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「笹尾鉄三郎説教集」

来たらんとする恵みとその準備

笹尾鉄三郎



「このゆえに、汝ら心の腰に帯し、慎みてイエス・キリストの現れたもう時に、与えられんとする恵みを疑わずして望め」(ペテロ前一・13)。

人は希望あってこそ心勇み、いかなる困難の中でもよくそれを忍びうるものである。実に希望は人の力とも言うべきである。されば神は我らにも望みを与えたもうた。

「ほむべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、その大いなる憐れみに従い、イエス・キリストの死人のうちより甦りたまえることにより、我らを新たに生まれしめて生ける望みを抱かせ、汝らのために天に蓄えある、朽ちず汚れず萎まざる嗣業を継がしめたまえり。汝らは終わりの時に現れんとて備わりたる救いを得んために、信仰によりて神の力に守らるるなり」(ペテロ前一・3〜5)。

キリストの十字架の死、我らのための贖罪、これを思えば無限の感謝である。されどただ後を顧みて感謝するのみならず、我らの前にはこの生ける望みがあるから感謝にたえない。彼は死んでしまったのではない。甦り、また昇天したもうたのである。その昇天したもうたのは御自身の楽しみのためではなく、再臨の準備に行きたもうたのである(ヨハネ十四・3)。かの時、我らこのキリストと全く一致するのであるが、単にそれのみならず、聖言に示されたごとく、我らのために蓄えられたる天の財産、永遠に朽ちざる財産を与えられるのである。

かかる望みを与えられた信者にして、しばしばこの望みについてその目が眩むことがある。教理を受け入れて合点していることと、その希望が明瞭なこととは別のことである。これはあたかも、目があることと見えることとは別のことであるがごとしである。目について聖書の教えるところは、一つは悟り、また一つは望みを意味することである。「目薬を買いて汝の目に塗り、見ることを得よ」(黙示三・18)。ある人はこの世の事のために心を覆われて、全く盲目になっている。ある者はまた、全くの盲目ではないが、眼病のために見るところが朦朧としている。霊界には心霊上のトラコーマが多い。我ら自ら省みて、もし盲目であるか又は眼病があるならば、よろしく聖霊という目薬を求むべきである。

主イエスが艱難辛苦のうちによく忍んで馳場を走りたもうたのは、彼の前に望みがあったからである。一例を挙げると、その晩年エルサレムに上りたもう時、そこに行けば必ず殺されると知りながら、その眼前のピラトの庭の辱めや十字架の苦しみを見ずに、その後ろにある栄光を望んで、そこに行くことを堅く決心したもうたのである。福音書記者が、「イエス天に上げらるる時満ちんとしたれば、御顔を堅くエルサレムに向けて進まんとし」と記した通りである(ルカ九・51)。またへプル書十二・2を見ると、この喜びに引力があって、眼前の苦難を意とせざるに至らしめたのを見るのである。翻って、我ら自身を反省して果たしていかがであろうか。いかなる困難苦痛に遭っても、自ら進んでそれに当たり得るだけ我らの目は明らかになってその希望が明瞭になっているであろうか。

さて、題詞に取った聖句の中に「来たらんとする恵み」とある。これ我らがすでに受けた恵みである。されどもなお来たらんとする恵みがある。今まで数え尽くせぬほど多くの恵みを受けたが、なお多く残っている。これを思えばどうして喜ばずにおれようか。パウロはここに着眼したのである。「彼は万物をおのれに従わせうる力によりて、我らの卑しき様の体をかえて、おのが栄光の体にかたどらせたまわん」(ピリピ三・21)。この希望が明瞭ならば、この世のものをすべて糞土と見なしてこれを捨てるは容易であって、また当然である。

また我らにいかなる苦難があっても、「それ我らが受くる暫くの軽き艱難は、極めて大いなるとこしえの重き栄光を得しむるなり」(コリント後四・17)である。この世にあってつまらなく感ずるのは、要するにこの望みが不明瞭だからである。

