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「笹尾鉄三郎説教集」

主の御愛

笹尾鉄三郎



今日の題は主の愛である。諸君は昨晩聖潔について教えを受けられたが、この聖潔には消極と積極、つまり裏と表がある。消極とは何かと言うと性来の罪の性質が取り除かれることであるが、これだけではいまだ潔められたとは言えない。積極的に神の性質に満たされねばならない。ただ古い人が取り除かれただけでは不十分で、もっと進んで全き愛が心に満ちなければならない。この変化がなければ決して聖潔められたと言うことはできない。これは他の語で言うなら、自己中心が変わってキリスト中心になることである。

しからば全き愛とは何であるかと言うと、それは動機が愛より他にない、欲が動機になっていないということである。これは決して不可能なことではない。聖霊が我らの内に住みたもうとき、この欲は全く焼き尽くされる。そして神の性質が我らの心に来る。これは人から見てどうかという問題ではない。人から見ればかれこれと批評されるところがあるかもしれないけれども、事実神から見られる時に、恥ずかしくない、心の中が愛の人となっていることである。

であるから、聖めを求める者は消極と積極、すなわち引き算と足し算を求めなければならない。器は小さくともよい。小さい心でもいっぱいに愛が満ちれば、それが全き潔めである。教理がわかっただけではあてにならぬ。性質が変化したか、これが問題である。

私はこの点について幾年来も重荷をもって祈っている。それはなぜかと言うと、ちょうど教会の中に救いを経験していない者がいるように、聖潔を標傍している者の中に事実潔められていない者があるからである。これは実に厳かなものである。実際潔められているならばそれでよいが、そうでないならばへりくだるべきである。

さらば我らはいかにして真の潔めを経験することができようか。

それはまず第一、キリストの御形――キリストの愛を心に示されること。キリストの御形は骨董品のようにただ眺めているだけではならない。しかし実際このキリストの御形が我らの心の目に現される時、我らの心にある雑物を取り除いて、そこにその御形が映るのである。

私は時々写真のことで励まされるが、写真を撮る時に必要なものは諸君の熟知のごとく、レンズとフィルムである。ここに光線が働いて人の像がフィルムに映る。ちょうどそれと同様に、神は「聖言と聖霊」の御働きでキリストの御形をフィルムなる我らの心に映して下さるのである。

我らの心が本当に砕けて血潮が掛かる時、我らの心は御形の映るフィルムとなる。しかし、それで何もかも完成したというわけではない。なお仕上げに多くの労力を費やさねばならぬことはもちろんである。

このように我らがキリストの御形を見る時、一瞬に腹の底から変わって来るのである。しかしその際、我らとキリストとの間に少しの幕もあってはならぬ。

私は今より二十四年前、この聖潔を受けるために一週間も苦しんで祈った。自分にはまだ憎むべき自己というものがある。二心がある。考えれば考えるほど苦しくなって、長らくの間祈った。ある時のこと、野原で祈って失望せんとしている時、十字架のキリストがありありと現れて、そこで全く変わった。

おお、兄弟よ、姉妹よ、切に祈られよ。切に祈らぬところに聖潔はない。ただ聖潔の学者であってはならない。聖潔がキリストを君の心に黙示するまで、祈らねばならぬ。「神よ、どうかキリストを見せたまえ」と祈ることである。今、心の中で主を求められよ。さすれば聖霊によってキリストを示される時が来る。この示される時に愛の人となるのである。

