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第7章
人の子であるキリストの栄光を見ること


神は、昔は多くの部分に分けて、多くの方法で、預言者たちによって、父祖たちに語られましたが、この終わりの日には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、また御子を通して世界を造られました。(ヘブル一・一〜二、改定訳)

神は、私たちが語っている来るべき世界を、御使いたちに服従させることはなさいませんでした。しかし、ある人がある箇所で、証しして言っています、「人とは何者なので、あなたはみこころにとめられるのでしょう?人の子は何者なので、あなたは顧みられるのでしょう?あなたは彼を、御使いたちよりも少し低いものとされました。あなたは彼に栄光と誉れの冠を与え、彼をあなたの御手のわざの上に置かれました。あなたは万物を、彼の足の下に服従させられました」。神は万物を彼に服従させたからには、彼に服従しないものは何一つ残っていないはずです。ところが、私たちはまだ、万物が彼に服従しているのを見ていません。ただ、御使いたちより少し低いものとされたイエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を与えられたのを見ます。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わうためです。万物がその方のために存在し、万物がその方を通して存在する方が、多くの子たちを栄光へ導き入れるのに、彼らの救いの創始者を、苦難を通して完成されるのは、彼にふさわしいことでした。聖別する方と、聖別される者たちは、すべてひとりの方から出ているからです。それゆえ、彼は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「私はあなたの御名を私の兄弟たちに告げ知らせ、会衆のただ中で賛美の歌をあなたに歌います」と言われます。さらにまた言われます、「私は彼に信頼します」。さらにまた言われます、「見よ、私と、神が私に与えて下さった子供たちを」。こういうわけで、子供たちが肉と血にあずかっているので、同様に彼ご自身も同じものにあずかったのです。それは、彼が死を通して、死の力を持つ者、すなわち悪魔を無に帰すためであり、また死の恐怖を通して一生涯束縛されていた者たちを、すべて解放するためです。確かに神は、御使いたちを助けるのではなく、アブラハムの子孫を助けて下さいます。こういうわけで、彼はすべての事で、彼の兄弟たちのようにされなければなりませんでした。それは、彼が神にかかわる事柄で、あわれみ深い、忠信な大祭司となって、民の罪のために、なだめをなすためです。というのは、彼ご自身が試みられて苦しまれたので、試みられている者たちを、助けることができるからです。(ヘブル二・五〜一八)

こういうわけで、聖なる兄弟たち、天の召しにあずかっている者たちよ、私たちが告白する使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。(ヘブル三・一)

この世の神は、彼らの中で、信じない者たちの思いを盲目にしてしまい、神のかたちであるキリストの栄光の福音の光を、彼らの上に照らさせないようにしています。というのは、私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、キリスト・イエスを主と宣べ伝え、また私たち自身が、イエスのためのあなたたちの僕であることを、宣べ伝えるからです。(二コリント四・四〜五)

前の黙想では、神の御子であるキリストの栄光と意義を見ました。彼の中に神の特権が与えられました。一つ目は命の力、二つ目は光の力、三つ目は主権の力です。

この黙想では、キリストの栄光の別の面、すなわち、人の子であるキリストの栄光と、その特別な意義に関して、時間を費やすことにします。ここでもまた、霊的視力が必要です。もし神の観点から、神ご自身の知識と理解力をもって、人の子である主イエス・キリストを真に見ることができたなら、世界の問題はすべて解決されるでしょう。「私たちが見るとき、問題はすべて解決される」という感覚が本当にあるからです。神の解決法は御子です。この午後の時、見ることができるよう、私たちの心の中で主を待ち望みましょう。これを私たちの姿勢としましょう。それは、心の目を照らされて内なる方法でイエスを見るためであり、また、彼を知る知識の中で知恵と啓示の霊を授かるためです。

もしここでこう言ってもいいのなら、「まず主の民の目が開かれますように」ということが、私たちの心が負うべき重荷だと思います。ああ、もし彼らの目が開いてさえいれば、彼らの態度は何と違っていたことでしょう!神のために、何と大きな可能性が拓かれていたことでしょう!主にとって不名誉なものが、何とたくさん消え去っていたことでしょう!もし彼らが見えてさえいれば!私たちは大いに祈りましょう神の民の目が開かれますようにそして次に、一般の人々の目がついには開かれますように私たちは祈りましょうパウロの務めのように目を開く務めが存在するようになりますように――「……私は彼らのもとにあなたを遣わしますそれは彼らの目を開くためであり、彼らが暗闇から光に立ち返るためです」(使徒二六・一七〜一八)。この線に沿って絶えず祈りましょう

