「ほむべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、その大いなるあわれみに従い、イエス・キリストの死人のうちより甦りたまえることにより、我らを新たに生まれしめて生ける望みを抱かせ」(ペテロ前一・3)。
望みがいかに人生に必要であるかは誰も知っている。人は望みによって生き、望みによって力を得、望みによって働いている。けれどもこの望みを失ったら自殺をする者さえある。望みといっても様々ある。考えると各々何か望みを持っている。しかしその望みが神によるものでないならば、それはおのれを欺き、失望に陥らせるものである。なぜなら、ペテロ前書一章24節に「人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花のごとし。草は枯れ、花は落つ」とあるように、人の運命はこれに決まっているからである。誰が何と言っても、この運命から逃れることはできない。万事うまく行っても、ついに草花のごとく枯れて落つる者たるを免れぬ。この天地すらも、キリストの言われたように、ついには廃れるものである。しからぱ、この世のものに望みを置く者は、すなわち失望に終るのみである。かかる者はちょうど目隠しをして淵に向かって進んでいるようなものである。神はこんな望みを与えたまわない。この世の望みは死んだものであるけれども、神の与えたもう望みは生ける望みで我らに生命を与える。これが真の望みで、我ら信者がこの望みについて明らかになれば、きっと引き立つ。何だか病人じみて引き立たぬのはなぜかというと、望みが無いからである。目の前が輝いていないからである。輝いていれば必ず引き立つはずである。されば聖書には望みを目にたとえて、「目薬を買いて汝の目に塗り、見ることを得よ」(黙示三・18)とある。
この生ける望みは「イエス・キリストの死人のうちより甦りたまえることにより」起きるものである。もしキリストが十字架上で死んでしまったのみであれば、我らは恩恵に感ずるかも知れないが、悲哀の中に沈まなければならない。ルカ伝二十四章におけるエマオ途上の弟子たちは十字架のみを知って甦りを知らぬ人の心の状態であった。彼らの失望は察するに余りがある。しかるに、すでに死せる彼らの心がにわかに復活した。なぜかというと、キリストの復活を知ったからである。望みはこのようにイエス・キリストの甦りたもうた事実を知ったことから出る。十字架は本当は神の大勝利であるけれども、表面上は悪魔の勝利のようである。けれども甦りに至っては表面にまで神の勝利が表われた。悪魔と人とが連合して極刑にしたイエスを神は甦らせ、これを勝利者とし、王としたもうた。この甦りによって我らに新生命が来るのである。
ただこのキリストが甦りたもうたのみではない。その生けるキリストがこの世に来たりたもう。その時、我らもまた甦らされる。キリストの甦りによって我らの内に甦りの生命が来たり、我らは霊的に甦ったのであるが(コロサイ三・1)、そればかりではない。そのキリストの甦りによって、我らもまた甦る者とされた。キリストの甦りは我らの甦りの保証であり、手付け金である。
さて、この望みについてペテロ前書の方に示してある。「汝らのために天に蓄えある、朽ちず汚れず萎まざる嗣業を継がしめたまえり」(ペテロ前一・4)。神は我らのために人の知らぬところに財産を蓄えて下さる。地所でも、天地が消える時には失せる。すべての財産には限りがある。けれども我らのために天に蓄えてあるものは、朽ちず、汚れず、萎まざるものである。今ここに我らの前に二種類の産業がある。朽ちるものと朽ちざるもの、我らはこのいずれを選ぼうか。多くの者は朽ちる方を選んでいる。これは先が明らかでないからである。
次に、「汝らは終わりの時に現れんとて備わりたる救いを得んために、信仰によりて神の力に守らるるなり」(ペテロ前一・5)。これも望みである。神が我らを日々守っていたもうその御目的はどこにあるか。末の時に至らんがためである。その時には何が起きるか。現れんとする救いである。この肉体までも栄化する具体的な救いである。今われらは信仰によりて救われ喜んでいるけれども、悪魔はこの世に跋扈している。美しき山川草木も悪魔のために踏みにじられ、ローマ書八章20〜22節にあるごとく万物は呪いの下にある。心ある者がこれを見れば、万物は嘆きの中にあることを見る。これはただ悲観することではない。神の目をもって見ることである。この嘆きはパウロの言ったように、我らの肉体にもある(コリント後五・2、4)。今は我らの魂において喜びと自由とを味わっているけれども、物質界の関係においては「我らも自ら心のうちに嘆きて、子とされんこと、すなわちおのが体の贖われんことを待つ」(ローマ八・23)ているのである。
