「されど彼らの心にぶくなれり。キリストによりて顔覆いの廃るべきを悟らねば、今日に至るまで旧約を読む時その顔覆いなお残れり。今日に至るまでモーセの書を読むとき、顔覆いは彼らの心の上に置かれたり。されど主に帰する時、その顔覆いは取り除かるべし。主はすなわち御霊なり。主の御霊のある所には自由あり。我らはみな顔覆いなくして、鏡に映るごとく主の栄光を見、栄光より栄光にすすみ、主たる御霊によりて主と同じ形に化するなり」(コリント後三・14〜18)。
ここに顔覆いという字が幾度も出ている(14、15、16、18)。この短い箇所に四度も繰り返されている。神は今朝、主との交流について教えたもうたが、私はこの午後その交通の妨害となる顔覆いについてお話ししたいと思う。第一に顔覆いのある生涯について考え、第二にその顔覆いを取り去られる道、第三に顔覆いを取り去られた結果、すなわち変貌の状態について語りたい。
この頃、私は日本のリバイバルのために祈っているが、祈るにつけ「お前はどうだ」と尋ねられ、私自身のことについて大いに教えられている。私をはじめ、我ら聖潔の群れはどうか。私はこのことを考えている。今回ここで美しい御言を聞いて、喜んで山を下っただけでは駄目である。諸君は聖潔の群れの中でも毎日ごちそうになっている。いろいろ賜物のある僕を遣わされて、色々な方面から教えられている。諸君ほど幸福な者はない。しかし、そこに責任があることを忘れてはならない。多く与えられたならば多く求められる。このたび特に私は実際問題について考えたい。高い理想、美わしい言、これはもちろん必要であるが、これだけでは駄目である。私はこの頃深く教えられている。今日は諸君に説教するというよりも、むしろ私の懺悔として聞いていただきたい。
一、顔覆いのある生涯
第一、14節「されど彼らの心にぶくなれり。キリストによりて顔覆いの廃るべきを悟らねば、今日に至るまで旧約を読む時その顔覆いなお残れり」。また15節に「今日に至るまでモーセの書を読むとき、顔覆いは彼らの心の上に置かれたり」。これはユダヤ人のことであるが、我らの間にもこの顔覆いが残っていることがある。これは事実である。空想ではない。さてその顔覆いの者を大別すると三種類ある。第一に未信者、第二にまだ潔められていない人、第三に聖潔の恵みから落ちた人である。
救われていない者はもちろん、神と自分との間に顔覆いどころではない、恐ろしい障壁がある。ここに書いてあるユダヤ人の顔覆いは己の義と不信仰のためであった。であるから救いさえ得られない。顔覆いどころか、大変なものが神と自分との間にあるのである。
第二、まだ潔められていない人は、救われているが、やはり顔覆いがある。何だか神と我との間に妨害がある。薄紙がかかっているようである。夜のようではないが、明々と輝いている太陽を仰ぎ見るようにはいかない。ちょうど曇天のようである。その妨害の第一は己の意志である。私がやられていたのもこれであった。神が私に向かって矢を引きたもうた時、狙いをつけられたのはこれであった。「御旨を成したまえ」と祈りはするが、心の中はまさにそれができなかった。全き服従ができないのはつまり、この己の意志が心の中にわだかまっているからである。全き献身ができないのも心の中にこれがあるためである。おお、この妨害物があってはならぬ。我らの霊魂は鹿が谷川を慕うように生ける神を慕っているであろうか。「すべての妨害を全く取り去られ、主と真正に親密に、今朝教えられたように楽しい高い生涯に入りたい」と、あなたは切に願っているであろうか。バックストン教師は今朝、表から話されたが、私は裏から話そう。神は「隔てのない水入らずの交際のうちに楽しく暮らしたい」と願っておられる。共に楽しみ、また共に苦をなめたいというのが、我らの新郎たる主イエスの御願いである。隔てがあっては大変である。これは潔められていないからである。ぜひ潔めてもらい、妨害物を全く取り去ってもらって、主と全く一つにしてもらいたい。
