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千年王国


そこで今や、私たちの探求の範囲は広がることになる。報いと栄光――弟子の戴冠式――は性格と奉仕に基づく条件付きのものであることは明らかになった。先ほど調べたたとえ話が示唆しているように思われるが、この原則は弟子が千年期に入ること、あるいはそれから排除されることに、どの程度影響するのだろうか?この時代を教会は長らく見落としていたのである。しかし、主が自ら再臨して全地に王国を打ち立てられることは、最も純粋な黎明期にあった教会の普遍的信条だったのである。「(この再臨と統治の)確かさは、使徒たちの直弟子たちと話をした人々によって注意深く繰り返し教えられたのであり、正統的な信者たちの間で支配的心情だったようである」(ギボン)。「この優勢な見解はオリゲネス以前はいかなる反対にもあわなかった」(モスハイム)。オリゲネスまでは、それを否定したクリスチャンの文筆家は見出されない。「最初の二世紀の間、この教理は普遍的だった、と見なすことにためらいを感じることは誰にもできない」(ギスラー)。「使徒たちの次の時代の著名な教父たちはこの教理を信じて教えていたのであり、その時代、それに反対したり非難した人は誰もいなかった。それは当時の普遍的教理だったのである」(チリングワース大司教)。「キリストの完成された王国は天に移すべきである、という思想はおそらく現代的観念である。パウロやヨハネによると、神の王国は地上に設立されなければならず、これが宇宙的変化に一役買うのである」(ソラック博士)。「主ご自身が、叫びと天使のかしらの声と神のラッパの音と共に、天から下って来られるからである」(一テサロニケ四・一六)。「勝利を得る者、私の働きを最後まで保つ者に、私は諸国民に対する権威を与える。彼は鉄の杖をもって彼らを支配する」(黙示録二・二六)。

「神の王国」もしくは「天の王国」は、ダニエル書から直接引用された句であり、「全を満たす」王国であって(ダニエル二・三五、四四)、全世界の帝国に置き換わる。それは明らかにメシヤ王国である。「この世の王国は私たちの主とそのキリストの王国となった」(黙示録一一・一五)。それは今、奥義的王国(マタイ一三)または教会によって予表されており、両方とも再生が不可欠である(ルカ一七・二一、ヨハネ三・三)。しかし、聖書のすべての預言書が言及しているが、再臨の時にそれが現れて千年王国になる。それは私たちの主が戻って来る時に携えてこられる「王国」である(ルカ一九・一二、一五)。しかしながら、一面において、王国は現存しているのである。なぜなら、いくつかのたとえ話では、王国は教会だからである。事実を描写する節では実際上の王国であり、比喩の節では奥義的王国である。その理由は明らかなように思われる。私たちの主は、個人的に現存しておられた時、王国もまた現存するものとして語られた。なぜなら、王国は王の形で現存していたからである。「もし私が神の霊によって悪鬼どもを追い出しているなら、神の王国はあなたたちの上に臨んでいるのである」(マタイ一二・二八)。王がこの世から去られた時、王国も去ったのである。しかし、主は奥義的な形で彼の教会と共におられ、それゆえそこに奥義的な王国が存在しているのである。「私たちを愛する御子の王国の中へと移して下さった方」(コロサイ一・一三)。永遠の王国について、預言はわずかしか啓示しておらず、そのわずかな箇所もおそらく黙示録の最後の二つの章のみである。その中で聖霊が「王国」(一コリント一五・二四)という句を用いておられる唯一の節において、彼は千年王国のことを言っておられるのである。