新しい人性の究極的型

人の子であるキリストには、二、三の特別な面があると思います。第一に、これは人としてのキリストの肩書きであるということです。これはただちに、「彼は人であり、人間である」という観念を私たちに伝えます。主イエスに関して見る必要がある点は、彼の人性の神聖な意義です。彼は人の子として、私たちのそばに来られただけではありません。肉と血を取って人となり、人としてここに、人々の間におられるだけではありません。ああ、それだけではないのです。彼はたしかに人であり、たしかに肉と血にあずかる者となられました。しかし、そこには違い、大きな無限の違いがあるのです。たしかに人性なのですが、私たちの人性そのものではありません。人の子であるキリストの意義は、彼は新しい人性の究極的型であるということなのです。

神の宇宙には、かつて一つしか人性がありませんでしたが、今では二つあります。かつてはアダムの人性が唯一の人性でしたが、今では別の方の人性、異なる人性があります。この方の人性には肉と骨はありますが、アダムの人性の罪深い性質はありません。また、アダムの人性を神から引き離し、遠ざけたものは何もありませんし、アダムの人性を神の裁きの下にもたらしたものも何もありません。神は、彼の無限の聖さと完全性により、喜びと完全な満足をもって、この人性をご覧になることができます。「私の喜ぶ、私の愛する子」(マタイ三・一七)。この方は人ですが、普通の人とは違う人であり、まったく異なっています。人の子であるキリストの意義は、神はご自身の御心と完全な御思いにしたがって新しい人性を開始されたということであり、また御子の中にこの新しい人性の究極的型があるということです。この型に神は種族を同形化されます――「御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです」(ローマ八・二九)。

本物のクリスチャンにまつわる偉大な現実は、その人は段階的に別の人に変えられつつあり、異なる者になりつつあるということです。これは、外的キリスト信仰の単なる客観的事柄であるだけではありません。これはそれ以上のことであり、内的にキリストによって生きることなのです。

このように、神は御子のパースンの中で、人性のこの領域の中に到来しておられます。御子は、まったく新しい秩序、人類の新しい秩序を代表しています。そして、キリストとの生き生きとした合一により、新しい種族、新しい秩序が生じつつあります。新しい種類の人性が密かに成長しつつあり、かの日に向けて進んでいます。その日について、使徒は述べています。その日、神の子たちが現されます。そして、呪いは取り去られ、被造物は滅びの束縛から解放されて、神の子たちの栄光の自由の中に入れられます。

さて、大切なのは受肉、肉体となって私たちの間に幕屋を張られたことば、人の子であるキリストの途方もない意義です。この方は人々の間に新しい種類の存在、人性の新しい型と形を打ち立てたのです。この新しい型と新しい秩序以外に、被造物に望みはありません。もし人々がこれを見ていれば、これは今日のすべての問題を解決していたのではないでしょうか?人々は何について話しているのでしょう?今日、人々が最も口にする偉大な言葉は何でしょう?新秩序、新世界秩序ではないでしょうか?しかし、人々は盲目であり、暗闇の中で話しています。彼らは何かを求めて手探りしていますが、彼らには見えていません。唯一の新秩序は、人の子の秩序です。この世界に対する唯一の希望は、キリスト・イエスにあってこの新創造が生じることなのです。

イスラエルの歴史に予表されている真理

主イエスの人性について長々と述べることもできます。聖書ではそれに関して、もっととても多く述べられています。ですから、おそらくあなたは理解するでしょう。しかし、神はこれを歴史の基礎そのものの中に深く据えておられることに注意して下さい。過去の、神の大いなる実物教材として、イスラエルを挙げることができます――イスラエルの過去の歴史は、神の数々の原則の大いなる図解書として、依然として際立っています――昔のイスラエルの国家生命そのものが、主イエスの完全な人性を示すものの上に据えられていたことがわかります。

