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T.御霊は十字架に導く

「キリストは永遠の御霊により、傷のないご自身を神にお献げになりました」(ヘブル九・一四、改訂訳)


キリストの十字架はキリストの御霊の最も高度な現れです。十字架はキリストの最も重要な特徴であり、彼を天地万物から区別します。十字架は永遠にわたって御座の仲保者としての栄光を彼に与えます。キリストを十字架に導かれた御霊を真に知るまで、私たちは十字架を知ることはできませんし、キリストを知ることもできません。

キリストを十字架に導かれた御霊の何たるかを私たちが見いだすとき、私たちは御霊がいかなる理由でさらに偉大なテーマであるキリストの十字架の一部に他ならないのかがわかるようになります。また、いかなる理由でペンテコステの聖霊はなおも十字架の御霊であるのかがわかるようになります!御霊はキリストを十字架に導かれましたが、それと同じように、御霊は十字架から贖われた私たちに流れ、御力を与えてくださいます。その時、私たちはさらに次のことを見いだします。すなわち、御霊はキリストを十字架に導き、十字架は聖霊の賜物をもたらしましたが、それと同じように、御霊は常に十字架に立ち返るのです。なぜなら、御霊だけが十字架の意義を啓示することができ、十字架の交わりを伝えることができるからです。御霊はキリストを十字架に導き、十字架はキリストと私たちを御霊の傾注に導きます。さらに、御霊は私たちを十字架に連れ戻されるのです!

私たちの命である十字架

「十字架の意義は十字架を負うことと贖いしかない」とは聖書は教えていません。また、「私たちが十字架の完了した御業に信頼する時、十字架に対して私たちが取るべき姿勢は十字架の何たるかを感謝して確信することだけである」とは聖書は教えていません。いいえ、聖書が私たちに教えているのは、「最高に親密な霊的交わりにより、十字架は私たちの命とならなければならない」ということです。私たちはキリストと共に十字架につけられた者として生きなければなりません。また、私たちは肉を十字架につけてしまった者として歩まなければなりません。さらに、私たちが肉に打ち勝つことができるのはただ、「肉は十字架につけられた」と毎時見なすことによるのですから、そのような者として歩む必要があります。私たちは日々十字架を担い、十字架を誇るべきです。なぜなら、私たちがこの世に対して持つべき姿勢は常に、この世に対して十字架につけられた者としての姿勢でなければならないからです。この世は私たちに対して十字架につけられたのですから、この事実を理解して感得する必要があるのです。十字架の御霊だけが真のクリスチャン生活を形成して印づける唯一のものであり、これこそ私たちが持つべきキリストと同じ心構えです。ですから、なぜ十字架の御霊が唯一の力だったのか、私たちは知りたいと思います。この力によってキリストは私たちのために命を勝ち取ることができたのであり、この力によってのみ私たちは彼の命を所有して楽しむことができるのです。

第一に、イエス・キリストが歩まれた道の重要性は、苦難の大きさや死への実際的明け渡しにあるだけでなく、彼の原動力の性質にもあります。そして、この性質は最後の瞬間よそから来た何か別のものではなく、彼の地上生涯の全行程を通して彼の原動力となり、彼を動機づけたものでした。この御霊が信者の生活の活動原理となるとき初めて、「キリストと共に十字架につけられた」という思想は真の意義を持つことになります。私たちの主は、彼の内にあったこの心と、いかなる代価を払ってもそれを遂行する力とを、どこから得たのでしょう?その答えはこの御言葉にあります、「キリストは永遠の御霊により、傷のないご自身を神にお献げになりました」。

この永遠の御霊は誕生の時からキリストの内におられ、「私は私の父の事柄の中にとどまらなければなりません」と言うことを彼に教えました。この御言葉は十字架の従順の種を内包しています。この永遠の御霊は彼をバプテスマに導き、自分を低くして一人の罪人としての取り扱いを受けるよう導きました。この御霊により彼はそのとき新たにバプテスマされ、十字架の死にふさわしい者とされました。バプテスマは彼を十字架の死へと分離したのです。この御霊により彼は荒野に導かれ、そこで抵抗し、勝利を得、奮闘を開始されました。この奮闘はカルバリで終わりました。この御霊を通して彼は一歩一歩導かれ、自分の忍ぶべきあらゆる苦難について語り、それらに遭遇して耐え忍ばれました。預言者たちの書に「キリストの御霊が予めキリストの苦難について証しされたのです」とあるように、永遠の御霊を通してすべては成就され、完成されました。肉に住まわれる神の御霊は、必然的に勝利のうちに十字架へと導かれます

十字架は御霊の思い、御霊の要求と働きの最も完全な現れです。神が人を獲得して罪から解放するには、その人を屠る以外に道はありません。宇宙広しといえども、罪の力から解放されうる道は、罪に対して完全に死んで、個人的に罪から分離される以外にありません。神が要求されることを御霊は行われるのです!御霊は人なるキリスト・イエスの内に働かれました。キリストはしみのない聖なる方です。それでも、キリストは罪に対して死ぬ必要がありました。それは彼と私たちが一つになるためであり、また、人生の道における私たちの先駆者としてでした。彼は今、キリストの霊として、その働きを彼の各肢体の内で行っておられます。

十字架の霊

御霊に満たされることを願う私たちはみな、ここにとどまって礼拝しましょう。御霊は十字架の死に導かれます。御霊がキリストを墓からよみがえらせる前、御霊が私たちのためにキリストの内に行われたこれより高い働きはありませんでした。それと同じように、御霊が信者のために行われる働きの中で、信者を十字架の完全な交わりに導くことほど高い働きはありません。ここで中断して礼拝し、それが何を意味するのかを理解できるよう祈りましょう。御霊がキリストを十字架の道に導かれたように、あなたは御霊に真に明け渡して、十字架に導かれたでしょうか?あなたは御霊の豊かさを求めつつ、キリストの内に住まわれたのと同じようにあなたの内に住むことを願っておられる御霊の唯一の御旨に完全に同意して、十字架の御霊に明け渡されたでしょうか?これがキリストにとって栄光への唯一確実な道だったように、あなたにとってもそうなのです。