聖書は次に裁きの御座の実際の機能を私たちに明らかにする。これはすでに岩の上にいる者たちに対する裁きである。「すでに据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできません。この土台とはイエス・キリストです」。あるいは、イエスはキリストである、という土台である(一コリント三・一一)。神は事実を土台として据え、すべての賢い建築家は教理の土台を据える。「見よ、私はシオンに一つの石を据えて土台とした。これは試みを経た石、堅く据えられた尊い隅の石である」(イザヤ二八・一六)。再生された魂はみな、この岩の上に堅く植えられている。「イエスはキリストであると信じる者はだれでも、神から生まれています」(一ヨハネ五・一)。「イエス・キリスト」――これは個人の岩であり、「イエスはキリストです」――これは教理の岩である。すべての啓示、すべての再生、救われた何百万もの人々はみな、この土台に基づく。
しかし、贖われた魂の前に再び新しい領域が開かれる。「しかし、その上にどのように建てるか、各自(弟子)は注意しなさい」。信仰の土台が据えられてはじめて、神は働きに目をとめるようになる。信じる前に行う働きは、悔い改められるべき罪である(ヘブル六・一)。「しかし」という言葉は、多くの上部構造を持つ一つの土台を暗示しており、「注意しなさい」という言葉は、回心の後、どのように信者が建てるかに重大な結果が伴うことを暗示している。ゆっくりと、確実に、気づかぬうちに、働きの家――クリスチャンの教師にとっては教理の家――が一人一人の弟子の生活の周囲に築かれつつある。高価な花崗岩や大理石、銀の柱、金のコーニス。あるいは木の戸口、壁のために泥と混ぜ合わされた干し草、屋根をふくためのわら。最後の結果は次の通りである。すなわち、一方の材料の組は火に耐えるが、他方は燃料になるのである。火が到来しつつあるのだから、「その上にどのように建てるか、各自は注意しなさい」。
パウロはここで、水晶のように透明な明快さで報いについて述べている。「もし(キリストという)この土台の上に、人(弟子)が金」――金塊――「銀」――銀塊――「宝石」――大理石、碧玉、雪花石こう――「木、干し草、刈り株」――板材、しっくいのためにみじん切りにされた干し草、わら――「をもって建てるなら」「それぞれの(弟子の)働きはあらわになります。なぜなら、その火自身が各自の働きを検証するからです」――これは浄化することではない。なぜなら、可燃性のものは滅びるからである。これは罰することでもない。なぜなら、金も同じように調査されるからである。そうではなく、これは建物の真の姿を検証し、テストし、識別することなのである。「もしそれぞれの(弟子の)働きが残るなら、その人は報いを受けます」――すなわち、報いは裁きに耐えた働きに完全に限定されるのである。「もし(弟子の)働きが焼かれるなら、その人は損失を被ります」――その損失がどの程度のものであり、どれくらい続くかは、ここでは述べられていない。「しかしその人自身は、火をくぐってきたかのように」――炎の回廊を逃れてきたかのように、燃えさかる燃えさしや、降り注ぐ火花のシャワーをくぐって――「救われます」――なぜなら救いは信仰を通してであり、回心以前やそれ以後になされた働きとはまったく無関係だからである。一面に広がった火が、弟子たる身分をなめ尽くして検査し、何が報いを受けるのにふさわしいかを厳密に決定するのである。生涯を通して築き上げてきたものが倒壊し、弟子たる身分が完全に崩壊する時、その人は「焼け跡から逃れてくるときに焼かれつつ」(スタンレー)、「命からがら助かるのである」(ランゲ)。
材料の選択は弟子の選択の範疇である。「もしだれかがその土台の上に金、銀、宝石、木、干し草、刈り株をもって建てるなら」。すべての弟子が、どの材料をもって建てるのか、完全な決定権を持っている。弟子は自分の選んだものを選択するのである。競合する動機がこの選択を左右する。人気、社会的信望、富、快楽。あるいはキリストへの愛、忠誠、真理の感覚、神への畏れ。尊い石造物とは何か?土台に合う材料である。今日、世界には無数の声があるが、賢い人にはただ一つの声があるだけである。「天と地は(火の中で:二ペテロ三・七)過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去ることはない」(マタイ二四・三五)。すなわち、神の言葉は裁きの火を乗り切るのである。すべての考え、すべての言葉、すべての行動は、聖書という採石場から取られたもので築かれなければならない。クリスチャンの教師にとって、啓示の宝石のために適切な枠組みを作ることほど高い水準はない。クリスチャンの弟子にとって、神の御言葉の中に啓示されている神の御心を生活の中にもたらすことほど高い水準はない。一方は聖書を魂の中にもたらし、他方は聖書を生活の中にもたらす。
