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付録:私たちの日毎の十字架

F. B. マイヤー
F. B. Meyer

「勝利者」誌 1909年 第1巻 6月号 初出


私は、前号の「勝利者」誌でエバン・ロバーツ氏が「日毎の十字架」について語られたことに、心から深く同意します。これこそ、人が主との最も深い交わりに入りうる唯一の道です。これ以上に、福音の絶対的真理を信じる強固な信仰を生み出すものはありません。ただ一つの命しかありません。主は私たちにそれが何か教えて下さいました――日毎に死から発する命です。私たち一人一人のために、主は十字架を用意して下さいました。私たちは自分自身のために主の十字架にあずかる機会をつくりだす必要はありません。どの道でも十字架は私たちの正面にあります。しかし、私たちは十字架を避け、十字架を不必要なものと考えようと試み、十字架を嫌々負っているのです。

二点ほど述べたいと思います。第一に、私たちは自分の十字架を人に話さないよう細心の注意を払う必要があります。私たちは往々にしてこれをしてしまいます。自分の苦難をひけらかし、人からのあわれみを求めてしまうのです。しかし、私たちが直接そうする時、私たちのイエスとの交わりの格別な神聖さは損なわれてしまいます。

十字架を負うのは主のためでなければならず、ただ主と共に十字架を負わなければなりません。もし私たちが十字架について人に直接話すなら、たとえそれが最愛の人だったとしても、その独特な神聖さや、それが生み出す聖なる親しさは失われてしまいます。私たちが十字架を通過した後、初めて人々は両手両足に「聖痕」の印を見ることができるようになります。

第二に、私たちは自分の十字架を喜んで負わなければなりません。私たちはあまりにも塞ぎ込んだり、不機嫌になったり、自分の殻に閉じこもったりしがちなのです。これはおそらく、初期の段階では自然なことでしょう。しかし、私たちは神の御旨を喜んで行う方法を学ぶよう心がけなければなりません。

あるクリスチャンの男性が、死ぬかもしれない手術を受けなければならなくなりました。そこで、彼はクロロホルムを取らないことを決意しました。それは、たとえ死ぬにしても、はっきりした意識をもって死ぬためでした。顔を下にして手術台の上に横たわった時、彼は近くに四人目の人がいること、その人は裸足でサンダルを履いているのを見ました。彼は動くことを禁じられていたので、それ以上見ることはできませんでした。その時、彼はそこにいる方が誰かわかったのです。なぜなら、彼は一つの声が「恐れてはならない、私があなたを助けます」と言うのを聞いたからです。彼は痛みをまったく感じることなく、手術は成功しました。このサンダルを履いた足は常に私たちと共に十字架の道を歩んで下さるのではないでしょうか?