兄弟姉妹よ、もう一度クリスマスを迎えるにあたり、お互いに今更のごとく神の愛に感じ、救いの奥義について味わいたいと思う。
一、人なき世に出たる人
世に幾億万の人間はいるが、人らしき人は一人もいないことは神の大いなる御嘆息であった。「エホバは人なきを見、仲立ちなきを怪しみたまえり」(イザヤ五九・16)。「われ一人の人の国のために石垣を築き、我が前にあたりてその崩れ口に立ち、我をしてこれを滅ぼさしめざるべき者を彼らのうちに尋ぬれども得ざるなり」(エゼキエル二二・30)という句がある。孔子も釈迦もソクラテスも完全な人ではなく、我ら人間のために神の前に立ちて執り成す資格がない。それゆえ、神はやむをえず御子を降したもうた。「肉によりて弱くなれる律法の成しあたわぬ所を神は成したまえり。すなわちおのれの子を罪ある肉の形にて遣わし、肉に於いて罪を定めたまえり」(ローマ八・3)。「(我らの大祭司は)罪をほかにしてすべての事、我らと等しく試みられたまえり」(へブル四・15)。彼は女より生まれ、律法の下に生まれながら(ガラテヤ四・4)、律法を全うし、神と人間とに対して人の本分を全うしたもうた(マタイ五・17)。これが真の人である。
二、醜貌美徳
主は世界でもローマやアンデスのような大都会の帝王貴族の宮殿に生まれたまわずして、独立国でもないユダヤの寒村ベツレヘムの馬槽に生まれ、卑しめられたるナザレの貧家において「乾きたる土よりいずる樹株のごとく育ち」たもうた。「我らが見るべき麗しき姿なく、美しき形はなく、我らが慕うべき見栄えなし。彼は侮られて人に棄てられ、悲しみの人にして病患を知れり。また顔を覆いて避くることをせらるる者のごとく侮られたり。我らも彼を尊まざりき」(イザヤ五三・2、3)。されど見る人は見、識る人は知る。彼は神、また命なる道の化身にましまし、この上もなき栄光ある美わしき御方であった。ヨハネは彼を見て言った。「言は肉体となりて我らのうちに宿りたまえり。我らその栄光を見たり。実に父のひとり子の栄光にして、恵みと真理とに満てり」(ヨハネ一・14)。
三、我らの兄弟
主イエスが神の体を脱ぎたまいし時、天の使いの体をとらず、さらに降りて人間の体をとりたもうたのは、主ご自身のためには畏れ多いことである。「実に主は御使いを助けずしてアプラハムの末を助けたもう。子らは共に血肉をそなうれば、主もまた同じくこれをそなえたまいしなり。(彼は)彼らを兄弟と称うるを恥とせずして言いたもう」(ヘブル二・16、14、11)。彼は我らのごとく飢え、我らのごとく疲れ、我らのごとく泣き、我らのごとく哀悲叫祈したもうた(マタイ五・2、ヨハネ四・6、十一・35、へプル五・7)。「すべてのことにおいて兄弟のごとくなりたまいしはうべなり。主は自ら試みられて苦しみたまいたれば、試みらるる者を助けうるなり」(ヘプル二・17、18)。天に昇り栄光を受けたまえる今も、なお主は人として父の前に我らのために仲保したもう(テモテ前二・5)。彼は我らにとりて最も親密なる兄弟、この上もなき同情者でありたもう。
四、不死者の死
永遠無窮の命を保ちたもう主はもちろん死せず、死ぬことあたわざる御方である。しかし、彼はどうしても我ら罪人を救わんために死にたまわねばならない。この恐るべき必要はつい に彼をして肉体をとらしめたのである。この肉体ありて彼は初めて死にうる御方となり、その肉体の死によりて彼は、
(一)、神の義しき怒りを鎮めたもうた。「万軍のエホバ言いたもう、剣よ起きて、わが牧者、わが共なる人を攻めよ。牧者を撃て」(ゼカリヤ十三・7)。実にこの剣は彼を刺し通した。
(二)、神の愛を現したもうた。「されど我らがなお罪人たりし時、キリスト我らのために死にたまいしによりて、神は我らに対する愛をあらわしたまえり」(ローマ五・8)。
