「神の約束は多くありとも、然りと言うことは彼によりて成りたれば、彼によりてアーメンあり、我ら神に栄光を帰するに至る。汝らと共に我らをキリストに堅くし、かつ我らに油を注ぎたまいし者は神なり。神はまた我らに印し、保証として御霊を我らの心に賜えり」(コリント後一・20〜22)。
約束の成就と油を注ぐ神
ここを一通り解釈しよう。神の約束は聖書の中に幾千もあるが、それが一つ残らずことごとくキリストにあって「是」、「然り」となり、また「アーメン」、「誠に然り」となるというのである。すなわち、キリストにあって神の約束通り成就するのである。その結果、我らにより神の栄光が現れるに至るのである。ここにおいて約束はその目的を遂げたのである。ただ我らが恵まれただけでは、目的が成就したことにはならない。これによって神の栄光が現れなければならない。
神は我らをキリストの中に入れたもうたが、その神はまた我らをしてキリストの中に堅くしたもうのである。しかしてその神が、また我らに油を注ぎたもう。元来キリストとは油を注がれた者という意味である。であるから、キリストというのはやはりそういう意味である。油とは神のものとして聖別するもの、またあるいは王、あるいは予言者に注いで資格を与えるものである。これは昔の儀式であったが、今は実際に神の使者、神の代表としての資格ある者とするのである。
聖霊の印
霊の今一つ有り難いことは印であるということである。印といえぱ"Seal"すなわち封印である。初めに蝋を柔らかく溶かして、そこに印を押せば印の通りの形となる。印とはこれである。まず固く冷たい我らをキリストの愛をもって溶かし、もしそこに砂か石があるならそれを除き、すなわち罪を除いて、そこに霊の印を押したもうのである。このときキリストの形が我が内に成るのである。これは我らが修養鍛錬して向上した結果得られるものではない。
手付け金、御買上済
その聖霊がまた我らのために質となるのである。「質」とは「手付け金」という意味である。我らはやがてキリストの再臨の時に大いなる栄光を受ける。この卑しき体は化してキリストのもとに昇り、キリストと共に神の国を嗣ぐ。この驚くべき栄光があり、また無限の富がある。その栄光の一部を取って、手付け金として今ここに与えたもうのである。例えば十円の品物を買うのに、その内の一円だけを手付け金として渡しておくという風である。そのように神様は我らに手付け金を与えたもうのであるから大丈夫である。我らは現世から天国を味わうことができるのである。この手付け金を持つ者がキリストの再臨の時に携挙されるのである。一人は取られ、一人は残される。何をもってこのように区別するのかというと、この手付け金を持っているか否かである。学問の有る無し、地位の有る無しではない。おお、皆様、あなたの心に印は押されているであろうか。今日キリストが来たもうならばどうであろう。例えば、陛下が上野の博覧会においでになってある品物を御買上になるならば、御買上済という印が押される。そうすることにより博覧会の後、その品は必ず御殿に持って行かれる。あなたは果たして御買上済であるか。あなたに手付け金がなければ、そのとき残されるであろう。
嘆かわしいこと
またここで警戒すべきことは、エペソ書で初めに「印を受けし者なり」と言った後、「神の聖霊をして憂しむることなかれ」と言っていることである。印を受けた者でも、その印が消えてしまえば駄目である。
かつて那須野のある老人の信者のもとに一人の人が行き、リバイバルの様を告げて、「多くの人が聖霊を受けた」と申したところ、その老人曰く「なるほど、しかし霊を憂えしむる者の多いことは嘆かわしいことである」と。もちろん、霊はちょっと罪を犯したからといって、すぐさま去ってしまうような短気な御方ではない。霊は抜け出してしまうのではないが、赤々と燃え上がるべき霊が憂いてくすぶってしまいなさることがある。これは注意すべきことである。
約束の中の約束
神の約束の成就とは要するに霊を受けることである。約束中の約束と言うべきもの、"The promise"とは聖霊を受けることである。約束の地とは聖霊を受けた生涯、聖霊に満たされた生涯である。
今日の目的は信者が潔められること、また進んで聖霊に満たされることであるが、もしもそこまで至っていない者、なお心中に罪を持っている者はまず悔い改めよ。どうか目を上げてキリストを見上げられよ。
旧約においては、神の律法を行えぱこれに万事をしてやると約束されたが、我らは神の律法を成就せず、かえってこれをみな破ったのである。しかしキリストが我らのために律法を全うし、我らのために律法の呪いを受けたもうたのである。神はこのキリストを通して我ら人間を御覧になる時、我らを祝さずにはいられない。キリストは今、神の御前に立って、その約束の成就を迫っていたもうのであるから、キリストの神にある者は神の恵みの雨に浴することができ るのである。
聖潔とは全き愛
また、罪の性質があり、信仰と経験とが一致せず、神は愛なのに自分は欲であって煩悶している者がある。おお、聖潔とは全き愛である。教理を受け入れたことが聖潔ではな い。「神のため、人のために、どうなってもさしつかえない」という愛の心に満たされるのが聖潔である。これがためにキリストは血を流したもうた。我らの力では駄目である。私はしばしば話すように、もがいてもがいて全く失望したが、自分に全く失望したとき、神が潔めて下さったのである。「イエス・キリストの血すべての罪より我らを潔む」。おお、どうかこの点に明白になられよ。いい加減では駄目である。
「おのれ」の死
昨夜、ヨシュア記一章を読んで大いに励まされた。一章2節より飛び飛びに見よう。(6節まで朗読)。
