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動物 その過去と将来

第二章

ANIMALS THEIR PAST AND FUTURE
Chapter 2


G. H. ペンバー
G. H. Pember



創世記第一章は、神は六つの大いなる部族を創造して私たちの地球に住まわせたことを私たちに教える。その六部族とは海の魚、空の鳥、家畜、這うもの、地の獣、人である。さて、最初の五部族は六番目の統治下に置かれた。それにもかかわらず、名前をつけてもらうためにアダムのところに特別に連れて来られたと述べられているのは、その中の三つだけである――家畜、空の鳥、野の獣だけである(創世記二・一九、二〇)。それゆえ、この三つは残りの二つとは区別されているように見える。そして、これから見るように、この三つは新しくされた地球で人と共に住むよう定められているのである。

魚と這うものが省かれている理由は何も述べられていない。しかし、おそらく、これらは明確に述べられている三つの部族の間に何らかの方法で含まれるのであろう。それでも、反対の方向を指し示す二つの事実が存在する。その事実とは、新しくされた地球にはもはや海はないこと、這うものの頭である蛇という媒介を通して*罪が私たちの世界に入り込んだことである。

* あるいは、蛇は元々這うものの頭ではなかったにせよ、ともかくこの地位に落とされたのである――この状況はこの部族にとってあまり好ましいものではなかったであろう。

アダムがこの三つの部族に属する被造物に名前をつけ終わってから間もなく、彼は罪を犯し、自分自身と被造物を滅びに巻き込み、パラダイスから追放された。しかし、後悔の念を抱きつつ、園の閉ざされた門を通して後ろを見た時、彼は命の木のそばに立つ四つの輝かしい姿を見たのである。それらはケルビムであり、神は彼らがこの木の実から取ることができるようそこに置かれたのである。しかし、彼らの周りに神は威嚇する炎の輪を設けられたので、それにより他の生き物の接近は禁じられたのである。

この四つの外観の意味を調べるには、私たちは二つのよくある間違いを避けることを学ばなければならない――。

第一に、ケルビムは御使いではなく、エゼキエル書第一章と黙示録第四章に描写されているように「生き物」である。後者の書では、ケルビムは明らかに御使いとは区別されている。なぜなら、「私は御座と生き物と長老たちの周りにいる大勢の御使いたちの声を聞いた」とヨハネは述べているからである。

第二に、ケルビムは炎の剣の活動とはまったく何の関係もない。炎の剣は、ヘブル語が明確に述べているように、「命の木への道を守るため、自ら回転し続けた」のである。

この二つの注意点を前提として、今、私たちは先に進むことにする。私たちは目下の関心事であるケルビムの姿と外観に関する描写の中の一つの点について考える――それはケルビムの頭が人、ライオン、雄牛、鷹の頭だった点である。この象徴の解釈を求めるにあたり、私たちは神ご自身が動物の王国を分類されたこと、そして、三つの栄えある部族――野の獣、家畜、空の鳥――を名づけられたことを覚えておかなければならない。さて、人の頭は明らかに人科を示している。他方、ライオンは野獣の王であり、雄牛は家畜の長であり――少なくとも東洋の国々ではそうである――、鷹は鳥の中で第一のものである。それゆえ、ケルビムは何らかの方法で、アダムの罪を通して第一の地位を失った大いなる地の諸部族の中の四つと関係しているように思われる。

そして、彼らの名前が持つ意味の可能性を調べる時、この考えは確証される。ケルビムは代表的存在であることが名前から伺われるのである。

このような解釈は今の文脈と見事に調和する。なぜなら、もしこれが正しいなら、ケルビムの外観はアダムにとって甘い慰め、将来に関する輝かしい予見だったにちがいないからである。彼の罪のゆえに、彼は喜びの園から追放されたばかりであった。そして、絶えまなく閃く炎の剣は、もはや手を伸ばして命の木から取ることはできないことを彼に教えたのであった。しかし、守られた円の内側に四つの生き物が立っており、代表者たる彼らの姿の中に彼は間違いなく神の約束を見たのである。その約束とは、神は追放された者たちを家に連れ戻す方法を考えて下さり、人と獣の両方を命の木の特権に回復して下さるというものであった。