レビ記を見ると、数々の祭があります。これらの象徴や型により、人性(細かい粉)がどのような立場にあるのかがわかります。神はその箇所で図示的に、神を満足させる民の生活はある性質に、ある人性に基づいていなければならないと述べておられます。古い駄目になったアダムの人性ではなく、別の方の人性です。そのような民の生活の基礎自体の中に、この現実が据えられています。そこには完全で朽ちることのない人性があります。そして、これらの祭の中から、パン種を示唆するものや、その疑いのあるものは、すべて除き去られなければなりません。パン種は古い性質の腐敗性や発酵性を意味します。神のためのイスラエル人の生活の基礎には、パン種の余地はまったくありません。

これに関することがレビ記にたくさん記されていることがわかります。しかし、私たちはその根拠全体を探ることはしません。私が指摘したい事実はただ次のことです。すなわち、人の子である主イエスの人性は、神の宇宙の中に、神を満足させる何らかの新しい性質、何らかの新しい型、何らかの新しい秩序を打ち立てるのです。

ここに、信仰によるキリストとの合一の、途方もない素晴らしい意義があります。信仰によるキリストとの合一は、私たちを神に受け入れられている方の中に移すのです。その実際的効力は、あなたや私が――ますます――古いアダムの立場、天然の立場、私たちの立場を離れて、キリストの中に住むことでなければなりません。これがまさに意味するのは、信仰によって彼ご自身にしがみつき、自分自身を去らせるなら、神は喜ばれるということです。もし私たちが自分自身の立場、天然の自分の有り様にしがみつき、それを考慮して、それから何か良いものを造り出そうとするなら、あるいは、その性質が何と悲惨か嘆き悲しむことに自分の時間を費やしたりするなら、私たちは神の栄光をすべて失います。神の栄光は別の人性の中にあります。キリストにとどまり、キリストで満たされ、信仰を用いてキリストにしっかりとしがみつき、キリストの中に住みなさい。そうすれば、栄光はそこにあります。それは人の子であるキリストの栄光です。クリスチャンの経験の中で、最も幸いな輝かしい時はいつでしょう?キリストがどのような方か熟考し、夢中になっている時ではないでしょうか?

贖う者―近親者

次に、人の子であるキリストの栄光は、贖う者―近親者である彼の中に見られます。第一は新しい人性の究極的型であり、次に第二は贖う者―近親者です。あなたはただちに、あの古典的小著であるルツ記を思い浮かべるでしょう。ルツの物語をあなたに詳しく話す必要はありません。しかしそこから、主の贖いの働きに関する数々の偉大な真理と原則を私たちは引き出します。

その物語は要約するとこうです。嗣業が失われました。嗣業を失った者たちが、厳粛に、もの悲しく、しかし熱心に、その嗣業について心配する日が来ます。さて、嗣業の管轄権と権利を失う事態に、彼らは直面します。彼らは失われた嗣業のことを心から心配します。律法によると、その失われた嗣業を買い戻すには、ただ一つの方法しかありません。それは近親者による方法です――その人は近親者でなければならず、彼らの身内でなければなりません――その人は贖う権利、贖う能力、贖う意志を持っていなければなりません。嗣業を失い、今やそれを回復することを心から願うようになった人々は、失われた嗣業を贖う権利、能力、財産、意志を持つ、贖う者―近親者を探しています。ルツがどのようにボアズと接触を持つようになったのかはご存じでしょう。ルツは、彼が贖う者―近親者であると考え、もし彼にその気があるなら、その能力があることを認識しました。しかし、優先権を持つ別の人がいるため、彼には権利がないことを彼女は見いだします。権利を持つ者にお願いする必要がありますが、その人には権利はあるものの、能力も財産もないことがわかります。そこで、その人は自分の権利をボアズに譲ります。こうしてついに、その役目に全くふさわしい者はボアズであることになります。今や彼は権利を持っています。彼にはそれをなすための財産、能力、意志があります。

しかし次に、この物語にはもう一つ別の点があります。律法によると、贖う者―近親者は、嗣業を贖ってあげる人を、めとらなければなりません。そして、そのために障害は除かれなければなりません。他の近親者には障害があったため、そうすることができませんでした。しかし、ボアズにはそれをするのに何の障害もありませんでした。

