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裁きの御座


さて、私たちは教会に関するこの啓示全体の核心に到達した――それはキリストの裁きの御座である。「それゆえ、私たちの目的は」――この言葉は、ベンゲルがこの世で唯一の合法的野心と呼んでいるものにより、栄誉を愛して追い求めることを意味する(ランゲ)――「彼に喜ばれることです」。「なぜなら」――聖なる志の動機の源として――「私たちはみな」――すべての使徒、すべての預言者、すべての殉教者は――「キリストの裁きの御座の前に」「現れ」――私たちの自身の良心、全世界、とりわけ裁判官に対して現れるのであり、私たちの内側で、あるいは外側の生活で起きたすべてのことが完全に現れるのである(ランゲ)――「なければならないからです」――神の裁きのために本来必要なことであり、神の聖の正当性を証明し、私たち自身のもっとも高貴でもっとも聖い本能が満たされるためである。「それは(報いが)良いものであれ悪いものであれ」「めいめいが行ったことにしたがって」――働きが報いを正確に決定するのであり、キリスト彼の体で行われたことにしたがってではなく、死後体を離れてなされたことにしたがってでもない――「体を通してなされた事柄に対して」――それゆえ、行いだけでなく思考や言葉も対象である。なぜなら、脳や舌も関係するからである――「報いを受けるためです」――賃金の受け取りを表す専門用語である(ディーン・アルフォード)(二コリント五・一〇)。ランゲは言う、「キリストを喜ばせるというパウロのゆるぎない目的は、彼とその仲間の信者たちが間もなくその前に現れることになる、あの法廷で良しと認められるとき初めてかなえられるのである。なぜなら、神の子供たちが肉体をもって生きていた間に行ったことはすべて、厳格な義の律法にしたがって、そこで裁かれなければならないからであり、一人一人の信者は自分が行った良い行いや悪い行いにしたがって報いを受けなければならないからである」。

イザヤ書から引用された宣言の範囲は全宇宙だからである――「すべての膝は神にかがみ、すべての舌は神に告白する。そして」――これは普遍的なことなので、教会は除外されない――「私たちはそれぞれ、神に自分自身の申し開きをしなければなりません」(ローマ一四・一一)。そうならないわけにはいかないのである。教義や行いの対立による混乱――苦々しい論争、個人間の争い、破門や呪い――を見るとき、裁きの御座を否定し去ることは本質的に信じがたいことであり、ありえないことである。裁きの座がなければならないし、実際にあるのである。静寂主義者の年老いたモリノスは、異端の罪を着せられて獄屋に連行されるとき裁判官たちに言った、「私たちは裁きの日に再会するでしょう。その時、あなたたちと私と、どちらの側が正しいかわかるでしょう」。さらに、これは神の誓いに基づいている。「私は自分をさして誓った、私の口から出た義なる言葉は帰ることがない」――この宣言は神の命と同じように変更不可能なものとして確立される――「すべての舌は私にかがみ、すべての舌は私に誓いを立てる」(イザヤ四五・二三)。それゆえ使徒は言う(ローマ一四・一〇)、私たちはみな裁かれることになるのですから、裁くのを差し控えようではありませんか、それは私たちのすべての行いの土台が私たちの神聖な裁判官によって良しと認められるためです、と。「私たちは労苦し」(欽定訳)――「奮闘し」(アルフォード)――「熱心であり」(スタンレー)――「このことを目的としており」(改訂訳欄外)――「彼に喜ばれたいという志を抱いています(改訂訳欄外)。なぜなら、わたしたちはみな、キリストの裁きの御座の前に現れなければならないからです」(二コリント五・一〇)。

