勝利を得る者を、私と共に私の座に着かせよう。
それは、私が勝利を得て、私の父と共に父の御座に着いたのと同じである。
(黙示録三・二十一)
自分の十字架を負って私について来ない者は、
私にふさわしい者ではありません。
(マタイ十・三十八)
十字架への途上、救い主は「あなたの十字架を負って私について来なさい」と叫ばれました。しかし彼は、ご自身が死を経過して墓の向こうのいのちに至り、いと高き所におられる全能者の右の座に昇るまで、十字架を負うとは何を意味するのかを説明されませんでした。天から彼は、彼の選びの器である使徒パウロを通して、彼の十字架と、彼に従うことを願うすべての人に対する十字架の要求とを解き明かされました。
意義深いことに、パウロは決して「あなたの十字架を負いなさい」とは言いません。彼は、キリストの十字架をすでに勝利した十字架として宣言し、信者に主の勝利の中に入るよう命じます。
パウロの言葉は、十字架への途上、小羊によって与えられた十字架への招きを解き明かします。そして、キリストの御言葉はふたたびパウロのメッセージを解き明かします。十字架はすでに勝利しており、解放の働きと地獄の軍勢に対する勝利はすでに達成されています。しかし信者は、個人的に十字架の経験面を受け入れ、小羊に従って地上で十字架の道を歩むことを選ばなければなりません。
十字架を忍んだ方の口から出た十字架への招きは、今もなお、贖われた一人一人の人を招いており、小羊の従者が今の世で歩むことのできる唯一の道をあらかじめ示しています。
福音書の中には、十字架への主の招きが五回記録されています。それぞれ、信者が招きに応じるとき生活の中で経験する、十字架の異なる面を示しています。
最初に、次の主の御言葉に注目しましょう―――
十字架の道は避けられない
自分の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子になることはできません。(ルカ十四・二十七)
キリストにとって十字架の道は避けられないものでした。彼はニコデモに向かって、「モーセが蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」(ヨハネ三・十四)と言い、弟子たちに、自分はエルサレムへ行き、苦しみを受け、殺されなければならない、と言われました。この「ならない」は命令でした。彼は別の時に、「こうならなければならない」と言われました。彼は、羊たちのためにいのちを捨てて、彼らを御父に連れ帰らなければなりません(ヨハネ十・十六)。
しかし、小羊とその従者たちが歩む道は同じです。「ならない」は、彼にとってだけでなく、彼らにとっても命令です。彼は、彼に従って十字架に来ることを拒む者は、彼の弟子になることはできない、と言われなかったでしょうか?キリストは罪人を贖うために、罪人に代わって十字架を負われました。ですから、キリストから学ぼうとする人は、キリストの十字架を負わなければなりません。さもないと、キリストから学ぶことはできません。
主イエスが彼の前に横たわる道を弟子たちに示し始める時まで、弟子たちは彼に従うことが何を含むのかを知りませんでした。彼らは彼の最初の呼びかけを聞き、すべてを捨てて主に従いました。ある日ペテロが言ったように、彼らは彼がキリストであることを信じていました。彼らは、彼が永遠のいのちの言葉を語られたことを心の中で知っており、彼の力強い御業を見て彼の恵みに驚いていたからです。ところが十字架です!受難と死?彼らにはまったく思いもよりませんでした。「彼が行われたすべてのことに、みなが驚いていると、彼は弟子たちに言われた、『このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。なぜなら、人の子は人々の手に渡されるからです』。しかし、彼らは理解しなかった」(ルカ九・四十三〜四十五)。
今日、多くの神の子供たちもこのようです。しかし昔と違い、彼らはキリストが十字架を負われたことや、彼の死によって自分たちがいのちを持っていることを知っています。しかし彼らは、キリストが負われた十字架は自分たちの十字架でもなければならないとは考えません。彼らは、十字架につけられた主は十字架につけられた従者を持たなければならないこと、死による以外に小羊に真に従うことはできないことを理解しません。小羊は地上でただ一つの道――ほふり場に引かれてゆく道――しか行くことができません。ほふられた小羊に御座が与えられるのは、ただ天においてだけです。
十字架の意味
だれでも私について来たいと思うなら、自己を否み、自分の十字架を負って私について来なさい。(マタイ十六・二十四)
自己を否みなさい!自己の楽しみを否むのではありません。自己の罪を否むのでさえありません。ただ、自己を否みなさい。そして、自己に結ばれているものをすべて否みなさい。自己こそ、行為の中心的源、動機です。自己こそ、外から来るあらゆる物事の中心的対象です!
