「それ神は唯一なり。また神と人との間の仲立ちも唯一にして、人なるキリスト・イエスこれなり」(テモテ前二・5)。
「我はキリストにある一人の人を知る。この人、十四年前に第三の天にまで取り去られたり(肉体にてか、われ知らず。肉体を離れてか、われ知らず。神知りたもう)」(コリント後十二・2)。
もう一度クリスマスを迎えるに当たり、愛する兄姉と共に新たに我が主イエスを味わい知り、彼を愛し、彼を崇めたく祈っている。兄姉よ、祈りのうちに以下の諸点を黙想してもらいたい。
人なるキリスト・イエス
(一)、大いなる奥義
「実に大いなるかな、敬虔の奥義。『キリストは肉にて現され』」(テモテ前三・16)。「彼は神の形にていたまいしが、神と等しくある事を堅く保たんとは思わず、かえっておのれを空しうし、僕の形を取りて人のごとくなれり」(ピリピ二・6、7)。畏れ多き極みである。なんという御下降ぞ。いかばかりの御変化ぞや。御聖旨の奥義を問えば、「神すなわち愛なり」(出エジプト三・7、8)と言う他はない。
(二)、道の化身
古来種々の宗教や法話も出で来たったが、その言葉や道理に人を救う力はない。しかるに人の光なる生命の道が今や「肉体となりて我らのうちに宿りたまえり。我らその栄光を見たり。実に父のひとり子の栄光にして、恵みと真理とにて満てり」(ヨハネ一・4、14)とは、実に望みなき者の望みである。
(三)、人に対する神の一致
人は自己を高めて神と一致することはできぬ。それゆえ、神ご自身が低くなって人と一致したもうた。「子らは共に血肉をそなうれば、主もまた同じくこれをそなえたまいしなり。実に主は御使いを助けずしてアブラハムの末を助けたもう」(へプル二・14、16)。彼は我らのごとく飢え(マタイ四・2)、我らのごとく疲れ(ヨハネ四・6)、すべてのことに我らのごとく誘われて苦難を受けたもうた(ヘブル四・15、二・18)。彼は真に我らの弱きを知り、同情の助けを与えたもう御方である。彼はまた神の子としてこの世に立たず、人の子として御一生を送りたもうたから、全く依頼服従の人であった。「わがおのれによりて何事をもなさず、ただ父の我に教えたまいしごとく、これらのことを語りたるを知らん」(ヨハネ八・28)。
(四)、完全なる供え物
「このゆえにキリスト世に来たるとき言いたもう、『汝いけにえと供え物とを欲せず、ただ我がために体を備えたまえり。なんじ燔祭と罪祭とを喜びたまわず。その時われ言う、神よ、我なんじの御意を行わんとて来たる。我につきて書の巻に記されたるがごとし』。この御意に適いてイエス・キリストの体のひとたび献げられしによりて我らは潔められたり」(へブル十・5、7、10)。「(神は)おのれの子を罪ある肉の形にて罪のために遣わし、肉において罪を定めたまえり」(ローマ八・3)。ああ、実に恐れ多く痛ましいことである。神と我らとの間にある大いなる隔ての幕を取り除かんがために、主の御体は釘もて裂かれた(へブル十・19)。我らの罪が赦され、かつ我らが全く潔められんがために、主の宝血は十字架の上で流された(へブル九・22、十三・12)。死することあたわざる神が死ぬるために肉体を取りたもうたのである。「これ神の恵みによりて万民のために死を味わいたまわんとてなり。これは死の力を持つもの、すなわち悪魔を死によりて滅ぼし、かつ死の恐れによりて生涯、奴隷となりし者どもを解き放ちたまわんためなり」(へブル二・9、14、15)。かくのごとく主の玉体の御犠牲は、神に対しては人間のための完全な供え物となり、悪魔と罪悪とに対しては破壊的ダイナマイトとなり、我らに対しては驚くべき救いの力となったのである。
(五)、栄光の人
主イエスは単に人として死にたもうたのみでなく、人として甦りたもうた。「我が手わが足を見よ。これ我なり。我を撫でて見よ。霊には肉と骨となし。我にはあり」(ルカ二四・39)。今も人なるキリスト・イエスとして神と人との間に立ち、仲立ちをなしたまいつつある(テモテ二・5)。彼こそは真に神の形にかたどられたる人でありたもう。彼は完全なる我ら人間の代表者、同情者かつ理想者でありたもう。再臨の時にも彼はなお人性を備えて現れたもうであろう(ゼカリヤ一二・10、一三・6)。
キリストにある人
人なるキリストが不思議であるごとく、キリストにある人は実に驚くべきものである。我らは恵みに感じ、神を崇めたい。
(一)、神の子なり
神の子キリストは信ずる我らを神の子とし(ヨハネ一・12)、主の兄弟となし(ヘブル二・12)、神に向かいて「アバ父よ」と呼ばしめたもう(ガラテヤ四・6)。一躍なんたる変化であろうか。
(二)、キリストと一体
「我らは彼の体の肢体なり」(エペソ五・30)。また主が頭、我らは彼の体である(エペソ一・22)。この主は我らに向かい「われ生くれば汝らも生くべければなり」と言いたもう(ヨハネ一四・19)。
(三)、神性を有す
「これは汝らが世にある欲の滅びをのがれ、神の性質にあずかる者とならんためなり」(ペテロ後一・4)。聖霊はこれがために我らの内に宿り、神の聖きと愛を与えたもう。人間の性質が豚の性質と違うように、信者の性質は不信者の性質と違うはずである。もし異ならないならば、それは我らがなお不信仰と高慢と不従順とのために全心に受け入れないからである。
(四)、キリストの心を有す
「我らはキリストの心をもてり」(コリント前二・16)。これは霊眼のであって、これによりて我らは神の深き所をも究め知り、神の奥義を悟り、神の霊の情をわきまえることができる(コリント前二・10、7、14)。
(五)、キリストの平安と喜びを有する
「われ平安を汝らに残す。わが平安を汝らに与う」(ヨハネ一四・27)。「我これらのことを語りたるは、我が喜びの汝らにあり、かつ汝らの喜びの満たされんためなり」(ヨハネ一五・11)。
(六)、キリストと同使命を有す
「平安なんじらにあれ。父の我を遣わしたまえるごとく、我もまた汝らを遣わす」(ヨハネ二十・21)。兄姉よ、思い見よ、我らがこの世に生きながらえる一日一日はいかに貴く重きものであるかを。
「人もし我に従い来たらんと思わば、おのれを捨て、日々おのが十字架を負いて我に従え」(ルカ九・23)。
(七)、キリストの苦しみにあずからん
「かえってキリストの苦しみにあずかれば、あずかるほど喜べ。汝ら彼の栄光の現れん時にも喜び楽しまんためなり」(ペテロ前四・13)。「勝ちを得る者には我と共に我が位に座することを許さん」(黙示三・21)。
神、人と一つになり、人を神と一つになしたもうのである。
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