ヨハネ第三書2節
聖書はここに使徒ヨハネを通して神の聖心を示していたもう。病める兄弟姉妹よ、みなさんは病気の癒されんことを願っておられるであろう。これは神の聖心と一致することで、幸いなことである。今日は第一、病気とはいかなるものか、第二、病気に対して神の御旨は何か、第三、神が我らの病気のために何をなしたまいしや、第四、我らはいかにせば癒さるるを得るやということにつき、要点をかいつまんでお話しようと思う。
第一、病気とはいかなるものか。一口に言えば罪の結果である。これは悪魔より来るもので決して神の恵みではない。申命記二八・15、21、22、27、36、60、61。すなわち、病気は神の律法を破った結果として来る神の呪いである。これは悪魔より来るものである。ヨブが病気になったのは神がこれを与えたもうたのではなくて、これを許したもうたのである。
我らは以上のことを知ったならば、病気になった時にはへりくだってその原因を調べ、悲しんで懺悔すべきはずである。ところが病気にかかっても懺悔せず、神の恵みであると欺かれている多くの者があるが、これは実に大きな心得違いである。ある人はヨハネ伝九章の盲人のところを引用して「病気は神の栄光のためである」と言う者があるが、これは特別の場合で、たとえ神の栄光であっても、その人が病気で悩んでいることが御旨でなく、その人の癒されることにより栄光をあらわしたもうことが御旨である。また、ある人は「パウロにも刺があったではないか」と言う。私も長い間このことについて欺かれていたが、これは我ら自らをパウロと同じ者とすることによって来る間違いである。彼はその書に記しているように、特別に黙示と顕現とを受けたので誇ることがないように与えられた刺であった。私どもの中にパウロのような黙示と顕現を受けた者があろうか。
第二、病気に対しての神の御旨は何か。神は悪い者の亡びることを願いたまわず、むしろその罪を離れて生きることを願うと宣言された。詩百二一・3を見られよ。これは神の人間に対する態度である。あなたに多くの罪があっても、そのすべてを赦して癒したもうは神の御旨である。先のヨハネの書においてもそのことが明らかである。願わくはこのかたじけない神の御旨を認められんことを。「汝らは価をもて買われたる者なり。さらばその身をもて神の栄光をあらわせ」(コリント前六・20)。心だけは誠であり、また信仰善くも、始終病床にいるならば、なるほど心では神の栄光をあらわすことができるであろうが、身においては少しも神の栄光があらわれない。ある人は「宗教は霊魂ばかりのものであり、肉体のことを言えば天理教じみていると」言うが、それは大きな誤りである。愛なる神の御旨はただ霊魂を救うだけでなく、肉体の病をも癒したもう。それでこそ完全な救いと言うことができるのである。
第三、では神は我らのために何事をなしたもうたか。マタイ八・16〜17を見られよ。イエス・キリストは我らの罪を負いたもうたのみならず、我らの病を負いたもうたのである。このことを熟慮する時、実にもったいないと感ずる。あなたは今病に犯されておられるか。それがあるいは遺伝の病、あるいは熱病、肺病、その他何であろうと、イエス・キリストはその病を負いたもうたのである。彼は呪いより来るその多くの病をさえ負いたもうたのである。彼のむち打たれたのは何人のためであろうか。ローマのむち打つ刑罰はそのむちのあたる所の肉は破れ、そのため死ぬ人さえあるので、そのむち打つ数が定められていたのである。けれども、キリストはそのむちで打たれ、肉は砕かれ、血は流れたのである。これは何のためであろうか。これは実に我らの病のためである。「汝らは彼の傷によりて癒されたり」(ペテロ前二・24)。十字架がもし魂を贖うのみならば(これはもちろん土台であるが)、片輪の救いである。ガラテヤ三・13。かの木にかかって呪われたイエスを見られよ。何のために捨てられ、蛇のように取り扱われたもうたのであろうか。我らの病のためである。申命記に見られるその呪いがイエス・キリストの上に下った。病める兄弟姉妹よ、十字架を仰ぎ見られよ。あなたのためにイエスはその苦しみを受けたもうた。我らの霊魂と肉体の強く健康であることは御旨であり、かつ神はこれを実行したもうお方である。この贖いは我らの肉体の上にまで及ぶことを知る時、贖いの深みを悟り、その完全さに驚くのである。
