再び聖霊はこの二重の真理を新たに示される。神はすべての義認の最高の模範として一人の人を選ばれ、聖霊も信仰による義認を示すために一人の使徒を特別に選ばれた。アブラハムは悔い改めた異教の偶像崇拝者であり、聖地を目指していたが、その彼に神は言われた、「あなたの身から出る者があなたの跡継ぎになる」(創世記一五・四)。そして、彼を無数の星空の下に連れ出して、神は再び言われた、「あなたの子孫はこのようになる」。すると、「アブラハムは主を信じた」――すなわち、パウロが述べているように、彼は神を信じたのである(ローマ四・三)。「神はこれ(彼の信仰)を義と認められた」。アブラハムは神を信じた――ただそれだけであった。神が彼に、ずっと後の時代のキリスト――キリストは唯一の子孫であるだけでなく複数の子孫でもある(ガラテヤ三・一六)――をおぼろげに、しかし確かに示された時、彼は何の疑問や疑いもなく神の御言葉を受け入れた。するとそれによって、神はただちに彼を義人として受け入れたのである。天からの声が承認したわけでも、(私たちの知る限り)感情の波が信じるアブラハムを覆ったわけでもなかった。静かに、神秘的に、突然、神はアブラハムを再生され、アブラハムは信仰のみに基づいて義とされたのである。
ここで使徒は決定的な質問を問いかける、「アブラハムは彼の信仰が義と勘定された、と私たちは言います。それでは、どのようにそう勘定されたのでしょうか?割礼を受けていたときでしょうか、それとも無割礼のときでしょうか?」(ローマ四・九)。アブラハムは義認を自力で獲得したり、「秘蹟」で得たのだろうか?あるいは、神のあわれみを補う長期間の従順と聖なる生活で勝ち取ったのだろうか?それとも、信仰のみによったのだろうか?その答は極めて重要なので、否定的にも肯定的にも言い表すことができる――「割礼を受けていたときではなく、無割礼のときです。それは彼が信じるすべての人の父となるためです」――創始者、模範となるためだったのである。このように聖霊の答は完全に明らかである。アブラハムが義とされたのは、彼が働きや祭儀を行う前であった。それゆえ彼は、神のために働く前に神を信じて、信仰によって義とされたにちがいない。信じるまで、アブラハムはカルデヤの偶像崇拝者であり、失われた人であった。それゆえ、見よ、神がどのように救われるかの完全な見本、不変の実例を。「信じるすべての人の父」。
しかし、信仰の盾には逆の面もある。アブラハムは輝かしい聖なる生活の目標に到達した。神が彼に最後にして最大の放棄を要求されると、彼は明け渡したのである。ここで、何度も繰り返し試みを経てきた年老いた族長の上に、第二の大いなる義認が臨む。イサクをささげる決意が固まった瞬間、主の御使いは言った、「あなたがこれを行ったので」――つまり、働きである――「また、あなたの息子を惜しまなかったので、私は祝福をもってあなたを祝福する」(創世記二二・一六)。それは静かで奥義的な内なる再生ではなかったが、戴冠式、神の公の厳粛な是認であり、報いをもたらしたのである。パウロは新約においてこれに並び立つ。「私は良い戦いを戦い、行程を走り抜きました。私は信仰を守りました」――これはみな働きである――「それで、私のために冠が用意されています」――これはパウロに与えられた特別な啓示であり、アブラハムの生涯の終わりに啓示が与えられたのと同じである――「それは義の冠であり」――義の帰結としての冠であり――「義なる裁き主は」――第二の義認を表彰して――「かの日に私に与えて下さいます」(二テモテ四・七)。その時からパウロは、以前は知らなかったことを知るようになったのである(一コリント九・二七、ピリピ三・一一〜一四)。
そこで聖霊は、この第二の義認を衝撃的な力強さで啓示するために、第二の使徒を選ばれた。「私たちの父であるアブラハムは、イサクを祭壇の上にささげたとき、行いによって義とされたのではないでしょうか?(中略)行いによって信仰が完成されたのです。(中略)行いによって人は義とされるのであって、信仰のみによるのではありません」(ヤコブ二・二一)。アブラハムの第二の義認は、人の前ではなく神の前のものだったことは明らかである。なぜなら、彼がそのように義とされた時、神だけが――イサクを除いて――そこにおられたからである(創世記二二・一六)。ヤコブは信じる前の行い、つまり律法の行いについて述べているのではない。なぜなら、「信仰は彼の行いと共に働き、行いによって信仰が完成された」からである。信仰はすでに存在していたのである。それゆえ、ヤコブが言う義認は永遠の命に至る義認のことではない。信じる前に働きによって義とされる、という考えを聖書は激しく否定する。「律法の行いによっては、いかなる肉も義とされません」(ローマ三・二〇)。しかし、信じた後に行った働き、信仰によってなされた働き、「信仰の働き」(二テサロニケ一・一一)は、報いのために義とするのである。「もし誰か(弟子)の働きが残るなら、その人は報いを受けます。