神は(中略)この終わりの日には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定められました。(ヘブル一・一〜二、改定訳)
……御子の王国(中略)御子は、見えない神のかたちであり、全被造物の中で最初に生まれた方です。なぜなら、万物は、天にあるものも地上にあるものも、見えるものも見えないものも、位も、主権も、支配も、権威も、すべて御子にあって創造されたからです。万物は彼を通して、彼のために創造されました。また、御子は万物より先に存在し、万物は彼にあって存在しています。(コロサイ一・一三〜一七)
……キリストの栄光(中略)私たちは(中略)キリスト・イエスを主と宣べ伝えます。(二コリント四・四〜五)
初めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。(中略)万物は彼を通して造られた。造られたもので、彼なしで造られたものはなかった。彼の中に命があった。この命は人々の光であった。(ヨハネ一・一、三〜四)
なぜなら、父は子を愛して、ご自分が行われるすべてのことを子に示されるからです。また、これらよりもさらに大いなるわざを子に示されるので、あなたたちは驚くでしょう。なぜなら、父は死人を起こし、彼らに命をお与になるように、子も自分が与えたい人に命を与えるからです。(中略)なぜなら、父は、ご自分の中に命を持っておられるように、子にも与えて、自分自身の中に命を持つようにして下さったからです。そして、子は人の子であるので、子に裁きを行う権威をお与えになりました。(ヨハネ五・二〇〜二一)
世が存在する前に、私があなたと共に持っていた栄光。(ヨハネ一七・五)
霊的視力が必要な、三つの主な方向があります。一つ目は、神の計画におけるキリストの立場と意義に関してです。次に、この計画における人の立場と意義に関してです。そして三つ目は、この宇宙における悪の霊の軍勢の現実、方法、目的に関してです。この三つが聖書の大部分を含んでいます。ここでは、この中の最初の点に取り組むことにします。
キリストの立場と意義
キリストのパースンと御業には二つの面があります。(1)神の御子であるキリストと、(2)人の子であるキリストです。神の御子であるイエスについて、聖書の中に述べられていることや暗示されていることをすべて一緒にするなら、私たちは一つの総括的結論に導かれます。それは次の通りです。すなわち、神にのみ属している数々の権利や特権が神により御子の中に与えられていること、また、御子によらなければ神を個人的にはっきりと知ることはできないよう、神がご自分を制限されたということです。御子から離れるなら、神に近づくことも、個人的に神を知ることも、交わりを持つこともできません。「私によらなければ、だれも父に来ることはありません」(ヨハネ一四・六)。「子と、子が父を啓示しようとする者のほかは、父を知る者はいません」(マタイ一一・二七)。この啓示は御子の中にだけあります。「私を見た者は、父を見たのです」(ヨハネ一四・九)。次に、私たちは、「御子に与えられている、これらの独特な、神にのみ属する権利とは何でしょう?」と問わなければなりません。
命の特権
実際に命を相手にするようになるとき、私たちは神を相手にするようになります。命が少しでもある間は、人のための余地が残されています。人は助けや刺激や養いを与えることができますし、命と協力することもできます。しかし命が去るなら、人にはどうしようもなくなって、神だけの問題になります。ただ神だけが、その状況を取り扱うことができます。ある世代全体にわたって、この問題が戦いのように荒れ狂いました。その大部分は一人の人――ルイ・パスツール――を巡って荒れ狂いました。彼の存命中ずっと、自然発生に関する問題が燃え上がり、噴出して、人々は学派に分かれて激しく敵対しました。しかし、彼が亡くなる前に、この問題は決着がつきました。命は命によってのみ生じるのであって、決して死からは生じません――これは自然の領域ではそうです。今日、そう信じない知識人はいません。したがって、超自然的事柄のための余地が広く残されています。そして、死からの命は神の独壇場です。天然の事柄に言えることは、霊の事柄にも言えます。私たちが魂と体の命として全員共通して持っている命には、先に述べた法則が成り立ちます。しかし、それとは別の命、非受造の命、神の命、いわゆる霊の命があります。これはまったく別の命です。ここには百人以上の人々が集まっているかもしれません。彼らはみな、この第一の意味では生きています。しかし、ほんの数人しか、この第二の意味では生きていないかもしれません。大多数の人は、魂と体の命の中でとても活発ではあるものの、非受造の神の命に関してはまったく死んでいるかもしれません。このように人々は分類されます。このようにこれらは、まったく異なる二つの創造体系であり、種族なのです。
