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「笹尾鉄三郎説教集」

重荷の交換

笹尾鉄三郎



(一)我らの重荷

我らがこの世を渡るにあたり、何人と言えども精神上に、また肉体に多くの重荷がある。しかるにその重荷の始末に困り果て、あるいは思い煩いに沈み、失望に陥り、または疾病を起こし、ついに正道を踏み外し、自殺を企てる者すらある。読者の中にこのような重荷に悩んでいる兄弟あるいは姉妹はあるまいか。あなたの重荷を下ろす道がある。あなたの苦労を癒したもう主イエスは愛をもってあなたを招き、「すべて労したる者また重荷を負える者は我に来たれ。我なんじを休ません」と言いたもう。罪があればもちろん悔い改め、十字架に頼り、我意のままをなさんとせず、聖意に任せられよ。「何事をも思い煩うな。ただ事ごとに祈りをなし、願いをなし、感謝して汝らの求めを神に告げよ。さらばすべて人の思いにすぐる神の平安は、汝らの心と思いとをキリスト・イエスによりて守らん」(ピリピ四・6、7)。これは重荷と平安との交換である。「汝の荷をエホバにゆだねよ。さらば汝を支えたまわん」(詩五五・22)。ハレルヤ。

(二)神の重荷

我らの重荷を神に持ち来たり、これを取り去られることは幸いなことであるが、我らが神の重荷を幾分でも取り去ることのできるとは何たる特権であろう。すでに罪の重荷を取り去られ安息を得た者に対しては、主は「わがくびきを負いて我に学べ。さらば魂にやすみを得ん。わがくびきは易く、わが荷は軽ければなり」と言いたもう(マタイ十一・29、30)。信者の多数は自分の重荷の取り去られることのみを考え、神の重荷につき無頓着なのは悲しむべきことである。今、次に神の重荷のいかなるものかを見よう。

(1)滅ぶる罪人。「我いかで悪人の死を好まんや。むしろ彼がその道を離れて生きんことを好まざらんや」とは主エホバの御旨である(エゼキエル十八・23)。世界中で毎日十万の人が死につつあると聞くが、その大多数、ほとんど全部は救われていない。ひとり子を犠牲にしてまで世の人を救いたく思われる慈悲の父がこの有様を見たもうて、昼夜いかばかり悩みたもうであろう。父の重荷を見るに忍びず天の宝座を辞してこの世に下りたもうた主イエスは、あまねく国を回り、人々が牧者なき羊のように悩みまた流離しているのを見て、あわれみたもうた(マタイ九・36)。このあわれみとは人の悩みをわが悩みとして憂うことである。願わくば聖霊我らの目を開いて父の重荷、主イエスの重荷を見せたまえ。

(2)伝道者の欠乏。人々は各々おのれを満足させるのに忙がしく、神の重荷を顧る暇がないが、罪人の悩みを見て重荷に耐えないイエスの嘆声を聞かれよ。「収穫(救わるべき人)は多く、働き人(伝道者)は少なし。このゆえに収穫の主に、働き人をその収穫場に遣わしたまわんことを求めよ」(マタイ九・37〜38)。神よ、願わくぱ伝道者を起こしたまえ。召しを受けた者は、どんな地位も事業も財産も快楽も全く投げ捨ててあなたに従うことを得させたまえ。「我またエホバの声を聞く。曰く、われ誰を遣わさん。誰か我らのために行くべきかと。そのとき我言いけるは、我ここにあり、我を遣わしたまえ」(イザヤ六・8)。アーメン。

(3)小羊及び羊の牧養。主イエスがこの世を去りたもう前、三度までもくり返してペテロに遺言し依頼したもうたことは信者を養うことであった。「わが小羊を養え、わが羊を飼え、わが羊を養え」(ヨハネ二一・15〜17)。これあたかも母が死に臨み、その子の行く末を案じてやまず、くり返しくり返しその子の将来を家人に依頼する様と同じである。今も主イエスはその民を肩に支え、胸に銘じて祈っていたもう(出エジプト二八・12、29)。それなのに、今日の牧者が往々にしておのれを養って羊を飼わず、牧場を踏み荒し、飲み水を汚し、弱い者を強くせず、病む者を癒さず、傷つける者をあわれまず、失せたる者を尋ねずにいるのは、どんなに主に重荷をかけていることであろう(エゼキエル二四・1、4、19)。兄弟姉妹よ、イエスを愛されているか。それならば彼の小羊、羊をいたわり、彼の御胸を休められよ。

(4)潔められない信者。主の我らを召したもうたのは、我らの救いのためだけでなく、我らを通して他の人を救い、これによって聖名の栄光をあらわさんがためである。だからこそ主は我らに向かい、「汝らは世の光なり、地の塩なり」と言いたもうた。しかるに、ある信者はガラテヤ人のように律法のくびきにつながれておのれの行いに頼り、恵みの自由を失っている。聖霊はこのような者のために再び愛の苦しみをしておられる(ガラテヤ四・19)。また、ある者はコリント人のようになお肉につき、世と協議し、嫉妬、紛争、その他種々の痛ましい罪と汚れとを持ち、御栄光を汚している。このような人のために、主は大きな艱難と苦痛とをもって多くの血を流していたもうのである(コリント後書二・4)。信者が全く潔められ、聖にして傷なき栄光なる花嫁とならなければ、キリストの死は徒労となるであろう(エペソ五・26、27)。信者も潔められなければ主の前に立つことは不可能である(へブル十二・7、14)。そのままでは新郎である主が迎えに来たりたもうことができない。おお、三一の神の重荷を思い、彼を安んじ奉りたい。