自己!これ以外の言葉では、主の十字架の意味を狭めてしまっていたでしょう。なぜなら、復活した主が後に使徒パウロに啓示されたように、この言葉はカルバリの解放全体を網羅するからです。
人に対するカルバリの重要な知らせは、「自己」からの救いです!人が自分の十字架を負い、自分のために死んで下さったキリストにおいて現わされた十字架の霊を受け入れて、主と共に十字架につけられたものとして自己を否む(放棄する)なら、そうすることにより、その人は悪魔の力からだけでなく、罪の束縛、律法の圧制、この世の霊からも解放されます。
ああ、さいわいなカルバリの福音!なんと単純で、深く、効果的で、賢明なのでしょう!なぜなら、「自己」こそ、あらゆる問題、反逆、自己中心性、高慢、罪の中心であり、核心だからです!十字架に釘づけられたものとして自己を眺めなさい。毎日自己を否み(または、自己を知ることを否み)、静かに落ち着いて十字架の道を取りなさい。そうするなら、小羊に従ってカルバリに行くだけでなく、まっすぐ天の中心にまで行き、彼の御座にあずかるでしょう。
十字架の深さ
自己を否み、自分の十字架を負いなさい。なぜなら、自分のいのち(魂)を救う者はそれを失うからです。(マタイ十六・二十四、二十五)
十字架への招きに続けて、主は三回奥義的な言葉を語られました。その言葉は、生まれながらの人や「ただの人のように」歩んでいる信者には理解できません。「自分のいのちを救う者は、それを失い、自分のいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカ九・二十四)。また、十字架についてではなく、地に落ちて死んだ麦粒について語られた時も、主はほぼ同じ奥義的な言葉を使われました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至ります」(ヨハネ十二・二十五)。
私たちは罪を放棄することで満足してしまい、自己を保っています!人の「自己」が罪と同じように聖霊の道をまったくふさいでしまうことを、私たちは見落としていました。さらに、最初のアダムの源から私たちに流れ込むいのちが、私たちの死ぬべき肉体におけるイエスのいのちの現れを妨げることを、私たちは見落としていました。
それにしても、人が救おうとして失ってしまう、このいのちとは何でしょう?憎むかわりに愛するなら永遠に失ってしまうこのいのちとは、どんないのちなのでしょう?
私たちが引用した節はみな、改訂訳の欄外を見ると、いのちの代わりに「魂」という言葉を示しています。パウロはコリント人への手紙の中でこれに光を当てています。「最初の人アダムは生ける魂となりました。最後のアダムはいのちを与える霊となりました」。「第一の人は地から出て、地的です。第二の人は天からの主です」(一コリント十五・四十五、四十七)。
放棄する(憎む)よう述べられているそのいのちは、私たちが最初のアダムから受けるあのいのちです。それを魂のいのちと呼んで、天からの主との結合によって私たちに与えられる天的ないのちと区別することにしましょう。別の所で、主はそれを人の「己のいのち」として描写しておられます。それゆえ、人はそれを愛します。なぜなら、それは自己の一部だからです。私たちが魂のいのちを愛するのは、それが感覚領域・意識領域の中で働き、地上の事柄とより密接に結びついているからでもあります。その感情的・感覚的いのちは、神の子供が幼い間は、神からの真のいのちとかなり混ざり合っています。そのため多くの人は、特に不従順や罪を犯した心当たりがない時でも、気分の変化や「浮き沈み」を経験します。しかし、御霊によって生き、御霊によって歩み、いのちを与える霊なる方だけに頼るなら、私たちを絶えざる平和の領域の中に導いて下さいます。この平和は感覚の喜びの情動や地上の移ろいゆく喜びを遙かに超越しています。
御霊の剣である神の御言葉を用いて、私たちのうちで魂的ものを真に霊的なものからまったく分けるのは、聖霊の働きです(ヘブル四・十二)。御言葉が私たちのうちに豊かに住んで、その分離が行われる時、私たちは暴露された魂のいのちを憎み、それを十字架に渡して「失」わなければなりません。
小羊に従って彼のいのちを現わし、真に彼が歩んだように人々の間を歩むには、彼の十字架の深さを知らなければなりません。また、彼の死のすべての恩恵の中に入るには、私たちの側で「自己の」いのちをすべて否み、放棄し、憎んで、彼のいのちを取らなければなりません。
私たちがどの程度、どれくらい深く彼の復活の力を知るかは、自己放棄の程度と深さにかかっています。私たちは自分の罪を放棄します。それは、キリストと共にそれらの罪に対して死ぬためです。私たちはこの世を放棄し、そしてキリストと共にこの世に対して死にます。私たちは「自分自身」を放棄し、それによってキリストご自身に内側を治めてもらいます。同様に、私たちは魂のいのち――これから地上のあらゆる生命活動が生じます――を放棄し、「いつでもイエスの死をこの身に帯び」、1イエスのいのちに頼ることを学びます。こうして、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現わされ、私たちを通して周囲の人々を生かします。