魂の不死性について、多くのことが述べられてきましたし、書かれてきました。不死性と継続性は全く別のものです。不死性は神の特権であり、特徴です。「ただひとり不死性を持つ方」(一テモテ六・一六)。不死性は神の命の特徴である性質です。それは、肉体の腐敗や墓をただ生き長らえることよりも、もっと遙かに高度なことです。不死性や不死の命を持たずに、肉体の腐敗や墓を生き長らえることは、とても恐ろしいことであるに違いありません。それは聖書が――比喩的に――「裸」や「恥」という言葉で意味していることです。ですから使徒は不死性のことを、「上に着せられる」こととして話しています。それは、「死すべきものが命によって飲み尽くされるため」です。
ですから、この命を与えることができるのは、ただ神だけです。そして、この命を持つ人々は、それにより、内なる実際という点で、他のすべての人々とは異なります。栄化されることの意味は完全な変容ですが、彼らにはそのための基礎があるのです。
しかし、特に述べたいのは次のことです。すなわち、神はこの命を御子イエス・キリストの中にお与えになったということ、そして、彼によらずにそれを受けることはできないということです。「父は、ご自分の中に命を持っておられるように、子にも与えて、自分自身の中に命を持つようにして下さったからです」(ヨハネ五・二六)。「父は死人を起こし、彼らに命をお与えになるように、子も自分が与えたい人に命を与えるからです」(ヨハネ五・二一)。キリストの栄光の福音とは、彼を信じる者たちに永遠の命、不朽不死の命を与えることのできる栄光を、神は彼にお与えになったということです。「この命は御子の中にあります。御子を持つ者は命を持ちます」(一ヨハネ五・一一〜一二)。一度この命を与えられるなら、人々に対する神の輝かしい御思いや御旨は、すべて実現され始めることになります。ですから、キリストと共に到来するのは、新創造の命であり、新宇宙の命です。すべては生物学的原則にしたがって実現されることになりますが、これは性質、容量、意識という点で、他のあらゆる命とは異なる命です。それは特に神ご自身の神聖な命であるため、神との真実な内なる交わりの基礎であり、つながりでもあります。このように、キリストの計り知れない決定的重要性がわかります。
生ける積極的な方法でキリストを受け入れることは、命を受け入れることです。これは、私たちの構成中の内なる隠れた部分に違いが生じることを意味し、他の人々には許されていない可能性の道に入ることを意味します。
キリストを拒絶すること、無視することは、神が人を創造して信仰の試験を人に課したとき意図しておられたものを、すべて失うこと、すべて逃すことです。ここに、言い逃れや先送りの計り知れない危険性があります。いつこの命が人に差し出されるのか、人にはわかりません。キリストが差し出される時、その時こそ、私たちが受け入れるか拒否するかに、生と死がかかっている時です。永遠にわたって最大級の意義や結果を持つことになる事柄が、この決断と密接に関係しているのです。
こうしたすべてのことに対して、人々の栄光の最大の敵は、人々を盲目にしようとしますし、人々を盲目のままにしておこうとします。人を盲目にする悪魔の嘘の一つは、進化の嘘です。私たちはみな、ある種の発達や進歩を信じます。しかし、人の始まりはアメーバであり、数千年――おそらく数百万年――という時の流れの中、多くの段階――たとえば、猿、原始人、文明人、天使的存在等々――を経ることにより、ついには神となり、神性に到達するということ――これは嘘偽りであり、人々がキリストを受け入れることがないよう、悪魔的発案者が目論んだものです。こうした進歩(?)はすべて、まったく外からの干渉なしになされた、と言われています。この問題について記した人が、こう述べています。「我々は、ある素晴らしい機械のことを耳にしている。その機械の片側には爪があり、その爪で大量の革をつかんで中に取り込む。すると、外からの干渉なしに、次々と段階を経ることにより、反対側から靴が出てくるというのだ。外からの干渉はまったくないというのに!」「これが進化である。爪がアメーバをつかんで中に取り込む。すると、進化のおかげで、様々な段階を経ることにより、ついには天使たちや神々になるというわけだ」「しかし残念なことに、そのアメーバはある時点で網の目にかかってしまう。そして、結局は獣ができてしまうが、その獣たちは互いに引き裂きあって粉々になるというのである!」。数千年を経て、人々は本当に天使たちや神々に近づいているのでしょうか?結局のところ、この種族の道徳生活は格段に向上しているのでしょうか?まさに盲人だけが「そうです」と言うでしょう。
