ご自分の血によって、まことの聖所にはいり、
私たちのために永遠の贖いを獲得して下さいました。
(ヘブル九・十二)
見よ。天に一つの門が開かれた。
私は御座の中央に、ほふられたばかりのように立っている小羊を見た。
(黙示録四・一、五・六)
黙示録は、主イエス・キリストの「再来」「出現」について、パノラマ的な展望を与えます。主はその日、彼の御力の御使いたちを従えて天から現われ、「福音に従わなかった」すべての人を厳かに裁かれます。
その書の巻頭言で、その啓示は「すぐに起きるはずの事」を彼の僕たちに示すため、神によって御子イエス・キリストに与えられたこと、そして「彼はそれを彼の僕ヨハネに送り、しるしによって示された」ことを、私たちは告げられます。
栄光を受けた主は、パウロにご自分の十字架を解き明かされました。それにより、パウロは死にかけている世に、十字架を神の愛のメッセージとして宣べ伝えることができました。しかし今、主は使徒ヨハネに現われて、彼に示されることをすべて書き記すよう命じます。彼に与えられたその啓示は、カルバリの天的展望と、世の罪を担って十字架で死なれた神の小羊を拒絶することの永遠の結果を、私たちの前に鮮やかに示します。
使徒は、三一の神の御名により、「七つの教会」に宛てて手紙を送りました。彼はメッセージの冒頭で、「死者の中から最初に生まれた方」である主イエス・キリストについて語り、私たちをカルバリに連れ戻します。ヨハネの手紙の受取人は、イエスに愛されている人たち、十字架上で流された彼ご自身の血によって罪から「解放された」人たちです(黙示録一・四〜六)。しかし、彼は死者の中から復活して多くの兄弟たちの長子となり、彼らの先駆者として天で幕の内側に入られました。彼は、彼に贖われた人々の代表として、そこにおられます。贖われた人々は、自分たちのための彼の死と彼と共なる自分たちの死を通して、最初のアダムの種族から召し出され、今や天の王族、「神のための王なる祭司」、神の相続人、キリストと共同の相続人です。
使徒ヨハネは、主の命令により、七つの教会にメッセージを送ろうとしています。次に彼は、そのメッセージを与えられた時の、栄光を受けたカルバリの人との会見を描写します。目が燃える炎のような方の足もとに倒れる時、彼はかつて地上で聞き慣れていた声が語るのを聞きます、「恐れるな。私は生きている者である」「私は死んだが、見よ、いつまでも生きている」(黙示録一・十七、十八欄外)。
この栄光のキリストは、使徒が恥の十字架上に見たイエスその方です。刺し通されたその御手が、今彼に触れます。復活した主が弟子たちに両手と脇腹を示された時、彼がエルサレムの二階の部屋で見たその体は、同じ体のまま栄光の中にあります。弟子たちは彼が天に昇って行くのを見ましたが、今、天が開かれています。そして死なれた方が、御力によって、死とハデスのかぎを持つ、いつまでも生きている方として示されます。
使徒に与えられた諸教会へのメッセージの中で、主は艱難の中にある人々に対して、ふたたび優しく、「死んで復活した者」(黙示録二・八欄外)としてご自身を示されます。苦難を受けてその中で勝利した者として、彼は「死に至るまで忠実でありなさい」と彼らに命じます。それは、彼らもまた彼らの冠を受けるためです。
「ご自身の血をもって買い取った」人々に対して与えられたメッセージの中で、再び栄光の主が啓示され、次いで「天に一つの門が開かれ」ます(黙示録四・一)。そして使徒は、カルバリの人の刺し通された御手の接触により力づけられて、「御霊によって」天の中心に引き上げられ、ただひとり死のない方であり、近づくことのできない光の中に住まわれる方を見ます。彼は、「全能者にして主なる神」の御座を見、「御座からいなずまと声と雷鳴が起こる」のを聞きます。また、創造者にして万物の主なる方の御座を昼も夜も取り巻いている礼拝を目撃し、天の生き物たちが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、全能者。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに万物は創造されました」(黙示録四・八〜十一)と言うのを聞きます。
創造者である主なる神の御手に「巻き物」が見えます。地上の罪の杯は、その縁まであふれています。創造者は、恵みの時代を終わらせて、反逆的な人に対する裁きの時代を開始するべき時が来たことを決断されました。
「巻き物を開くのにふさわしい者は誰か?」という布告が天全体に響きわたります。御使いたちですらその前で顔を覆って、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」と叫ぶ方の永遠の御旨を執行するのにふさわしい者は誰でしょう?天にはふさわしい者がひとりも見つかりません。神の最高の大天使ですら、ふさわしくありません。
それでは、誰が巻き物を開くのでしょう?天の大天使がふさわしくないなら、いと高き神はいったい誰に、反逆的な世界を裁く厳粛な務めをお委ねになるのでしょう?
