして霊の務めは栄光と共にないわけがあるでしょうか?罪に定める務めに栄光があるなら、義とする務めはなおさら栄光にあふれるのです。この場合、かつて栄光を受けたものは、さらにまさった栄光のゆえに、栄光のないものにされたからです。なぜなら、消え去っていくものに栄光があったとするなら、永存するものは、なおさら栄光の中にあるはずだからです。それゆえ、このような望みを持っているので、私たちは大いに大胆に語ります。そして、モーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子たちに見せないように、自分の顔におおいを掛けたようなことはしません。ところが、彼らの思いはかたくなにされました。なぜなら、今日に至るまで古い契約を読む時、その同じおおいが残っており、そのおおいがキリストにあって取り除かれたことが、彼らには啓示されていないからです。かえって、今日に至るまで、モーセの書が朗読される時はいつでも、おおいが彼らの心に掛かっているのです。しかし、彼らが主に向く時はいつでも、そのおおいは取り除かれます。今や、主は御霊です。そして主の霊のあるところには、自由があります。しかし、私たちはみな、おおいのない顔をもって、鏡のように主の栄光を見つめつつ、栄光から栄光へ、主と同じかたちに変容させられていきますが、それはまさに霊なる主からです。(二コリント三・七〜一八、改定訳)
こういうわけで、私たちはあわれみを得て、この務めを受けたのですから、落胆することなく、恥ずべき隠れた事柄を捨て去り、悪巧みに歩まず、神の言葉を偽って扱うことをせず、真理を明らかにすることによって、神の御前で、すべての人の良心に、私たち自身を推薦しています。それでもなお私たちの福音が覆われているとするなら、それは滅びる者たちの場合に覆われているのです。この世の神は、彼らの中で、信じない者たちの思いを盲目にしてしまい、神のかたちであるキリストの栄光の福音の光を、彼らの上に照らさせないようにしています。というのは、私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、キリスト・イエスを主と宣べ伝え、また、私たち自身はイエスのためのあなたたちの僕であることを宣べ伝えるからです。「光が暗闇の中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光を与えて下さったからです。(二コリント四・一〜六)
私たちはこの集会で霊的視力という問題に取り組むよう導かれてきました。いま読んだこの聖書の箇所は、盲目と視力というまさにこの問題に触れている箇所です。
第一に、ここには盲目という事実があります――「この時代の神が盲目にしてしまい」。次に、その原因があります――「この時代の神」。次に、その理由、目的があります。「神のかたちであるキリストの栄光の福音の光を、彼らの上に照らさせないようにしています」。そこで、私たちはこの順序で見ていくことにします。
盲目という事実
モーセの時代のイスラエルとパウロの時代の不信者たちとが比較されていることがわかるでしょう。どちらの場合も、彼らの心の上に、彼らの思いの上に、おおいが掛かっている、と述べられています。そのおおいはさえぎるものであり、排除するものであり、くらませる盲目性のものです。さらに、使徒がそれについて語る口調には、裁きと罪定めの響きがあります。モーセが律法を読む時、会見の天幕に集まったイスラエルについても、彼は次のような趣旨のことを述べています。「モーセが自分の顔におおいを掛けなければならなかったのは、彼らが彼の顔の栄光を見つめることができなかったからですが、それは実は、その栄光を見つめることが不可能だったからではなく、彼らの思い、彼らの心の状況のためであり、彼ら自身の内側の状態のためだったのです」。もし内側の状況が異なっていたら、おおいは不必要だったでしょう。彼らは栄光を見つめ、光の中に住むことができたでしょう。しかし、おおいは、神の栄光を隠す内側の状態を示す、外側の表現だったのです。栄光を隠すことは、決して主の望みではありませんでした。むしろ、それを現すことが主の望みでした。主の望みは、人がその中に住んで、それを享受することであり、また、神と人との間におおいがまったくないことでした。神と人の間には常におおいがありましたが、それは神が望まない状態のためだったのです。
人を盲目にする不信仰の力