さて、ノアの時代に移ることにすると、私たちは私たちの取った見解に対する非常に印象的な裏付けに出会うのである――この裏付けは実に、この真理の実証であるとほぼ言えるほどのものである。なぜなら、洪水の後、神がノアと結ばれた契約は次のような言葉で記されているからである。「見よ、私はあなたたちと、あなたたちの後の子孫と、あなたたちと共にいるすべての生き物、あなたたちと共にいる鳥、家畜、野の獣と契約を結ぶ」(創世記九・九、一〇)。

ここで、ケルビムによって示されている四つの部族がみな、ノア契約の約束の相続者として特別にはっきりと述べられている。そのうえ、さらに見ることができるように、この契約のしるしは虹であったが、その後、本物のケルビムが現れる時はいつでも虹が彼らの上に見えるのである(エゼキエル一・二八、黙示録四・三、六を見よ)。こうして神の約束は確かなものであり続け、神はノアの時代のようにすべての生き物を打つことをもはや二度となさらないのである。そして、この約束は人同様、獣にも与えられているのである。

聖なる歴史を少し下ると、私たちは幕屋の中にケルビムを見いだす。なぜなら、モーセは幕屋を覆う四つの幕の内側にケルビムの姿を織り込むよう命じられたからである(出エジプト二六・一)。それは、神の住まいからケルビムが見えるようにするためであった。この同じ姿が、至聖所を聖所から分離する青色、紫色、緋色の幕をも飾った(出エジプト二六・三一〜三三)。こうして、幕屋の各部屋の天井と四方は両方ともケルビムの肖像を展示したのである。そして、とりわけ意義深いことに、金で出来たケルビムの像を契約の箱の恵みの座の上に、両側に一つずつ置くことになっていたのである。

しかし、ここでまた、私たちは一般的な誤謬に対して抵抗しなければならない。契約の箱の図を見ると、ほとんどの場合、ケルビムは御使いとして描かれている――その唯一の尊敬すべき例外はパークハーストのヘブル語用語集である。しかし、被造物たる動物のための希望をこのように拒絶する根拠は少しもない。天的存在の描写を見ると、この他の被造物の頭は人の頭と同じように述べられている。これは天上に関するヨハネの偉大な幻でも同じである。ヨハネの見た幻では、両方の祭壇が現れる。また、洗盤は拡大して水晶のようなガラスの海になり、七つのともし火が御前で燃えている。虹に囲まれた御座の足下にはケルビムが座しており、その姿は神が契約を結ばれた地の四つの部族を彷彿とさせるものであった。疑いもなく、この光景は天の事柄を私たちに啓示しており、そこからモーセは彼の模型を受けたのである。それゆえ、契約の箱の上のケルビムの形が使徒によって描写された本物の生き物と異なる可能性はほとんどないのである。

Cherubim

ケルビムの絵
(パークハーストのヘブル語用語集より)

この点は事実であると認められるし、上述した議論と張り合う反証の言葉は一つも聖書にない。そこで、しばしの間、恵みの座の上にあるこのような姿の外観の意味が何か考えることにしよう。

この箱は契約の箱であり、その上にはシェキナがあった。したがって、神の目から見て完全な者、神に受け入れられている者以外の誰も、あえてその前に立つことはできなかったのである。この恐るべき臨在に他の者があえて近づこうものなら、炎の剣がたちまち現れて、ナダブとアビフのように焼け焦げた死体となって地に倒れたであろう。

