しかし、神の御言葉をざっと学んだだけでもわかるように、今や、贖われた魂に新たな地平が開かれる。いのちは信仰によるが、報いは信仰を持った後に行った働きの結果である。というのは、聖書は救われた一人一人の魂を、レースを走る走者、格闘する競技者、戦う戦士、種を蒔く農夫、建造する石工、逃げる逃亡者、襲撃する包囲軍とみなしているからである。そしてこれはみな「神がおられること、そして神は報いを与える方であること」(ヘブル一一・六)という基本的啓示を強烈に強調している。「多くの弟子たちの目はいまだにこの報いの奥義に対して盲目である。この奥義は御言葉が示す公然の秘密である。私たちが入るのは転嫁された義によってであるにちがいない。しかし、そうして信仰によって入った後、私たちの働きが階級の上下、地位、報いを決定するのである」(A.T.ピアソン博士)。カルバンはこの真理をほのかに見ていたにすぎなかったが、聖書の報いの教理を一つの文章にまとめている。「神は良い働きに報いて下さる、と言っても何ら矛盾はない。ただしこれは、それにもかかわらず、人は無代価で永遠のいのちを得る、ということを理解していればの話である」。
疑いもなく、これは神の教会に対する真理である。「見よ、私はすぐに来る。私の報いは私と共にあり、各々の(弟子に)働きにしたがって与える」(黙示録二二・一二)。この御言葉はだれに対して語られたのだろうか?「私、イエスは、私の天使を遣わして、諸教会のためにこれらのことをあなたたちに証しした」。A.J.ゴルドン博士が言うように、「罪の赦しを受けるために良い働きは何の関係もないという教理に律法主義者が憤るように、福音主義者は良い働きが報いの根拠になりうるという考えに反発する」ことがあまりにも多いのである。しかしパウロは言う、「植える者と水を注ぐ者は一つです」――これは立場と贖いにおいてである。「しかし、各自はそれぞれの労苦にしたがって報いを受けます」(一コリント三・八)。彼はまた、報いの二つの面のバランスを取っている。「奴隷たちよ、従いなさい。(中略)あなたたちは主から嗣業の報いを受けることを知っているからです。あなたたちは主キリストに仕えているのです」。他方、「悪を行う者は、自分が行った悪の報いを受けます。それには人の分け隔てはありません」(コロサイ三・二四)。このように、これは私たちに関係する真理なのである。イーディー博士は言う、「報いについてのクリスチャンの教理は見失われているか、失効状態で保持されていることがあまりにも多い。まるでこの教理が、天の栄光の無代価の賦与と完全にはつじつまが合っていないかのようである」。
思うに、報いに関する困難は、神が何に報いられるのかを調べるなら、すべて消え失せる。まず第一に、神の報いは敬虔さと敬虔な行いに最も重きを置いている。「あなたたちの敵を愛し、彼らに善を行い、何も当てにしないで貸してあげなさい。そうすれば、あなたたちの報いは大きく、あなたたちはいと高き方の子たちとなる。なぜなら、彼は恩を知らない者や邪悪な者にも親切だからです」(ルカ六・三五)。ここでは、私たちの天の父に似つかわしい性格や行いに対して報いが与えられる。隠れた祈りにも報いが与えられる。「隠れておられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れて見ておられるあなたの父は、あなたに報いて下さいます」(マタイ六・六)。祈りが答えられるだけでなく、祈る行為にも報いが与えられるのである。さらに、私たちの心構えも、私たちの奉仕に対する主の裁決に影響を及ぼす。「罪に定めてはならない。そうすれば、あなたたちも決して罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、あなたたちも赦される」(ルカ六・三七)。私たちの生活はキリストが私たちに下す判決文を一言一言書き綴っているのであり、私たちは僕として自分自身の判決を作成しているのである。なぜなら、善良さと栄光は一つの事柄の二つの面に他ならないからである。善良さは栄光の苦しみの面であり、栄光は善良さの輝く面なのである。
すべての労苦も厳密に報われる。一杯の水という最もささやかな贈り物でさえ報われるのである。「これらの小さな者の一人に、弟子という名のゆえに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者はだれでも、まことに私は言うが、決して自分の報いを失うことはない」(マタイ一〇・四二)。何に対して報いが与えられるのだろう?「働く者に対して、報いは恵みとしてではなく、当然与えるべきものとして勘定されます」(ローマ四・四)。したがって、奉仕に対する報償として神は認めて下さり、神はその是認を示す具体的な同等の証拠を授けることを喜ばれるのである。その大きさは厳密に等級分けされるであろう。「預言者を預言者の名のゆえに受け入れる者は預言者の報いを受け、義人を義人の名のゆえに受け入れる者は義人の報いを受ける」(マタイ一〇・四一)。「人が蒔くものは何であれ、これをまた刈り取るからです」(ガラテヤ六・七)。