ですから、この暗闇、この盲目、このように神の栄光を隠して排除するものは、罪定めと裁きの下に立たなければなりません。モーセの時代のイスラエル、パウロの時代に似通った状況にあった人々、そして、そのような状況の中に現在いる人々の場合、その内側の状況はいかなるものでしょう。イスラエルに関して述べられていることからよくわかるように、おおいのように働くこの内側の状況とは何でしょう。度し難い不信仰です。イスラエルを盲目にしたのは、度し難い不信仰でした。しかし、こう言ってもまったく助けになりません。これは事実を、重苦しい事実を述べたにすぎません。私たちは自分自身の心を十分よく知っており、私たち全員の心の中に度し難い不信仰があることを承知しています。そこで、なぜこのような不信仰があるのか、また、その性質はいかなるものか、私たちは理解したいと思います。それは、どうしたらこのおおいを取り除けるのか、どうしたらこの不信仰を対処して、主の栄光を見つめ、永遠の光の中に住むことができるようになるのかを、見いだすためです。
復活の立場の上にある光
さて次に、主が今も昔もイスラエルに対してしようとしてこられたことを、ふたたび見ることにしましょう。これを次のように述べることができます。すなわち、主は、彼らが自分の心、霊、生活の中で、復活の立場を取るよう、常に努めてこられたのです。これは最初、エジプトにおける過ぎ越しで明らかにされました。その時、エジプトの全家庭の長子が屠られました。この恐ろしい晩、死が至る所にありました。しかし、イスラエルはそうではありませんでした。あまりにも皮相的ですが、イスラエルはこれを免れた、と思われています。イスラエルの長子は屠られず、エジプトの長子だけが屠られた、というのが通常の皮相的な考えです。しかし、全イスラエルの長子が屠られたのです。違いは、エジプトの長子は実際に屠られたけれども、イスラエルの長子の場合は身代わりが屠られたということです。イスラエルの各家庭で、あの小羊が各家族のために屠られた時、あの小羊が代表として全エジプトの長子と同じ裁きを通り、この小羊によりイスラエルは代表的に死から命へ移ったのです。あの小羊により、イスラエルは仮想的に死を通って復活の立場にもたらされました。エジプトには復活の立場がまったくありませんでしたが、イスラエルにはありました。これが相違です。しかし、みなが死んだのです。一方は実際に死に、他方は身代わりが死にました。このように、神は、イスラエル国家設立当初から、彼らを復活の立場の上に確立しようとしてこられました。これは死が生じたこと、終止符が打たれたことを意味します。一つの体制が完全に終わり、別のまったく異なる体制が始まりました。この新しい体制の中で、この新しい立場に基づく地位を彼らに得させること、これが過ぎ越しにおける神の大いなる働きであり、その意義でした。イスラエルの全世代、その歴史全体を通して、確立されたしきたりとして過ぎ越しの祭を毎年守ることは、彼らが別の体制、復活の体制に属していることを示す神の方法でした。暗闇がエジプト全家の中にあり、エジプト全土を覆っていましたが、イスラエルの子たちの住まいには光がありました。なぜなら、光は常に復活の立場の上にあり、復活の立場の上にしかないからです。
次に、紅海で、死をくぐって復活に至るという、この同じ大いなる原則が繰り返されました。エジプトはふたたび呑み込まれましたが、イスラエルは救われました。彼らはみな同じ海の中に入りました。しかし、イスラエルの場合、反対側に火の柱があり、それが復活の立場の上で彼らの光となります――この雲の柱は光と命の霊です。彼らは神の命令により、過ぎ越しの祭を毎年守りました。それは、彼らの国家基盤に関する証しを維持するためでした。
次はヨルダン川でした。これは同じ原則の繰り返しにすぎません。今これが必要なのは、彼らのありのままの状態のためではなく、彼らがこれを認識するためです。過ぎ越しと紅海で神が行われたことの意義を、イスラエルがエジプトと紅海で主観的に理解していたかどうかは疑問です。しかし今、その必要性を彼らは主観的に自覚します。彼らにとって四十年間は発見の日々であり、ついに彼らは同意します。彼らは、光の中に住むにはまったく別の立場が必要であることを、神に同意します。神は粘り強く、あらゆる手段を尽くして、イスラエルに復活の立場を取らせようとしてこられたこと、そして、イスラエルをその上にとどまらせようとしてこられたことがわかります。これにより、あらゆる天然的立場から完全に切り離されます。彼らの度し難い不信仰の主要な構成要素は、彼らが非復活的立場、天然的立場にしがみついていることだったのです。