ローマ書八章を見れば、すべてのものの望みがいかばかり主の再臨と関係しているかを知るであろう(21・24前半)。万物があたかも苦悶するがごとくに待てる一事がある。何ぞや。曰く、キリストの再臨の時、悪魔が放遂されて万物が新たにされることである。初めに宇宙万物はことごとく神の栄光のために造られたのであるが、今はこれに呪いが満ちている。されどこの状態から回復され、その創造されし目的のごとくになる時を待っているのである。これまた我ら聖霊の初穂を持てる者の切なる願いである。

「その日には天燃え崩れ、もろもろの天体焼け溶けん。されど我らは神の約束によりて、義の住むところの新しき天と新しき地とを待つ」(ペテロ後三・12、13)。

これ新天新地の望みである。我らは神の言という望遠鏡を与えられた。これを持って世の終わりのことを見れば、世の人には遥か向こうにあって見えぬことも、信ずる我らには手に取るごとく明瞭に見える。されども、この望遠鏡を手に持つとも、その目が悪ければ見えない。されば望遠鏡と共に目薬を与えられねばならない。

さらに題詞に返って見るに、そこに「疑わずして望め」とある。目が眩むはすなわち疑心である。全く否定するのではないが「我などはいかなるものぞ」などと言うのは、すでに目が霞んでいるのである。おお、兄姉よ、この恵みはあなたがたのために備えられたものである。疑いの霊があるならば、いま霊の風に吹き払われよ。疑わずして望め。この恵みは赦罪の恵みと等しく、我らの価値によるものではない。ただ神の御恵みのみによる。主はこれを得させんとて、我らを捕えたもうのである。この捕えたまいしイエスを見上げる時に、我らのごとき者にも必ず得させたもうことを疑わず信ずることができる。

されどここに、その恵みを受けるに足る者となる準備として、我らの忘るべからざる一事がある。他になし。「心の腰に帯し、慎み」とあるこれである。腰に帯することにつきては色々な方面から学ぶことができる。その一つとして、「汝らかくこれを食らうべし。すなわち腰をひきからげ、足にくつをはき、手に杖をとりて、急ぎてこれを食らうべし。これエホバの過ぎ越しなり」(出エジプト十二・11)。これはイスラエルの民がエジプトを出ようとする時のことである。彼らは腰をひきからげ、急いで過ぎ越しの食事を食したのである。我らもこの世にある間、世に対する態度はこうでなければならない。我らはこの世にあっては旅人、また寄留者である。いかに神がこの世を恵みたもうとも、ここは我らの安息すべきところではない。主の再臨を待ち望む者が、この世において色々な関係を持てば、それにまとわれて昇ることあたわずして、とやかくする内に取り残されることがある。我らはいつ「新郎来たりぬ。出で迎えよ」との声響くともたちまち出られるよう、常に腰をひきからげているべきである。

次に「心の腰に帯し」とは、そこにもあるごとく慎むことである。慎むとは油断せぬことである。「よろずの物の終わり近づけり。されば汝ら心を確かにし、慎みて祈りせよ」(ペテロ前四・7)。我らは飲食において、また日常の会話においても、その他万般のことにおいて、この自制と祈りの精神が必要である。「汝ら自ら心せよ。恐らくは飲食にふけり、世の煩いにまとわれて心鈍り、思いがけぬ時、かの日罠のごとく来たらん。この起こるべきすべての事をのがれ、人の子の前に立ち得るよう、常に祈りつつ目を覚ましおれ」(ルカ二一・34、36)。

「汝ら腰に帯し、ともしびをともしておれ」(ルカ十二・35)。

次に、腰に帯することと関係あることは、ともしびをともしていることである。すなわち、主イエスのために証しし、常にともしていることである。いま我らの腰はどうであろうか。またそのともしびはいかん。深く自省したい。私は今かく語りつつ思い出して恵みに感ずることは、主イエスが我らのために腰に帯して、ともしびをともしたまえることである(ヨハネ十三・4)。腰に帯することは僕の形を取ることである。実に主イエスの御一生は腰に帯せる生涯であった。しかして神の道を証しし、その愛を我らに示したもうた。私はこの頃いまさらのごとくに感じていることは、聖潔とは教理ではなくて神の性質の存在すること、換言すれば全き愛の人となることである。我らはこのキリストの霊を受けて初めて全き愛の人となることができるのである。かくてこそ腰に帯し、常にともしびをともして、主を待つことを得るのである。