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第六章

主イエスは来て、ご自分の聖徒たちのうちで栄光を受け、
信じるすべての者のうちであがめられます。
(二テサロニケ一・十、欽定訳)

十字架と生けるキリスト

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです
(ガラテヤ二・二十)


「神は御子を私の内に啓示することをよしとされました」と使徒はガラテヤ人への手紙の前の方で記しています。「あらゆる世代にわたって隠されていたが、いま神の聖徒たちに現わされた奥義」を彼はコロサイ人に書き送ります。神がご自分の子供たちに知らせたいと願っておられる奥義です。「この奥義の栄光の富(中略)それはあなたがたの内におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ一・二十六、二十七)。

これが十字架の目的・意図です。私たちがキリストと共に十字架につけられているのは、彼のために場所を空けて、彼に信仰によって私たちの心の中に住んでいただくためです。この主キリストの内住は「奥義」と呼ばれています。「奥義」という言葉は、啓示されるまで理解できないように隠されている何らかの「秘密」を意味します。

律法の時代、この奥義は知らされていませんでした 。当時、御霊によってキリストの「日」を見て喜んだアブラハムのような少数の例外を除いて、すべての人が自分の「わざ」によって神の御前に立ちました。アブラハムらは遠く離れて約束のものを見、それを喜び迎えました。しかし恵みの時代、その「奥義」をすべての国々に宣べ伝えることが神のみこころです。それは、「信仰に従順」(ローマ十六・二十五、二十六参照)な人々がその栄光にあずかれるようになるためです。

パウロは、「私は『神の御言葉(御旨)、奥義さえも成就する』ために仕える者とされました」と言いました。彼の心の願いは、人々が「理解力をもって豊かな全き確信に達し」、「啓示によって彼に知らされた」(エペソ三・三、C.H.)「神の奥義を真に知るようになること」(コロサイ二・二、C.H.)でした。彼が特に願ったのは、人々が神の永遠の御旨――すべての言語、部族、国の人々がキリストの測り知れない富にあずかるようになること――を知ることでした。パウロが神に選ばれたのは、すべての国々の間でこのような福音を担うためであり、また「すべての人に光」をもたらすことにより、各々の人が「奥義の執事職」を見ることができるようになるためでした。彼が言うには、それは彼に与えられた特別な恵みの賜物でした。「奥義の執事職」は、その啓示を受ける各々の人に与えられる委託であり、すべての人にそのメッセージを届けるためのものです。そして、その目的は天の領域にいる支配たちと権威たちに対して(彼らは堕落した被造物に対する神の取り扱いに注目しています)、「教会を通して」神の多様な知恵を知らせることです。

パウロの内にキリストが啓示されたのは、彼が「キリストを宣べ伝える」ためでした。彼はガラテヤ人に「私はキリストと共に十字架につけられました」と宣言し、続けて「キリストが私の内に生きておられるのです」と証ししました。これから明らかなように、私たちの内に生きておられるキリストという奥義の啓示は、彼の死の中に真に実際的に植えられることにかかっています。

ひとたび信者がこのカルバリの焦点を自分の実体験で認識するなら、神のすべての真理がみごとな調和のうちにそのあるべき場所におさまります。

どんな人生の理想も高すぎることはありません。なぜなら、信者が主のために道を空けさえするなら、主ご自身が信者を通してその理想をかなえて下さるからです。どんな神の奉仕の命令も難しすぎることはありません。なぜなら、信者が信仰によって十字架に戻り、それから内住の主に信頼して一つ一つの奉仕に当たる時、キリストご自身が信者の内であらゆる知恵、力となって下さるからです。まさに神の力そのものが信者の生活の中に流れ込んで来ます。そして、このように自分を通して働く復活のキリストの力を喜びと共に経験する時、信者の展望は一変します。「私は秘訣を教わりました。私は彼にあってどんなことでもできるのです」(ピリピ四・十二、十三、C.H.)が喜ばしい勝利の叫びとなり、「私にとって生きることはキリストです」(ピリピ一・二十一、C.H.)が増し加わる喜びとなり、「私はキリストがこの私を用いて成し遂げてくださったことだけを話します」(ローマ十五・十八、C.H.)が単純な証しとなり、「私は自分の内に力強く働く彼の働きによって、苦闘しながら労苦しています」(コロサイ一・二十九、C.H.)が日毎に活力を与える奉仕の精神となります。

なんと幸いな生活でしょう!ひとたび秘訣を知り、魂が神の御子を信じる信仰によって生きることを学ぶなら、なんという安息、喜び、自由があることでしょう。

しかしパウロよ、これはあなたが個人的な選択や願望を持たない一個の機械になってしまったことを意味するのでしょうか?