終わりのラッパの鳴る時、すでに死せる聖徒は甦り、この世に生存している準備のできた聖徒はキリストの甦りの身体のごとき栄光ある身体に化して、共に空中に携え上げられ、そこで永らく恋慕っていた主と顔と顔とを相合わせるのである。その時はどんなに幸福であろう。「われ知る、我を贖う者は活く。後の日に彼かならず地の上に立たん。わがこの皮、この身の朽ち果てん後、われ肉を離れて神を見ん。我みずから彼を見たてまつらん。我が目かれを見んに、知らぬ者のごとくならじ。我が心これを望みて焦がる」(ヨブ一九・25〜29)。
我が贖い主は十字架上で死んでしまった御方ではない。今も生ける御方で、後日必ず地上に立ちたもう御方である。ヨブはこの肉体において非常な苦痛に遭った。灰の上に座し、かしこからもここからも身体中から膿が出るという有様である。けれども彼はこれを見て失望しない。「わがこの皮、この身の朽ち果てん後、われ肉を離れて神を見ん」と言っている。しかも、その会う者は知らぬ者のごとくではない。肉眼では初めてであろうが、多年恋慕っていた救い主である。おお、我ら何が嬉しいといって我が主イエス・キリストにお目にかかることほど嬉しいことはあるまい。これを思えば我らの望みが輝き、慰めが満ちる。ああ、その時こそ、涙は全く拭われ、悲しみはなくなる時である。
次に第一章6、7節を見られよ。その中に「誉れと光栄と尊貴を得る」とある。我らがこの世にある間は様々な艱難に遭遇する。聖き生涯を送り、まっすぐに切り込む時は、必ず汚れたる者より憎まれる。これはやむをえぬことである。その他、様々のことにおいて艱難がある。けれども僅かばかりのことで失望してはならぬ。パウロは「それ我らが受くる暫くの軽き艱難は、極めて大いなるとこしえの重き光栄を得しむるなり」(コリント後四・17)と言っている。海老で鯛を釣るとはこのことである。神はこの大いなる栄光を与えんとして、まず僅かばかりの苦しみを与えたもうのである。「このゆえに、汝ら心の腰に帯し、慎しみてイエス・キリストの現れたもうときに、与えられんとする恵みを疑わずして望め」(13)。
この「疑わずして望め」とは、原語では「完全に信ずべし」という意味である。一から十まで「しかり」と全部信ずることである。主の再臨のことを頭で良く理解して合点していても、肝腎な心の方がお留守になっていることが時々ある。それではいけない。もしも君の愛する者が遠方より来るとあれば、君はその日を指折り数えて一日千秋の思いで待つであろう。ちょうどそういう風でなければならない。
終わりに14〜16節を見られよ。「従順なる子らのごとくして、先の無知なりし時の欲にならわず、汝らを召したまいし聖者にならいて、自らすべての行状に潔かれ。記して『我聖なれば、汝らも聖なるべし』とあればなり」。つまり、潔き生涯を送っているべきことである。我らが潔き生涯を送っているといないとにかかわらず、キリストは来たりたもう。けれども潔き生涯を送っていなければ決して幸福ではなく、かえって大いなる禍となるのである。「愛する者よ、我ら今、神の子たり。後いかん、いまだ現れず。主の現われたもう時われらこれに似んことを知る。我らその真の様を見るべければなり。すべて主によるこの望みを懐く者は、その清きがごとく己を潔くす」(ヨハネ一書三・2、3)。
「己を潔くす」とは自分の力で潔くすることができるということではない。潔められて準備をすることである。キリストの血はすべての罪より我らを全く潔める。されば信仰をもってこの聖潔を受けねばならない。聖潔とは詰まるところ完全なる愛である。22節にある偽りなき全き愛である。これは望みを持っている人の状態である。何か気に食わぬところがあるとか、心の中で誰かを憎んでいるようでは、主の聖前に立つことができぬのである。聖霊は我らを潔めんがために今も働いていたもう。キリストの御血はすでにこのために流されたのである。さればもはや、申し訳は立たぬ。是非、潔くなくてはならない。
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