「ただ御使いよりも少しく低くせられしイエスの、死の苦しみを受くるによりて栄光と尊貴とを冠らせられたまえるを見る。これ神の恵みによりて万民のために死を味わいたまわんとてなり。それ多くの子を光栄に導くに、その救いの君を苦しみによりて全うしたもうは、よろずの物を造りたもう所の者にふさわしき事なり」(ヘブル二・9、10)。
キリストの御苦しみを味わうには心の準備がいる。ただ彼の苦しみが我の感情に触れたからといって何の益があろうか。彼の苦しみを我々の霊に刻みつけられ、彼と共に苦しむ生涯を送らねばならぬ。また、キリストの死はただ単に命を捨てたもうたのではなく、彼は我らのために大いなる苦難をなめたもうたのである。もしキリストが数十秒のうちに斬首されて死にたもうたとすれば、その死たるや決して人類の贖いとなるべきものではない。彼は苦しんで死の味をなめたもうたゆえに、これによりて贖いが成就したのである。かの兵卒どもはキリストを十字架につける前に彼の苦しみを和らげようと没薬を酒に和してこれを飲ませようとしたが、彼は決してこれを受けたまわなかった。もしキリストがこの酒を受けておられたなら、彼は決して十字架の上で死の真正の苦痛を味わうことができなかったのである。かくして、彼は終わりまで鋭敏な感覚をもって死の苦しみを味わいたもうたのである。これキリストの十字架に贖いの能力あるゆえんである。
私はある時、医師から血精治療に用いる血精の製造法を聞いたことがある。これによって我らはキリストの苦しみの一端を知ることができると思う。
血精を得るには、まず健全な牛を取ってこれに病毒を移殖するのである。すると病毒は体内に吸収されてこの牛に病気を引き起こすが、その健康が強いので僅か数日にして全快するのである。かくてこの牛は免疫性の牛となり、病毒を殺す能力を有するのである。そしてこれを人体に注射する時、体内の病毒は死んでその病は全快してしまう。これ血精療法の原理である。
されどこの牛の血精をとる時、この牛を殺してから取ると無効になるから、まずある動脈を切断し、そこから少しずつ流れ出る血を器に取らねばならない。しかしこの血をことごとく絞ろうとすると、かなり長時間を要する。ゆえにこの時の牛の苦痛は非常なものであって、到底形容することができない、ということである。
キリストの苦しみもまたかくの如くである。我らはこれによって主の御苦しみを味わわねばならない。主は傷なき、しみなき御方であるが、我らのために罪という病毒を移殖され、罪人とされたもうた。されど彼は罪に打ち負けたまわなかった。これは彼の血が我らを罪から救うゆえんである。実に彼の血は彼の苦しんだ時に流れ出た血である。彼の流れる血の一滴一滴が我らの罪を赦す原因となったのである。
兄姉よ、このことを心に記憶せよ。また聖霊によってこの真相を知られよ。また、これによって我らは罪の真相を知ることができるのである。何となればキリストは我らの罪ゆえにかかる苦しみを受けたもうたからである。また我らはこれによってキリストの愛の大いなることを知り得るのである。されど我らはここに止まるべきではない。なお進んで彼を愛し、彼の苦しみにあずからねばならぬ。そうでなけれぱキリストの苦しみを知ったとて何の益もない。宗教は決して道楽ではない。祈り祈ってここに到るべきである。
今キリストの苦しみを三方面から見ることにする。
一、人間の罪ゆえに
二、悪魔及び暗黒の力によりて
三、神より呪われたるにより
一、人間の罪ゆえに
私は幼時、火刑また磔刑の話を聞いたことがあった。罪人が磔刑に処せられる時、二人の死刑執行者が両方から罪人の目前で槍をカチリと合わせ、そして後、双方の脇腹から槍を刺し通し、その槍が体内でガッチリと相合うようにするというのである。我らはこれを聞くのみで十分である。しかるにキリストは人、悪魔、神の三方面から刺されたもうた。されどこの苦しみは聖霊によらなければ決して悟ることができないから祈って聞かれたい。