「十字架につけられました………しかし私は生きています」とパウロは叫びます。私はミイラでも機械でもありません!私は、感情や個人的な望み、希望、願いを持つ一人の人間です。

私は死んだからこそ、ますます生きるのです。なぜなら、罪の束縛によって鈍らされていたこの人体の感覚が、今や解放されて鋭敏活発になったからです。それはもはや自意識、自己追求、自己愛の媒体ではなく、今「私の内に生きておられる」キリストの愛といのちを現わすための、よみがえった伝達手段になりました。

」――使徒パウロ――は、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

」には私自身の性格、気質、好みがあります。これらすべてのものが「」の個性を形成しており、キリストはこのの内に住んでおられるのです。

それにもかかわらず、私は知っています。私の人生の原動力・中心は、もはや「私」ではないことを。どの使徒たちよりも多く働くことを可能にするのは、「私ではなく」、神の恵みです。私を通して現されるのは、私のいのちではなく、私の心の中におられる生けるキリストから流れ出るいのちです。

しかしパウロよ、あなたはこの素晴らしさを感じておられますか?あなたは「死んだ」ことを感じ、あなたの心の中にこのように住んでおられる復活の主を通して大いなる喜びと天的喜悦とを実感しておられますか?

いいえ、「私は今、肉(体)の中で生きているそのいのちを、信仰によって生きます」。

しかしパウロよ、どのような類の信仰でしょうか?「自分はキリストと共なる死を経験した」という信仰でしょうか?それとも、毎瞬たいへんな努力や労苦を要する信仰でしょうか?

いいえ、それは「私を愛し、私のためにご自身を与えて下さった神の御子の信仰」です。

ああ、「私」がキリストと共に十字架につけられている何と幸いな証拠よ!「私」が魂の視界から消え去り、神の御子が十字架の死の大いなる愛で心と思いとをまったく満たして下さるとは。

彼は私のためにご自身を捨てて下さいました」が人生を支配する思想となり、万事をカルバリの光と愛の中で了解します。死んで下さった方の刺し通された御手に明け渡すことは、最も甘美な喜びを生じさせます。そして愛の対象で満たされて、彼を信じる信仰が魂の自発的・無意識的姿勢になります。魂はもはや自分の経験を気にしませんし、地上の何かを自分のためだけに顧みることもしません。魂が心の底から願うのは、死なれた方がカルバリの十字架のその苦しみの成果を見て満足されることです。

信仰の道

私は神の御子の信仰によって生きます。(ガラテヤ二・二十、C.H.)
十字架につけられたイエスが、あなたがたの目の前にはっきりと示された。(中略)あなたがたが御霊を受けたのは、行ないによるのですか、それとも信仰によるのですか?(ガラテヤ三・一、二欄外)

パウロは「まだ残っている外側の生活」(ガラテヤ二・二十)を「神の御子の信仰によって生きます」と述べています。自分の内で生きて働いておられるキリストをはっきりと知ることにより、彼自身の信仰の行いさえも彼の意識野からなくなってしまったかのようです。復活した主は信者を満たして、ご自身と共に「信仰の霊」をもたらされます。そして毎瞬信頼することが、最終的に呼吸するのと同じくらい自然で容易なものになります。

しかし、魂がますます深く自分自身と自分の無力さを知るよう導かれて、復活した主の豊かな富を知ることができるようにされるとき、魂は霊的生活の過渡期を経ることになります。このような過渡期に、信者は激しい試みの中で「私はキリストと共に十字架につけられた」という神の御言葉のみにすがらなければならないことがしばしばあります。信者が新たに自分を主に委ねて「主は私によって最高の御旨を成就して下さる」と信じる時、また、あらゆる試みを通してキリストのいのちのいっそう豊かな所に自分を連れ出す責任を真実な神に委ねる時、神との新たな交わりが必要になることがしばしばあります。