ああ、まさにこの「外からの干渉」というささやかな句の中にすべてがあるのです。外からの干渉がなければ、神の似姿への真の同形化は決して起きないでしょう。これは機械のようなわけにはいきません。この外からの干渉が、キリストの御言葉の中に述べられています。「私が来たのは彼らが命を持つためです」(ヨハネ一〇・一〇)。人が自分自身で神に到達する望みはありません。しかし、神は御子のパースンの中で干渉しておられます。そして、彼と共に命を差し出しておられます。この命は、似姿と交わりという点で私たちを彼との合一の中にもたらす力を、その中に持っているのです。
御子の中に与えられた、神の特権である光
神の第二の特権は光です。「光よあれ、光よ生じよ!」と言われたのは神です。光は神と共にあります。もちろん聖書の中には、それを示唆する、自然の領域内のものがたくさんあります。神は光と闇を造ります。神は、もし望むなら、このことで通常の行程に割り込んで、光を闇に、闇を光に変えることができます。神は同じ領域内で光と闇を分けることができます。全エジプトが闇の中に、ひどい闇の中にあり、天災がその上に留まっている時、イスラエルの子たちは住まいの中に光を持ちます。外からの神の干渉により、同じ土地の中に光と闇が同時に存在していたのです。神は、予定より長く光を保存して維持することができますし、まだ光であるべき時に、時期を早めて闇をもたらすこともできます。
旧約聖書の中には、これに関することがたくさんあります。そして、これは新約聖書に受け継がれています。神の御子が十字架につけられた時、闇がその土地の表を九時まで覆いました。神の御子を追い出すことは、神の光を追い出すことです。これが大事な点です。光は神の特権なのです。
神が自然の中で行われたことによって示されているのは、霊の光に関する偉大な真理です。霊の光は神の特権であり、神はいつでも光を闇にすることができます。神は物事の成り行きを待つ必要はありません。神はいつでも光を締め出すことができます。神にはそうする力があるのです。
このように、神のこの第二の特権、すなわち光の特権は、御子イエス・キリストの中にも与えられており、彼と結びつけられています。「私は世の光です」(ヨハネ九・五)。「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。(中略)彼の中に命があった。この命は人々の光であった」。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐におられるひとり子、この方だけが彼を示されたのである」「この方が神を啓示されたのである」(ヨハネ一・一八)。キリストの栄光は、いつでも私たちの闇に射し込むことができます。彼の指(神の霊)の尊い接触により、「見えます!今までこのように見えたことはありませんでした!」と突然言えるようになった時、彼の栄光を私たちの心の中にもたらし、私たちの心の中から栄光を彼にもたらしたのは、まさにこのキリストの栄光ではなかったでしょうか。では、次に私たちの心は自然に何を望むようになるのでしょうか?彼を礼拝することです。
盲目に生まれついた人のことを思い出しましょう。主は彼に視力を与え、最終的に「あなたは神の御子を信じますか」と彼に質問されました。彼は答えて言いました、「主よ、その方はどなたでしょう?その方を信じることができますように」。イエスは彼に言われました、「あなたは彼を見ました。あなたと話をしているのが、その人です」。そこで彼は、「主よ、信じます」と言って、彼を礼拝しました。なぜ彼は礼拝したのでしょう?彼にとって神の御子は、視力を得ることと一つだったからです。この二つは共に進みました。視力を得ることは、この方と密接な関係にありました。この方は、視力を与える神の御子以外にありえませんでした。