もし誰か(弟子)の働きが焼かれるなら、その人は損失を被りますが、その人自身は救われます」(一コリント三・一四)――なぜなら、命に至る義認をすでに所有しているからである。「私には何もやましいことはありませんが、それで義とされるわけではありません」――これは第二の義認に関してである。再生された使徒には良心の咎めは何もなかったが、第二の義認に関しては確信がなかったのである。(特別な啓示を除けば)ベーマに着いておられる裁き主だけがその確信を与えることができる――「私を裁く方は主です。ですから、その時が来るまで、何事も裁いてはなりません」(一コリント四・四)。それゆえ御霊は私たちに命じておられる、「自由の律法によって裁かれる者として語り、かつ行いなさい」(ヤコブ二・一二)――自由の律法とはモーセの律法ではなく、キリストの律法のことである。
神がアブラハムを召されると、彼は信じた。神がアブラハムを試されると、彼はそれに耐えた。その時、二つの義認が完成されたのである。信仰による彼の義認について、パウロは彼の再生の瞬間を指し示す。働きによる彼の義認について、ヤコブは成就された従順から出た彼の最後の行動を指し示す。人はみな、この両方の義認を得なければならない。第一は血による義認であり、次は働きによる義認である。第一は命のための義認であり、次に報いのための義認である。第一はイスラエルのエジプトからの脱出であり、次はカレブとヨシュアの荒野からの脱出である。一方は、別の方の従順による転嫁された義に基づく判決である。他方は、私たち自身の従順による能動的な義に基づく判決である。なぜなら幸いなのは、「働きがなくても神に義と勘定された人」だからである。また、「誘惑(試練)に耐えた人」も幸いである。「なぜなら良しと認められた時、その人は命の冠を受けるからです」(ヤコブ一・一二)。
したがって、勝利にも二種類ある。「元気を出しなさい。私は世に打ち勝ちました」(ヨハネ一六・三三)。この「世」は誘惑、罪への誘い、不敬虔な習慣、聖くない生活の総計であり、それらが我々の現在の環境を構成している。その圧迫に常に、絶えず、完全に抵抗して、主イエスは勝利されたのである。「勝利者」という言葉は内容がとても豊かである。それは圧迫、抵抗、戦い、勝利、打ちのめして征服する必要があるものを示唆する。常に努力し続けて勝利という結果に至ることである。激しく止むことのない誘惑にもかかわらず決して罪を犯さないことが、絶対的勝利者となることである。そして、そのように勝利した唯一の方がイエス・キリストである。今や、私たちの主のこの征服は、彼のすべての聖徒の勝利である。「神は私たちの主イエス・キリストを通して私たちに勝利を与えて下さいました」(一コリント一五・五七)。なぜなら、「私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利」だからである(一ヨハネ五・四)。打ち勝つ「だろう」ではなく、打ち勝っ「た」のである(改訂訳)。「キリストが」ではなく、「私たちが」である。なぜなら、信仰はキリストの勝利を私にもたらすからである。私はキリストにあって勝利したのである。なぜなら、彼と私は一つだからである。「私に今臨んでいる争いや苦しみは現実の戦いではなく、勝利を祝う祝典に他ならない」(ルター)。信じた最初の瞬間から、すべての信者にとって勝利は確かな事実である。「神から生まれた者は誰でも」――これは再生された人全員である――「世に打ち勝ちます。私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です」。しかし、第二の勝利があるのである。七回、私たちの主は彼の諸教会のすべての構成員に、勝利者になるよう呼びかけておられる。ムーディー氏は言う、「こんなにも多くのクリスチャンが失敗する理由は、彼らが敵の力を過小評価しているというこの一点に尽きる」。こうして私たちは神の二重の真理に到達する。この世と比較するなら、信者はみな勝利者である。互いに比較するなら、ある者は勝利者であり、他の者はそうではない。第一の勝利については単純な信仰によるが、第二の勝利は揺るぎない従順によってである。第二の勝利では、咄嗟の行い、その場限りの勝利、聖なる感情の盛り上がりの占める地位は、第一の勝利以下である。第二の勝利は確立された良い習慣である――揺らいだりよろめいたりしない走者の、大きな肺活量、堅い二頭筋、鉄の筋肉である。それは戦いで一度勝利することではなく、連戦連勝することである。「勝利を得る者を、私は私と共に私の王座に着かせよう。それは私が勝利して」――この二つの勝利は種類は同じだが、程度は異なるからである――「私の父と共に彼の御座に着いたのと同じである」(黙示録三・二一)。カレブの叫びが今こそキリストの諸教会の中に鳴り響くべきである――「私たちは必ず勝利することができます」(民数記一三・三〇)。
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