十字架と地上の絆
私よりも父や母、息子や娘を愛する者は、私にふさわしくありません。自分の十字架を負って私について来ない者は、私にふさわしくありません。自分のいのちを見いだす者はそれを失います。(マタイ十・三十七、三十八、三十九)
ここで私たちは、十字架を負うことの多くの面の一つと、魂のいのちを放棄することの意味を一瞥します。
魂のいのちは、地上の強い絆によって束縛されているかもしれません。地上の絆は合法的ですが、あまりにも強固です。そのため、それを「主にあって」しかるべき所に置くには、十字架の死と聖霊の深い働きが必要です。神がなさなければならない最も鋭い剣の働きは、地上の関係において魂と霊を分けることです。なぜなら小羊に従う道は、十字架につけられた方の要求が愛情の絆と衝突する地点を、いつかは必ず通るからです。その時、「家族の者が敵となり」、愛する者たちの手が私たちを十字架に釘づけます。その時、「私よりも父や母、息子や娘を愛する者は、私にふさわしくありません」と主はささやかれます。従順な心は多くの涙と共に、自分のいのちを束縛していたものを主の足もとに下ろし、主に従うことに同意します。その人は愛する主のためにすべてを失いますが、それがみな天の喜びで変容されて戻されるのを見いだします。
主の身内の者たちが「彼は気が狂ったのだ」と言った時、そして天の父の御旨を成就するために彼の上にのしかかっていた必要を理解しなかった時、それは主ご自身にとって苦難ではなかったでしょうか?天の父の御旨は友人たちの望みとは反対の道を意味しましたが、主は天の幻に従うことしかできませんでした。
おお、小羊に従うすべての人たちも、こうでなければなりません。そしてまた、一歩一歩しっかりと神に従順に歩まなければなりません。そうするなら、模範である方と同じようになるでしょう。主の場合、主の兄弟たちが主を信じて、「失う者は見いだす」という主の御言葉が成就される日が確かに訪れました。
十字架とキリストを告白すること
自分の十字架を負いなさい。(中略)私と福音のためにいのち(魂)を失う者は、それを救います。(マルコ八・三十四、三十五)
この御言葉の文脈によると、人気を愛することや人を恐れることの中心に、強い魂のいのちが存在する場合があります。周囲の罪深い世代がキリストと彼が御父から語られた真理に反対する時、信者は人気を愛して人を恐れるがゆえに、キリストとその御言葉を恥じるかもしれません。
主は、主と福音のためにいのちを失うことについて話された時、マルコが記録した十字架への招きを語られました、「私と私の言葉を恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて来る時、そのような人のことを恥じます」(マルコ八・三十八)。「自分自身」と地上の魂のいのちを放棄してキリストの十字架を負うことだけが、私たちをこの世から分離することができます。これにより、彼のはずかしめを身に負って宿営の外に出ていくことを、私たちは恥じなくなります。
「十字架のつまずき」と十字架のメッセージのつまずきを、主はあらかじめご存知でした。パウロに啓示されたような福音は「十字架の言葉」だからです。模範的な人としてのキリストを宣べ伝えることは、十字架ではありません。なぜなら、主の山上の垂訓は地上のあらゆる教師たちの教えよりも優っていることを、生まれながらの人は認めるからです。人を欺く大詐欺師は、十字架とキリストを人が忘れてくれさえするなら、山上の垂訓が示す生活を模倣するよう人に勧めさえします(十字架とキリストこそ、山上の垂訓が示す生活を送ることを可能にする力です)。それどころではありません。悪魔は、それによって人を迷わせて、イエス・キリストの贖う十字架のない福音を受け入れさせることができるなら、人に力を与えて、王国の律法をうわべ上、みかけ上守らせることができます。
十字架の血による平和をもって、キリストとその十字架の福音を宣べ伝えること、そして、この世からの分離を告げる十字架、カルバリの人への絶対的なまったき服従を要求する十字架を宣べ伝えることは、魂のいのちを実際に失い、放棄することを意味します。なぜなら、このような福音を宣べ伝えることによって、魂のいのちは、人からの栄誉を愛する愛と共に、キリストとその福音のために失われるからです。
毎日十字架を負う
毎日、自己を否み、自分の十字架を負いなさい。自分のいのち(魂)を救おうとする者はそれを失うからです。(ルカ九・二十三、二十四)
使徒パウロが「いつでもイエスの死をこの身に帯びています」と言ったように、主も「毎日」と言われました!