主がこの出来事をこの福音書の中に盛り込むことによって意図されたのは、これです。その目的はまったく、イエスが神の御子である証拠を示すことなのです。ヨハネが彼の福音書をどう締めくくっているかはご存じでしょう――「もし書きうることがすべて書かれたなら、世界もその書かれた書物を収め切れないだろうと思います。しかし、これらのことが書かれたのは、『イエスがキリスト、神の御子であることを、あなたたちが信じるためであり、そして信じて、彼の御名の中で命を持つためです』」(ヨハネ二〇・三〇)。この出来事は、これを目的とする書物の中に記されています。弟子たちが、「主よ、この人が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからでしょう。この人でしょうか、それとも、この人の両親でしょうか?」と言った時、主イエスはこう言ってこの迷信を退けました、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人において現れるためです」。御子が神のわざのための手段なのです。主イエスは、「父は働いておられます。そして、父が行うわざを、子も行います。これらよりも大いなるわざを、父は子に示されます」とすでに述べておられました。神のわざ――盲目に生まれついた人に御子を通して視力を与えること――は、礼拝という結果になります。あなたが御子を礼拝することを、神は嫌がりません。神は御子を妬んだりされません。なぜなら、神はご自分を御子に結びつけ、御子をご自分に等しい者とし、ご自分の権利と特権を御子の中にお与えになったからです。御子を礼拝することは、父を礼拝することです。なぜなら、御父と御子は一つだからです。
さて、イエスが神の御子であることは、霊的視力を得る人々によって証明されます。視力を与えうること、これはキリストの栄光であり、私たちが述べているように、礼拝という結果になります。これをほんのわずかでも認識することは大いなることです。目を開いてもらうことは大いなることです。初めに
神の御言葉から何かを得ることがどういうことか、私たちの中には知っている人もいます。その節の中に何かがあるのを感じるのですが、わかりません。そこには神聖な意味があるのですが、理解できません。私たちはその節の周辺をめぐり歩き、自分を助けることのできる人はいないか見渡しました。私たちはその特定の節に関する専門家たちの所へ行きましたが、わかりませんでした。多くの良いことを言われるのですが、どういうわけか、そこにあると感じるものを得るには至りません。私たちはそれを主の所に戻して言います、「さあ、主よ、もし私たちがそれを理解することを望んでおられるのでしたら、適切な時、必要な時に私たちに示して下さい。たんなる知識のためではなく、その節が用を果たす時に示して下さい」。そして私たちは先に進んで、それを主に委ねました。私たちは静かに進み続け、おそらく別のことに取り組んでいるでしょう。すると、全容が浮かび上がって、突然私たちに臨みます。私たちはそれを見て、微笑みます。私たちの人生には、このようなことがたくさんあります。それらは私たちに臨み、私たちはそれらを受けます。あなたは私たちからそれを取り去ることはできません。
さて、ここで私がしようとしているのは、光がこのように私たちに射し込むことが何と素晴らしいことか、それはどれほど私たちを高め、どれほど私たちを栄光で満たすのかを描写することです。また、霊の光、天にも地にもなかった上からの光が射し込む時、それがどれほど展望を変えてしまうのかを描写することです。主イエスはこの神の光の総計です。彼は光です。もし私たちの目が開かれて主イエスの重要性を見てさえいれば、それは何と凄まじい違いを生じさせていたことでしょう。どれほど私たちは解放されていたことでしょう。光であるがゆえに、光を与える神聖な特権を内に授かっている神の御子を見ること、これが必要なことです。私たちの暗い光景のただ中にやって来て暗闇を追い払うのは、彼の御業です。これが彼の栄光です。あなたの目が開かれたおかげで、あなたは神の御子の栄光を知ることができ、彼を礼拝することができるのです。