しかし、とりわけ心を探る真理は、神は奉仕を行う理由に対して最も報われる、ということである。行いそのものは本当に良いかもしれないが、「あなたたちは自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。さもないと、天におられるあなたたちの父の報いを受けることはありません」。このように、動機が決定的に重要であると啓示されているのである。「主は暗闇の中に隠されている事柄も明るみに出し、心のはかりごとを明らかにされます。そしてそのとき、神からそれぞれ賞賛を受けるでしょう」(一コリント四・五)。神は私たちに不相応な救いを与えて下さるが、不相応な賞賛を送ることは決してない。今の時代、へりくだって奉仕すればするほど、来るべき時代、ますます高く上げられるのである。「だれでも、あなたたちの間で偉くなろうとするなら(偉くなろうと願うなら)、あなたたちの僕となり、あなたたちの間で第一になろうとするなら、すべての者の奴隷となりなさい」(マルコ一〇・四三)。偉くなるには奉仕する必要があり、実際に第一となるには奴隷になる必要があるのである。
キリストのために受ける苦難もすべて報われる。「人の子のために、人々があなたたちを憎む時、またあなたたちを彼らの交わりから引き離し、非難し、汚名を着せる時、あなたたちは幸いです。その日には喜びなさい。また喜びのあまり躍り上がりなさい。なぜなら見よ、天におけるあなたたちの報いは大きいからです」(ルカ六・二三)。ほとんどの場合、苦難は動機を清める。また主は、人を恐れることがないよう、それ以上に神を大いに畏れるべきことだけでなく、彼の報いの大きさについても語られた。「示唆されている報いはみな、今は想像できないほどの価値を持つ賞であり、裁きの御座ではじめて十分に理解できるものである」(J.H.ローブ)。それゆえ、モーセは「キリストのゆえに受けるそしりをエジプトの宝にまさる富と勘定しました。それは彼が報償を仰ぎ見ていたからです」(ヘブル一一・二六)。全人類の中でこの賞の価値をもっともよく知っていた者、そしておそらく、私たちの主の後、もっとも大きな代価を払った者は言った、「この一事に私は励んでいます」。なぜなら、報いは神の承認の具体的表れに他ならないからである。私たちは、自分を承認するよう命じることができないのと同じように、神がこの承認を喜んで表明されるのを拒むこともできない。王座をさげすむ者は、王座を賜る方をもさげすむ。主はパリサイ人を叱責して言われた、「唯一の神から来る栄光をあなたたちは求めない」(ヨハネ五・四四)。
このように、報いは正当な動機ともなるのである。私たちの主やその使徒たちは、しばしばこの動機に直接訴えている――例えば、キリスト(マタイ六・一)、パウロ(一コリント九・二四)、ペテロ(一ペテロ一・一七)、ヤコブ(ヤコブ一・一二)、ヨハネ(二ヨハネ八)である。アレキサンダー・マクラーレン博士は言う、「私としては信じているが、クリスチャンの真理のこの面がかなりないがしろにされているせいで、私たちは大きな損失を被っている。今日行うすべての行いが記録されており、遠い将来、報告されるということ。これを本当に信じて、このスリルに満ちた考えを念頭に置くなら、変化がある、とあなたは思わないだろうか?」。コンコーダンスを見ればすぐわかるように、神の御子ご自身ほど報いを強調した者は誰もいない。御子は、魂の創造者として、どのような励ましを与えるのが賢く適切であるか、一番よくご存じなのである。
三つの事実が重要である――サドカイ派の創始者であるツァドクは、報いの教理を否定して不信仰な人生を歩み始めた。また、この信条は私たちの主に完全な効果を表した――「彼はご自分の前に置かれた喜びのゆえに、耐え忍ばれました」(ヘブル一二・二)。さらに、賢明な弟子なら誰もあえて、これほど多くの聖書の御言葉を無視したり、聖潔へのこれほど力強い励ましを投げ捨てたりすることはできない。この真理を裁きの御座で発見しても手遅れである。私たちが地に蒔くすべての種――すべての思い、言葉、行動――は神の中に貯えられており、ある日、麗しい実か、あるいは奇怪な実となって現れるであろう。私たちが蒔いた通りのものを、何を蒔いたか、どれだけ蒔いたか、どうして蒔いたかにしたがって刈り取るのである。それゆえ、「自分自身に気をつけて、私たちの造り込んだものを失うことなく、あなたたちが満ち足りる報いを受けるようにしなさい」(二ヨハネ八)。
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