弟子たちがその前に現れることになる法廷は特別である。(1)それはベーマであり、スロノスではない。弟子たちを取り調べるための裁きの座であって、反逆者たちの罪状認否のための王座ではない。なぜなら、裁く方(二テモテ四・八)は「僕たち精算をする一人の王」(マタイ一八・二三)だからである。これは私たちの主が再臨する時に行われる、三種類の裁き(ローマ一四・一二、マタイ二五・三一、黙示録二〇・一二)の最初のものである。裁きは「神の家」(一ペテロ四・一七)から始まる。(2)取り調べを受けるのはクリスチャンだけである。「私たちはみな」――すなわち、「あらゆる所で私たちの主の御名を呼び求めるすべての人たちと共に、キリスト・イエスの中で聖別され、聖徒として召された者たち」(一コリント一・二)。これは神の全教会に対する最後の取り調べである。命の書が記されることはない。なぜなら、これは失われた者たちに対する裁きではないからである。「悪人は義人の裁きに耐えない」(詩篇一・五)。(3)これは命がかかっている裁きではない。「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち裁きにあうことがなく、死から命に移っている」(ヨハネ五・二四、ローマ八・一)。信者はキリストと共に十字架に付けられ、カルバリで地獄の刑罰を免れた。これに基づいて、信者がこれ以上裁かれることはない。(4)この過程は個人的である。「ですから私たちはそれぞれ、神に自分自身の申し開きをすることになります」(ローマ一四・一二)。「私たちは」――クリスチャンは――「みな」――普遍的に――「裁きの座に」――司法の場に――「現れ」――公的に現れ――「立つ」――復活の中で立つ――「ことになります」――避けることはできないのである。「それぞれ」――個人的に――「神に」――神聖な方に――「申し開きをしなければなりません」――これは義務である。

ローマの判事が持ち運んだ携帯用の法廷。
諸教会は現在裁かれる(黙示録二・五)。今もこれからも、教会が団体的に――からだや花嫁として――裁かれることは決してない。しかし弟子たちは、彼らの団体的立場とは別に、僕としての各自の責任において申し開きをしなければならない。それゆえ黙示録では一つの実体としての教会は登場しない。唯一の例外(黙示録二二・一七)は、今の時代に言及するものである。またこの裁きの書全体を通して、神の子供たちは「僕」として以外登場しない。一つの例外は、千年期が過ぎて永遠に入るときである。悪人の裁きが千年間隔たっているこの事実(黙示録二〇・一七)は、二コリント五・一〇で「パウロが語っているのは正真正銘のクリスチャンのことであり、彼らの欠点や失敗はある日すべて暴露されること、それゆえ、このような問題を避けるよう目指さなければならないこと」を啓示している(国際批評注解)。個人を信者として裁くことは不可能である。なぜなら、義認においてはどの信者も異ならないからである。しかし、僕としての個人の裁きには様々な判決があり、奉仕や聖潔と同じく無限である。

この過程はもっぱら司法的なものとして啓示されている。「めいめいが行ったことを受けるためです」。めいめいが神から何か不明なものを受けるのではなく、自分が「行った」「ことを受けるため」なのである。これは奉仕とは関係ない一般的な栄光の授与ではない。「自分がしたように自分にされなければならない」(レビ二四・一九)という神の律法の執行なのである。「欺かれてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人が蒔くものは何であれ、これをまた刈り取ることになります」(ガラテヤ六・七)――これは弟子たちに対する言葉である。パウロはこれを鮮やかな明確さで述べており、二重に強調している。「どんな良いことを行っても」――裁判官が良しとするので――「奴隷であれ自由人であれ、主からその同じものを再び受けることになります」(エペソ六・八)。他方――「あなたたちは主キリストに仕えているのです。悪を行う者は」――裁判官が咎めるので――「自分が行った悪の報いを受けます。それには人の分け隔てはありません」(コロサイ三・二五)。

私たちの働きや行動、「体によってなされた事柄」が証拠となる。私たちはみな、「私たちの真の光の中に現れ」なければならない(アルフォード)。大昔、軟らかい土の上に鳥がさっと舞い降りた瞬間に残した爪痕の化石が、今やその行動を硬石の中に記録しているように、私たちの行動は私たちの性格のまごうことなき刻印である。なされた事柄が体がいかなるものであったか示すのである。火で熱せられた(一コリント三・一三)パリンプセストのように、私たちの生活は自分自身が記したものを一行一行静かに未来に送っているのである。自分の目で見たもの、自分の耳で聞いたもの、自分の心が愛したもの、自分の精神が信じたもの、自分の口が語ったこと、自分の手が書いたこと、自分の足で歩んだ場所――これらは裁きの御座での疑いの余地のない証拠である。隠された事柄(一コリント四・五)、動機(マタイ六・一)、心構え(ルカ六・三六〜三八)、正当な教会の決定(マタイ一八・一八)もまた、判決に影響を及ぼす。

