(肋膜炎の癒しに感謝する感謝会での証し)
私はいかに感謝して良いかわかりません。神の恵みはあまりに多くてどれからお話して良いやらわかりません。このたび受けた恵みを到底言い尽くすことはできませんが、一口に申し上げれば「神は愛なり」ということであります。私はここにその要点を手帳に記しています。
(一)愛の鞭
私は明治二十六年脳病より癒され、以来今年は足掛け十三年目で、その間弱いながらも大した病にかからず御用を勤めてまいりました。ある兄弟たちは私のことを「柳に風折れなしだ」と申しましたくらいに、主より支えられて来ましたのに、今度は大患に犯され、自分でもあきれてなぜかと自ら省みましたわけです。しかし、これは全く神の愛の鞭でありました。私がこの鞭を受けるや否や、神はあなた方初め多くの兄弟姉妹をして私のために祈らしめたまいましたから、私は真に温かな愛を感じました。兄弟姉妹が私のために祈っていて下さるということを聞くことほど嬉しいことはありませんでした。ある方は私の知らない間に度々断食して私のために祈って下さいましたことを後で聞き、涙の中に感謝いたしました。ああ、神はどんなに私を愛したもうことか。かく兄弟らをして私のために祈らしめ、その祈りに答えて今日あらしめたまいました(霊的教訓を受けたことは後ほど申し上げます)。
(二)胸痛より癒さる
私は六月十六日発病の初めより胸が痛みまして、ある日のごときはどうしても起き上がることができませんでした。妻の助けを得て無理やり起き上がろうとすれば、胸はナイフでさながらえぐられるようで、顔も唇も色を失い、直接倒れるという状態でありました。その時キルポン兄とホイトニー兄がヤコブ書五章14節に従い、主の名によって油を注いで祈って下さいました。讃むべきかな、主はその胸痛を癒したまいまして、翌朝私は起き上がり立つことができました。この時までは朝起き上がることの有難味を悟りませんでしたが、もし主の手が離れるならば、私は伏したまま起きることもできないものです。朝起き上がることを得るのは実に恵みであることを味わい、これによってへりくだることを教えられ、神の恵みに感じました。
(三)病中の大慰楽
その後胸痛は去りましたが、熱は去りませんで随分苦しみました。また肩、背、腰等、所々に痛みを覚えました。しかしその中で忘れることのできませんのは、聖書と祈祷が慰めとなったことであります。毎日午前も午後も夜も家内に聖書を読んでもらっては祈りましたが、主は実におもむろに私に語り、慰め励ましたまいました。ですからその間は苦痛を忘れていました。実にエホバは我が避所また悩める時のいと近き助けなることを経験いたしました。
(四)祈ることと養生法とを教えらる
七月一日、主にある医師諏訪兄は私を訪ねて下さったついでに、私の全身を精密に診察されました。私はこれによって初めて自分の大患を知り、肋膜炎で左胸部に一升ほどの水があり、これがために圧迫されて心臓は二指ほど右に移され、左肺は三分の一くらいしか働かず、実に大患であることを知り、この時より明白に確実な祈りを捧げるに至りました。その時までは私は箱根へ旅行するつもりで準備していましたが、諏訪兄の御話によれば「目下旅行どころではない。自宅で起きて動くことさえますます胸部の水を増すから、最も安静にせよ」とのことで、自分の愚かなことと主の御懇なることを悟りました。諏訪兄は神癒を信じられるゆえ治療も投薬もせず、ただ私と共に祈って下さいました。
(五)試練と勝利
七月三日、主にある医師大沢兄が訪問診察され、中々の重症なるを説き、「速やかに器械治療を受け、胸部の水(大沢兄は一升あまりと言われました)を取り去らねば必ず肺尖カタルとなり、次に肺結核となる」と申されました。同医師が去られた後、私は一人で静かに主と相談いたしました。その時主イエスは実にねんごろに私を教え励まし、「我が一切を引き受けている。ただ信ぜよ。人の力に依り頼むでない」と言いたまいました。これによって私の信仰は一層堅くされました。私はこのたび堅く信じて動かず、主の癒しを受けるに至りましたのは、ひとえに聖霊が私の信仰を中より支えて下さったからであります。その夜私は妻と共に祈り、確かに主は我が祈りを聴きたもうたと信じ、翌日はめっきり快方に向かわんと期していましたが、意外にも翌日は以前よりも悪くなりました。これは主の貴い御旨より来た信仰の試みでありました。またその日に限り種々の誘惑がまいりました。ある人は申しました。「滞った悪水を出して除くのは常識だ。それは神癒の信仰と衝突しない」と。しかしこの時私の唯一の願いは我が苦痛を全く取り去られることでなく、いかなる道を取っても一切の栄えが神に帰せんことでありました。かく願いしは神の恵みです。