(三)、悪魔の頭を砕きたもうた。「これは死の力を持つ者、すなわち悪魔を死によりて滅ぼし」(ヘブル二・14)。
(四)、ユダヤ人と異邦人との間の隔てを取り除きたもうた。「様々の戒めの則より成る律法を廃して二つのものを一つとなし、怨みなる隔ての中垣を毀ちたまえり」(エペソ二・14)。
(五)、我らを死の恐怖と律法の束縛より解放したもうた(ヘプル二・15、ローマ七・4)。
(六)、我らをして完全無欠の聖徒として神の前に立たしめたもう。「今は神キリストの肉の体をもて、その死により汝らをしておのれと和らがしめ、潔く傷なく責むべき所なくして、おのれの前に立たしめんとしたもうなり」(コロサイ一・22)。
(七)、単に我ら人間のみならず、天上天下の万物をして神と和らがしめたもう(コロサイ一・20)。
ああ、驚くべき主イエスの御肉体である。かくも絶大なる御目的をもってこの世に降臨し、その大使命を果たしたまいし主の導きよ。「キリスト世に来たるとき言いたもう、『汝……わがために体を備えたまえり。神よ、われ汝の御意を行わんとて来たる」(へプル十・5、7)。「イエスその葡萄酒を受けてのち言いたもう『事おわりぬ』。ついに頭を垂れて霊を渡したもう」(ヨハネ一九・30)。
五、甦りの頭
我らの罪のために死にたまえる主は、死より甦りて我らの義となり(ローマ四・25)、かつ眠りたる者の甦りの頭となりたもうた。「それ人によりて死の来たりしごとく、死人の甦りもまた人によりて来たれり。すべての人、アダムによりて死ぬるごとく、すべての人、キリストによりて生くべし」(コリント前一五・21、22)。この甦りの力は聖霊によりて今も我らの身体に働き、あるいは病を癒し、あるいは弱りたる者を強めたもうが(ローマ八・11)、やがて主の再臨の時は、先に眠れる聖徒を甦らせ、かつ生存する我らを栄化せしめたもう(コリント前十五・51、52)。実に大勝利ではないか。
六、主の神秘体
前段に述べたのは主の身体のことであったが、この肉体より一つの大いなる神秘体が生まれ来たった。「我らは彼の体の肢体なり」(エペソ五・30)。「この教会は彼の体にして」(エペソ一・23)。この教会とは宗派や団体に関係なく、世の始まりから終わりまで世界万国の聖徒を一括して称したもので、これがキリストの花嫁たるべきものである(エペソ五・31、32)。これが神の家また真理の柱である(テモテ前三・15)。これが山の上に建てられたる城である(マタイ五・14)。天の使いらも教会を見て神の驚くべき知恵を嘆賞しているのである(エペソ三・10)。
七、キリストの肢体
体は一つであるが肢体は多くあり、各個人はキリストの肢体である。「汝らはキリストの体にして、各々その肢体なり」(コリント前十二・27)。これは単に我らの霊魂を指すのみではなく、また我らの身体をも意味している。「汝らの身はキリストの肢体なるを知らぬか」(コリント前六・15)。味わい来たりてここに致らぱ、我らの身も霊も実に高貴で、神聖で、厳粛で、幸福なものではないか。今ここに長く述ぺる余白はないが、我らはこれを心に喜びかつ恐れ、
(一)、自己を潔くし、キリストの体を汚さないように心がけよう(コリント前六・15以下)。
(二)、信仰と愛によりて、常に主なるキリストと結合し、かつ体の中が分かれることなく、諸々の肢体たがいに顧み助け合おう(コリント前十二・25)。
(三)、神の栄光のために全力を注ぎ出し(コリント前六・20)、パウロのごとく福音のために受ける苦しみを喜び、我が肉体をもてキリストの御体すなわち教会のために、その艱難の欠けたる所を補いたい(コロサイ一・24)。しからば我らもまたキリストと共に栄光を受けることができる。ハレルヤ、アーメン。
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