しかし、なぜ被造物はこのように厳しく造物主との交わりから締め出されたのだろうか?神は愛であるだけでなく、聖であり、義であるからである。また、被造物は罪を犯して、造物主の律法を破ったからである。この律法は「私たちに対する戒めの規定」であり、契約の箱の中に置かれて、黄金の蓋もしくは恵みの座で完全に覆われた。この恵みの座はキリストの贖いの功績を示すものであった。キリストの完全な義は、神の刺し通す目をもってしても決して貫くことのできない唯一のものである。したがって、考察中のこの象徴において、恵みの座は破られた律法を神の義から隠し、他方、ケルビムはこの蓋の上で安心して安息することができたのである。* これは人々に二つの事実を絶えず思い起こさせる。第一に、神は救うことを約束したこれらの部族の記念を常に御前に置いておられるのである。第二に、ケルビムが示すこれらの部族は、主イエスの贖いの犠牲を通して罪と腐敗から解放され、神の臨在の光の中に住むよう力づけられるのである。

* 多くの人は「この象徴は教会を示す」と主張しており、彼らの見解を擁護するため、「このケルビムは金を打ち叩いて造られたものであり、キリストを示す恵みの座と一体であった」と言う。しかし、今日のクリスチャン以外の他の者たちも究極的にはキリストと結合されることを彼らは忘れている。このケルビムが内包する預言は、教会の栄化の遙か彼方、時満ちた時代にまで及ぶのである。その時代、神は万物を、天にあるものも地にあるものも、キリストにあって一つにしようとされるのである(エペソ一・一〇)。

しかし、ケルビムは人だけでなく被造物たる動物をも示している。したがって、被造物たる動物も人と共に贖われるであろう。

「この主題はとても重要であり、通常の神学的教えを覆すものなので、象徴に基づいて議論することは許されません。象徴の解釈を間違う恐れがありますから」と言って私たちの推論に反対する人がいる場合、私たちは次のように答える。「旧約では贖いの奥義は常に象徴の中に隠されてきました。しかし、新約では、被造物の救いは明白な間違えようのない言葉で私たちの前に示されているのです」と。

その十分な証拠は、有名なローマ書八章一九節から二四節の中に見いだすことができる。ここでパウロは、「被造物は切なる願いをもって、神の息子たちの出現を待ち望んでいます」と宣言している。その日、一瞬のうちに、神の選民の卑しい体はキリストの栄光の体のように変えられる。そしてこの時、「被造物もまた」腐敗の束縛から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入る時が来るのである。

全被造物の呻きと産みの苦しみはこうして終わりを告げる。そして、御霊の初穂を持つ私たちと同じように、被造物たる動物は望みによって救われているのである。なぜなら、被造物たる動物が虚無に服したのは服従させた方によるのであって、「望みがある」からである。*

* ローマ書八章二〇節、二四節と比較せよ。

このように直接的な予言が私たちの前にあるのだから、イザヤ書一一・六〜九、六五・二五、エゼキエル書三四・二五、二八、ホセア書二・一八といった節の文字通りの意味を受け入れることを恐れる必要はない。これらの節が述べているように、その後、狼は小羊と共に臥し、ライオンは雄牛のようにわらを食べ、毒蛇とまむしは子供たちの遊び相手になる。なぜなら、贖いの時が来て、人から罪が取り除かれる時、被造物たる動物の中から有害なものは姿を消すからである。それどころか、残忍な地も呪いから解放されるのである。

それゆえ、この時代の終りの時の偉大な贖いの光景を描写する際、ヨハネが次のように述べたのも不思議ではない。「また私は、天と地、地の下と海の中にいるすべての被造物、そして、それらの中にいるすべての者が言うのを聞いた、『御座に座しておられる方と小羊に、祝福、栄誉、栄光、権力が、永遠にありますように』」(黙示録五・一三。詩篇一四八篇と比較せよ)。詩篇作者もまた、来るべき王の幻に魅せられて大声で言った――

「天は喜び、
 地は楽しみ、
 海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。
 そのとき、森のすべての木々は、
 主の御前で喜ぶ。主が来られるからである。
 主は地を裁くために来られる。
 主は義をもって世界を裁き、
 まことをもって諸々の民を裁かれる」
(詩篇九六・一一〜一三)

主は戻って来て悪魔の働きを滅ぼし、悪魔の働きによって長い間隠されてきた神の栄光を啓示される。そして、すべての生き物はエデンの園の平和と調和に再び回復され、地は彼らの必要を満たすために豊かな供給を再び生じさせるのである。

