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「笹尾鉄三郎説教集」

断食の生涯

笹尾鉄三郎



「されど花婿をとらるる日きたらん、その日には断食せん」(マルコ二・20)。

今ここで言わんとしている断食は、儀式上のことではなく、この世と肉につくものを断つ精神上のことを言うのである。

昔儀式において、一週に一回あるいは二回の断食をしたが、今我ら信者の生涯において、一年三百六十五日、常に断食の生涯を送る動機として三つある。

(一)罪と世を憎む心より

罪がいかに苦しみをもたらすかは誰でも経験したことがある。しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」は人の弱味。我らは罪とこの世のいかに憎むべきかを記憶していなければならない。人を憎む者がいるが、しかし罪に対して水火相入れぬほどの敵愾心を抱いている者は果たして幾人いるであろうか。我らの内に罪を憎む猛烈な心がなくてはならぬ。

コリント後書七章11〜12節にある憤り(罪に対する)、また「罪を責むる心」のある人こそ潔い人で、罪を入れるに寛容な者は汚れた者である。だから我らは深く自ら省み、神の光に よっておのれを探り、罪を発見したらこれを全く退治し、決していい加減にしておいてはならない。おお、僧らしい罪。罪がかつて我を死の中に閉じ込めていた。罪がわが愛するイエス君を殺したのである。しかもこの罪は今なお生存しており、様々なものを我らにもたらして、再び我らをその中に陥れようと努めている。おお、欺かれるなかれ。この不倶戴天の敵を覚えよ。何物をもって来るとも、いかに愛矯を振りまいて来るとも、決して受けつけてはならぬ。「その肉に汚れたる下衣をも厭え」。

(二)主イエスに向かう愛(附・天の栄光を思う心)より

第一は消極的な例、これは積極的な側である。我らは断食できるであろう。キリストの天秤では御自分の生涯よりも我らの方が重かったのである。おお、驚くべき愛。御自身の命よりも我らを愛したもうとは!しかし、これは事実である。この愛を真に悟ったなら、我らの主に対する愛もまたそのようになる(詩六三・3、5、6)。我が命よりもさらに良いものは主の愛である。この愛を思う時、わが魂は大いに恵まれる。そしてキリストを知る者はまた、この愛がわかって来る。讃美歌二百四十六番は、このあたりの消息を伝える美わしい歌である。この愛がわからぬうちは、我らは地上のものより離れることはできぬが、この愛によって我らの心が天に引かれる時、今まで惜しかった名誉も地位もその他この世につくすべての物もいさぎよく捨てることができる(ガラテヤ六・14)。キリストの十字架は我らを世から断つもので、これによって我らはナザレ人の生涯を送ることができる(民数六・2〜4)。パウロはピリピ書三・7〜8を見ると断食の生涯を送っていた。そして彼はコリント後書十一章23〜27節、同前書四章11節のような大きな艱難に遭遇したが、不景気な顔をして人の同情を買うようなことはせず、かえって大いに勇み喜んでいる。これは彼が主に対する愛に満たされ、その心が天の方に引かれていたからである(コリント後四・16以下、ローマ八・16、18)。

(三)魂に向かう重荷を感ずる心より

魂の重荷を真に感ずるならば、肉につくものを断ち得る。イザヤ五八・6、7を見よ。世に悪魔のくびきの下に呻吟している者が多い。彼らを解いて自由を与えてやらねばならない。また、命のパンに飢えている魂、神の家より勘当された貧しいさすらい人、義の衣を着ていない魂の裸の者など、いかに多いことであろう。彼らに食させ、彼らを宿らせ、彼らに着せてやらねばならぬ。決して骨肉の彼らに身を隠して知らぬ顔をするようなことがあってはならぬ。

「彼ら我に言いけるは、捕らわれ人の残りなるかの州内の民は大いなる艱難に遭い、凌辱に遭う。またエルサレムの石垣は打ち崩され、その門は火に焼けたりと。我この言を聞き、坐りて泣き、数日の間悲しみ断食し、天の神に祈りて…・・・」(ネへミヤ一・3〜4)。

ネヘミヤはエルサレムの荒廃した有様を聞いて数日の間断食した。そしてこれはまた、当今の教会の有様、また亡びる魂の有様ではないか。神の民は大いなる艱難と凌辱に遭っている。

石垣は保護するものであるが、それが崩れるなら、敵は押し入って蹂躙することができる。門は交通の出入口、また昔は政治を司るところであったが、それは破れている。すなわち秩序はなく、神との交通は断たれている。この有様が真にわかったならば、我らはネヘミヤのように断食して悲しみ、かつ祈るべきである。

「なんじ行き、シュシャンにおるユダヤ人をことごとく集めて、わがために断食せよ。三日の間夜昼とも食らうことも飲むこともするなかれ。我とわが侍女らも同じく断食せん。しかしてわれ掟にそむくことなれども王にいたらん。我もし死ぬべくぱ死ぬべし」(エステル四・16)。

ユダヤ人が皆殺されることに決まった時、それが救われるようになったのは断食のおかげであった。マルコ九章で、弟子らが悪鬼を追い出すことができなかったのは、断食と祈りの欠乏のためであると主はのたもうた。我らこの断食と祈りの精神なくぱ、神の全能を表わすことはできない。おお、亡びる魂の救われるために、我らは常に断食の生涯を送るべきである。