すると突然、ヨハネは神ご自身の御座のまさに中央に、
「ほふられたばかりのように立っている小羊」(黙示録五・六)
を見ます。
父は「すべてのさばきを子にお委ねになりました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです」(ヨハネ五・二十三)。罪人のための代価としてご自分のいのちを捨てた方だけが、「福音に従わない」(二テサロニケ一・八、九)すべての人が受けるべき裁きを執行するのにふさわしい(適している)のです。
御座の中央の小羊は「ほふられたばかりのように立っている」と述べられています。つまり、カルバリの十字架でささげられた犠牲は、常に新鮮で、常に新しいのです。それは天の中心に秘められ、天の全群衆の目の前に鮮やかに保たれています。
小羊に「七つの角と七つの目があった。その目は、全地に遣わされた神の七つの霊である」。創造者の御座の幻では、「七つの霊」が「御座の前」に見えます。しかし御父は、彼のキリストの中に「神たる方の全豊満が肉体のかたちをとって宿る」ことを喜ばれました。ですから、天で御座に着いているほふられた小羊が、聖霊の豊満、力の豊満、光と幻の豊満の中心です。そして、ほふられた小羊から、聖霊は「全地に遣わされ」ます。なぜなら、聖霊は常に、御父から、御子を通して、人の世に流れるからです。聖霊は、自己に絶望し、罪を嫌ってカルバリに向かう心の中に入ることを求めておられます。聖霊はいつでも、各々の人に神の御子の死の力を適用し、ご自身の尊い血をもって彼らを買い取った方のために、各々の贖われた人を満たして下さいます。
裁く小羊
そして彼は来て、巻き物を受け取られた。(黙示録五・七、欽定訳)
罪深い人々のために死なれた方―――この方がご自分の刺し通された御手に巻き物を受け取られました。彼は、救うことを望んできた人々に対して、それが何を意味するのかをすべてご存知でした。
天にいる贖われた者たちは、御父の御旨を成就するために小羊として再来される方を見つめつつ歌いました、
あなたは、巻き物を受け取るのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために私たちを贖って下さったからです。(黙示録五・九、欽定訳)
万の幾万倍の御使いたちが、その調べに応じて言いました、「ほふられた小羊はふさわしい方です」。一方、すべての造られたものが言うのが聞こえました、「御座に座しておられる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光が永遠にあるように」。
使徒ヨハネに対してこのように天が開かれたことにより、私たちは天の観点からカルバリを見ます。
地上でほふられた小羊は、天で御座に着いておられるのです!