偉大な造物主は動物たちの将来に関して恵み深い目的を持っておられることがわかった以上、「動物たちに対する現在の顧みを示すいくつかの証拠が、少なくとも彼の啓示のあちこちに散らばっているのが見つかるはずであり、探すなら失望することはないはずだ」と期待するのはもっともなことである。

創世記の最初の章からわかるように、実を結ぶ木々はアダムに食物として与えられ、他方、すべての青草は野の獣と空の鳥に食物として与えられた。人の堕落の後、人の食物は変わり、人もまた「野の草」に頼らざるをえなくなった(創世記三・一八)。しかし、つつましい被造物に対する神の顧みはやむことはなかったのである。なぜなら、詩篇作者が述べているように、「主は家畜のために草をはえさせ、また人のために栽培する植物を与えられた」からである(詩篇一〇四・一四)。

時がたつにつれて、人々の邪悪さがあまりにも酷くなったため、神は地の面からすべての生き物を一掃せざるをえなくなった。しかし、そうする前に、神は新しい個体群となる核を保存する措置を取られた。そして、それらの措置には八人の人間だけでなく、動物の王国のそれぞれの科の中から少なくとも一組が含まれていたのである。それは、動物たちもまた、回復された世界の中で自分たちの種を繁殖させるためであった。動物たちはノアとその家族の同じ箱船の中で救われた。彼らがしばらくの間、彼らの薄暗いひつぎの中に閉じ込められた後、「神はノアと、彼と共に箱船の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた」と聖書は私たちに告げている(創世記八・一)。

弱い被造物に対する同様の配慮がバラムの歴史の中にも示されている。ロバが口をきいた時、「ロバが引き返していなければ、私は今頃確実にあなたを殺し、ロバは救って生かしておいたでしょう」と御使いは言ったのである(民数記二二・三三)。

ニネベに対する裁きが延期されたことに対するヨナの愚かしい怒りは、次のような言葉で叱責された。「私は右手と左手の区別がつかない十二万あまりの人々と、多くの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ四・一一)。十二万の幼児と多くの家畜とに対する神のあわれみが、この巨大な都市を救ったのである。

その少し後、ハバククがカルデヤ人の冷酷さを非難し、恐るべき天罰について警告していた時、彼はカルデヤ人の罪状として、人々の血を流したことや、暴力をもって町とその住人を苦しめたことだけでなく――もし私たちが正しく訳しているなら――次のような罪状も付け加えている。「あなたがレバノンになしたあの暴虐と、獣たちを恐れさせたあの破壊とが、あなたに降りかかる」。このように、恐ろしい犯罪の話を数え上げる時、彼らが無情にも杉や糸杉を切り倒し、森を燃やし、それにより、野獣たちに恐怖と滅びをもたらしたことを、神はお忘れにならなかったのである。このような行為は加害者たちに跳ね返り、彼らをその重みで打ち砕き、打ちのめしたに違いない。

詩篇三六篇の壮大な二行連句を引用して、旧約聖書に訴えるのを終えるのは適切なことであろう。

「あなたの裁きは偉大であり、深遠です。
 おお、主よ、あなたは人と獣を保護して下さいます。」

まことに、主の裁きは測り知れない大海のように究めがたく、主の道は見い出しがたい!主が奥義を成就して、それを喜んで知らせて下さらないかぎり、誰がその奥義を理解することができよう?しかし、今はその素晴らしい働きを説明することができず、時として困惑して異邦の詩人と共に

「彼の御思いの道は暗く薄暗いため、
 死すべき人の目では見通すことはできぬ」

と言い始めたとしても、それでも少なくとも一つのことを私たちは知っているのである。私たちは神の御旨に関して決してあやふやではない。神の御旨は罪と死のこの廃墟の中から大勢の者を救って生かし、保護することである――神は誰を保護されるのだろうか?人だけでなく、人と獣を保護して下さるのである。