第四、では我らはどのようにすれば癒されることができようか。すなわち、次に考えることは我らのなすべき条件である。ヤコブ書五・14、16。神はねんごろに教会に尋ねなさる。そして仰せられる、「病める者あるか。その人、教会の長老たちを招け」と。医者を走り迎えよとは記してない。長老とは伝道者のことである。その人が信仰をもって祈る祈祷は病める者を救う。主は彼を起こしたもう。しかし、そこに病める者のなすべき条件がある。すなわち、第一は罪を認めることである。病の癒しは罪の赦しと同じことである。その罪を認め、病の贖い主を医者として頼り、信じて祈る時に、主は起こしたもうのである。赦罪と神癒は並行するものである。人はわがままなもので、その罪を隠していながら病気の癒しだけを求める。これは偶像信者だけでなく、キリスト信者の中にも随分多くある。罪があるならばそれを言い表わして出られよ。その時に神はそのすべての罪を赦し、その病を癒したもう。もちろん、自分の気付いている罪はことごとく悔い改め、なお自分に罪があるかどうかを探ってもらうことである。神は探る光を照らし、必ず思い出させたもうであろう。その時にすぐ悔い改めねばならぬ(詩一三九・23、24)。
第二になお神とあなたとの間が和合せず、どこかわがままで不従順の点があれば、それを悔い改めねばならぬ。神がその愛する者を懲らしめたもうのは、その心得違いを直さんがためである。病は神の第二の声とも言う。神はまず第一の声、すなわち聖霊により聖言をもって静かに語りたもうが、それに聞き従わないなら、悪魔の彼を打つことを許したもう。ゆえに病める時には静まって神の聖声を聞くべきである。ある人には献身せよ、ある人にはその一つの偶像を捨てよ、ある人にはその志を改めよなど、各自の急所を突いて示したもうであろう。そのような時にその声に従うことをされよ。そうすれば神は癒したもう。
第三に神癒を求める動機である。これはあなたが苦しいからではなく、神の栄光のためでなくてはならぬ。癒された者になりたいのは、あなたがわがままに飛びまわることのできるためではなくて、神のために働き、その栄光をあらわさんがためでなくてはならぬ。もしそうでないと偶像信者と変わるところがない。
第四に神に頼むという以上、医師にも薬にも頼らないことである*。二心ではならぬ。もし医師にかかる時、二人の医師の手に頼るならば、薬が衝突しどんなことが起こるかわからない。神に頼るも同様で、神以外のものを全く捨て去り、一心に神に求めなければならぬ。何も医師の薬が悪いというのではない。むろんこれは罪ではない。これは自然法で一つの神の恩恵であろう。研究を積んだ結果、神の与えたもうた材料を用いて癒すのは良いことであろう。しかし神の癒しは自然以上である。自然法によれば未信者でも動物でも癒える。しかし、ここに自然以上の働きがある。すなわち信ずる者に、医薬の力によらないでキリストの贖いの働き、その血潮の能力によって、聖霊が肉体に働き、その不思議な働きの結果、どんな病も癒されるということである。人の医者や薬は完全なものでなく、しばしば間違いが起こる。しかし、神の癒しは完全である。あなたは神の全能を信じられるか。そうならば他のものを要しないはずではあるまいか。
第五に信仰である。以上の四つの条件を果たさぱ、必ず引き受けたもう。神の手は誤ることはない。大丈夫である。ゆえに我らはそれを信ずべきである。ただ幾度も幾度も叫び祈っても何の益もない。信じなければならない。我らの罪の赦しを得たのも信仰によってである。病の癒しも同様である。キリストは我らの病のために呪われたもうた。おお信ぜよ、その時に神は癒したもう。
私はヨハネ伝五章にあるベテスダの池の記事を読み、深く恵みに感ずることである。そこに多くの病人が集っていた。時に天使が下ってその水を動かしたのであるが、その時に一番先にその池に飛び込んだ者のみ誰でも癒されたので、彼らはそれを待っていた。そこへイエス・キリストが来たりたもうたのである。多くの病める者の中に、特別に哀れな三十八年病みわずろうた人が一人いた。キリストはその者に向かって「癒えんことを願うか」と問いたもうた。「おお、健康に完全にしてもらいたいか」。その時その哀れな病める者は答えた。「主よ、私はこの様にして長い間ここにおります。しかし水の動いた時に飛び入らんとしますが、私にはそれができず、私を助けて池に入れる人もありません。私は哀れな者です」と。その時に主は何と仰せたもうたか。「起きよ、床を取りあげて歩め」と。かくてその病人はすぐさま起き上り、病はただちに癒え、床を取りあげて歩いたのである。その池は律法である。律法によらんとすれば、自分より勝る者が先に恵みにあずかるのである。しかし、恵み主なる主イエスはあちらから来られて、今あなた達に「癒されることを願うか」とのたもう。願わくばこのイエスを信ぜられよ。
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