十字架につけられた方は栄光を受けた方です。彼はカルバリの小羊として栄光を受けておられます。彼は小羊として、天のすべての礼拝の中心です。
今、彼の御業について天で啓示されているすべてのことから、一切は十字架上の彼の犠牲に基づくことがわかります。彼は、カルバリから凱旋した征服者として、そして十字架で勝利した小羊として、天におられます。彼に封印を解く務めが与えられます。各々の封印は、彼を拒絶する世界に対する恐ろしい裁きに先立ちます。御父は、世の罪のためになだめとなった方の御手に、裁きをお委ねになります。
このことから、聖なる神の目に罪が言語を絶するほど憎むべきものであることが多少わかります。とりわけ、人々の罪のために神によって用意された犠牲を無視し、拒絶することが、はなはだ大きな罪であることがわかります。小羊は罪人を愛して、罪人のために死なれました。小羊は、多くの人の代価としていのちを与え、未曾有の悲しみと恥をお受けになりました。この小羊が、今、罪深い世界に対する裁きの時代を始めなければならないのです。これは、義なる神は決して罪を見過ごせないことを示しています。キリストは、罪人のためにいのちをささげることにより、罪で荒廃した地のために「恵みの日」を獲得されました。しかし今、それは終りました。彼は敵対する「支配と権威と力」をすべて滅ぼさなければなりません。「そして、万物が彼に服従させられる時」、彼は王国を父なる神に渡されます(一コリント十五・二十四〜二十八、欽定訳参照)。
裁きが下される時、地上の人々は恐怖に打たれます。誰も彼らに、「十字架につけられた神の小羊を拒絶したことが決定的な罪だったのだ」と告げる必要はありません。なぜなら、彼らは山や岩に向かって、「創造者からだけでなく、『小羊の怒り』からも私たちをかくまってくれ」と本能的に叫ぶからです。
ああ、いったい誰が、傷つけられた愛の怒りの深さを伺い知ることができるでしょう!さげすまれ、拒絶された憐れみの怒りを?
導く小羊
御座の中央におられる小羊が、彼らを導かれます。(黙示録七・十七)
地上でほふられて、天で御座に着いておられる小羊は、天の礼拝の中心であり、地上に対する裁きの封印を解く者であるだけではありません。私たちはまた、人々の間から贖った様々な群れを天で導く者としての小羊の姿を、次々と見せられます。
恐怖に打たれた地上の人々は、自分たちが小羊を傷つけたことを知っています。しかし、天にいる贖われた人々は、彼のおかげで自分たちが天にいることを知っています。
「四つの生き物と長老たち」の箇所で描かれている第一の群れは、小羊が巻き物を受け取って、はじめの六つの封印を解くのを見る時、自分たちが小羊の血によって「神のために買い取られた」(黙示録五・九、欽定訳と改訂訳)ことをためらわずに告白します。
次に、「あらゆる国民、部族、民族、国語の中から」集められた、「誰にも数えきれないほどの大群衆」(黙示録七・九〜十七参照)として描かれている別の群れに出会います。彼らは神の御座の前に立ち、「昼も夜も神に仕える」と述べられています。御座についておられる方は、彼らの上に幕屋(または、彼の現された臨在の覆い)を張られます。彼らは小羊の血で「その衣を洗った」人々です。ご自分の前に置かれた喜びのゆえに十字架を忍ばれた方ご自身が、彼らの牧者となり、彼らを常に新鮮ないのちの水の泉に導かれます。彼らの苦難は終わりました。神ご自身が彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さいます。
もう一度、私たちは別の群れの先頭に立つ小羊を見ます。今回は人数が定まっています(黙示録十四・一〜四)。彼らもまた、「地から買い取られ」、「人々の間から買い取られ」、「小羊の行く所には、どこにでもついて行く」者として、描かれています。
戦う小羊
この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。(黙示録十七・十四)
封印が解かれ、災いのラッパが鳴り響くたびに、裁きに次ぐ裁きが地上に下されます。不義はますます増大し、ついに天においてさえ、金の祭壇の四つの角からの声が復讐を求めて神に叫びました(黙示録九・十三)。
「旧約の型では、青銅の祭壇でささげられた犠牲の血を金の祭壇の角が受け、その金の角から、血の声が神にあわれみを求めて叫びました。しかし今、その声は裁きの力を解放するよう叫び求めます」(シース)。