この物語には、いくつかの要素があります。私は詳細をすべて取り上げるつもりはありません。大まかな全体像を取り上げるだけです。贖う者―近親者であるキリストの栄光のこのように精緻な描写を、神がどのようにそこに置かれたのか、あなたは見ることができます。嗣業は失われ、神が人のために用意されたものは全て失われました。人は今や、アダムの罪を通して、嗣業を失っています。アダムにあって、人はもはや万物の相続者ではありません。嗣業はなくなりました。アダムにある人性の悲劇とはこれです。すなわち、かつては相続者であり、相続するようにされていたのに、今では破産状態にあり、望みもなく、すべてを失っているのです。これがこの人性の悲劇です。これが生まれながらの私たちの状態です。私たちの存在中にそれが記されています。何かが欠けており、何かが失われており、あるべき何かがないという事実を、私たちの性質そのものが証しします。私たちはそれを手探りしています。それを切望して欲することが、本性そのものの中にあります。人の野心、人の探求や情熱はすべて、「何かを得なければならないのに、得ることができない」という本性からの人の叫びなのです。人は、この世が自分に与えうるものをすべて積み重ねますが、「だめです、私は得ることができませんでした、自分の求めるものは見つかりませんでした」と言いながら死んで行きます。人は嗣業を失った相続者なのです。

贖う権利

そして、このような世界の中に、このような種族の中に、神は御子にあって人として、贖う者―近親者として外から来て下さいます。まず第一に、彼には贖う権利があります。なぜでしょう?彼は全被造物の中で最初に生まれた方だからです。彼は第一位を占めておられます。次席の近親者はいません。「彼は万物よりも先にあります」(コロサイ一・一七)。彼は最初に生まれた方です。彼には権利があります。それは彼が占めておられる第一位の地位のためです。ああ、筆頭者、第一位の者、最初に生まれた者である主イエスについて、もう一度すべて再考して下さい。そうするなら、それが彼の権利を構成していることがわかるでしょう。なぜなら、聖書ではもともと、常に権利を持つのは最初に生まれた者だからです。これはイエス、人の子、神の定めと任命によって第一位である方のことです。彼には贖う権利があります。

贖う力

彼には贖う力もあります。すなわち、彼には贖うための能力があります。さて、贖うためには、本来、何が必要なのでしょう?嗣業は私たちのために贖われなければならないだけでなく、神にもたらされるよう贖われなければなりません。私たちは神の嗣業であり、神は私たちを所有する権利を持っておられます。私たちが自分の嗣業を失っただけでなく、神も私たちの中にある嗣業を失われました。私たちが見返りとして満足できるものでも、神は決して満足できません。神の嗣業は私たちの中にありましたが、人の罪とわがままにより、この嗣業は失われました。神がこの嗣業を取り戻すには、神にしたがって贖いがなされなければなりません。贖いは神を満足させるものでなければなりません。そして、神を満足させるには、何でもいいわけではありません。神ご自身の性質に完全にふさわしいものでなければならないのです。ですから、私たちはただちにこう言いましょう、「私たちが虚しい生活様式から贖われたのは、朽ちるものによってではなく、銀や金によってでもなく(中略)傷のない小羊の血のような、尊い血によるのです」(一ペテロ一・一八〜一九)。神を満足させるものとは何でしょう?朽ちることのない何かです。神の満足を取り戻せる唯一のものは、朽ちず、汚れず、しみや傷のないものでなければなりません。「しみや傷のない小羊」という言葉は、常にキリストと関係しています。これが贖う能力であり、贖う力です。贖いは失われた嗣業を回復することを意味します。そして、彼はご自分の血によって贖われたのです。なぜなら、その血は、朽ちることのない命、罪のない命、全く義であり聖である神を完全に満足させる命である彼の命を表しているからです。これが贖いの代価です。ああ、朽ちることのない主イエスの人性を見ることは、贖う大能の力を見ることです。主イエスを退けるなら、贖いの力と贖いの権利をすべて退けることになり、贖いの望みはなくなってしまいます。銀や金のような朽ちるものでは、私たちを贖って神にもたらすことは決してできません。贖われて神にもたらされることが意味するのは、神ご自身の性質と一致する命が到来しなければならないということなのです。