第一、人間から苦しめられた事を分類すると、キリストは
イ、人間の罪ゆえに寂莫を感じたもう
ロ、悲しみと苦痛
ハ、迫害
ニ、同情の悩み
多くの人はこの点(イ)に注意せぬが、キリストにとってこの一事は大なる苦しみでありたもうた。すなわち彼は人間との交通(フェローシップ)を失いたもうた。かのアダムとエバが罪を犯した時、神は大いなる寂寛を感じたもうた。あたかも子供を失った親のごとき淋しさを感じたもうた。かの鶏がその失ったひなを探す時、悲しげな声を出してこれを探すように、キリストは罪人を集めようとしてこれがために泣きたもうた。されば我らの心と離れている時、神は大いなる淋しさを感ずるのである。何となれば神が人類を造りたもうた目的は、これと交通して楽しみたまわんがためだからである。
この点について多くの信者は心得違いをしている。神は信者と交通をしようとしているのに、彼は他事に心を奪われてこれを忘れつつある。これ神にとって決して小さい苦しみではない。
このあいだソーントン氏は有馬において次のような話をされた。氏は四十才の時に母を亡くしたが、父は伝道者で心を尽くしてその子らを愛した。かの国では少年時代から交際を重んずる慣わしがあってソーントン氏もその友に誘われてある夜さる会合に出席した(むろん汚れた交際ではない)。家を出る時に父は、「今夜は是非とも早く帰宅せよ」と言った。氏はこれを心に留めてそこに至ったが、思わず遊びすぎて十一時になってしまった。そこで氏は驚いてその旨を友に語り「すぐ帰宅しよう」と言ったところ、友達は大いにこれを嘲弄して「父の乳を飲もうとしてそう言うのであろう」と言われたところから氏は反動心を起こし、二時に至ってようやく帰宅した。ようやく家に近づくにつれて父との約束を違えたことを思い出し、会合で吐いた大気炎はどこかに失せ去り、「どこか隠れる穴でもあったら入りたい」と思ったほどであった。家に帰ってみると、いまだ父は戸を閉めず、氏を待っていたが、見ると父の顔は青ざめてやつれており、何とも形容のできない淋しい顔であった。けれども父は大声で叱責せずに、ただ「お前は父を失望させた」と言いながら涙を流した。氏はこのとき深く自己の罪を悟り、全く心砕けて父に赦しを求めたという。
人は神の御前にあって神を喜ばせるべきなのに、かえって身体も時間も自己の楽しみに使用し、神をただ一人淋しく残しておくのである。人々が平気で暮らしている間、キリストは苦しみかつ涙を流していたもうのである。有馬において多くの人々はこの話を聞いて心砕かれたのである。
(ロ)悲しみと苦痛
(イ)のところで言ったように、我らが別に悪い行いをしなくても、我らが主と交通せずに暮らしている時、主は淋しさを感じ、また苦しみたもう。そして我らが罪を犯す時、それが一々釘のようにまた槍のように主の胸に刺さって行くのである。今いちいちその罪名を挙げなくても、主は我らの罪のゆえに苦しみたもう。格別に主は我らの不信仰の罪のゆえに痛みを感じたもう。不信仰の罪とは昨日、御牧師の言われた「主を知ろうと欲せず、主を愛そうと欲せず、主に服従しようと欲せざる罪」であり、この罪のゆえに主は大いなる悲しみを感じたもうたのである。かのアダムとエバも不信仰の罪ゆえに恵みより落ちてエデンの園より追い出された。彼女は神の言を信じなかったから、神が「必ず死ぬ」と仰せたもうたことを「おそらく死ぬであろう」と思い違いしたのである。そこで悪魔は巧みにこれを「必ず死ぬことはない」と変更した。