今、私は黙示録一章5節に基づいて、主の愛を三つに分けて学びたいと思う。

一、主の愛の御性質

二、主のなしたまいしわざ

三、主の賜物

一、主の愛の御性質

神は愛なりとはわかりきったことであるが、しかしそれを一つ一つ味わわなくてはその味を知ることはできない。

旧約でモーセが神に「あなたの名は何とおおせられますか」と尋ねた時、神は「我は在り――エホバと称うる者である」と仰せられたが、もし我らが新約で主イエスに「あなたの御名は何と申しますか」と尋ねたならば、おそらく「我は愛という者である」と答えたもうことと思う。エレミヤ書三十一章3節に「遠くよりエホバ我に現れて言いたもう。われ限りなき愛をもて汝を愛せり。ゆえに我たえず汝を恵むなり」とあるが、この「限りなき愛」とは永遠の愛である。すなわち、永遠の昔から神は我らを愛して下さったのである。またこの「遠くより」は「昔から」という意味で、神は久しい間、遠い時から御自身の御心を示されたのである。英訳では "Yea I have loved thee" となっていて、"Yea" というのは「そうだとも、そうだとも」という強い意味である。「たえず」はいつまでも続く、幾年経っても変わらない愛である。時々恵むのではなく、絶えず恵むのである。ちょうど金持ちが乞食を恵むようではなく、絶えず恵むのである。ああ、これは実にありがたいことである。世は移り変わるが、変わらぬものは主の愛である。私がちょっとアメリカに行って来た間に変わったことがあった。人が死んだ。知人がいなくなった。しかし変わらざるは主とその愛である。「ゆえに我たえず汝を恵むなり」は「このゆえにわれ恵みをもて汝を引けり」で、もう遠方には置いておけない、傍に置きたいというので引き寄せたというのである。愛というのはこういうものである。何とか理屈をつけて傍に引き寄せてしまうのである。これは主の愛である。この主はただ我らの生まれた時、また主イエスがこの世においでなされた時から我らを愛したというのではない。山いまだ成り出ず、川いまだ成らざる先に、我らをちゃんと愛していたもうたのである。これは不思議なことである。しかしキリストは「これは我が宝である」として我らを慈しんで恵んだのである。かの箴言八章30節、31節を見ると、キリストは創造者として人間を楽しんだと記してある。ちょうど人間が子供の産まれた時に喜ぶように、キリストはこの世の人を愛で慈しみたもうた。これすなわちキリストの御心である。

かのイザヤ書九章6節を見ると、キリストは「永遠の父」とあるが、実にキリストは永遠の父として我らを顧みたもうのである。この世の肉体の父は、彼世に行ってもなお我らを顧みることはできない。父が子を養うのは実に僅かな年月である。けれどもキリストは永遠の父として我らを恵みたもうのである。

なお、キリストの御性質が雅歌に現れている。「わが愛する者は白くかつ紅にして万人の上に越ゆ。その頭は純金のごとく、その髪はふさやかにして黒きこと烏のごとし。その目は谷川の水のほとりにおる鳩のごとく、乳に洗われて美しくはまれり。その頬はかぐわしき花の床のごとく、香り草の壇のごとし。その唇はゆりの花のごとくにして没薬の汁をしたたらす……誠に彼には一つだに美しからぬところなし」(五・10〜16)。

「紅」とは愛の心、すなわちち赤心。「純金」とは聖なる愛で、栄光を示すものである。「その目は鳩のごとく」はキリストの柔和を示したもので、「谷川の水のほとり」とは柔和なる御目に同情の涙のあることを表したもの、「乳に洗われて」はキリストの目に養いのあることを言ったものである。我々がキリストの目を見る時、養いを受ける。すなわち、キリストは愛の目をもって我らを養いたもう。我らが目をもって彼の目を見る時、何か我らの方に来るものがある。数年前にフランソンという人が来た時、彼は「キリストを見る時、霊魂に養いを受ける」と言われた。しかしもし我らと主との間に紙一重なりとも隔てがあるなら、この養いを受けることはできない。

「その唇はゆりの花のごとくにして没薬の汁をしたたらす」。キリストの口より出る言は実にかたじけない。かのキリストが十八年病んだ人を癒したもうた時、人々はかたじけなさに感じた。またナザレに行きたもうた時にも、人々は彼の口より出る恵みの言葉を聞いて彼を賛めた。彼の内には恵みが満ちていたゆえに、これが外にしたたったのである。ああ、この姿の美しさがわかったなら、我らは他のすべてのものから離れて主を愛することができるであろう。しかし、言だけでは主の愛がわからない人は祈られよ。求められよ。さすれば神は聖霊によってそれを示して下さる。かくして得たキリストは本物である。もちろん、我らが彼を知る量は我々の成長の度に比例するものである。それゆえに我らは精密にキリストを知るよう力を尽くすべきであって、ここに霊性の進歩がある。

二、主のなしたまいしわざ

この第二点はあまりに項目が多くてことごとくこれを語ることはできないから、どうか諸君はこの点について黙想を願いたい。

私は今、便宜上この主題を四つに区分する。それは、

イ、主の御降臨

ロ、地上における御働き

ハ、主の贖いの愛

二、主が今なしつつある御業

イ、主の御降臨

私の言葉はとても到らないので、どうか祈ってもらいたい。この点についてはピリピ書二章を見られよ。この二章6〜8節を昨日は主の御謙遜として味わったが、今はこれを愛の方から味わってみたい。