彼はここにおられます。彼は復活であり命です。彼は終わりの日に復活であるだけでなく、常に復活です――「終わりの日の復活の時に、彼が復活することは知っています」とマルタが言ったことは覚えておられるでしょう。主は次のような趣旨のことを言われました、「やめなさい、私は復活であり命です。私がここにいるからには、復活に関する限り、終わりの日はすでに来ているのです。私がここにいる以上、時間の問題ではありません。今、復活がありうるのです!」。ですから、彼がここにおられる以上、今、新創造の光と共に新創造がありうるのです。後で光を得るだろうというのではなく、今です。それは、この輝かしい外からの干渉によってです。
世が存在する前に御父と共に持っていたイエス・キリストの栄光、御子の栄光とは次のことです。すなわち、彼は、光をもたらすという、神にのみ属するこの特権、権利、力、能力を持っておられるのです。他の誰も光を与えることはできません。この光に到達することは可能ではありません。それは彼の賜物であり、彼の行動です。これは彼の栄光なのです。
御子の中に与えられた、神の特権である主権
神の御子であるイエス・キリストの栄光に関して、最後に一言述べましょう。神の統治権が彼の中に与えられています。神の第三の特権は統治です。この最後の点に関して、あらゆる問題の決定権は神にあります。神は万物の上におられます。神が統治されます。人々の王国においても、また、天の軍勢の間でも、神が統治されます。神は統治されますが、神は今や、この統治権を御子の中に与えておられます。「父は誰をも裁くことはありません。父はすべての裁きを子にお委ねになりました」(ヨハネ五・二二)。ですから、この神の統治権はキリストの中に与えられているのです。
さて、これは私たちにとって何を意味するのでしょう?「キリストの栄光の福音」。「私たちはキリスト・イエスを主と宣べ伝えます」。これは実質上一つの声明です――キリスト、主であるキリスト・イエスの栄光です。この詳細の大部分を省いて、ただちにその結論に行かなければならないと思います。キリストの栄光は、彼が主である時だけ認識されます。彼が主である時、キリストの栄光が認識されます。つまり、御子が定められた立場に着くとき、神は満足されるのです。どの方面においても、神が満足される時は必ず、その当事者はそれに気づきます。神の心の中にあるものが、当事者の心の中にこだまして、それが私たちに影響を及ぼすのです。つまり、悔い改めた罪人を天が喜ぶとき、その罪人はこの天の喜びのこだまを持たないことは決してありません。悔い改めた罪人に臨むこの喜びは、たんに彼だけの喜びではなく天の喜びでもあり、天で進行中のことに由来します。御父が喜ばれる時、それは御父が喜んでいる人の内でも経験されます。「これは私の愛する子、私は彼を喜ぶ」(マタイ三・一七)。御子は自分自身の霊、自分自身の心の中で御父の喜びを知ります。「父は子を愛しておられます」。彼はこれを偽りやうぬぼれなしに言うことができます。そして、ある人の人生、ある団体、この地上のどこかで、御父によって御子に定められた立場が御子に与えられる時は必ず、そこでは天が開かれ、御父の満足が表されるのがわかります。彼の主権に関する問題で、あなたが戦いや争いをくぐり抜ける時は常に、あなたは自分の心の中に新たな神の喜び、平安、安息を感じます。神の御旨に従うことに関して、主が言われたことに従うことに関して、戦いが進んでおり、長い間争いがありましたが、ついにあなたはくぐり抜けます――「私の頑固な意志はついに服従しました」――こうしてあなたはくぐり抜けます。主の主権が確立されます。その結果は何でしょう?安息、平安、喜び、満足です。「こんなにも長いあいだ意固地になっていたとは、自分は何と愚かなのだろう?」とあなたは言います。これは何でしょう?これは、難所をくぐり抜けた単なる心理的安心感ではなく、神の霊が内側で証ししておられるのです。聖なる鳩があなたの霊を灯しておられるのです。御父の喜びをあなたの心が証ししているのです。神の主権がキリストにあって確立されました。神の絶対的主権を本当に信じるなら、キリストに彼の立場を与えないわけにはいきません。そうしないことは矛盾です。神の主権が実際のものとなるには、キリストが私たちの心の中で主とならなければなりません。私たちはこれを見る必要があります。
実際上の問題