裁きの御座で、続いて弟子の働きがあらわにされる。「それぞれの(弟子の)働きがあらわにされます。なぜなら、かの日がそれを明らかにするからであり、それは火の中であらわされるからです」。信者の生活はパリンプセストであり、神の火に近づくにつれて、それまで見えなかった文章が見えるようになる。土台が試されるのではない。イザヤが言うように、それはすでに試みを経た石である。火が探るのはその上部構造である。どの信者も自分の立場については試されることはないが、自分の歩みが試されるのである。信仰ではなく働き、命ではなく生活、土台ではなく上部構造が試されるのである。「その火自身が、それぞれの(弟子の)働きがどうであるか証明します」。材料の種類がその火によって完全に明らかにされ、キリストの目によって徹底的に探られるのである(黙示録一・一四)。火は清めるのではなく、試すのである。そして可燃物を探り当てて、それを燃やす。キリストは私たちの働きを浄化するのではなく、司法的にそれを探られるのである。「炎のような目を持つ神の御子がこう言われる」――ここに火がある。「私はあなたの働きを知っている」――この火は材料の中心まで及ぶ。「あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている」――この火は質を検査し、金を見いだす。「また、あなたの終わりのわざが初めのわざより多いことを知っている」――この火は量を検査し、多くの純金を見つける(黙示録二・一九)。この火が証明するのである。
今や裁きの御座が判決を下す。「もし、その土台の上に建てた人(弟子)の働きが残るなら、その人は報いを受けます」。救いは土台に基づき、報いは上部構造に基づく。1「もしその働きが残るなら――報いを受けます」。報いは完全に働きを条件としているのである。「もしその人(弟子)の働きが焼かれるなら、その人は損失を受けます。しかしその人自身は、火をくぐってきたようではあっても救われます」。私たちの主も、かろうじて救われる可能性について語られた。「そうでないと、あなたたちは報いを受けることはない」(マタイ六・一)。その人自身は救われる――なぜなら、いかなる魂も決してキリストの土台から一掃されることはありえないからである。しかし、その人の働きは焼かれる――なぜなら、弟子としての身分は哀れな大火災により消失することがありうるからである。苦労して建てた住まいの上に焼夷弾が落ちるとき、その中の住人は突然燃え上がった火の手に困惑し、赤々と燃えあがる火の海をくぐって命からがら逃げのびるのである――「その人自身は、火をくぐってきたようではあっても救われます」。それゆえ、「そこで各自(弟子)に、自分自身の働きを吟味させなさい」(ガラテヤ六・四)。「ああ、常に永遠のために生き、永遠のために宣べ伝え、永遠のために祈り、永遠のために語ることができたら!私はただ神にまみえたいのです」(ホィットフィールド)「主人が帰って来た時、そのように行っているのを見られる僕は幸いです。私は真実をあなたたちに言いますが、主人は自分の持ち物すべてを彼に管理させるでしょう」(ルカ一二・四三)。
1「キリストの外では、いかなる良い働きもありえない。キリストの中に入ることは働きによって勝ち取ることではなく、働きの功績によるのでもない。キリストの中で信仰によってなされた働きはすべて良いものであり、神にとって喜ばしいものである。そのような働きを行うことは、私たちの中にあるキリストの命の働きである。働きは命のしるしであり、その実である。働きは私たちから出るのではなく、命から、彼から出る。働きは私たちのクリスチャン生活の尺度である。働きが豊かであれば、神への接近も親密であり、神からの報いも豊かである。なぜなら、働きは私たちが神に似た者となるための歩みだからである。それゆえ、神の子供の良い働きにどれほど効力があっても驚くには及ばない。それは私たちの中にある彼ご自身の御言葉を、神が評価し、神が擁護し、神が増やし、神が栄化されることなのである」一ヨハネ三・二二に関するディーン・アルフォードの注解。
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