天然的立場の上で生きる結果
天然的立場とは何でしょう?イスラエルを見れば、天然的立場とは何か、とてもはっきりとわかります。天然的立場とは、常に物事を自分に引き寄せることであり、また、「それは自分にどう影響を及ぼすのだろう」という自己の観点から万事を眺めることです。まさに最初から、これはそうだったことがわかります。たしかに、もちろん、最初の解放は私たちに良い影響を及ぼし、それで私たちはとても幸せでした。この紅海での力強い解放は私たちにとって良いものであり、それで私たちは今日喜びでいっぱいです。自分たちにとって都合がいい間は、常にそうです。しかし、試練に遭うこと、自分にとって益になるかどうかあまり定かではない場所に明日連れて行かれることがわかったとたん、歌はやみ、喜びは失せ、つぶやきが入り込みます。「彼らはつぶやいた」。彼らはつぶやいたと何度記されていることでしょう!なぜでしょう?彼らが肉の立場、天然的立場を取ったためです。これは一言で言うと、「それは自分にどう影響を及ぼすのだろう!」を意味します。これが天然的立場であり、この立場の上では常に不信仰が生じます。
不信仰の力はまさにこれです。個人的な天然的関心や配慮、自分の損得に照らして物事を見ることです。このような類のことが一瞬でも入り込むのを許すなら、間もなくあなたは疑問や疑いを発し始め、不信仰に陥ってしまいます。なぜなら、信仰の本質はその正反対だからです。状況があなたやあなたの利益とは反対の方向に進んでおり、また自分の命とすべての持ち物を失おうとしていたとしても、それでも神を信じ、神に信頼すること、これが信仰の本質です。しかし、太陽が照り輝き、すべてが順調に行っている間だけ神を信じるというのであれば、その信仰は真の信仰ではありません。イスラエルは執拗に天然的立場に陣取っていたので、信仰よりも不信仰の方に多く陥りました。彼らを盲目にしたのはこれでした。ですから、人を盲目にするこの不信仰は、それを分析するなら、復活の立場以外の立場を取ることにほかなりません。つまり、神が呪いの下に置かれた立場、神が禁止された立場、神がその上に「立入禁止!」という信者に対する警告を刻まれた立場を取ることです。もし、自己利益、世的配慮といったこの領域全体にわたって散りばめられている神のこれらの警報を、私たちが自分の心の中で見ることができてさえいれば、私たちは自分の生活に訪れる不幸の大部分から救われていたでしょう。
さて、この天然の命はことごとく、人を盲目にします。そして、天然によって支配される度合いが、盲目さの度合いです。神の霊は言われます、「天然の人は神の霊の事柄を受け入れません(中略)それらを知ることができません。なぜなら、それらは霊的に識別されるものだからです」。または、「霊の人によって識別されるものだからです」(一コリント二・一四)。天然の命はことごとく、人を盲目にします。その立場を占める度合いが、盲目さの度合いです。イスラエルがこの立場を離れて復活の立場に移ること、天然によってではなく御霊によって治められるようになることを、神は求めておられました。御霊によって治められることは、光の中を歩むことを意味し、光を持つことを意味し、見ることを意味します。
御霊による生活
「今や、主は御霊です。そして主の霊のあるところには、自由があります」(二コリント三・一七)。何からの自由でしょう?おおいからの自由です。「主に向く時、そのおおいは取り除かれます」。束縛、制限は取り除かれます。「主は御霊です」。天然の命を脇にやって、復活の立場である御霊の立場の上に在ることは、盲目から解放されて、光の中に在ることです。御霊による生活です!宗教は必ずしも照らしを与えませんし、聖書を持つことでさえ、必ずしも光を持つことではありません。これをイスラエルは永遠にわたってはっきりと宣言します。「モーセの書が朗読される時、おおいが彼らの心に掛かっているのです」。「モーセの書が朗読される時……」。彼らが毎日朗読していた聖書と預言者たちの書について、パウロは強烈な言葉を述べました。すなわち、彼らはそれらの意味するところを知らず、それらの示しているところを理解せず、依然として盲目の中に、暗闇の中にいる、と述べているのです。聖書を持つことですら、必ずしも光を持つことを意味するわけではないのです。