第三種の人は潔められたけれども、その恵みから落ちた人である。この点について私は一番憂えている。元来潔められた経験があると、そこに弛みが生じて、聖潔より落ちていながらそれを知らない人がいる。落ちていながら進歩しようと思っている。しかし落ちている人はまず回復する必要がある。救いでも聖潔でも資格と状態とは違う。一度悔い改めたらその人は救われ、生まれ変わって、神の子たる資格がある。されども、その後のその人の状態が大切である。上辺から見ると、やはり未信者と同じではない。しかしその人は資格まで失ったかと言うと、そうではない。その人は状態において落ちたのである。聖潔においてもその通りである。真正に徹底した聖潔を受けたなら、あなたの罪の性質は十字架につけられ、あなたの「己」は死んだのである。一度死んだなら、死んだり生き返ったり、また死んだり生き返ったりするものではない。聖霊が一度臨みたもうなら、永遠に宿りたもう。これは資格である。こちらの行いによって得られるものではなく、またこれは一瞬になることで、一度で十分である。幾度も幾度も潔められなければならないというものではない。聖霊を一度受けたなら、後はただ何遍でも満たされるのである。しかし資格はあっても、状態においては昨日は潔くて明日は駄目かもしれない。多くの人は聖潔の資格を得たことで安心し、状態を失っていても安心している。おお、諸君、我らお互いに今はどうか、それを省みたい。聖潔の状態を失っているなら、聖霊を受けていても主と自分との間に何か隔たりがある。
それではどうして聖潔の状態から落ちるかと言うと―― 一、律法の下に首を突っ込んでもがくと落ちる。ガラテヤ人が落ちたのもこれであった。我らは恵みによって救われ、また潔められた。その後の恩恵の完成もやはり純粋な恩恵である。しかるにこれを忘れて下手をすれば、律法の下に入って自分の力でもがきだす。パウロはその愚に陥ったガラテヤ人に向かって「汝らはかくも愚かなるか。御霊によりて始まりしに、今肉によりて全うせらるるか」(ガラテヤ三・3)と言った。律法は実に道理にかない、また立派なものであるが、それに首を突っ込んで、純粋に神の力によらず自分の力で己を仕上げようとすれば、必ずもがくものである。我らがユダヤ人の顔覆いの中に首を突っ込むことは余計なことである。ローマ書七章はその律法の下に首を突っ込んだ生涯である。潔められた後でも律法の下に首を突っ込めばやはり同じことで、「ああ、われ悩める人なるかな」と叫ばければならない。
二、次に献身を取り戻すと聖潔の状態から落ちる。レピ記二十七章28節「ただし人がそのすべて持てる物のうちより取りて永くエホバに納めたる奉納物は、人にもあれけものにもあれその遺業の田畑にもあれ、一切売るべからず。奉納物はみなエホバにいと聖き物たるなり」。神に献げた物はこれを売ることもできないし、代価を出して払い下げを願うこともできない。物品でも人間でも、決して取り戻してはならぬ。これはあってはならぬことであるが、事実あることである。時間の用い方にしても、あるいは金銭の用い方にしても、神の御旨でないことをする。夜にならないから安心しているが、曇天である。献身を取り戻しているなら、どんなに威張ったところで駄目である。聖潔は祭壇の上にのみある。そこに火が燃えているのである。
三、不従順だからである。イザヤ書二十九章9、10節を見られよ。「汝らためらえ。しかして驚かん。汝らほしいままにせよ。しかして目くらまん。彼らは酔えり。されど酒のゆえにあらず。彼らはよろめけり。されど濃き酒のゆえにあらず。そはエホバ