神と交わる時、私たちの信仰は常に現在時制であることに絶えず注意しなければなりません。つまり、「私たちは十字架につけられた方と共に十字架へ運ばれた」という御言葉を取る時、堅く信じなければなりません。「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ローマ四・十七)は、ご自身の創造的な御言葉によって、キリストのいのちを今私たちに与え、保持して下さると。エホバにとっては語ることが行なうことです。世界を創造する時、彼が「…………あれ」と語られると、そのものが存在するようになりました。神の口から出る十字架の言葉は、創造の時に語られた言葉と同じく全能の言葉です。エホバは十字架上の御子をさして、「彼と共に十字架につけられた」と御言葉を語られます。魂が「アーメン、その通りです」と応じる時、十字架のメッセージはこのように信じるすべての人の内で神の力になります。

また、信者はこの過渡期に信仰の道から「律法の行ない」や自分の努力に向かいがちです。「律法の行ない」に後退することが、ガラテヤのクリスチャンたちが陥った危険でした。おそらく、キリストの死の完全な意義と、十字架にかかって復活した主を信じる信仰の道とを彼らがよく理解していなかったために、彼らの間の聖霊の働きの最初の喜ばしい経験は終わっていたのでしょう。彼らは、自己とその行いに頼る昔の生活に逆戻りさせようとする者たちの餌食になりかねない状況にありました。

彼らに対する使徒の懇願から明らかなように、カルバリから目をそらしたことが彼らが危機に陥った原因でした。また彼の言葉から、クリスチャン生活の全行程にわたって、十字架におけるキリストの御業が魂の錨でなければならないことがわかります。

十字架につけられたイエス・キリストがどのようにガラテヤ人たちの間で「公に示された」のかを思い起こして、使徒は叫びます、「私は十字架につけられたキリストを、あなたがたの目の前にはっきりと示したのです!」(ライトフット)、「ああ愚かなガラテヤ人。だれがあなたがたに魔法をかけたのですか?」(ガラテヤ三・一、C.H.)。なぜなら彼は、コリント人やローマ人に宣べ伝えたのと同じ完全な福音を、彼らにも宣べ伝えたからです。どうして彼らは、このようなキリストの死の啓示を忘れて、自分自身に逆戻りすることができたのでしょう。彼には分かりませんでした。

いったい誰があなたがたの目をカルバリとその意義から逸らしたのですか?誰が「あなたがたを魅了した」(ライトフット)のですか?何らかの作用があなたがたの知らない内にあなたがたに臨んだのです。使徒は叫びます、「あなたがたはそんなにも愚かなのですか?」 。彼らは死なれた方を仰ぎ見て、「信仰の知らせ」(ガラテヤ三・二欄外)を単純に信じることにより御霊を受け、「十字架の言葉」が神の力であることを経験しました。神は彼らが「信仰を聞いた」(ガラテヤ三・五欄外)ことに応えて、彼らに豊かに御霊を与え、彼らの「中で奇跡」(ガラテヤ三・五欄外)を行なわれたからです。

イエス・キリストがこのように「彼らの目の前で十字架上に大きく描き出された」というのに、彼らはその死の意義を学ばなかったのでしょうか?信仰の道が啓示される前、彼らは律法を守ることができず、「律法の下で牢獄に閉じこめられて」(ガラテヤ三・二十三、C.H.)いました。しかし十字架上でキリストは彼らを贖い、彼らのために呪われた者となられました。それはただ信仰によって、自分たちの内に常に働かれる聖霊を彼らが受けるためでした(ガラテヤ三・十三、十四)。彼らは、「キリスト・イエスを信じる信仰を通して」神の子どもとなったことや、「キリストへとバプテスマされた」人はみな、キリストを「着」、キリストを「身にまとった」ことを知らなかったのでしょうか?(ガラテヤ三・二十七、C.H.)

彼らの過去の苦難はすべて無駄だったのでしょうか?彼らは神の子どもの特権を享受するかわりに、むち打つ律法の捕虜に戻ろうというのでしょうか?パウロは魂の苦悩の中から叫びます、「あなたがたの内にキリストが完全に形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ四・十九、C.H.)。キリストに信頼する単純さから自己とその行ないへの信頼に逆戻りするとは、なんと愚かなのでしょう。この原因は、あなたがたを欺く悪の力、あなたがたをカルバリから引き離す惑わし以外にありません。

ああ、このような狡猾な影響が今日神の民の間に働いており、彼らの目を十字架につけられたキリストから逸らしているのです!