このコリント人への第二の手紙のメッセージは、不信者たちに宛てられているのと同じように、クリスチャンたちにも宛てられています。たとえ、それ以上ではないとしても、おおい、盲目、見ることに関するこのメッセージは、クリスチャンたちにも宛てられているのです。というのは、天然の命から完全かつ決定的に解放されているクリスチャンはどこにいるのでしょう?結局のところ、照らしは相対的なものです。つまり、「多いか少ないか」の問題です。ですから、光の中を歩みなさい、御霊によって生きなさいという、信者に対するこれらの強い促しや勧めがあるのです。なぜなら、そうすることによってのみ、霊的視力と理解力というこの事柄は成長発展するからです。御霊による生活――これは復活の立場にもとづく生活の別の言い方にすぎないのです。
これまで述べてきたことはこうです。すなわち、天然の生活全体に広まっているこの盲目性が作用して力を持つのは、当事者の側がこの天然の命を選択して受容することによります。これは必要なことではありませんし、神の御旨でもありません。神の願いは、私たちが光の中に住むことであり、私たちが彼の栄光を見ることであり、まったくおおいがないことです。おおいが取り除かれること、これが神の願いです。しかし、ある大いなることが必要です。すなわち、私たちがあの過ぎ越しに至ること、あの死に至ることが必要なのです。この死は天然の命に対する死であり、まったく新しい命、御霊の命をもたらします。その命により、新しい機能、新しい力、見るための新しい能力が生み出されます。これはとても重要です。私は利用可能な残り時間をすべてこれに費やすこともできます。これは主の民である私たちにとって、それほど重要なのです。
聖書を持つ主の民、また聖書を文字としてよく知っている主の民は、もし彼らが本当にキリストと共に十字架につけられており、彼の死の中で死んで、彼と共によみがえらされ、御霊を受けて、自分の住まいの中に光を持っているというなら、いつこれを理解して認識するようになるのでしょう?「彼から受けた油塗りが、あなたたちの内に住んでいます。あなたたちは誰からも教えてもらう必要がありません。(中略)彼の油塗りが、すべてのことをあなたたちに教えます」(一ヨハネ二・二七)。信者たち、クリスチャンたちは、いつになったらこれを理解するようになるのでしょう?聖書を文字として知っているクリスチャンたちは、自分たち自身の霊的知識に決定的影響を及ぼす事柄に関して、どうして他人の助言を求めてあちこち駆け回らなければならないのでしょう?私は助言を受けることが悪いと言っているのではありません。また、経験を積んだ他の神の子供たちが諸々の事柄に関してどのように考え、どのように感じているのかを知ることが悪いと言っているのでもありません。しかし、もし彼らの結論に基づいて自分の立場を築こうとしているのなら、私たちは大きな危険の中にあるのです。あらゆる問題に関して最終的権威を持っている審判者は、神の霊、油塗りの霊です。私たちは互いに助けを受けることができます。しかし、私が言っているからという理由で、私が言っていることの上にあなたの立場を築かないよう私は望みます。そうしないで下さい。私はあなたにそうしてほしくありませんし、そうすることをあなたに求めることもしません。私が言っているのはこういうことです、「耳を傾けて注意して下さい。それから、最終的権威を持つ方の所へ行って下さい。この方は、もしあなたが神の子供なら、あなたの内におられます。この方に真理か否かを確証するよう求めて下さい」。内住の光の霊、神の霊の光の中に在ることは、あなたの権利であり、あなたの生得権であり、すべての神の子供の生得権なのです。
私は疑問に思うのですが、もしパウロが彼が取った道とは反対の道を取っていたら、彼はどうなっていたでしょう?「生まれた時から私を選び分けて下さった神が、御子を私の内に啓示することをよしとされた時(中略)ただちに私は血肉と相談もせず、また、私よりも先に使徒とされた人たちに会うためエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行きました」(ガラテヤ一・一五〜一七)。もし彼がエルサレムへ上って行き、彼よりも先に使徒とされた人たちの前にすべてを示していたら、何が起きていたでしょう。続いて起きた出来事から、彼らが彼に言ったであろうことがわかります。「まあ、気をつけなさい、パウロよ!あなたの話だと、ダマスコへ行く途上、イエスがあなたに異邦人の所へ行くことについて何か話されたそうですね。気をつけなさい!」。彼らは、異邦人に対する働きから、彼を引き止めたでしょう。後に何が起きたか、あなたはご存じです。数年後、この点に関して、ペテロがどのように偽りの中に陥ったのか、あなたはご存じです。