ガラテヤ六・14〜17
パウロはここに儀式的割礼の無益なるを説き、彼自身はイエスの印を帯びていることを示した。我らもこのイエスの印を要することである。印の原語直訳には焼き印とある。
「印肉」で押したものや墨で書いたものは、水がかかるかあるいは摩擦すれば消滅することもあるであろうが、焼き印は何事に会っても消滅することがない。我らは果たしてこのイエスの焼き印を受け、聖霊の火で実際おのれが焼き落とされ、その跡が何人にも判然と見得るようになっているであろうか。血潮のある所にのみ火は来たる。多くの人はただ焼き尽くしたまえと祈るけれども、血がなければ火は来ることができぬ。言いかえれば死のない所に真の生命は来ないのである。イエスの印を押されることは、古きものは全く死んですべてが新たになり、その所に新生命が入り来たり、すなわち血潮によって殺され聖霊によって生かされることを言うのである。我らはイエスの印を帯びているであろうか。やがて人類が二種に分かたれる時が来るであろう。悪魔の子と神の子と各々その印がある(黙示録十三・16、17、十四・1)。我らが受けた印は何であろう。果たしてイエスの印であろうか。イエスの印とはつまり十字架の押されてあることである。パウロはこのガラテヤ書に十字架ということを度々記している。
第一、我(二・20)。これは幾度か見聞きした言葉であるが、実際各自の経験となっているであろうか。ユダヤ人が割礼で欺かれているように、今の信者も聖別会に出席したり、聖潔の説教を聞いたり、恵みの座に出て祈ったことなどで欺かれている者が多い。その傷を浅く癒されて平安を思っているが、種々の場合におのれが出て、ある時は倣漫、ある時は不従順となって表われ、献身したと言ってもそれが実際できておらぬ人がいる。諸君のおのれは果たして十字架に釘付けられ、息の根が絶たれ、葬られ、もはやキリストが諸君の内に生きていたもうであろうか。主はかつてサマリヤを通過しようとしたもうた時、サマリヤ人はそのユダヤ人であるためこれを拒んだ。時に弟子らは大いに怒り――キリストのために怒ったのである。エリヤの神に求めて天火を呼び下しこの町を焼き尽くさんと言った時、主は何と答えたもうたか。「汝の心いかなるかを自ら知らざるなり」(ルカ九・55)と言われた。サマリヤ人を咎めることをやめよ。恐ろしいのは汝のおのれである。愛なく憐みの心なく、人の罪を赦さないその冷酷な心である。我ら自ら高ぶり、人を咎めながらなお十字架に釘付けられたと言い得るであろうか。あるいはまた貪りがないであろうか。おのれとは欲の塊である。神のためでなくおのれのために業を営みつつある者は、なおおのれに仕えているのである。
第二、肉(五・24)。自分では潔められたいと思うけれど、神の前に深く調べる時、まだ肉情肉欲の奴隷となっていないであろうか。肉とは体のことではない。身体は神より与えられた聖霊の宮であるが、この肉とは悪魔が投げ込んだ罪の塊である。この肉と聖霊とはいつも衝突して決して一致することができない(17)。そして肉の結果は顕著である(19〜21)。我らの日々の生活にこのようなものがないであろうか。肉の反対の結果もまた明らかである(22〜23)。潔められた者は必ずこの実を結んでいるものである。その分量はともかく、質において我らは果たしてこの実を結んでいるであろうか。ローマ十三・11〜13においてパウロは警戒している。今もし義の太陽が出て、すべてのこと赤裸にあらわれるならば、我ら果たして恥じることは少しもないであろうか。
第三、世(六・14)。これは世との死別である。我ら果たして世と死別し、世と我との間に十字架を置いたであろうか。世は巧みに我らの間隙より入らんとしている。もしあるいは賞められ、あるいは罵られる時、我らの心が動かされるならば、これ世に所を得られている証拠である。我らが世を見る時に世は死物のように、世が我らを見る時に我らは世に対して死物のようになっているであろうか。まだ世を羨み、世のものを愛する心があるのではあるまいか。世は媚びって来ないか。我らもし世に対して死物ならば、世は我らを見捨て去るであろう。ある人は言った、「世を動かす人は世に動かされぬ人である」。真にそのようである。そして世に死ねる者のみがよく世に動かされることがないのである。かつてある人が世に死ぬことを了解できずに苦しんでいた。一伝道者が彼に言うには、「近頃眠った君の知人の墓場に行き、あらゆる言葉を尽くし、虚偽まじりでも良いから彼を賞めて見られよ」。彼は行ってそのようにして帰った。伝道者がまた彼に言うには、「請う。再び行き、今度はあらゆる言葉を用いて彼を罵られよ」。すなわち彼は勧められたようにして帰った。今回はどうであったかと問うと、彼は答えて、「依然なんの答もなかった。それは彼は死んでいるから」。伝道者が彼に言うには、「正しくその通りである。君がおのれを十字架に渡し、世と死別し、イエスと一致するならば、世が君を賞めても罵っても、また順境にあっても逆境に立っても、どのような場合も、何事にも動かされることがないであろう」。このようにして彼は初めて了解したと言うことである。我ら自ら省みて果たしてどうであろうか。
以上がイエスの印であって、消極的に言えばおのれが殺され、肉情肉欲が死に、世が我らのために十字架に釘付けられ、それらのものが焼かれて落ちることである。また積極的にはおのれが死んだ跡にキリストが入りたまい(キリスト我にありて生くるなり)、肉とその情と欲とが死んで聖霊によって歩き、美しい実を結び、また世に死んでローマ六・11にあるように神に向かって生きるものとなるのである。そこに三位一体の神が我らに臨みたもうことを見る。
すでにおのれが死に、肉が死に、世に死んで、キリストのために生きる生涯は幸いである。このような人は「どこへ行くにも常にイエスの死を身に負う」者である。すなわち、どこへ行くにもキリストと共に十字架を取り、自分は死地を踏み、他人に生命の領分を歩かしむるのである。すなわち、自分は一番損な恥ずかしい地位に立って他人を楽な地位に置き、このようにして十字架を負って主に従い、それによってイエスが今も生きて働いていたもうことをあらわすのである(コリント後四・10)。兄姉よ、主は速やかに来たりたもう。あるいは今週のうちにも我らは主の前に立たねばならないかも知れぬ。しかし、我らは果たして用意ができているであろうか。イエスの印のない者は主の婚姻の席に入ることはできない。愛する兄弟よ、我らの印はどうであろう。しばらく黙祷のうちに自ら省みよう。
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