あるところに一人の子供があったが、彼は菓子を食べたいあまり、母親に告げずに他人より銭をもらい、それで菓子を買って食べた。その時は母親は気付かなかったが、後でこのことをその人より聞いて母は泣き悲しんだ。そしてその子に向かい「なぜ母様に言わなかったか、なぜこの母様に言わなかったか」と言って、母の愛を信じない子供の心を悲しんだということである。我らは人知れずこのように神に幾度か悲しみを与えた。我が魂に苦しみのある時、神に行かずに他人のところに行き、度々この世のもとに行った。こうして神の愛、神の富、神の力を信じなかった。神はこのためにいかに悲しく感じたもうたことであろう。
このあいだ、有馬で祷告会の司会を青木氏に託そうとしたが、兄弟は謙遜な御方ゆえこれを受けなかった。しかし、委員のゆえをもって強いて願ったところ、しばらく無言であったが、ついに「あまりに重くして負い切れないから」と言って辞退された。しかしなお強いて依頼したところ、氏は朝の三時より起きてこのために祈られた。しかし氏は疲労のため眠りに入り、一つの異象を見たのである。その異象では、キリストが右の手で冠を氏に差しのべ、左手で御自身の胸を押さえておられた。なぜであろうと熟視すると、主の心臓には一つのナイフが刺さっており、またその周囲にはイガの様なものが無数に刺さっているのが見えたのである。主はそれを左手で隠しておられたが、これを見た氏は「主よその針は何人のものでございますか」と問うと、主は「これはお前の罪である」と言われたという。我らは半信者の時にナイフのようなものを主の胸に刺した者であるが、信仰の道に入ってもなお針のような多くのものをもって主の御胸を痛め奉って来た。おお、兄弟よ、姉妹よ、罪はどれほど主の御心を痛ませるか、実にわれらの想像以上である。
(ハ)迫害
次は外面に現れた迫害である。主が地上におられた時、世の人は真っ向からキリストに反抗した。そして主を憎むべき、厭うべき者のように扱った。あるいは石をもって打とうとし、あるいは「悪魔に憑かれた者なり」と言い、ありとあらゆる辱めを加えたのである。のみならず、かの恐るべきピラトの庭、カルバリーの丘まで彼を曳いて行った。実に人間がキリストになした扱い方はあまりに言外であった。しかしわれらの知らざるべからざることは、その当時の人々は我らの代表にすぎなかったことである。人類は皆このようにキリストを扱った。実に彼は我らからも迫害されたもうたのである。
(ニ)罪人に対する同情
イザヤ六十三章9節を見ると、世の人がその罪に苦しむ時、神もまた苦しみたもうと記されている。これもまた主イエスの苦しみの一つである。聖書には「汝らを打つは我が眼の玉を打つと同様なり」と記されているが、世の人の苦しみは、また主の苦しみである。それゆえ罪人の苦しむ時、主は眼の玉を打たれたように苦しみたもうのである。また人々が罪人に同情を表わさない時も、主はこれに同情を寄せてこれがために悩みたもうのである。
第二、暗黒の力に苦しめられたもう
ルカ伝二十二章53節。これ悪魔の最後の襲撃で、また悪魔との最後の決戦であった。これまで悪魔はしばしば神の遣わしたもうた預言者を殺したが、このたびは子なる神がこの陣頭に立って、すなわち神と悪魔との大決戦となったのである。さればその陣頭に立って戦いたもうたキリストの御苦戦は非常なものであった。
かの詩篇二十二篇11〜13節はすなわちこの苦戦の写真である。ある人はこれを暗きの力であると言っている。ここで何とも形容しえない悪魔の勢力がキリストに押し寄せて来たのである。悪魔は一生懸命戦った。けれどもキリストは遂に彼をここで破りたもうた(ヘブル二・14)。
実にキリストはゲッセマネの後、祈りに祈り抜いて遂にサタンの頭を砕きたもうたのである。
第三、神より捨てられたもう
我らはここを恐れおののいて聞かざるをえない。「キリストのゲッセマネの苦しみは何か、カルバリーの苦は何か」という質問に対して、ある大家が説教で詩篇六十九篇の1、2節を引用してその解答としているのを見た。