エルサレムで彼よりも先に使徒になった人たちが、異邦人に関するこの問題に関して、いかに絶えず気難しかったか(注意深かったか)、あなたはご存じです。もしパウロが彼らに屈服していたら、異邦人への偉大な使徒は存在していなかったでしょうし、奥義の啓示、ユダヤ人もギリシャ人もキリストにあってみな一つであるという啓示を持つ、キリストのからだの偉大な使徒も存在していなかったでしょう。彼はこれに関して、自分よりも先に使徒とされた人たちに屈しませんでしたし、自分が正しいのかどうか、これが健全なのかどうか、彼らに尋ねることもしませんでした。ああ、そうしなかったのです!彼はダマスコで油塗りを受けました。アナニヤが彼の上に手を置いて、彼は御霊を受けました。その日から、兄弟たちと交わりを持つ用意が彼にはありましたし、そうすることは彼にとって幸いなことでもありました。彼は決して上位の立場、独立した立場を取りませんでしたし、常に集会に対して開いていましたが、それでも彼は御霊によって治められている人だったのです。
私が言っていることをどう受け取るか、あなたは注意深くなければなりません。これを私は承知しています。あなたが聖霊から独立して自立している人ではなく、完全な交わりと謙遜と従順と開かれた心を保っており、御霊が真理を証しされる時、他の人たちを通して語られるかもしれない言葉に進んで耳を傾けて従おうとしている人である時だけ、あなたは安全でしょう。しかし、これはすべてあなたの内側の状態にかかっているのです。あなたが立っているのは天然の立場でしょうか、それとも、霊の立場でしょうか?旧創造の立場でしょうか、それとも、復活の立場でしょうか?しかし、あなたが復活の立場――そこでは天然の命ではなく御霊が支配しています――の上に立っているなら、愛する者よ、あなたは権利、特権、祝福を持っています。御霊があなたの心の中で証しして下さり、また、あることが正しいか間違っているかについて、油塗りがあなたにすべてを教えてくれます。主の民はいつになったらこれを知り、これを認識するようになるのでしょう?
主が彼らに与えようとしておられる光の多くを奪っているのは、常にこの別のものであることがわかります。主は御子を知るさらに豊かな知識と、さらに豊かな霊的理解力に彼らを導こうとしておられるのですが、彼らは自分たちの内にある賜物を無視しているのです。彼らは、照らし手であり、教師であり、指導者であり、導き手であり、審判者である、聖霊を無視しています。彼らは、この人やあの人、この権威やあの権威の所へ行き、「あなたはこれについてどう思われますか?間違いであるとあなたが考えておられるなら、私はそれに触れません!」と言っています。こうすることは霊的知識にとって致命的です。これは天然の立場に行くことです。
さて、私たちがこの立場から離れることを、主は望んでおられます。復活の立場を占めるというこの問題、また、御霊による命を生きるというこの問題は、神の御子を知る完全な知識に至る上で最も重要です。これについてどれほどたくさん話せることでしょう!権威を持っているのは誰なのか、気をつけましょう。多くの親愛なる神の子供たちは、個人的にも団体的にも、悲惨な痛ましい束縛、制約、混乱に陥っています。それは、人間的権威、この大指導者やあの大指導者、神に大いに用いられた人物、霊的光をたくさん持っていた人物のところへ、彼らがいつも戻って行くからです。
盲目の原因
原因に関して、一言、二言述べましょう。「この時代の神が盲目にしてしまい」。この句には二つの点があります。第一に、結局のところ、この盲目はたんなる天然のものではなく、超自然的なものです。「天然は人を盲目にする領域である」と言っても、すべてを言い尽くしたことにはなりません。そうです、この盲目に関しては、それより遙かに邪悪なものがあります。それは超自然的盲目ですが、邪悪な超自然的盲目です。それは悪魔の働きです。霊的視力を与えることが常に、このように恐ろしい戦いを伴う困難なものであるのは、一つにはこれが理由です。戦うことなく、代価を払う必要に迫られることなく、大いに苦しむことなく、御霊によって本当に見えるようになり、理解するようになった人は、これまで誰もいません。真の霊的照明と照らしには、必ず代価が必要です。そのためにパウロは、聖徒たちが関係する所では、大いにひざまづかなければなりませんでした。「私はひざをかがめて祈ります。