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「笹尾鉄三郎説教集」

聖潔と我らの使命

笹尾鉄三郎



「この日すなわち一週の初めの日の夕べ、弟子たちユダヤ人を恐るるによりて、おるところの戸を閉じおきしに、イエス来たり彼らの中に立ちて言いたもう『平安なんじらにあれ。父の我を遣わしたまえるごとく、我もまた汝らを遣わす』。かく言いて、息を吹きかけ言いたもう『聖霊を受けよ』」(ヨハネ二十・19〜22)。

ここにおいて三つのことに注意せよ。第一、生けるキリストの臨在。第二、我らの使命。第三、その使命を果たす力。

私がここに立っている事よりもなお確実なる事は、主がこの中にいたもう事である。しかして彼はいかなる者に向かっても、「汝は駄目なり、むしろ死んでしまえ」とは仰せられず、「平安なんじらにあれ」とのたもう。これは「願わくぱ平安なんじらに至らんことを」という意味である。「かく言いて、その手と脇とを見せたもう」。我らも今、信仰の目をもってその手と脇の傷跡を見たい。しかしてその傷跡が我らに何事を語るかを注意せよ。

キリストを殺したるは、直接には四種の人であった。祭司及び学者、ユダ、ピラト、民衆と兵卒がこれである。されど、これらはまた我らの姿ではあるまいか。思えば、キリストは高慢なる祭司や学者の嫉妬によってついに殺されるに至った。しからぱ高慢と嫉妬とが彼を殺せりと言うことができる。もし我らの中に高慢と嫉妬があるならば、これはすなわちキリストの敵、彼を十字架につけなければ止まない性質であることがわかるであろう。

次に賄賂を受けて主を売れる反逆者ユダである。我らの中に例えば、身は伝道の聖職にあるとも、もしもその内に世を愛する心があり、金銭を慕う心があったならば、これまた憎むべきユダの心である。神と財と二つとも愛することはできない。キリスト者と呼ばれる者の中に、世の財宝、名誉、飲食、その他様々な肉の快楽を愛する者があるならば、これユダの類でなくてなんであろう。おお、兄姉よ、かかる有様であることは恐ろしいことである。

第三は、優柔不断なピラト。これは真理を教えられ、光を受けながら、しかもおのが地位を失わんことを恐れ、また人を恐れて断固として正義を実行することあたわず、おのが信ずるところによって歩むことのできない徒である。ああ、今日この種の人々のいかに世に多いことであろうか。彼らはおのが尽くすべき道を知りながら、人を憚ってなしえない。人の誉れを求める余り、真理を隠す輩である。この罪こそは昔キリストを敵の手に渡して死に至らしめた罪なのである。

さらに第四は、雷同的なる民衆と兵隊らである。後先のわきまえもなく、おのが主張、定見もなく、ただ雷同的に事を行い、世の風潮に従って朝に右するかと思えば夕に左する浮草のごとき者。この徒もまたキリストを十字架につける徒である。されば以上のことをよしわきまえたれば、キリストを十字架につけたのは我すなわち我が罪なるを知るであろう。

かの高慢といい、嫉妬といい、その他貧欲、名誉心、優柔不断などはみなこれの枝であって、その幹はすなわち「おのれ」である。罪の性質である。これ悪魔が人類に投げ込んだ塊である。人は悔い改めて救われただけでも、このおのれを抑えて罪を犯さないでいることができよう。また恩恵の下にいる者は犯罪に陥ることがないであろう。各自救われた当座のことを思えば、極めて単純なる信仰を抱けるその時は、事実罪を犯さなかった。すなわち、救われたる者は罪に勝つことができよう。しかれども心中にこの一物の存する間は、やがて当初の喜悦を失い、再び不満に陥るようになるのである。その性質において相反するものが心中に残っているがゆえに、神との全き一致がなく、あるいは人を愛することにおいて、あるいは祈祷することにおいて満足がない。これ心中に一物が残りおるがゆえである。この一物が時に勃然外部に表れようとする時、よし人の前には表れなくても、神はこれがためにその聖旨を痛めたもうのである。