この最後の言葉であなたに率直に言いたいのは、「キリストの主権の意義に関して目を開いて下さい」とどうか祈って下さい、ということです。ご存じのように、愛する人よ、私たちの困難はすべて、この問題の周辺を巡っています。他の君主たちが私たちを支配しています。それらの他の君主たちとは何でしょう?多くの君主たちです。私たち自身の魂が支配しているのかもしれません。私たち自身の感情、私たち自身の好みや嗜好や判断、私たち自身の嫌悪や反感、私たち自身の伝統、私たち自身の教師たち、こうしたものが私たちを支配しているのかもしれません。ああ、君主たちがこんなにもたくさんいて、それらがまさに支配しているかもしれないのです。私たちをもっと広くて自由な場所、天が開かれている場所に連れて行くことを、主は願っておられます。何かが依然として圧制を敷いています。私たちが中心であり、天然の自己の命が王座に着いており、恐ろしい方法ですべてを自分に引き寄せます。何かが起きるやいなや、私たちはその舞台の中央に踏み込んで、自己の命が王座の上で支配します。これはどのような種類の生活でしょう?これは控え目に言っても、影の生活です。これは制限の生活、変わりやすい浮き沈みの生活、弱さと不確かさの生活です。もし私たちが光の中に、完全な光の中に入ることを望むなら、この完全な光の中に、神の子供たちの輝かしい自由の中に入ることを望むなら、これらの君主たちはすべて退陣させられなければなりません。そして、キリストが主とならなければなりません。
さて、私がこう話している間、あなたは私にまったく同意されるでしょう。あなたは言います、「もちろん、キリストが主となることを私たちは望んでいます。キリストが主となること以上に望ましいことはありません。彼が主とならなければならないことはわかっています。神が彼を主ともキリストともされたことは知っています!私たちは賛同します」。愛する人よ、それはまったく結構なのですが、それはどういうことなのでしょう?賛同、同意しているのに、私たちは依然として自分自身の判断を主張するのでしょうか?依然として他の人々や事柄に自分自身の力であたるのでしょうか?依然として舞台の上に立つのでしょうか?依然としてこうした昔の支配が自分たちに影響を及ぼすのを許すのでしょうか?キリストが主として確立されるのは、賛同や同意によってではありません。とはいえ、それらは必要ではあります――それがなされうるのはただ、私たちが打ち砕かれることによるのです。私たちは主に言わなければなりません、「主よ、あなたは妨げになるものをすべて打ち砕かれます。あなたの絶対的主権の妨げになるものはなんでも処理して下さい」。
私が知っている最愛の偶像
その偶像が何であれ
それをあなたの御座から引き裂くのを助けて下さい。
そしてただあなただけを礼拝させて下さい。
とても大事なもの、私たちの一部でさえあるものが、道をふさいでいます。それは私たち自身の命、私たち自身の自己です。私たちの内に何かがなされなければなりません。ああ、それは神のエコノミー(経綸)におけるキリストの立場と意義に、主であるキリストに、どれほど多くのことがかかっているのか、私たちが見るようになるためです。それに何がかかっているのでしょう?キリストの栄光です。
何らかの新しい方法で、何らかの新しい問題に関して、何らかの新しい領域において、彼の主権が確立される新しい地点に、あなたはこれまで主と共に辿り着いたことがあるでしょうか?あなたはくぐり抜けた後、それについて不幸に感じたり、「自分はすべてを失ってしまった」と感じたことがあるでしょうか?その反対であることを、あなたは御存知です。その経験は、どん底の恐ろしいものだったかもしれません。しかし、それをくぐり抜けるとき、あなたは神をあがめます。主がご自分の主権の妨げになるものを対処しておられるとき、それは暗闇の時であり、苦難に満ちています。しかしあなたは、そのすべてを神に感謝する地点に達することになります。どのようにしてそうなりうるのでしょう?主が天に窓を設けられるとき、そうではないでしょうか?私たちがその過程の中にある時、私たちはそう感じます。しかし私は確信しており、ある程度経験からも言えることですが、私たちがその反対側に着いて、主が私たちの生活の中で新しい地位に着くとき、私たちはどん底の経験のゆえに彼に感謝し、「あなたは正しく、忠実で、真実です」と言うようになります。「忠実であり、真実です!」と、あなたは信仰を活用して言うこともできますが、自分の経験からそう言うのは大きなことです。
イエス・キリストの御顔にある神の栄光、キリストの栄光、神の御子キリストの栄光の福音。これはみな、命(Life)、光(Light)、主権(Lordship)に関して、私たちに与えられるものです――神の御子の栄光の三つのLです。主は私たちをその中に導いて下さいます。
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