「愛する者よ、我なんじが霊魂の栄ゆるごとく汝すべての事に栄え、かつ健やかならんことを祈る」(ヨハネ三書2)。
神が最初エデンの園において御自身の形に人間を造りたもうた時は、人間は霊肉共に実に健全幸福な者であった。神より見たもうても「はなはだ善かりき」とある(創世一・31)。
しかし悲しいことに、人間は罪を犯して神より離れたのである。すべての善い賜物と全き賜物はみな上より、諸々の光明の光より下るのであるから、神より離れた結果として人間はたちまち霊的に死んだのである(創世二・17)。すなわちその中心に真正の光も、喜びも、平和も、力も、望みも、生命もなくなってしまったのである。聖書によると、病気の原因は四種に分かれている。
第一、犯罪、第二、おのれの義、第三、恵みの乱用、第四、神の栄光のため。
第一、犯罪
病気が犯罪の結果であることは明らかである。申命記二八・58〜67を見ると、「汝もしこの書に記したるこの律法のすべての言を守りて行わず、汝の神エホバという栄えある畏るべき名を畏れずぱ、エホバ汝の禍と汝の子孫の禍を烈しくしたまわん。その禍は大いにして久しく……もろもろの病ともろもろの災いを汝の滅ぶるまでエホバ汝に下したまわん……汝は安寧を得ず、また汝の足のうらを休むる所を得じ。そこにてエホバ汝をして心おののき、目くらみ、精神乱れしめたまわん。汝の命は細き糸に懸かるがごとく汝に見ゆ。汝は夜昼となく恐れをいだき、汝の命おぽつかなしと思わん。なんじ心におそるる所により、また目に見る所によりて朝においては言わん、『ああ夕ならば善からん』と、また夕においては言わん、『ああ朝ならば善からん』と」。
これは病人の有様をよく描き出している。私もかって大病にかかり神から離れていた時に、丁度この通りに感じたのである。罪は我らを実に哀れな者とするのである。
第二、おのれの義
これはヨブのような場合に見る所である。御存知の通り、彼は足の裏より頂まで腫物を生じ、その朋友は彼を見知りがたきほどとなった。三人の朋友は、ヨブが何か罪を犯したからこのような病にかかったものと一途に思い込み、しきりに彼を責め、彼が反省改悔せんことを勧めたのであった。しかしそれは彼らの誤りで、ヨブには何の犯罪もなかったのである。ヨブが自ら見ておのれを正義とし、神と人との前に砕けないことが神の打ちたもうた点なのである(ヨブ二・1、三四・5、6)。
おのれを義とすることは古い人の一つの特色である。ヨプは立派に義とされた人であったが、潔められていなかったのである。しかし、彼が神より光を受けたその時、彼は自己の賎しいことを悟り、手を口に当て塵灰の中にひれ伏して贖いに頼り、かつ自己を苦しめた友を赦してこれがために祈った。その時、神は彼を癒し、前の倍の祝福を与えたもうたのである。
第三、恵みの乱用
コリント前書十一・28〜30を見ると、コリントの信者は豊かに恵まれたのに乗じて、肉に所を得させ、聖餐をも乱用するに至ったため、「このゆえに汝らの中に弱き者、病の者、また眠りたる者多し」と言われている。我らは格別この点について自ら省みたい。とにかく身体の弱い者もまた省みられたい。自由を得る機として肉に従ってはいないであろうか。
第四、神の栄光のため
これはヨハネ伝九・1〜3のような特別の場合である。これからもわかるように、盲目またその他病気になっていることが聖旨ではなく、癒されて栄光の現れることが聖旨である。
以上の聖言によって我らは各々おのが姿を知り、へりくだりたい。そして今、我らの霊肉のために主が成就したもうた完全な贖いを見上げたい。
「彼は自ら我らの患いを受け、我らの病を負う」(マタイ八・17対照)。「しかるに我ら思えらく、彼は責められ、神に打たれ、苦しめらるるなりと。彼は我らの咎のために傷つけられ、我らの不義のために砕かれ、自ら懲らしめを受けて我らに平安をあとう。その撃たれし傷によりて我らは癒されたり」(イザヤ五三・4〜5)。
我らの罪だけでもたくさんなのに、さらに我らの病までも負いたもうた主の御苦しみはいかばかりであったであろうか。実に畏れ多く、かたじない次第である。この完全な贖いを成して眠りたもうたわが大牧者は、我ら羊どもに生命を与え、かつ豊かならしめたもうのである(ヨハネ十・10)。
おお、豊かな生命!これは我らの望む所である。病人や弱い人の生命は豊かではない。それで主は我らの霊魂が栄え、しかもすべてのことにおいて栄え(やっとのことで信仰を維持しているようではなく)、かつ身体が健やかならんことを願い、これがためにすでに十分の備えをなしたもうのである。
我らは果たしてこの完全な恵みにあずかり、霊肉ともに健全であるであろうか。ある人は信者でありながら、ただ一部分の恵みのみを受けているのである。私の友人が四谷の学習院の側を通行した時、ある貧しい老人が荷物を背負いながらよちよち歩いているのを見た。その時、通りがかりの車夫が空車を引いて帰る所であったが、これを見た車夫はただちに「老父さん、重そうだね、どこに行くのか」と尋ねた。老人はどことか答えたが、車夫は「おれはその方へ行くのだ、乗せてやろう、さあ乗りなさい」と申したところ、老人は中々遠慮していた。車夫は無理に老人を乗せたところ、老人はビロードの上に座ることを遠慮して、足を置くところに座ったのである。車夫は困り、「老父さん、それじゃ根棒が重くて困る」と言って、強いて腰をかけさせたのであったが、老人はさも気の毒に、後ろへもたれもせず、「ヘーヘー」と言いながら乗って行ったそうである。信者の中にもこの種の人がいて、あまり何もかも神様の御厄介になってはならぬと考え、思い切って完全な霊肉の恵みを受けないのである。神様はこの種の信者を運ぶのに根棒が重くて困っていたもうのである。おお、我らはいずれにしても主の御厄介になるのである。一つとして自分でやり得る点は無いのであるから、愚かな遠慮は止めようではない
「汝の目はうるわしき様なる王を見、遠く広き国を見るべし。かしこに住める者のうち、われ病めりと言う者なし。かしこにおる民の咎は赦されん」(イザヤ三十三・17、24)。うるわしき王なるイエスを見、その広き聖国を見、そこに住む者の中には「われ病めり」と言う者なく、しかもかしこにおる民の咎は赦されるのである。これはヤコブ書五章の約束と同じである。
「されど我が名をおそるる汝らには義の日いでて昇らん。その翼にはいやす力をそなえん。汝らは牢より出でし子牛のごとく躍らん」(マラキ四・2)。
生命に満ちた霊肉はこの通りである。ハレルヤ。病いある者、弱い者、罪あることを悟った者よ、今へりくだって全く神に打ち任せて祈れ。そしてあなたの霊肉の完全な贖い主を信ぜよ。「愛する者よ、我なんじが霊魂の栄ゆるごとく汝すべての事に栄え、かつ健やかならんことを祈る」。
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