パピルスや羊皮紙に書かれた文書で、以前に書いたものを消して再利用したもの。以前の文書が読み取れることが多い。(訳注)
マタイ五・七「あわれみ深い人は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」、ルカ六・三七「罪に定めてはいけません。そうすれば罪に定められません」のような御言葉であらかじめ語られている、主の姿勢の麗しい変更もまた、依然として司法的である。つまり、弟子たちの振る舞いが自分自身に跳ね返るのである。しかし、記憶にない罪を私たちはいかに取り扱えばよいのか、ということほど麗しい啓示はない。「多くの事柄で私たちはみなつまずきます」(ヤコブ三・二)。しかし、「あなたたちが人の過ちを赦すならあなたたちの天の父も、あなたたちを赦して下さいます」(マタイ六・一四)。「あなたたちが量る量りで、あなたたちにも量り返されるからです」(ルカ六・三八)。

証拠が完全に賞を決定する。「それ(その賞)が良いものであれ、悪いものであれ」。ギリシャ語は賞を意味する。「それ」――すなわち、受けるもの――「が良いものであれ、悪いものであれ、なされたことにしたがって、おのおのが受けるためです」。賞(救いとは異なる。救いは信仰を通してであり、功績と対照的である)は働きによって完全に決定される。したがって、私たちの人生がどうあることができたのか、また、依然としてどうあることができるのかについて、神の御手によって記された草案がどこかに存在するのである。自分たちに対する神の御思いに驚くほど忠実に生きた人々もいる。神の当初の御旨を見いだして、それに従おうではないか。

そこでパウロは言う、「私にとっては」――すべてのクリスチャンに対する実例、模範として――「あなたたちに裁かれることは」――キリストの教会に裁かれることは――「とても小さなことです」――最も重要性の低いことなのである、と(一コリント四・三)。「アジアにいる者たちがみな」パウロから「離れ去った」とき(二テモテ一・一五)、個人攻撃、厳しい非難、教会からの不信任、使徒の破門すらあったに違いない。教会の広い範囲にわたって、彼の名は別れの言葉となった。パウロですらそうだったのである。祭司の処刑人たちがサボナローラを火刑の柱に連れて来た時、彼らは「我々はおまえを、この地上の戦う教会から追放する!」と叫んだ。孤独な英雄はそれに応えて言った、「しかし、天で勝利している教会からではない!」。使徒は言う、「人々は私を裁かないかもしれませんが、私も自分自身を裁きません。それは私に誤りがなくて人の裁きを軽んじているからではなく、人々にも私にも裁く能力がないからです」。「そうです、私は自分自身を裁くことをしません」――私は最終的裁きを通過することはできません――「なぜなら、自分自身に対して何の間違いも感じていないからです」――私に罪の意識はないからです――「しかし、それで私は義とされるのではありません」――潔白で、申し分のない、完全な執事であると判明するわけではありません。ここでパウロは強力な強心剤を投与する。彼は私たちの手首を取り、ベテランの外科医のように、私がかつて経験したことがないほど強力なストリキニーネを注射器で注入する。「私を裁く方は主です」。信者の友人たちは信者をべた褒めし、批判者たちはこき下ろすかもしれない。この世はいかなる場合でも信者を完全に誤解するであろう。信者自身の良心は晴れやかかもしれない。しかし、だけが私たちを正確に評価し、精密に裁くことができる。「ですから」裁くために「主が来られるまで」「その時に先立って」――私たちの裁きはなされなければならないが、その時、その時節はまだ来ていないのである――「何事も裁いてはいけません」――最終的判決を下してはならないのである。もし、私の動機や内面生活を知っている私自身の良心ですら退けられなければならないとしたら、まったく外面的な判断しか下せない人々の賞賛や批判にはなおさら低い価値しかない。そして、もし聖書によって治められている照らされた良心に咎めを感じないなら、人々の鋭い批評にむやみに落胆する必要はない。大戦争の初期、一人の若者がロンドンのレストランで席に着いた。別の席に着いていた二人の若い婦人は、互いにささやきあいながら数分間彼をじっと見つめ、それから彼に近づいて小さな箱を渡した。彼がそれを開けると、その中には白い羽が入っていた。彼は言った、「なんて奇妙なことだろう、同じ日に二つも同じ贈り物を受け取るとは。今朝、バッキンガム宮殿でビクトリア勲章を受け取ったばかりなのに」。もし良心の法廷で潔白なら、神の法廷でも潔白であろうという十分な望みを持つことができる。「愛する者たちよ、もし私たちの心が私たちを咎めないなら、私たちは神に対して大胆さを持ちます」(一ヨハネ三・二一)。今は安息しているある善良な人が言った、「人々に言いたいことを言わせておけばいい。彼らは私を傷つけることはできない。私はあの大きな白い御座の傍らに生きているので、傷つくことはない」。