ああ、この点に関して人々は全く盲目です。前の黙想で、進化論に見られるひどい盲目について述べました。しかしここには、あの恐るべき福音というひどい盲目があります。それは全く福音ではないのですが、宣べ伝えられています。つまり、ヒューマニズム(人間至上主義)のことです。それによると、人は自分の力で神のようになることができます。人が自分の内側を十分深く掘り進んで行くなら、完全性の根幹や種子が奥深くに見つかります。外からの干渉はまったく必要ありません。神が干渉する必要はありませんし、キリストがこの世に来る必要もありません。人は自分で向上しますし、自分自身を良くすることもできます。人は根本的に素晴らしい生き物です。何という盲目でしょう!あなたは言います、「今日の出来事や今日の世界情勢に照らして見ると、あきれてしまいます。それを信じて、宣べ伝えさえする人がいようとは、あきれたことです。暗黒時代よりもひどい恐るべき残虐行為について話していたかと思うと、次の瞬間には、人は自分で神のようになれると言い出すのですから、驚きです!」。盲目!本当に重要なのは次のことです。今日、人々は道徳的にますます優れた者になっているのでしょうか?人々は道徳的に向上しているのでしょうか?今日の私たちの知識に照らしてみて、「向上している!」と誰が言えるでしょう。

それでも、彼らはこのヒューマニズムの福音を依然として宣べ伝えています。「人は常に向上しており、理想郷が水平線上に見えます。なぜなら、人は自分自身で向上することができるからです!」と彼らは宣べ伝えています。これは盲目であり、ひどい盲目です。しかし、ああ!神の御子、人の子を見ることは、希望を見ることであり、贖いのある方向を見ることです。なぜなら、贖いは別の種類の人性の方向にあり、贖う力の中にあるからです。それは、そこに神を満足させる何かがあるからであり、神を満足させないものは何であれ、決して贖う力にはなりえないからです。主イエスはその力なのでしょうか?「そうです、彼にはその力があります、彼にはこれをなす能力があります」と、私たちは全員ここで声を合わせて叫びます。

贖う自由

しかし、別の疑問が生じます。彼には贖う自由があるのでしょうか?この贖う近親者という問題では、一つのことが当然視されています。それは、その人は一人の妻しか持てないということです。もしその人がすでに結婚しているなら、資格はありません。なぜなら、嗣業を贖ってあげる人と結婚できないからです。ルツの場合、これが他の近親者が抱えていた問題でした。彼は自由ではありませんでした。彼は結婚しており、家族を持っていました。しかし、ボアズは結婚しておらず、自由であり、ルツを妻に迎えることができました。障害は何もありませんでした。

さて、私たちは霊的に厳粛な領域の中に入ります。「キリストは教会を愛して、ご自身をささげられました。それは、あらゆる不法から教会を贖うためです」(エペソ五・二五、テトス二・一四)。「夫たちよ、キリストが教会を愛して、ご自身をささげられたように、自分の妻を愛しなさい」。贖われた人は主に結び合わされます。そして主イエスは――恭しくこう言ってもいいでしょうか?――ひとりの妻しか持ちません。小羊の婚宴は一度きりです。教会が彼の唯一の花嫁です。彼が贖った者たちだけが、彼ご自身とのそのような関係の中にもたらされます。障害は何もありません。彼には贖う完全な自由があり、嗣業を贖ってあげる人と結婚するほどに、贖いの結果を引き受ける完全な自由を持っているのです。

贖いは、主イエスとの神聖な関係の中に、私たちをもたらすのではないでしょうか?これが、彼に与えられている贖う者―近親者という称号の真の意義ではないでしょうか?それは私たちが彼に結び合わされるためです。家財として贖われるのではありませんし、物として贖われるのでもありません。あらゆる絆の中で最も聖なる絆によって、永遠に彼に結び合わされるために、贖われるのです。これが人の子の意義です。そうです、彼は自由であり、そうすることができるのです。

贖う意志

一つだけ問題が残っています。彼にはそうする意志があるのでしょうか?彼には権利、能力、自由があります。彼はそうされるのでしょうか?ああ、この最後の問題がかなえられ、答えられるまでの間、ルツとナオミはどれほどハラハラドキドキしながら待たなければならなかったことでしょう!彼はそうされるのでしょうか?ああ、しかし、この午後の時、ハラハラドキドキする必要はありません。彼はそうされるのでしょうか?彼にはそうする意志があるのでしょうか?さて、これに何と答えましょう?彼はそうしたのです。これがこの疑問に対する答えです。残る問題は、もし私たちがまだその享受の中に入っていないなら、それを受け入れて信じることです。彼にはそうする意志があります!

どうか主が私たちの心を魅了して、人の子であるイエスをさらに見せて下さいますように