(一)、罪の問題について神はすべての必要を満たしたもう。第一は犯罪、次は罪の根である。これについて解決がついていなければ、他のことはみな無益である。もし君の腹の中に自己中心なものがあれば、潔められねばならない。キリストは君の罪をことごとく赦し、またその罪の根なる肉より全く自由なる者にせんとて、血を流したもうたのである。「もし神の光のうちにいますごとく光のうちを歩まば、我ら互いに交わりを得、またその子イエスの血、すべての罪より我らを潔む」(ヨハネ第一書一・7)。すなわち、罪という罪、あらゆる罪より釈放したもう神である。「このゆえに彼はおのれによりて神に来たる者のために執り成しをなさんとて常に生くれば、これを全く救うことえたもうなり」(へプル七・25)。この「全く」とは「極端まで」という意味である。かかる完全なる救い主、また潔め主を受け入れよ。
(二)、信者の歩みをして完全ならしめんがために、神はすべての必要を満たしたもう。「アプラハム九十九才の時エホバ、アプラハムに現れてこれに言いたまいけるは、我は全能の神なり、汝わが前に歩みて全かれよ」。
君は信じて潔められたかも知れぬ。密室において、あるいは集会において、潔められたと信じたであろうが、それで満足してはならぬ。人はそれで承知しない。歩みを見る。神もまた我らが祈りから立ち上がっていかに歩むかを見たもう。アブラハムはハガルを妾に入れてイシマエルを生んだが、その子は彼の家族を苦しませた。神は彼に約束を与えて、以来十四年間、彼をしてただ神にのみ頼ましめんとして、彼が肉的か霊的かを試みたもうたのであったが、彼はかく肉的で失敗した。その後、この言が与えられた。全能の原語は"All sufficient"にして、満たして余りある神として現れたもうたのである。我らが神以外の何かに頼り、半霊半肉の間はだめである。歩みのためにこの全能の神にのみ頼られよ。
「幸福な生涯」の著者スミス氏はある時、不具の子供だけがいる学校の体操を参観したが、みな頓珍漢なことばかりしている中に、ただ一人教師の号令通りに動いている子供がいた。よく見るとその子は骨無児で、教師が後ろから号令通りに動かしていた。これだ。我らはとうてい神の命令通りに行える者ではないのに、なまじっか自分の力でやろうとするから駄目である。ただ聖霊を信じ、この全能の神に頼ればよい。
(三)、善事をなすことにおいては神はすべての必要を満たしたもう。「神は汝らをして常にすべての物に足らざることなく、すべての善き業に溢れしめんために、すべての恵みを溢るるばかり与うることを得たもうなり。記して、『彼は散らして貧しき者に与えたり。その義しきはとこしえに残らん』とあるごとし」(コリント後九・8、9)。
ここに英語で「すべて」という字が七つある。我らにはこの無尽蔵の財源が控えている。「ほむべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神。彼はキリストによりて霊のもろもろの祝福をもて天の所にて我らを祝し」(エペソ一・3)。
君にいかなる恵みが要るにしても、すべての恵みは天の所においてすでに与えられている。さればそれを信仰によって取り、愛にて施すべきである。さればその恵みを経験する。
先日、大阪のある熱心な信者が井戸について感想を述べた。「私の家の井戸は浅いが、汲めば汲むほどよく水が出る。さればとて汲まねば溢れ出るわけでもない。その水は池の所に行く。そのように何でも御栄光のために使うに限ります」。
(四)、キリストの苦しみにあずからせんために神はすべての必要を満たしたもう。「もろもろの恵みの神、すなわちとこしえの栄光を受けしめんとて、キリストによりて汝らを召したまえる神は、汝らがしばらく苦しみを受くる後、汝らを全うし、堅うし、強くして、その基を定めたまわん」(ペテロ前五・10)。
苦しみにあずかることについては二章でも言っているが、四章で繰り返し言っている。恵みを受けて喜ぶのもよい。されども、それより高い恵みはキリストの苦しみにあずかって喜ぶことである。どうか来年は今年よりももっと主の苦しみにあずかりたい。苦しみにあずかる者は現世においては主との深い交わりに入り、主の再臨の時には主と共に栄光の中に入るのである。
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