この夜は苦痛の絶頂で、背と肩の後と腰とが痛み、胸は苦しく、寝ていることができませんで非常に悶え苦しみましたが、今夜はぜひ明確な勝利を与えられんことを願い、ヤポクの渡しのヤコプのように神の前に心を注ぎ出して終夜祈りました。種々な聖言を思い出しましたが、なかなか勝利を得ません。暁に至り主は明らかに私の前に立ち「われはエホバにして汝を癒す者なり」と言いたまいました(出エジプト十五・26)。特に「われは汝を」と力を入れ、「われイエスが汝笹尾を癒す」と言いたもうように感じました。その時にはただありがとうございますとお受けし、心中に平安を得ました。その朝中田兄弟と共に祈りました時、実に大勝利でただ感謝讃美となりました。この日より熱は引き始め、また水は医師も驚かされるほどの速力をもって便通の方へ取り去られました。夜も前と異なって眠ることができるようになりました。ああ、癒し主の聖名はほむべきかな、その恩恵は深いかな、御業は妙なるかな(詩百三・1〜5)。
(六)静養と神の賜物
葉山で静養する道は開かれましたが、医師は私の旅行はなお早きに過ぎ危険だと申されました。しかし主は、「行け、われが連れて行く、恐れるな」と言いたまいますから、決心して出立しましたが、初めは人力車及び汽車の動揺のために胸苦しく感じました。しかし主の御声を信じ、時々刻々主を見上げて進み、そのうちにいつの間にか苦しみを忘れ、葉山に到着後もさほど疲れず、何の障りもありませんでした。主は葉山において矢島兄姉により一方ならぬ愛を現わしたまいました。また多くの兄姉より実に懇切な御訪問や手紙を受け、また豊かに滋養物、金その他の物を贈られました。これについて私は常にコリント後書八・9の聖書を思い、何物も受ける価値なき私が受ける賜物の一つ一つが、みな主イエスの御犠牲より出で、兄姉らの献げ物より来たことを味わい、実にもったいなくありがたく感じ、兄姉らのために豊かな祝福を祈りました。かくて主は私をも静かに持ち望ましめ、御約束のように驚くべく静めたまいました。
(七)霊的教訓
これはあまりに多くて話し尽くすことはできませんが、ここにその数点を申し上げましょう。
(1)、私は人を教えて自らを教えない点がありましたから、神が私を打ちたもうたのは当然です。「なんじ我を離るる時は、何事もなしあたわざれぱなり」(ヨハネ十五・5)との聖言を十分知りながら、実際ある場合には私の魂が主より離れていることがありました(聖霊を憂えしめるか、あるいはこれと言う罪はなくてもへりくだりと祈祷と信仰の欠乏により)。それでも多忙に紛れ、そのまま先から先へと御用を勤めていましたから、主はこのたび目にものを見せて、「汝われを離れては何事をもなしあたわず、どうだ悟ったか」と教えたまいました。
(2)、信者の中で私が一番小さい者であることが分かりました。パウロがエペソ三・8に、我は聖徒の中の最微者よりも小さき者だと申した意味がよく分かりました。
(3)、私は幾年来、主との絶えない交通ということについて聞き、また求めていましたが、聖霊が教えたまいますには、「交通そのものに目を向けて気を配るには及ばない。常に主に目を向けて、ただ信任して進め。主の方からは決して交通を絶ちたまわない。また、聖霊の働きはあなたをして父及びその子イエス・キリストの交際に入れしめ、かつこれを継続せしむるにある。それゆえ、ただ嬰児のように信ぜよ。エノクが三百年神と共に歩んだ秘訣はただ信仰であった(へブル十一・5)」。
(4)、お恥ずかしいことですが、私は時々自分の欠点を見て、「自分が主の花嫁の中に入っているか、あるいはいないか、これでは主の御前に立つことが難しい」などの疑いと恐怖で心を曇らされたことがありました。しかし聖霊はこの度この不信仰の疑念を全く拭い去りたまいまして、「主と私とはもはや二つではない、一体一霊である。神の合わせたもうた者を人は離すことができない。切っても切れない仲である」と確信しました。ことにイザヤ六十二・4の「配偶」(英訳、嫁がせしめらる)の聖言により確信を得、「汝の日は再び入らず、汝の月は隠ることなかるべし。そはエホバ永遠に汝の光となり、汝の悲しみの日終るべければなり」(イザヤ六十・20)との意味がわかりました。
(5)、私の働きがとかく機械的になる憂がありました。働きに使役されるは奴隷である。主に使役されるは自由である。時々刻々一事一物日々主に使われて働くべきことを教えられました。
(6)、私の肉体は感情によれば、なお強い働きの役に立たないようです。しかし、我が真正の体力は筋肉的の元気でなく、我が内に働く主の甦りの力であることを信じ(ローマ八・11)、進んで働いています。どうか私がただこの力により終わりまで忠実に仕え、使命を全うしうるようお祈り下さい。
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