第一、ルカ二十三・34、「イエス言いたもう、『父よ、彼らを赦したまえ。そのなすところを知らざればなり』」。これは彼が十字架の上に釘付けられ、肉は裂け、血は流れつつあるその中よりの声である。いかに彼は罪人を愛したもうことか(ヨハネ十三・1)。あたかも愛で満たされた袋に針が刺さったように、その一番初めにほとばしり出たのは罪人に対する執り成しの祈りであった。人間の袋には汚らわしい罪悪が充満し、平素は偽善で覆っているが、何か刺し通せば、ただちに罪がほとばしり出て罵言となり、嘲笑となり、遂には呪言となる。ところがイエスはこれに反して、おのれに茨の冠をかぶらせ、おのれを十字架に釘付けたその敵のために弁護しておられる。我らはこの大いなる寛容、驚くべき愛の執り成しによりかくあるを得るのである。かのステパノはこの主を知った人であった(使徒七・60)。この主を知った人のみこの祈りをすることができる。
第二、ヨハネ十九・26、27、「イエスその母とその愛する弟子との近く立てるを見て、母に言いたもう『女よ、見よ、汝の子なり』。また弟子に言いたもう『見よ、汝の母なり』。この時より、その弟子彼女をおのが家に受けたり」。実際の十字架は絵と異なり、他よりあまり高くなく、少し離れている。マリヤとヨハネは最も主を愛するゆえ、その傍まで来ておった。この時のマリヤ(ルカ二・34)とヨハネ(ヨハネ十三・23)の心衷はどうであったであろう。イエスはその両人のために苦痛を忘れて一方にマリヤの名を呼び、一方にはヨハネの名を呼び、それを合わせて、「見よ、汝の母なり、見よ、汝の子なり」とのたもうた。真の兄弟姉妹の慰籍はここから出る。人情をいかに尽くすも人間の同情では十分届かないけれども、主が真中にいまして、主の同情が両人の心腹に溶け込み、主が結びたもうた時に、真正の愛、真正の同情が来るのである。これは親子、夫婦、朋友、兄弟、またおのれに責任ある魂に対しても同様である。おお、主は血に染んだ聖手をもって握りながら、「頼む、この魂を愛してくれ」と今もなお我らの心に訴えていたもう。
第三、ルカ二十三・43、「イエス言いたもう『われ誠に汝に告ぐ、今日なんじは我と共にパラダイスに在るべし』」。先には頑固な魂に向かう愛であったが、これは砕けた魂に向かう愛である。この盗人は天地いれざる罪人であったが、彼はイエスにすがった(41、12)。彼はこの世は正しいイエスを十字架に釘付ける恐ろしい世であるが、今に勝利を得る時の来るのを信じておった。しかして彼はあまりのおのれの罪の深さに、「救いたまえ」と言い得ず、かの富める人がラザロを見て叫び、「その指の先を水に浸し、わが舌を涼しめたまえ」と言ったように、「たとえ地獄に行くとも、我を憶えて水を一滴にても与えたまえ」と祈った。実に謙遜な祈りである。イエスはその砕けた心に明日と言わず、今誠に地獄で水一滴でなくパラダイスに在るべしと仰せられた。
第四、マタイ二十七・46、「イエス大声に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタ二』と言いたもう。わが神、わが神、なんぞ我を見棄てたまいしとの意なり」。これはイエスの苦痛の極みである。ある人はこれを攻撃して「イエスの化けの皮がはがれたではないか」と言うが、これはイエスが人の側としてなめたもうた苦痛の結果で、すなわち彼の人性を表している。彼は我らと同情同感の人であった。かかる御方ゆえ贖いをなすことができたのである。マタイ二十六・36〜44、へブル五・7は、人間の側よりイエスを写し出している。だからこそ苦しむ者、悲しむ者、悩む者に同情できるのである。彼が唯一の生命の綱として頼みたもうた父なる神の慰籍は無惨にも切り離されて、父なる神の聖顔は覆われてしまった。だからかく叫び出したもうたのである。死の苦しみとは神より離れたことである。しかしこの生命の源より離れ、死の陰の谷に投げ込まれたもうた時、贖いが成就したのである。また父なる神の側より考えるならば、この叫びを聴きたもうた時の苦しみはいかばかりぞ。これみな人類の罪のためである。ただしこれによって宮の幕は二つに裂け、今は罪深き我らも「アア父よ」と呼ぶことができるのである。
第五、ヨハネ十九・28、「この後イエスよろずのこと終わりたるを知りて――聖書の全うされんために――『われ渇く』と言いたもう」。この渇きはもちろん我らの罪の結果である。罪を犯した時は、我らの経験として渇きが来る。ことにその報いが来る時はいかに恐ろしく渇くことか。この時イエスは肉体的にもことごとく血が出たことゆえ渇きたもうたのだが、なお一歩進んで霊的な渇きはいかほどであったであろうか。すなわち、彼の渇きは砕けた魂であった。これは十字架の叫びである。キリストの切なる渇きを潤すには、悔い改めて信ずる他ない。イザヤ五十三・11、「彼はおのが魂の煩労を見て心たらわん」(これは「彼は産みの苦しみをしているものを見て」と訳す)。キリストは十字架の上で産みの苦しみをなしたもうた。その生まれた子を見て、彼は満足したもうたのである(詩五十一・17)。なお進んで我らが魂を救い導き、彼に来たらしむる時、渇ける魂は潤されたもうのである。
第六、ヨハネ十九・30、「イエスその葡萄酒を受けてのち言いたもう『事終りぬ』。遂に頭をたれて霊を渡したもう」。これは主の満足である。彼は贖いを全うしてかくのたもうた。人間は「どうせねばならぬ、こうせねばならぬ」と言うが、しかし信仰をもって十字架を見上げる時、「事終りぬ」である。我らの業を付加してはならない。ただ信じて安んずることである(へブル四・3、10)。我らはただ感謝して受くべきである。
第七、ルカ二十三・46、「イエス大声に呼ばわりて言いたもう『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』。かく言いて息絶えたもう」。これは大勝利である。我らの最後もかくありたい。彼は父より委ねられた事をことごとく成就なしたもうた。しかして、しかも大声にかく叫びたもうた。人間が死ぬ瞬間には決して大声は出るものではない。しかるにイエスは大声あげて父なる神のもとに飛んで行きたもうた。ステパノの最後もかくあった(使徒七・69)。我らもかく立派に死にたいものである。
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