私たちはパウロの文書から、キリストの死との結合の存在を見てきました。その結合は私たちをいのちの新しい領域の中に導きます。その領域で、私たちは十字架を振り返ります。十字架は私たちと過去との間に横たわる深淵です。また、私たちはキリストの死への継続的同形化も見てきました。それは復活の力がますます実際に現わされるための必要条件です。
主キリストは、ご自分に従う者たちに、毎日十字架を負うよう命じておられます。この命令は、後にパウロに啓示されたこの福音とも調和します。毎日私たちは自分がキリストと共に十字架につけられていることをはっきりと認め、十字架につけられたイエスの心で自分自身を武装し、死に至るまで従順にならなければなりません。毎日私たちは魂のいのちを意識的に失わなければなりません。それは、魂のいのちを主ご自身のいのちと交換するためです。毎日私たちは、自分自身のために十字架を造り出すのではなく、「道にある十字架」にただちに服すことにより、喜んでますます彼の死に同形化されなければなりません。
毎日!毎日!毎日!主は十字架に招かれます。それは主の子供たちを、貧しい世に対する、十字架につけられた主の真の使者にするためです。
十字架とその要求
私のもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、私の弟子になることはできません。自分の十字架を負わない者は、私の弟子になることはできません。あなたがたは誰でも、自分の持ちものをすべて捨てなければ、私の弟子になることはできません。(ルカ十六・二十六、二十七、三十三)
無条件の服従がこの節全体の基調です。なぜなら、私たちと持ち物すべてに対する、創造主・贖い主なる神の絶対的要求が、創造者・贖い主なる方ご自身によって、鮮やかに述べられているからです。
どの言葉も意義深く、無制限です。父、母、妻、子、兄弟、姉妹は、一つ一つ、そしてすべて、贖い主に明け渡されなければなりません。そして今から後、主にあって、主のためだけに保持されなければなりません。それだけではありません。贖い主は贖った人のいのちそのものを要求されます。なぜなら、信者はいのちを主に負っているからです。信者は自分自身のものではありません。
信者は、十字架をキリストに預けることも、それから逃亡可能と思うこともできません。信者は自分の十字架――すなわち自分の生活に影響を及ぼすイエスの十字架――を負い、主の十字架の道を主に従ってどこまでも行かなければなりません。さらに、十字架を負うことは間違いなく、自分には何の能力もないことを学ぶ所に信者を導きます。信者は「自分の持ちものをすべて捨て」(ルカ十四・三十三)ざるをえなくなります。なぜなら、恐るべき敵が遣わす軍勢に対抗するのに、それは何の役にも立たないからです。
「自分の持ちものをすべて捨てること」は、十字架の要求を要約しているように思われます。キリストは十字架で、ご自分の尊い血をもって、贖われた民を買い取られました。しかし、信者がすべてを「捨てる」のは、「今この時に百倍」を受け、「来たるべき時代では永遠のいのち」を受けるために他なりません(マルコ十・二十九、三十欄外)。これを忘れないようにしましょう。
つまり、私たちは自分を否みます(放棄します)。さもないと、私たちを買い取って下さった主を否むことになります。しかし、イエスの十字架が御霊の力によって私たちに啓示されるなら、私たちの「自分の十字架」は彼の十字架の中で視界から消え去ります。そして私たちは、この今の時の苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものであることを喜んで認めるようになります。
神の子供よ、十字架への招きは命令であり、十字架の要求は無制限であり、十字架の栄光は言い尽くせません。私たちはその招きを無視するのでしょうか?
私のブドウしぼり場の子よ、1 |
1 詩篇八十四篇の表題を参照。「コラの子たちのための賛美」。「コラ(Korah)」という言葉は「カルバリ」に相当する。「ギテトに」は「ブドウしぼり場に関して」を意味する。この詩篇はおそらく、ブドウからブドウ酒を圧搾する時期に歌われたのであろう。
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