どうか私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、彼を知る知識の中で、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて下さいますように」(エペソ一・一七)。これは祈り抜く必要があるものです。また、エペソ人への手紙の中の祈りが、六章に啓示されていることとの関連で多く現れるのは、意味のないことではありません。「私たちの格闘は(中略)主権者たちに、権威者たちに、この暗闇の世の支配者たちに、天上にいる悪の霊の軍勢に対するものです。ですから、神の武具をすべて取りなさい」――色々とあります――「……すべての祈りと嘆願によって受け取りなさい。どんな時も御霊の中で祈りなさい」(エペソ六・一二〜一八)。「この暗闇」――「つねに祈り」「私は祈ります。どうか彼が、彼を知る知識の中で、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて下さいますように」。これはすべて一つであることがわかります。しかし、これは一体どうしてでしょう?その理由はこのこと、「この時代の神」にあります。この霊的盲目という問題では、私たちは超自然的存在に立ち向かっているのです。私たちは悪の宇宙的な全軍勢に、人々を盲目にしておくために働いているこれらすべての知的存在に立ち向かっているのです。
真の霊的視力を持つことは、決して小さなことではありません。それは力強い勝利を意味します。受動的に座して、口を開いてその到来を待っているだけでは、それは決してあなたに臨むことはありません。これに関して働かなければならないのです。あなたが霊的理解力を求めて本気で出て行くとき、あなたはこの時代の神の全軍勢に立ち向かうことになります。それは超自然的戦いです。ですから、真の啓示の務めになる務めはすべて、戦いで取り囲まれるでしょう。戦いが先立ち、その最中に戦いが進行し、その後に戦いが続くでしょう。そういうものなのです。
次に、ここであなたは光に関して働く必要があります。あなたが何かを聞く時、「自分は聞いたから、理解している」と当たり前のように思ってはなりません。主があなたに解き放とうとしておられるものの中に入り込めるように、また、「自分はそれを言葉として聞いたから、今ではわかっている」と思い込んで自分を欺くことのないように、あなたは後でしっかりと主と交渉しなければなりません。あなたはそれを理解していないかもしれないのです。それはまだ光を放っていないのかもしれませんし、この件では戦いが必要なのかもしれないのです。
私たちがこれを知ってさえいれば。私たちの生活に生じる戦いの大部分には理由があります。神が求めておられるのは、私たちに道を進ませること、ご自身に対して私たちの目を開くこと、御子の光の中に私たちをもたらすことです。神は私たちの霊的水平線を広げようとしておられます。すると、敵がそれに反対して出てきて、できることならそれを得させまいとします。戦いが生じます。私たちはそれを理解しないかもしれません。しかし、とても多くの場合、たいてい、それはこういうことです。つまり、主は何かを求めておられるのですが、サタンは「できることなら、彼らがそれを見ないようにしよう!」と言います。ですから、大きな戦いが生じるのです。照らしが超自然的であるように、この盲目も超自然的なのです。
「この時代の神」!この名称は、一つ以上の期間を意味するのかもしれません。それは全期間を意味するのかもしれません。なぜなら、サタンは初めに人に対する王権を獲得したからです。サタンが求めていたのは、神の地位を得て人の生活から宝船(worth-ship)を得ること、神となって礼拝(worship)を受けることでした。これはまさに人が所有している価値あるものを自分のものとすることを意味します。神が人を造られた目的は、神の喜びと栄光のために、神にとって価値あるものを神にもたらす乗り物とすることでした。それは神が人から宝船を得るためだったのです。するとサタンは言いました、「私があの宝船を奪ってやろう。神はあの被造物に何かを与えて、自分のために何かを得ようとしている。私がそれを奪ってやろう!」。ですから、園で起きたことはみな、人の心と人の思いの中で神にとってかわるためのサタンの方法だったのであり、神の権利であるもの――礼拝――を人から得るためのサタンの方法だったのです。こうして、人の同意と堕落により、サタンはこの世で神たる身分を獲得し、それ以来ずっとそれを保持しています。「この時代」とは、この世の行程をまさに意味します。「この時代の神」!