四、いま一つは肉に所を得られることである。我らは聖潔められても肉体はある。これがあるのでキリストの再臨まで決して油断してはならない。この肉体は神の器にもなれば、また悪魔の器にもなる。であるから、この肉体の用い方に注意しなければならない。例えば、安逸、快楽等に所を得られると、聖潔の状態から落ちる。快楽といってもその中には罪にならない快楽もあるが、それをむさぼり、それに耽ると恵みから落ちる。雅歌五章を見ると、キリストは外に立って新婦を呼んでいたもうのに、新婦は家の中で床に入っていた。そのため、ついにキリストは立ち去ってしまわれたので、新婦が大騒ぎしたことが書いてある(2〜6)。パウロはこの点について非常に警戒していた。「わが体を打ち叩きてこれを服従せしむ。恐らくは他人に宣べ伝えて自ら棄てらるる事あらん」(コリント前九・27)。肉体は罪ではない。それゆえ殺すべきものではない。しかし肉体のしたい放題にしてはならない。我らの肉体は神に献げた生ける神の宮となっているはずである。
五、いま一つは愛の実を失う時である。例えば人の噂をする時、その恵みを失う。これはお互いに注意せねばならぬことである。祈りのために言うのならともかく、重荷に感じて祈りのためにというのならよいけれども、そうでないのに噂するのはよくない。また、当人に向かって言う時でも、夫婦の間でも、主人と下女の間でも、言葉を慎まないとちょっとしたことから隔てができる。ガミガミ言った時、どうであるか。実際すぐさま祈れるであろうか。理屈の上ではこちらが正しいにせよ、心の中に輝きが消え去る。多くの人が憂うべきことは、太陽を見失いながら永いあいだ問題に慣れてしまって、夜でないからといって曇天で安心していることである
六、密室の生涯を怠ると隔てができる。聖書を読むこと、祈りをすること、主を求めること等をするのはするが、ただお茶漬けで、サッサとやって他の事をする。そして「忙しいものだから」と口実を言うけれども、それでは魂は決して承知しない。
七、もう一つは偶像があるからである。ヨハネはその書簡で深いことを言って、最後に「子よ、自ら守りて偶像に遠ざかれ」と言っている。主に全身の愛を献げることができず、あるいは妻子、あるいは事業、あるいは伝道さえも、あるいはまた我が教会、我が団体が偶像になる。ある人は自分の趣味が偶像になっている。その方にその力が奪われる。この間、私は旭川で電灯が一晩消えたことを聞いて、「なるほどそれだ」と思った。旭川中の電灯がどこもにわかに消えてしまったので、皆が大騒ぎをした。会社でもいろいろ調べてみたが一向にわからない。そのため、とうとうその晩一晩、旭川の町は暗闇の夜で、その晩は泥棒が諸方で働いたそうである。翌日初めてその原因がわかった。発電所から町に行く途中、十一才くらいの子供がいたずらで針金を電線にひっかけ、その一端を地上に入れたのである。そのため、一万五千ボルトの電流が町へ行く途中でみな地面の中に入ってしまったのだとわかったそうである。ああ、偶像とはこの子僧である。聖霊は一万五千ボルトどころでなく、何億ボルトあるかわからないが、偶像のあるところではどれほどあっても駄目である。我らもどこかに漏れがないか省みたい。
八、もう一つは主以外に目を向けることである。主以外のものに目を向けるなら、我らは決して満足できない。ペテロは主以外のものに目を向けたところ、沈みかけた。そのとき主は「何ぞ疑うや」と仰せたもうた。多くの人もぺテロのように、主以外のものに目を向けて疑い、その次に恐れる。そしてキリストとの交通が切れる。
九、もう一つは、やはりペテロから学ぶべきことであるが、肉の力に頼ることである。今朝バックストン師の話を聞いていた時、私は教えられ、また警戒させられたところが あった。あの三人の弟子のうち、ペテロは主を離れていた。ゲッセマネにも行き、祭司の長の庭にも行ったが、主と離れていた。主は人を救うために死のうとしておられたのに、ペテロは逃げてしまった。肉の元気に頼っていたからである。