いったい主をして何がこの地上に降らしめたかというと、それは愛である。もしキリストが天にいましたなら、決して我らに届くことはできない。それゆえ降りたもうた。神の形では我らに近づくことはできない。それゆえ人間の形をとりたもうた。もしキリストが神の形で降りたもうたなら、肉眼で太陽を十分見ることができないように、我らは主を見ることも、これに近づくこともできないのである。それゆえ主は御栄光を脱いでこの世に降りたもうた。これは私のためであった。また諸君のためであった。

ロ、地上における御働き

主が地上に降りたもうてどんな御生涯を送りたもうたかというと、我らの言葉では決して言い尽くせない生涯を送りたもうたのである。どうかこのキリストの御生涯をよく思い巡らしていただきたい。主は我らを愛するあまり、あのような生涯を送りたもうた。彼は様々な苦痛を忍びたもうた。時には涙を流して祈りたもうた。また彼は罪人を尋ねて歩きたもうた。牧者が失われた羊を尋ねまわるように、否、それよりも聖い御同情をもって哀れな迷った羊を尋ねたもうた。他人から誤解されても、ご自分はどうなっても良いという御考えで、我らのために尽くしたもうた。実に主の御一生は愛をもって貫かれた御一生であった。実に主の御生涯は、これを一言で言うと、愛である。愛のゆえに労し、愛のゆえに忍びたもうた。

ハ、主の贖いの愛

その次にキリストは十字架の上で我らのためにいかなることを成したもうたか。彼が神たる身分を捨てて降られただけでも非常な愛であるのに、なお彼は一生のあいだ恐れない生涯を送りたもうた。のみならず彼は十字架の上にもあがりたもうた。そしてそこで大いなる業を成して下さった。何人もできないことを御自身で成し遂げて下さった。

私は諸君よりも一、二日先にここに来て祈っていたが、その時に私の心を溶かしたものはこの贖いの愛であった。私の愛する歌は、あの「インマヌエルの傷口より流れ出る血潮の泉あり」という歌である。私はひとりでいる時はいつもこの歌が口から出るのである。特に3節の

信仰によりて汝が血潮したたる傷口の
この泉を供給することを知りてより
汝の愛は我が歌の主題となり
かくて死ぬるまで我が歌とならん

は私の愛するところで、実はこの愛は我らの柱また杖である。おお、兄弟よ、姉妹よ、この愛こそ御位を捨てて我らを贖いたもうた愛である。

ソーントン氏によると、ギリシャ語の「贖い」には三通りの意味があって、第一は「買う」、第二は「市場より取り出す」、第三は「解き放つ」で、日本語ではどれも「贖い」と訳されているそうである。人間はちょうど品物のように市場で売買されることがある。黙示録にはバビロンで人の魂を売買したとある。けれどもキリストはこの市場から我らを買って下さる。このあいだ、有馬でソーントン氏のこういう話があった。

昔、アメリカでまだ奴隷売買が行われていた時、北部のある白人が南部のある町に行き、そこで奴隷市場を見物に行った。するとそこに黒人が売物のようにずらっと並んでいた。そして人々はそれを品物のように競売している。実に何とも言えない光景である。この白人は非常に心を痛めてそれを見ていたが、その中に一人の婦人奴隷が特に目立って見えた。というのはこの奴隷は白人との混血のようで、他の奴隷とは少し趣きを異にしている。だから彼女は売買されるのを非常に恥かしく思い、顔を下げて、もうどこも見ずにいた。やがてこの婦人の売られる番が来たが、この白人はこれを黙って見ていることがもうどうしてもできなくなり、とうとう高い高い金を出してこの婦人を買い取った。普通ならそこにいる書記がその奴隷の買い手の名前を書いて知らせることになっているので、書記はその人の前に進んでいって「あなたの御名前は何と申されるか」と尋ねた。するとその白人は「買い手の名前をあの婦人の名にせよ」と言った。書記は「それはおかしい」と言ってこの白人と争ったが、どうしても白人はきかない。やむをえず、書記はその奴隷の名前を買い手の欄に記して、それを奴隷のところに持って行った。けれども婦人はもう恥ずかしくてこれを見ようとしない。けれども書記がしつこく促すので顔を上げて見ると、買い手は自分の名になっている。彼女は喜びのあまり、

神を賛めよ、私は自由の身である

と叫んだ、そしてその白人の後を追って行って、土の上に座り、その白人の足にしがみついて、「あなたは私を自由にして下さいましたが、私は一生涯あなたの奴隷でございます」と言ってその感謝の意を表わした。