過日、ある人が私に向かって「イエスもずい分わがままですね」と告げた時、私は実に辛く感じた。その人は「イエスも」と言った。おお兄姉よ、我らキリストの聖名を担ってより後、決して罪を持っているべきではない。我らが罪を持っているならば、我が主はこれによって敵の手に渡されるのである。過日、また真面目な一信者は、「自分は家族の間に神の聖名を表さず、かえって汚していた」と言って苦しみ出し、「かくてはむしろ死んだ方がましだ。祈り死んでもよい」と決心し、断食して祈った。信者がかく神と人とに対する責任を感じて真面目になるのは実に良い。その人の祈りは答えられ、潔められて恵まれたのである。また、ある宣教師は「人が救われぬ」と言って、祈っては泣き、話しては泣く。これ神の聖名のために悲しむのである。何と神聖な悲しみではないか。もちろん、その人も大いに恵まれた。兄姉よ、我らは神と人とに対する責任を感じて真面目になるべきである。我らが主の聖名を汚しているならば、「禍なるかな、我ほろびん」と絶叫すべきである。されどもその時、主は「平安なんじにあれ」とのたもう。何たる慰籍であろうか。

目を上げてキリストの手と脇とを見よ。第一ヨハネ一・9。今いかなる罪あるとも、またいかに堕落したるとも、主は「我らの罪を赦し、すべての不義より我らを潔めたまわん」。さらばもはや一点の汚れも残るべきでない。ゆえに今、言い表してこの宝血を受けよ。その脇から流れ出たる血を受けよ。自由と力と命はそこより来る。この時、「弟子たち主を見て喜べり」。君は今、何を見ているか。他のものに目を付けているなら喜悦がないであろう。主を見よ。贖い主なる主イエスを見上げよ。さらば喜悦がある。

すでに潔めを受けた者で、悪魔のために悩まされて困っておる者もまた多い。私もまたその一人であった。私は明治二十一年十二月三十一日の夜救われ、それより二年後に潔められた。それは間違いではなかった。しかるにその後失敗して全く光を失い、ついには前に潔められたのを疑うに至った。かくて私は"Deeper death to self"(おのれにますます深く死ぬと言う説)を求めたのであった。しかれどもこれは誤りであった。死は一度のものである。(衰弱は漸次のものであるが)死は一度にて瞬間のものである。ただ聖霊の光が来るのに従っておのが有様をますますよく知るに至り、また再び潔めを求むる者があるけれども、これはただ信仰に堅く立って進めばそれでよい。

この適用例は、かのいちじくの木の記事において見ることができる(マルコ十一・14、20〜22)。翌日ペテロが「ラビ、見たまえ。呪いたまいしいちじくの木は枯れたり」と言うと、主は「神を信ぜよ」とのたもうた。いちじくの木は主が呪われたその時に枯れたのである。葉が青々と見えることがあるけれども、そのために再び根を切ってもらう必要はない。「我らは知る、我らの古き人、キリストと共に十字架につけられたるは、罪の体ほろびて、こののち罪に仕えざらんためなるを……汝らもおのれを罪につきては死にたるもの、神につきては、キリスト・イエスに在りて生きたる者と思うべし」(ローマ六・6、11)。これは信仰の勧めである。見えるところはいかなるも、聖旨によれば我らの古き人はすでに十字架につけられたのである。これを信ずるか。さらばその時、「おのれ」はすでにキリストと共に十字架上にて死んでいるのである。ゆえにその信仰に堅く立って進み行くべきである。進み進みて、品性において、言行挙動において、主のごとくなるべきである。

