「父の我を愛したまいしごとく、我も汝らを愛したり。わが愛にとどまれ」(ヨハネ十五・9)。
私は今日皆様と共にこの聖言を味わいたい。私は今日はもう潔めのことは語らない。どのようしてこの恵みを保つことができるか、いかにしてこの恵みを成就することができるかを語ることにする。
ここに主イエスはねんごろに御自身の経験を語りたもうて、愛にとどまる秘訣を教えたもうた。すなわち恵みを持ち続ける秘訣は、人に対して正当な態度を持ち続けることである、戒めを守ることであると教えたもうた。皆様、どうかここに書いてある父なる神のキリストに対する愛を信仰をもって見上げてもらいたい。誰がいかなる人に対して、いかなる愛を持っていても、神がキリストを愛するほどの愛を持っている人はいない。父がキリストを愛するような潔く、高く、深い愛を持っている者はない。かのヤコプがヨセフを愛したような愛である。
神はすべての人を愛したもうが、主イエスに対してはこのような愛を持ちたもうがゆえに、父なる神はキリストに御自身の満ち足れる徳を満たし、万物と聖霊を限りなく与えたもうた。種々の方面から父なる神の愛がキリストに注がれている。これは誰でも信ずることのできる事実であって、想像でも空想でもないのである。主イエスはこの父なる神と同性、同量の愛をもって我らを愛したもうのである。「父の我を愛したまいしごとく、我も汝らを愛したり」。これで十分である。これより他に人間の要求はない。人間の愛でも我らには非常に慰めになる。「世の中でこの人と一緒ならば他に誰もいらない」というように慰めを得る。我らが度々罪を犯して暗くなるのは、かくまでも我らを愛したもう主イエスを見失うからである。そんな時は必ず世の物を慕っているから、我らは常にすべての物より目を転じてイエスに向かう態度を持ちたい。実に喜ぶべきことは、このキリストの愛は決して我らの値打ちにも何にもよらないことである。今我らはいかなる物を愛していても、キリストの我らに対する愛は決して変わらない。であるからには感謝して信仰によりこの愛を受け入れ、この愛に飛び込むことができるのである。ここにいる一人一人がこの愛に満たされることができる。
我らは集会の時イエスの愛に感謝するが、主は常にその愛にとどまることを要求していたもう。「とどまる」とは愛に住居して常にこの中に入っていることである。多くの人は聖別会の後に失敗するが、これはイエスの秘訣を知らないからである。イエスが父の愛にとどまられたのは、父の戒めを守っておられたからである。子供は親に愛されるが、子供の中にはただ親の愛を受けるばかりの子供がいる。こういう子は自分の都合の良い時だけ親を慕うのである。けれども親の愛にとどまっている子は自分の都合を思わないで孝行をする。ここで初めて親子とも満足するのである。
主イエスの御生涯もちょうどこのようであった。ヨハネ伝十章15節に、「父の我を知り、我の父を知るがごとし。我は羊のために命を捨つ」とあるが、ここで主イエスは父なる神の心を知りたもうて、その御旨に従いたもうたことを明らかに見ることができる。主イエスは父なる神と交わりたもうた時、父の重荷を知りたもうたゆえ、生命を捨てる決心をしたもうたのである。そこで父なる神は、それではお前行けと命じたもうた。であるから、彼の地上の生涯はこの精神をもって一貫している。主イエスは生涯、父なる神に「恵みたまえ」とは申されなかった。主イエスの生涯を忙しくしたのは、父なる神の聖旨であった。皆様はこの世を送るのに神の御旨をのみ行っておられるであろうか。時には聖旨以外に種々のことをすることはないか。
詩篇四十篇8節に、「わが神よ、われは聖意に従うことを楽しむ。汝の法はわが心の内にあり」とあるが、神の法が心の内にある時、聖旨に従うことは苦しくないのである。自然の性向として御旨に従う、これ恵みの結果である。けれども古い人が残っている時は、従うことが楽しくない。もし諸君の中に聖霊の声に従うことができないものがあるならば、今日取り去られよ。
ヨハネ伝四章32〜34節を見ると、イエスは食事を忘れるほど忠実に父の聖旨を行いたもうたが、この時あらたに父なる神の愛がイエスに注がれたことがわかる。この時イエスの心の中に言いようのない御馳走があったから、体までも生かされるという秘密を持ちたもうたのである。我らがイエスの戒めを守り御心を行う時、主イエスの愛から離れないばかりでなく、神の愛の深さ、高さ、長さ、広さを知ることができる。我らは悔い改める時に神の愛を知るが、これは浅瀬に座って受ける愛である。これから各自ここを離れてあるいは洗濯を、あるいは訪問をする時、または人知れず苦労する時、またあるいは講壇に立つ時、この愛の御馳走を神より受けることができる。けれども主イエスの十字架は実に苦しいものであった。多くの人はこの十字架の苦しさを忘れるために失敗するのである。また多くの人は新約では律法は消滅したものと思っているが、新約においても決して律法は消滅していない。コリント前書九章21節によれば、我らはキリストの律法の下にある者である。これを忘れるから多くの人はキリストから離れ落ちるのである。けれども新約の律法は旧約の律法とは全く違う。「汝ら互いに相愛すべし」という律法であって決して儀文の律法ではなく、キリストが我らを愛したように人を愛することである。眼中に事業を置くのではない。魂のみを眼中に置くのである。けれどもこの律法を守ることは事実苦しいことである。
へプル書五章8節を見ると、キリストも父なる神の律法を守ることによって従順を学びたもうた。かのゲッセマネの園でキリストが神に服従することを躊躇して苦しんで祈りたもうたのは、キリストもかねて従う覚悟はしておられたのであるが、我らと同じ肉体を持ちたもうたキリストはこれを受けかねて、「父よ、この杯をわれより離ちたまえ」と祈りたもうたのである。キリストがかつて学び得なかった従順をここで学んで従いたもうた時、父なる神は自ら天より飛んで下りたいほどだったので、天使を送って力を与えたもうたのである。いざ従う時と心で決心する時とは実際違う。
キリストの秘訣は従うことであった。キリストは我慢して自分で行ったのではなく、父の御旨に従いたもうたのである。キリストはさながら蝋が火に溶けるように御旨に従いたもうたから、また父はキリストに御自分の愛をあらわしたもうた。どうぞ皆様この秘訣を味わっていただきたい。
ピリピ二章8節を見ると、キリストの従順は死に至るまでの従順で、我慢できるまでではない。死に至るまで従うのである。キリストは父なる神の恵みに感じておられたから、神が眼中に明白に見えていた。であるから、イエスは御自身を低くして死に至るまで従いたもうたのである。キリストが下ってくださらなかったら我らは救われることはできなかったが、事実今救われていることは誠に感謝すべきことである。父なる神の命令を死に至るまで守って下さったこのイエスの謙遜と従順とが、我らを救ったのである。このことを思って恵みに溶かされ、お互いに死に至るまで従いたいものである。
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