魂の敵は人知れず「誘惑する」すべを心得ており、私たちをカルバリの十字架から引き離そうとします。敵の策略は無数にあります。霊のいのちの成長のどの段階も、この特別な惑わしによって敵に攻撃されます。カルバリとその二重のメッセージを、信者の生活の中心的事実として、また他のすべての神の真理がそこから発する中心的真理として保ちそこなうことが、真理の歪曲や過失の根本原因です。「真理の線」はどれも、決してその端点に至らせてはならず、十字架の範囲内に保たれなければならないのです。

十字架につけられたイエス・キリストを常に見上げること、そして彼の死の分離する力を私たちの内に働かせ、彼の復活のいのちを私たちに与えて下さる神の霊に堅くより頼むこと。これが「信仰の道」です。この道により、キリストが「内側に完全に形造られ」、信者は「キリストの豊満の身の丈の度量」にまで成長します。

キリストの尊い血により贖われた魂よ。もし、十字架の言葉が神の力の中であなたに臨み、十字架につけられた方と共に十字架につけられることにあなたが同意して、あなたが復活の主である方と真に結ばれているのなら、日々あなたの心の目を十字架に向けなさい。そして、死なれた方と共に自分が十字架にあることを三一の神に賛美しなさい。また、

(1)神の働きを信じる信仰によって、あなたに啓示される古いいのちに属するものを直ちに十字架の死に渡しなさい。聖霊はあなたを呪われたものから分離することによってキリストの死を証しされます。この聖霊により頼みなさい。あなたの霊的生活の全行程を通して、神からではないものとしてあなたに示されるものは、即座にこのように対処しなさい。光があなたの道を照らします。その神の光の中を歩む時、あなたは自分の「美点」ですら堕落していることを見るでしょう。

(2)神の真実さを信じる信仰によって、今この時だけを生きなさい。イエスのいのちをあなたに賜る聖霊に信頼し、その力に自分を明け渡しなさい。「みこころのままに、自分のうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのは神である」と信じて、あなたのなすべき「次の事」をなしなさい。たとえ主との歩みで失敗したとしても、主に信頼しなさい。主は熟練した腕前で、あなたを再び歩ませて下さいます。空しい後悔で自分をむち打ってはいけません。彼の愛の中にとどまって、自分をまったく彼の保護に委ねなさい。

(3)復活のキリストを信じる信仰によって、彼と共に前進しなさい。内側を見つめようとする誘惑や、自分自身に逆戻りしようとする誘惑を一切拒みなさい。彼の御言葉をあなたの内に豊かに住まわせなさい。御言葉は、あなたの生活方法に対する彼の御旨をあなたに教えます。あなたを通して彼が周囲全体にご自身を現わして下さるよう、あなたの心の願いを彼に注ぎ出しなさい。

(4)信仰によって立ちなさい。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もしあなたがあなたの主への単純な信頼から外れるなら、主の恵みの過去の経験はあなたの益になりません。あなたにはその都度主から受けるもの以外に何もありません。敵はあなたを見張っており、あなたが隙を見せるなら、いつでもあなたを欺こうと待ちかまえています。主の中に隠れて安全でありなさい。主はあなたのために神の御座の前でとりなしておられます 。あなたが光の中を歩んで、自分の行ないを光にもたらすなら――その行ないが「神にあってなされた」(ヨハネ三・二十一)かどうかが明らかにされるためです――御子イエス・キリストの血はすべての罪からあなたを清め続け、あなたは彼とのさいわいな交わりの中を歩むでしょう。


「私たちの揺るぎない望みの告白を、堅く保持しようではありませんか。なぜなら、約束された方は真実だからです。」(ヘブル十・二十三)、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(二テモテ二・十三)


おお、カルバリ!その空の墓に
私は彼と共に葬られた。
その復活の朝は
決して古びない新しいいのちを与える。

おお、カルバリ!そこでサタンの軍勢は
打ち破られ、辱められた。
ただあなたの御力を通し、
イエスの御名により、彼らは私に服従する。

おお、カルバリ!私は見いだした、
彼の御名は戦いの時に十分であることを。
敵はその時恐れて逃げなければならない。
敵はキリストの御力に対抗できない。

おお、カルバリ!私は私の主をほめたたえる。
そこで私のために死んで下さったゆえに、
私に自由を与えるため、
その尊いいのちをささげて下さったゆえに!

おお、カルバリ!私はつねに学ぶ、
イエスのあらゆる価値を!
そして今、信仰により、
私は彼と共に勝利のうちに立つ!

G.W.R.