おお、神を信ぜよ。キリストの十字架の効力を信ぜよ。聖霊の働きを信ぜよ。キリストは我らのために十字架上において働き終えたもうたばかりでなく、勝利をもって甦り、天に昇り、天の父より栄光を受けたもうた。このイエスを見よ。神は彼に天にても地にてもすべての権を与え、彼を主となし、救い主となし、彼の名によって何事も行われぬことなきまでになしたもうた。このイエスを見よ。これは我らのものである。このイエスはいま父なる神より聖霊を受けて、現世の我らの上に注ぎたもう。諸君にいかなる要求があっても、それを満たして余りあるのはこの聖霊である。弱き者の力、痛める者の慰め、愚かなる者の教師、暗き者の光である。この聖霊をキリストはいま父より受けて注ぎたもう。我らは聖霊の傾注を祈る。未信者のためには待たなければならないが、我らのためには待つ必要がない。主はいま注いでいたもうゆえ、我らは信仰によってこれを受くべきである。ことにここで慰められるのは、二度「平安なんじらにあれ」と言われたことである。初めのは救いに関して、後のは使命に関してである。ペテロは前に三度も主を知らずと言ったことを思い起こし、おのが失敗を省みて、「我のごとき者はいかなる大使命にもふさわしい者ではない。我はとても駄目である」と沈み込んでいたことであろう。されど主は「平安なんじにあれ」とのたもうた。兄姉よ、君は罪を犯したことはないか。主の聖名を汚したことはないか。そのために自分は駄目だと思ってはいないか。主は「平安なんじにあれ」とのたまい、なお「父の我を遣わしたまえるごとく、我もまた汝らを遣わす」と仰せられる。キリストは悩める者を慰め、迷える者を尋ね、失われたる者を求め、亡びたる者を救わんがために来たりたもうたが、この同じ使命を我らに授けたもうた。我らの技能によるにあらず、履歴によるにあらず、神がご自身の権能をもって我らを選びたもうたのである。「汝ら我を選びしにあらず。我なんじらを選べり」(ヨハネ十五・16)。キリストの遺業を嗣ぐ者はあなたがたである。人を導く者は実にあなたがたをおいて他に無いのである。これは天使といえどもなしえぬ職である。私はかつてある医師からこれを聞いた。チフスを患いし人の血はチフスの細菌を殺す能力があると。壮健な人の血にもこれがないでもないが、これを患った人の血には三倍以上の能力があるという。これぞ神が罪人を導く責任を天使に負わせず、かつて罪を犯したことのある我らに貴き職を託したもうゆえんである。

さて、我らはこの使命を果たすためには聖霊を要する。兄姉よ、君は聖霊を受けられたか。「我キリストと共に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ二・20)と言い得るであろうか。今日満たされているか。しからずぱこの大使命を全うすることはできない。聖霊を受けよ。さらば謙遜の人、愛の人、柔和の人、寛容の人となる。兄姉よ、我らはやがて主にまみゆべきはずである。さればなにとぞ各々おのが使命を果たし、おのが責任を全うし、かくてその聖前に進んで行きたいものである。最後に一つの話をもって終わりたい。

支那の義和団騒動の時のことであるが、十二才の少女があった。かねて日曜学校に行っていたが、「天に冠そなえあり……」の歌を愛唱しておったということである。この少女は老父と二人きりで人里離れた山奥の部落に住んでおったが、その頃にわかに義和団の迫害が起こって、ある日二人の女宣教師が避難して来た。そこで老父は彼らを誰にも知られぬよう穴蔵に隠し、娘に向かって言った、「この人々は遥か故国を離れ、我が国に来て神のために働く人々であるから、我らはこの際この人々のためにできるだけのことをしなければならない。あそこに隠したから決してわからないであろう。我らは誰にも告げまい。彼らを是非助けたいものである」。少女は老父が言い終わるのを待って「冠そなえありですね」と言い、老父はそれが何の意味か尋ねて笑って話しておった。かくて何知らぬ顔で少女は食事の用意に取りかかり、老父もまた仕事に取りかかった。食事ができて膳に向かったが、二人のことが思いやられて食べることもできない。そうこうするうちに暴徒の一群がドヤドヤと走って来て方々を探し、家内に押し入って、「どこに隠したかを語れ。我らは李(先には信者であったが、このとき堕落して宣教師らの避難場所を敵に漏らした者)の言によりてここに来たのであるから、ここにいるに相違ない。さあ、出せ」としきりに叫んだ。しかし、老父は泰然として「言うことはできない」とただ一言断言した。「言うことができない?」。彼らは聞くより早くそう言って、梶棒をもってこの白髪の老人を打ち殺した。彼らは次に少女に尋ねたが、弱きこの少女も毅然として「言うことはできない」と答えた。暴徒らは怒ってさんざん殴り、もはや死んだと思ってそこを去った。そこに近所の人々が来て哀れんでいたところ、少女が少時息を吹き返し「天に冠そなえあり。かしこに冠あり。我がためにも備えあり」と歌ってこと切れたということである。聖言に「なんじ死に至るまで忠実なれ」とあるが、この二人は愛のために一時死んだのである。おお、我らもかくありたいものである。兄姉よ、我らはやがて主にまみえん。さらば永遠の栄光を望んで進み行け。後ろを顧みていたずらに嘆くことを止めよ。主はあなたの失敗とすべての罪を赦し、もろもろの不義を潔めたもう。ゆえに今日、全く身も魂も投げ出し、今日信仰をもって聖霊を受けよ。しかして満たされよ。さらば主はあなたを忠実な証人となしたもう。