「これは、神の定めた赦しの道が(地上で)放棄されたこと、恵み深い贖いの神聖な秩序と救いが拒絶されたことを意味します」「罪深い人類は、不敬虔にも、神の和解の計画に反対しました。地上の邪悪さは、特に十字架への敵対という点で、積み重なって非常に高くなりました。(中略)そのため、そうでなければあわれみだけを求めて叫ぶはずの祭壇が、復讐を求めて叫ぶことを余儀なくされます」(シース)。
悪魔の軍勢の手先として働く、反逆的な人類の恐ろしい行いの描写が、次々と続きます。しかし、その罪深い争いに「打ち勝って」、そこから出る人々もいます。ついに、小羊が指導者として再び登場するのを私たちは見ます。今回は戦士の軍勢の指導者です。「地上の罪悪」は、聖徒たちの血に酔いしれる奥義的な大バビロンにおいて頂点に達しました。地上の権力者たちの反逆は頂点に達したようです。彼らは今、「小羊と戦う」ために団結します。しかし、十字架でほふられた小羊は「主の主、王の王」です。カルバリから凱旋した征服者として、彼は必ず勝利されます。最後の大いなる戦いで彼と共にいる戦士たちは、彼が特別に「召し」、「選んだ」人々であり、「忠実な」者たちです(黙示録十七・十四)。
小羊は、神とその油注がれた者に逆らうすべてのものと戦われます。この最後の戦いの後、天で大水の音のような大群衆の声が言うのが聞こえました、
われらの神である主、全能者が治められる。(黙示録十九・六)
彼に栄光を帰そう。小羊の婚姻の時が来たのだから。(黙示録十九・七)
キリストは十字架で勝利して、彼の買い取った者たちがあらゆる国民の中から召し出されつつある間、ずっと待っておられました。しかし今、彼は最終的に勝利して、あらゆる権威と力をご自分の足の下に置かれました。
最高の目的――彼はそのためにご自分のいのちを渡されました――が成就される時が近づいています。彼は「教会を愛して、教会のためにご自身をささげられました。それは、しみや、しわや、そのようなものが何一つない栄光の教会を、御前に立たせるためです」(エペソ五・二十五〜二十七)。今や教会は、「光り輝く、きよい麻布の衣で装うことを許されました。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないです」。
ふたたび天が開かれて(黙示録十九・十一、十二)、「燃える炎」のような目を持つカルバリの人がやって来られます。彼に従う軍勢は、まっ白な清い麻布を着ていました。彼は征服した地上を最終的に所有するためにやって来られます。今、彼は地上を治めなければなりません。悪魔は千年間縛られ、この世の王国は私たちの主およびそのキリストの王国になります。人々の間から贖われた王―祭司たちは、「彼と共に千年間治めます」(黙示録二十・一〜六)。
これらの事の後、大いなる白い御座の裁きと最後の敵である死の滅びを越えて、使徒は永遠を見つめます。彼は幻の中で、花嫁―都が「夫のために飾られた花嫁のように整えられて」神のみもとから下って来るのを示されます。最初の天と最初の地は過ぎ去りました。「御座に着いておられる方が言われた、『見よ。私はすべてを新しくする』」 。今、「事は成就しました」。カルバリは忘れ去られるべきなのでしょうか?いいえ。死んで復活した方の御名は依然として、
です。
キリストの栄光が幻の中に完全に示されている今、キリストの様々な面を啓示する他の名は必要ありません。それらは、あらゆる名の上にあるこの御名の中に合併されています。「代々に」至るこの御名は、歴史の中で御父のひとり子が地上を訪れて、十字架上でそのいのちをお捨てになった驚くべき時のことを、天の一団の前に常に新たにはっきりと示し続けます。小羊に贖われた者たちの光は、今や「水晶のように透明」であり、彼らは彼らの御父の王国で太陽のように輝きます。
地上での彼の試みの間、彼とずっと一緒にいた選ばれた使徒たちの名が、花嫁―都の「土台石」に刻まれています。なぜなら彼らは、冷笑的で反逆的な人々の面前で十字架の言葉を宣べ伝えた時、教会の土台を据えたからです。花嫁―都にいるのは、「世の基が置かれた時からほふられていた小羊のいのちの書」(黙示録十三・八)に名を記されている人たちだけです。彼の十字架を誉め讃え、彼の死を通していのちを受けた人々は、小羊と同じすがたに変えられました。
私は、その中に神殿を見なかった。それは、全能者である主なる神と、小羊とが都の神殿だからである。(黙示録二十一・二十二)
神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録二十一・二十三)
神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。(黙示録二十二・三、四)
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