さらに、終末の前に王国の福音の世界的復興があることは確かである(マタイ二四・一四)。すでに私たちの主の黙示録的発言に関して、懐疑的な界隈においてすら、かなりの注目が集まっている。「私たちの主の教えの中で、王国の観念は至高のものである。しかし、この主題ほど注解者たちの間に多くの分裂があるものは他にないと言って差し支えない。王国は間違いなく歴史的教会であると言う人もいれば、王国は全く未来のことであって、現体制を突如として制圧する大いなる神の霊的体制であると言う人もいる。さらにまた、王国は地上に実現されるべき理想的な社会体制に他ならないと言う人もいる。四番目の人々にとって、王国は個人の心の中の神の支配である。最近の批評家たちの間では、終末論的解釈がますます強調される傾向にある。また、私たちの主の教えにおいて、王国は本質的に偉大な未来の天的体制であり、彼の来臨の時に現される、という見解が支持される傾向にある。完全な王国はいまだ将来のことである。それは常に祈り求めるべきものである。それは常に私たちの前にある偉大な目標なのである」(一九一〇年のオックスフォードにおける大学説教でのダーシー大司教の言葉)。「肉と血は神の王国を受け継ぐことはできません。朽ちるものは朽ちないものを受け継ぐことはできません。見よ、私はあなたたちに奥義を告げます。私たちはみなが眠るわけではありませんが、みな変えられるのです」(一コリント一五・五〇)。

そこで、「千年期は報いとしての性格を帯びているのではないだろうか?」という疑問が自然に生じることになる。あまたある冠の中からいくつかを得ることが、王国に入るための資格なのではないだろうか?王国から追放された弟子の名が、依然として最終的に小羊の命の書に記されていることはありえるのだろうか?(黙示録二〇・一五)。ただ聖書だけが答えうるのは明らかである。そうでなくても、この指摘は警告を発している。王国における階級は奉仕と苦難によって決まる、という点については皆が同意している。王国への入国あるいは追放が奉仕と苦難によるものだとすると、それはすでに受容されて教えられている重要な原則の拡張に他ならない。しかし神の御言葉に向かう前に、信者が追放される可能性を多くの敬虔なキリストの僕たちが聖書から理解して教えていたことに注意を払う方が良いだろう。使徒ヨハネの実際の弟子であるポリュカルプスは言った、「もし私たちが今の時代に彼を喜ばせるなら、私たちも来るべき時代を受けるであろう。もし私たちが彼にふさわしく歩むなら、私たちも彼と共に治めるであろう」。千年期の支配は殉教者に限られさえするという意見は、「周知のように初期の教会ではかなり優勢であった。そしてそれは殉教の助けとなっただけでなく、この名声を得ようと望む多くの人を生み出した。なぜなら、第一の復活は贖われた教会の一部に限られるからである。永遠のいのちと嗣業は信仰と無代価の賜物によるのであり、すべての信者に共通するのに対して、千年期の冠と第一の復活は報いである――キリストのためにキリストと共に受けた苦難の報いである。特別な栄光と特別な希望が、迫害の中にある信者たちを慰め、支えるよう計画されている。教会は間もなく、それが必要であること、そしてそれを用いることを団体的に経験するよう召される、と私はいささかも疑わない。今でも、またこれまでも、教会の構成員の何人かがこれを経験してきたのである」(ブルフ)。「黙示録二十章の期間の間、自分は主と共に治めるであろうという期待を保証する聖書の箇所を持っている神の子供はいるのだろうか?いや、反対に、この完全な最後の国家でキリストと共に治めるという神の約束を、すべての神の子供が持っているわけではないのではないだろうか?」(ロバート・チャップマン)。「第一の復活にあずかるこの栄光の一団に迎え入れられるのは、多分、(個人的に現在の時代を通して)キリストの謙卑と苦難にあずかった人たちだけであろう――贖われた人たちの中から選ばれた一部分であり、殉教者たちを含むであろう」(E.R.クレイブン、ランゲの黙示録の編集者)。「彼を信じているけれどもそれ以上先に進まない人たちにも、主はまことに永遠のいのちをお与えになる。しかし最後の日が来るまで、千年間の千年期の支配が終わるまで、それは達成されないのである。したがって、そのような人たちは天の王国に入ることを許されないであろう」(G.H.ペンバー)。「聖徒たちの将来の状態に関するあらゆる啓示の中で最も重要な啓示は、彼らは支配するイエス・キリストと一体化されなければならない、すなわち『勝利する』者とならなければならない、ということである。すべての聖徒がこの立場に上げられるわけではない。これは勝利の聖徒たちのためなのである」(A.T.ピアソン博士)。「永遠のいのちの賜物は潜在的に賞を含んでいる。しかし、信者が試験される現在の期間、この可能性は決して発達させられないかもしれない。そのような場合、その人は来たるべき時代に王国とその栄光を失うであろう」(S.S.クレイグ)「ある人たちの見解によると、最も不従順な神の子供ですら、朽ちない冠を失い、『ベーマで取り返しのつかない悲惨な損失を被りはする』ものの、キリストと共に支配する特権を得るのだそうである。そのような信者はキリストと共に支配するのに道徳的にふさわしいだろうか?『第一の復活にあずかるのは祝福された聖なる人である』」(J.スラデン)。「これは観察から得られた悲しい事実であるが、あらゆる種類の犯罪があらゆる酷さで、回心後、信者たちによって犯されている。したがって、彼らは確かに完全に王国を失い、その後の永世では最も低い地位しか得られないであろう。この真理の本来の重要性が、あらゆる曖昧さから速やかに回復されなければならない。それは神に対する厳粛な畏れを生み出し、私たち自身の責任の重さを明らかにするにもかかわらず、単一の目を持つ人々はその証拠の十分さを認識して、それを信奉するであろう」(R.ガボット)。「王国は私たちの主が戻られる時に現される善の支配である。この王国からの追放は永遠の救いを失うことではない。王国への入国は(ある場合に)不可能になるが、それで救いが妨げられるわけでは決してない」(オルシャウセン)。「ああ、輝かしい第一の席を得ようという高貴な大志よ!神の王国への入国を『豊かに』供給されるための、絶えざる福音的奮闘よ!キリストはこれらの高く上げられた王座を、際だった恵みというただそれだけの理由で与えることはなさらない。そう、これらの王座は失われるかもしれないのである。なぜなら、それらは用意されている人たちに与えられるからである。そしてそれらは、福音的に言うと、『ふさわしい』人たちのために用意されているのである」(マデレーのフレッチャー)。このように見解は見事に一致しており、探求のための明白な証拠を少なくとも一つは与えているのである。

