今日の霊の「出現」は何を意味するのでしょう?というのは、私は幾つかのクリスチャン家庭でその例を耳にしたからです。これらの出現にどう対処すればよいのでしょうか?
「勝利者」誌 千九百十一年 第三巻 五月号 初出
「出現」は見せかけにすぎません。悪霊どもは物や、死者、生者のふりをすることができること、また現にそうしていることを、あなたは知らなければなりません。この見せかけ、あるいは出現は、この出現を見た人に悪霊が取り憑く兆候です。これは悪霊どもに足がかりを与えてしまった結果です。もし悪霊が少しでも足がかりを得るなら、悪霊はその程度に応じて「取り憑き」ます。暗闇の力のこれらの働きに対抗して祈り、これらの働きとその原因を滅ぼして下さるよう神に求めなければなりません。このような現象が起きる家の人々は、これらの顕現の性質を知らなければならず、それらは悪魔的であることを知らなければなりません。そして、知性と霊の中でそれらに対抗し、祈りによりその場所を悪魔のこれらの働きから清めなければなりません。
天然の目では見えないものを見る霊の賜物がある、と言っておいた方がよいでしょう。また、悪の力に由来する悪しき状態もあり、その状態のとき人は目に見えないものを見ることができます――この悪しき状態は、精神の機能を手放して受動性もしくは受動的な状態にもたらすことによって生じたものです。一般的に言って、邪悪な顕現を見る人々は――憑依の程度にしたがって――思考力、記憶力、想像力に大きな問題を抱えています。なぜなら、彼らの機能は(その程度は様々ですが)顕現を生じさせる悪の力によって支配されているからです。
「見る」霊の賜物が働く時、知性を受動的にする必要はありませんし、不活発にする必要もありません。しかし、いわゆる受動的な「悪しき状態」の場合、少しでも知性を働かせるなら視力はなくなってしまいます。神からのものとサタンからのものの違いは、一言で言うと、賜物と状態の違いです。すなわち、サタン的視力の場合、受動的な知性の状態が必要ですが、神の賜物を用いる場合、それと同時に通常の知性の働きを用いることができるのです。「幻」を見る人は誰でも、その幻が受動的な知性を必要とするものかどうかを注意深く調べなさい――もしそうなら、その幻をサタン的なものとして捨てることができます。
エバン・ロバーツ
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