その他まだまだ多くあるが、今、時間はないし、一々詳しく言うことはできぬ。例えば少しでも虚言を言えば、すぐさま主との間に隔たりができる。大虚言でなくても小虚言でもすぐさま主との交通が断たれる。おお、我らは自ら省みたい。
二、顔覆いを取り去られる道
第二の点はその顔覆いを除かれることである。14節の終わりに「キリストによりて顔覆いの廃るべき」とある。ご承知の通り、キリストが十字架の上で死にたもうた時、エルサレムの至聖所の前にあった隔ての幕が上から下に裂けた。これは実に畏れ多いことである。キリストの御身が裂かれた。そのために神との交通が開かれたのである。へブル書十章にそのことが述べられている。「その肉体たる幕を経て我らに開きたまえる新しき生ける路よりはばからずして至聖所に入ることを得」(20)。神は罪を知らない者を我らの代わりに罪となしたもうた。神はさながらキリストの体を罪の塊、罪そのもの、邪魔物のように取り扱われ、そのキリストの御体を裂いてしまわれた。その時、あの幕が上から下まで裂かれたのである。実に畏れ多いことである。イザヤ書二十五章7節を見ると「またこの山にてもろもろの民のかぶれる顔覆いと、もろもろの国の覆える覆い衣を取り除き」とある。天下万民が待ちわびていた救い主が現われて、カルバリで顔覆いを取り除きたもうた(6〜9参照)。これは神の側である。それでは我らはどうすればよいか。コリント後書三章16節に「されど主に帰する時、その顔覆いは取り除かるべし」とあるように、主を信ずる時にそれが取り除かれる。これは実に実験である。我らの行くべきところは唯一ヶ所、すなわち十字架の麓である。それ以外に行くところはない。砕けた心をもってここに行く時に取り除かれる。私は長らく顔覆いがあって苦しんでいたが、ここで取り除かれた。その後、私は聖潔めの恵みから堕落したこともあったが、やはりここに来てここで恵みに満たされ、再び主との交通に立ち帰る事を得た。今日ここにいまだ潔められていない兄弟姉妹や、また聖潔の恵みから落ちている方があれば、他に行くのではなく、ただ十字架の下に行けば解決がつく。キリストによって顔覆いは取り除かれ、キリストの御顔を拝することができる。天よりの電流をピシピシ感じるようになる。
三、顔覆いを取り去られた結果
第三は、その妨害のなくなった結果である。十八節「我らはみな顔覆いなくして、鏡に映るごとく主の栄光を見、栄光より栄光にすすみ、主たる御霊によりて主と同じ形に化するなり」。これは進歩である。恵みから落ちている場合、まず回復して初めて進歩する。他方、すでに潔められている場合、あるいはまた堕落した場合は、それから進歩する。神の栄光を見ることにより、我らも同じ栄光に進み行く。神が柔和であるように我らも柔和になり、神が愛であるように我らも愛深き者となり、また神の忍耐、寛容を我らにも与えられる。そのために聖霊は働いていたもうのである。「栄えに栄えいや増してそれと同じ形に化する也」。ちょうど神が我らを鏡となして、我らに神が映りたもうようなわけである。その鏡を見ると、我らではなく、すなわち鏡ではなく、その中に映っておられる神の栄光が現れる。
時間がないので他の点について言うことはできないが、三章17節に自由がある。四章6節を見ると光がある。「神の栄光を知る光」。またその7節に力がある。10、11節に命がある。イエスの命が我が身を通して現れるのである。もちろんこれは我らがイエスの死を身に負う時、すなわち犠牲となる時、その命が我らの身を通して現れるのである。
今日ここで深く省みたい。まだ顔覆いが残っていないであろうか。残っているのならば、十字架の下に来て今除いてもらわれよ。そしていよいよ進歩したいものである。
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