さて、サタンの神たる身分を最も脅かすものは霊的照らしです。一度あなたの目が開かれるなら、彼はその立場を長く保持することはできません。ああ、一度心を照らされるなら、サタンの力は直ちに砕かれるのです。ですから主が、ダマスコへの途上、パウロに次のように言われたのは、この事実と首尾一貫しています。「私はあなたを彼らに遣わします。それは彼らの目を開き、彼らが暗闇から光へ、サタンの力から神へ立ち返るためです」(使徒二六・一七〜一八)。暗闇から光へ、サタンの力から神へ、この二つは共に進みます。私は繰り返しますが、サタンとその地位に対する最大の威嚇、最大の脅威は、霊的照らしです。ですから、この時代に彼の地位と神たる身分を永らえさせて維持するための立場を、彼は見いださなければなりません。では、これに関して、いかなる立場が彼を満足させるのでしょう?その答えは、天然の立場です。天然の立場の上に行くなら、あなたはサタンに所有権を与えることになります。私たちがそうするたびに、サタンの支配力は強まります。
サタンの盲目にする働きの目的
さて、三番目の点に少しだけ言及して、ヒントを与えることにします。このサタンの盲目にする働きの理由、目的は何でしょう?それは、「神のかたちであるキリストの栄光の福音の光を、彼らの上に照らさせない」(二コリント四・四)ためです。キリストの栄光、キリストの栄光の福音、キリストの栄光の福音の光、神のかたちである方が、彼らを照らすことがないようにするために、また、それらを彼らの上に照らさせないために、この時代の神は彼らを盲目にしたのです。
では、その目的は何でしょう?それは神の御旨により御子が万物の相続者として定められた永遠の昔にまで遡ります。神と等しい方が万物を相続することになりました。これが天に知れ渡った時、天使の軍勢のひとりの心の中に罪が見いだされました。その罪とは高慢であり、それと同じ身分を願い、その相続権を欲するものでした。彼の心は高ぶり、「私は自分の王座を神の星々の上に高く上げよう(中略)私はいと高き者のようになろう」(イザヤ一四・一二〜一四、エゼキエル二八・一一〜一九)と言いました。このように言うことにより、彼は神の御子に対する妬みをあらわにしました。そして、彼の心のこの罪により、この高慢により、彼の心のこの妬みにより、彼は天での地位を失ったのです。彼は下って来て、あらゆる時代に渡って憎しみの道を進み続けています。それは、できることなら人々が御子を見ることがないようにするためです。キリストの栄光の光が人々を照らすことがないように、彼は人々をくらまして盲目にしています。それは御子を排除するためです。
大いなる知性と理解力を持つサタンが、「もし人々が御子を見るようなことがあれば、それは起こりうる最悪のことである」と認識しているとすれば、これは確かにキリストに関する限り何か重大なことを意味します。神の御旨はすべてこれと密接な関係にあります。この世界、この宇宙を創造した神の大いなる御旨は、すべてこれにかかっています。それはすべて御子に与えられており、もし人々が御子を見るなら、神は目標に到達し、御旨を達成されるのです。「そんなことがあってはならない、人々が御子を見るようなことがあってはならない!」とサタンは言います。この時代の神は、人々の思いを盲目にしています。それは、神のかたちであるキリストの栄光の光を、彼らの上に照らさせないためです。
ですから、御子を見ることは何ということでしょう!今は、この限りなく重要な点を扱えません。しかし、こう述べて終わることにしましょう。私たちがついに顔と顔を合わせて彼を見るようになる時、さえぎるおおいがまったく少しもなくなる時、宇宙中に何と大きな叫び声が上がることでしょう。その時、神は御旨を成就されます。御子が現れ、御子が見えるようになります。私たちが彼を見る時、「私たちは彼のようになります。なぜなら、私たちはありのままの彼を見るからです」(一ヨハネ三・二)。「御子のかたちに同形化されるよう、あらかじめ定められました」(ローマ八・二九)。神が私たちを造られたのは、このためです。しかし、ああ、いま見ること、そして絶えず見て、完成の日に至ることが必要です。なぜなら、私たちが御子のかたちに変えられるのは、私たちが御子を見る時だからです。
立ち去る時、私たちの唇と私たちの心にあるのは、どのような祈りでしょう?「『私たちはイエスを見たいのです!』。どうかこれをたんなる感傷にはしないで下さい。どうかこれを絶えざる叫びとし、絶えずこれを追い求めさせて下さい。この宇宙における神の御旨はすべて、彼を見ることにかかっているのです」。
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