「モーセ死ねり」とは律法が終わったことである。その時に、「起て」、「渡れ」、「行け」、「踏め」と仰せられる。ヨルダンを渡るとはガラテヤ書二章20節の経験である。聖潔とは一方より言えば死である。おのれが死ぬことである。キリストの十字架によって「おのれ」が全く殺されることがヨルダンを渡ることである。おお、起ちて十字架に飛びこみ、聖潔の生涯に入られよ。聖霊は使徒行伝に書いてあるように今キリストのゆえに注がれている。
逆戻りした二支派半
ここで注意すべきは、ルベンとガド及びマナセ半支派の二支派半は一足カナンの地に入るには入ったが逆戻りしたことである。「川のこちら側の地は牧草に良い。聞くところによれば、川の向こうには七族とやらがいるそうで、かかるところに行くよりはこちら側の方がましだ」ということで、戸毎に主人一人だけは行って戦争に参加したが、妻子はこちら側に置いていたので戦争が済んだら帰って来た。これは家族の中に誰か潔められた人がいるものの、家族全体としてはいまだ潔められていない人のことである。この二支派半はこんな位置を取ったせいで、その後終始敵に襲われ、他の支派の重荷となった。おお、かかる人は潔められた民の重荷となっているのである。この二支派はキリストの当時、非常に堕落していた。かのガラダ人がすなわちそれであ る。日曜だけは川の彼方の生涯を送るようでは駄目である。みな、妻子、家畜、すべてを携えて向こうに行かなければならない。肉にとってはこちらの方が楽であろうが、進んでキリストと共に苦しむ生涯に入らなければならない。
踏め
次に「踏め」とある。平地なら、目のよい人は三里くらい先も見えるかも知れない。けれどもそこを踏まなければ駄目である。ある人は聖書を見て、カナンすなわち恵みに満たされた生涯について見る。しかし踏んでいない。これでは駄目である。踏むのは一歩一歩である。三丁も五丁も一足飛びに行けるものではない。カナンの地に入った者は、奥の方にいる者も入口にいる者もみな、「進め、進め」と勧告されている。見るのは踏むための用意にすぎない。おお、品性において、働きにおいて、ますます進まねばならない。標準としてキリストが示されている。その品性、愛、柔和、謙遜、忍耐、その他の美徳を、あなたは幾らか得たであろうか。もしあなたに謙遜が足らないか、または忍耐の徳が足らないなら、「おお神よ、私にはこの徳が欠けています。しかし、主イエスの功績によって、また聖霊の力によって、この徳を私に与えたもうことを信じます」と一つ一つ信仰によって取り引きをする、これが踏むことである。
完成された信者
我らは自分の品性について無頓着ではいけない。完成された信者でなければならぬ。人はともすると自分の欠点を大目に見ていろいろ理屈をつけるが、我らは自分の欠点を大目に見てもらわなければならないような者であってはならぬ。
神は我らの連戦連勝を期してそのために恵みたもう。ここに「心を強くし、かつ勇め」と三度も示されている。かつて中田兄弟が松江の聖別会でここを話されたが、兄弟はもはやその話を忘れてしまっておられるであろうが、私はそのとき大いに励まされた。ここに示されているのは聖言に従うことである。これなくしていかに心を強くしても駄目である。
弓と矢
働きについて言いたいことは、ゼカリヤ書九章の13節、14節の両節である。13節には「我ユダを張りて弓となし、エフライムを矢となしてこれにつがえん。シオンよ、われ汝の人々を振り起こしてギリシャの人々を攻めしめ、汝をしてますらおの剣のごとくならしむべし」。
聖霊があなたの中に入って働きたもう時、ある人を弓とし、ある人を矢として用いたもう。弓は手に残るものでグッと曲げられる。矢は飛んでいくものである。すなわち、ある人は敵陣に飛び入って御用をする者となり、ある人は後方にあって十字架を負って働く者となる。あるいは祈りの中に苦戦し、あるいはせっせと働いて金儲けをして献金する。私の家内は家の中にあって家のことをなし、私に後顧の憂いなく働かしめ、私は家内のために出て説教して回ることもできる。すなわち私は矢であり、家内は弓になっているのである。弓であっても矢であっても、いずれにしても実に幸福なことである。
上よりの矢
14節に「エホバこれが上に現れて、その矢を稲妻のごとくに射いだしたまわん」とある。
我らが矢すなわち証人となって彼方此方に行くのみならず、神が上より矢を射たもう。かのギデオンの時も、「これはエホバの剣なるぞ、ギデオンの剣なるぞ」と叫んで敵陣に突進し、神の力が表われた。我らがちょっと言った言葉によって人々が恵まれ、あるいはまた言葉以外に霊の働きがあるのは、神が上より矢を放ちたもうからである。
冠の玉、雨の時
16節には「彼らは冠の玉のごとくなりて、その地に輝くべし」とある。英国の博物館に先帝の冠がずらりと並んでいる。その一つ一つに実に立派な玉がついているが、我らはそれよりも立派なものとなるのである。我らが愛に満たされ、知識に満たされて人を導く時、また色々な美徳に満たされる時、この玉のごとく輝くのである。
十章1節に入って、「汝ら春の雨の時に雨をエホバに乞え。エホバ稲妻を造り、大雨を人々に賜い、田野において草を各々に賜うべし」とある。
これは神の約束である。今はこの後の雨の時である。どうか目を上げて大胆に祈りたい。自分の欠点を見出したら、今ここでおのれを放り出して祈られよ。なお働きについてこれではいけないと感じておられるなら、おのれを投げ出して今ここで祈られよ。
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