「栄光、誉れ、喜びの冠を受けよ」と大司教は英国の戴冠式で言う。しかし、冠は王国の栄光ではなく、その証しと象徴にすぎない。皇帝ニコラス二世が捕虜として冬宮に戻った時、護衛は「ようこそ、ロマノフ大佐」という共和制の挨拶で出迎えた。おそらく、宝石で飾られた飾り輪を失ったことは皇帝の心によぎりさえしなかったであろう。ただ帝国を失った悲劇を思ったであろう。それゆえ、私たちの主が「勝利を得る者、最後まで私の働きを保つ者に、私は諸国民に対する権威を与える。そして彼は彼らを鉄の杖で治める」(黙示録二・二六)と言われる時、値打ちがあるのは象徴ではなく(笏は単なる鉄にすぎない)、象徴が示す大いなる地位と力であり、それを主は試されて良しと認められた神の僕にお与えになるのである。さて、よみがえらされた聖徒は千年王国で被支配者にはなりえない。なぜなら、「彼らは生きてキリストと共に支配した」(黙示録二〇・四)からである。事実、全員王座に着くのである(黙示録二〇・四)。聖書を見ても、この世を見ても、冠のない王などいない。(マタイ二五・三四の羊――救われた異邦人――は千年王国と永遠の王国の両方で被支配者である。)冠は王国に常に伴うものであり、その証しと象徴である。それゆえ私たちの主は、条件付きで冠を提供することを(黙示録三・二)、条件付きで王座を与えることと(黙示録三・二一)同義の褒賞としておられる。またパウロは、イスラエルが地上の王国を失った事例を用いて(一コリント一〇・五)、朽ちない冠を失うことについて描写している(一コリント九・二七)。この二つは分けられないのである。