これは実際アメリカであった話だそうである。我らはちょうどこの世の市場で売られて、日々悪魔の手に治められていたのである。けれども、キリストはこれを痛ましく思い、血をもって我らを買い上げて下さったのである。自由の身として下さったのである。

おお、我らはこの奴隷のようにキリストに抱きついて、「生涯われを奴隷となしたまえ」と言いたいものである。かの出エジプト記にも、「僕が妻子を愛して一生主人のもとを離れない場合、耳を柱に付けて、これに錐を刺し通せ」とあるように、我らは一生涯キリストを離れず、これに仕えたいものである。

二、主のなしつつある御業

第四はキリストの祷告の働きである。この祷告の働きは実に重い奉仕である。祷告の御用を務めた方は経験しておられるであろうが、遠い道を歩いたり説教をすることは比較的やさしい。けれども、責任をもって他人のために祈ることは実に骨が折れる。この働きは一番難しい働きである。だがキリストは天において今この働きをしていたもう。

イザヤ書を見ると、「我たなごころに汝を彫り刻めり」とあるが、キリストは一つ一つ名を挙げて我らのために祈って下さる。「あの人が罪を犯しました。どうぞお赦し下さい。だれそれが今苦しんでいます。どうぞお助け下さい」と祈って下さる。どんな境遇にいても、生活困難の中にあっても、すべての状態に応じて祷告して下さるのである。

イザヤ書四十九章の15節には、「女その乳飲み子を忘れておのが腹の子を憐れまざることあらんや。たとい彼ら忘るることありとも、我は汝を忘るることなし。我たなごころに汝を彫り刻めり。汝の石垣は常にわが前にあり」とあるが、これはキリストの祷告を描いたものである。

三、主の賜物

かつてウイルクス師が「愛というものは与えないでいられるものではない」と言われたが、愛は与えなければ苦しくてならないものである。神は愛なるゆえに我らに各様の賜物を与えたもうた。主イエスもまた同じく与える方で、与えるのが主の御奉仕である。主はかのサマリヤの女に向かって「汝もし神の賜物を知り、また『我に飲ませよ』と言う者の誰なるを知りたらんには、之に求めしならん。さらば汝に生ける水を与えしものを」と仰せられた。これ実にキリストの願いである。しかし我らは命の水を持つ御方を知らずに、これを悪しざまにあしらった。けれどもキリストは「自分を知ってほしい、そして賜物を自分のものにしてほしい」と我らに願っていなさる。

神の賜物は実に多くて並べだしたらきりがない。だがどうか一つ一つ味わっていただきたい。またわれらはこれを受ける値打ちはないのであるが、主はこれを我らに与えたもうた。主の愛は大きいゆえ、またその賜物も大きい。自分のために、事業のために、神の与えたもうたものは実に大なるものである。

第一にそれは限りない命である。これは他の人の決して与えられるものではない。第二は平安である。この世の波風がいかにはなはだしくても、この心の中に主の平安があれば大丈夫である。第三は聖霊の賜物である。この賜物はあまりに大きくかつ深くて味わいきれない。しかしこれは実に驚くべき賜物である。これは賜物の中の賜物である。この賜物が与えられた目的は何かというと、これは我らに神との交際を与え、共に住み、共に忍び、共に嘆き、共に働き、共に死ぬためである。またこれは我らに神の性質を与えるためであった。

次は、主は我らを王となし、祭司となしたもうことである。キリストは現在、王また祭司である。それゆえキリストは我らを王なる祭司なる御自身と共に座せしめておられる。今は我らは人の下にあるが、霊は上にある。我らは世の王候貴族の上に立って彼らを治めているのである。やがて我らは具体的にこの世を支配するに至るのである。キリストは祭司である。そして神と人との間の仲立ちをする御方で、民を代表して神に祈りたもうのである。このように我らもキリストと共に祭司の職を与えられた者である。それゆえ、自分の家族を代表する責任がある。家族に罪がある時はその責任を負わねばならない。また祭司は神の言を語る者であって実に驚くべき務めである。

主はこのように愛によって我らに大いなる賜物を与えたもうた。しかし我らはこの愛を人間の能力によって悟ることはできない。それゆえパウロはエペソ書三章18、19節で、我らがこの愛を悟るように祈っている。「すべての聖徒と共にキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さのいかばかりなるかを悟り(しっかり握らしめ―直訳)、その測り知るべからざる愛を知ることを得しめ、すべて神に満てるものを汝らに満たしめたまわんことを」(エペソ三・18、19)。