これキリストの十字架の予言であって、神のたえがたい苦痛を描き出したものである。すなわち彼は我らのために罪人として扱われたのであって、キリストは実にゲッセマネの園から神より罪人として扱われたのである。すなわち神はキリストに対して怒りの態度を取りたもうたのである。さらに神は律法に定めたもうた正しい怒りをもってキリストに対したもうたがゆえに、主はその苦しさにたえられず叫びたもうたのである。彼は恐ろしい深い泥の中に沈められ、罪のために神から捨てられた苦味をなめたもうたのである。ゆえに彼はこののしかかる苦しみの中でもがきたもうた。
私はこれを思って今さらのように畏れ多く感ずる。おお、兄弟姉妹よ、イザヤ書五十三章を見られよ。「エホバ彼を砕くことを喜びたまえり」と記されているのではないか。神はここにキリストの上に律法の厳かな鉄槌を下したもうた。もしかくなしたまわなかったならば、神の聖きは決して立ちたまわなかったのである。
詩篇二十二篇1、2節を見られよ。キリストはゲッセマネにおいて三度も祈り、また十字架上において叫びたもうた。しかし、少しも神の愛の顔を見ることができず、下るものはただ神の怒りのみであった。かくして彼は死の味をなめ、悪魔を砕きたもうた。
また詩篇二十二篇14節を見ると、キリストは苦しみのために節々の骨は外れ、六時間のあいだ手足を釘に刺されたままで苦しみたもうた。かくて彼の心臓は苦しみのあまり破裂した。それゆえ兵卒がその脇腹を槍で刺した時、血と水が流れ出たのである。ああ、これいかに畏れ多いことぞ。彼がここでいかほど苦しみたもうたかは我らの想像も及ばない。我らこれを知って主の御苦しみを憶えたい。
我らは今日ここでキリストの御苦しみを親しく教えられた。しかし肝要な点は我らはいかにこのキリストに対しているかということである。我らはこれを単なる出来事として対岸の火事視するか。否々、もしクリスチャンたる我らがこの主をそのように扱うなら、さらに禍である。我ら主の苦しみを知ったからには、全く砕けて自己の罪を嘆き、彼を仰ぎ見て、我らが不信仰なる世を愛している罪を嘆くべきである。おお、兄弟姉妹よ、この主の御苦しみを覚えて全く砕かれよ。
しかし決して失望すべきではない。この苦は我らが聖き者となるための苦しみである。わがためになしたもうた苦しみである。さればこの信仰を得た者は進んで主の御声を聞かれよ。かのペテロは砕けて主の御声を聞いた。すなわち主は「わが小羊を飼え」と彼にのたもうた。ペテロはこの時まで遊び歩くような生涯を送っていたが、これより主のために命を捨てる生涯を送ることができた。されば我らも主の声を聞いて十字架を負わねばならぬ。主はこの私どもに「我が受けんとする杯を飲むや」と厳かなる御声をかけたもうた。この世で成功するのではない。「バプテスマすなわち死を受けうるか」と主はヨハネとヤコブに尋ねたもうた。我らは決して人の罪を贖うことはできない。しかし他人の罪のために悲しみ、またこれに同情して祈ることができる。人々が罪を悔い改めて安心を得るまでは苦しみ祈ること、これすなわちキリストの苦しみである。時間も金も惜しまず、身体も労力も惜しまず、人々からの誤解や迫害を恐れないでサタンと戦うべきである。もし我ら忠実にこれを尽くすなら、なお多くの苦しみを受けるであろう。
私はこのように巡回にあっても集会の中にあっても、耐え切れずに倒れそうになることが時々ある。この時、自分としては主の前に倒れてそのあわれみを乞うのであるが、主は私を起こして能力を与えて下さる事を幾度も経験させられた。
コロサイ一・24、ピリピ三・10を見られよ。我らはこのように主の力によって主の苦しみにあずかり、教会の苦難の欠けたところを補うべき者である。
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