「『キリスト・イエス罪人を救わんために世に来たりたまえり』とは、信ずべく正しく受くべき言なり。その罪人のうちにて我は頭なり」(テモテ前一・15)。
今夜私の願いは、聖霊の御力によって我らが我が罪とキリストの愛とを深く味わうことである。
パウロは聖霊の光に照らされて、「その罪人のうちにて我は頭なり」と叫んだ。「あの人は実に大いなる罪人である。我はあの人ほど悪くない」とは言わなかった。これ聖霊に感じた証拠である。願わくば今夜、我ら聖霊に感じ、各々他人を評することをやめ、己が罪人の頭なることを悟りえんことを。
ペテロ前書四章3節においてペテロは悲しんで懺悔の告白をして曰く「汝ら過ぎし日には、異邦人の好む所を行い、好色、欲情、酩酊、宴楽、暴飲、律法にかなわぬ偶像崇拝に歩みて、もはや足れり」と。私自身過去を顧みるとき、実に耐え難い重荷であって、悔やみ、悲しみ、沈み、キリストがなければ実に一刻も生きていることができない感がある。我らの隠れた思いをも見知りたもう神よ、願わくは我を探って我が心を知り、我を試みてわが諸々の思いを知りたまえ。願わくは我に邪なる道のありやなしやを見て、われを永遠の道に導きたまえ(詩一三九・23、24)。アーメン。
罪というものは人の前でも実に恥ずべき、厭うべきものである。けれども神の前では、我らの罪は実に何とも言えないほど醜く悪いものであることを見るであろう。パウロは「律法によれる義につきては責むべき所なかりし者」(ピリピ三・6)だったが、「その罪人のうちにて我は頭なり」と言った。これなぜであろうか。思うに、罪の罪たる真義と神の愛とを知ろうとするなら、「世の罪を除く神の小羊」を見よ(ヨハネ一・29)。
父の懐におられたかの至愛の御ひとり子が、汚れもなく罪も知らない御身でありながら、なぜ慈父の懐より離れ、住み慣れた天の御国より出て、この汚らわしい浮世に下りたもうたのであろうか。我らが神に逆らって罪を犯し、欲を重ね、滅亡しかけていたがゆえに、主は静座黙視するに忍びず、我らを救うため宝座を捨てて下りたもうたのではないか。我が罪は実に彼を天の聖位より引き下ろしたのである。彼はご自身の造りたもうた国に来られたのに、入る家がなかったのは(ルカ二・7)、なぜであろうか。我らが己の欲のため、自ら全くこの世を横領し、我が主を拒んだためではないか。されど主は忍んで馬槽に伏したもうた。以来、辛酸なる生涯をなめたもうて、「狐は穴あり、空の鳥は巣あり、されど人の子は枕するところなし」と言いたもうに至った。これは我らの罪のために、主は一刻も安んじたもうことができなかったからである。
「彼は悲しみの人にして病を知れり」(イザヤ五十三・3)。栄光の主でありながら、打ちしおれて見る影もない御姿となり果てたまいしはなぜであるか。その背の上と胸の中の重荷は何であろうか。夜静かに人眠る時、ひとりゲッ セマネの園で号泣苦悶したもうのは誰であろうか。「イエス憂い悲しみ出でて言いたもう、『わが心いたく憂いて死ぬばかりなり』」(マタイ二六・37、38)。「イエス悲しみ迫り、いよいよ切に祈りたまえば、汗は地上に落つる血の雫のごとし」(ルカ二二・44)。「まことに彼は我らの病を負い、我らの悲しみを担えり」(イザや五三・4)。彼は天より十二軍余の使いを呼び降し、己に敵する万人を瞬く間に殺しうる御身でありながら、力尽きて助けもない盗人のように渡されたもうたのはなぜであろうか。我らの罪が彼を捕らえる縄となり、愛なる我が主はこれを断ち切って我らを捨てることをよしとせず、我らのために甘んじて縛につきたもうたのではないか。「彼は苦しめらるれども自らへりくだりて口を開かず、屠り場に引かるる小羊のごとく、毛を切る者の前に黙す羊のごとくしてその口を開かざりき」(イザヤ五三・7)。ピラトが怪しむほど主が黙したもうたのはなぜか。主は聖き神の御前に立って、我らの罪のため胸ふさがり、悄然服罪したもうたからではないか。
「されこうべと言う所に至りて、イエスを十字架につけ、また悪人の一人をその右、一人をその左に十字架につく」(ルカ二三・32)。ああ、これは何たる光景であろうか。天地万有の造り主、王の王、主の主たる神が、無残にも異邦の人の手に渡され、盗人の真中に置かれ、最も恥ずべき、最も苦しい、最も恐ろしい十字架の刑を受けたもうとは。「われ水のごとく注ぎ出され、わがもろもろの骨は外れ、わが心はろうのごとくなりて腹の内に溶けたり。わが力は渇きて陶器のくだけのごとく、わが舌は顎にひたつけり。なんじ我を死の塵に伏させたまえり。そは犬われを巡り、悪しき者の群れわれを囲みて、わが手およびわが足を刺しつらぬけり。わが骨はことごとく数うるばかりになりぬ。悪しきもの目をとめて我を見る。彼ら互いに我が衣を分かち、我が下着をくじにす」(詩二二・14〜18)。ああ、十字架の木は我らの呪いを示している。主を十字架につけた者は私である。主の御手と御足を貫いた釘はわれらの罪である。私は十字架を仰ぎ見、その麓にひれ伏し、栄光の主を釘付けにした我が罪を思い、何ともこの感動を言い表すことができない。願わくは聖霊、今われら各自にこの罪の何たるかを示したまわんことを。声あり、聴け。イエス言いけるは「父よ、彼らを赦したまえ。そのなすところを知らざるがゆえなり」。兄弟よ、彼の尊い体が裂けたのを見よ。「これは汝らのための我が体なり」(コリント前十一・24)。兄弟よ、彼の宝血が流れ下るのを見よ。「これは契約の我が血なり。多くの人のために、罪の赦しを得させんとて流す所のものなり」(マタイ二六・28)。「イエス世にある己の者を愛して、極みまで之を愛したまえり」(ヨハネ一三・1)。「昼の十二時より地の上あまねく暗くなりて、三時に及ぶ。三時頃イエス大声に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言いたもう。わが神、わが神、なんぞ我を見棄てたまいしとの意なり」(マタイ二七・45、46)。この黒暗は何か。我らの罪である。「エホバの手は短くして救い得ざるにあらず。その耳は鈍くして聞こえざるにあらず。ただ汝らのよこしまなる業、汝らと汝らの神との間を隔てたり。また汝らの罪、その御顔を覆いて聞こえざらしめたり」(イザヤ五九・1、2)。主が父より捨てられたまいしは、我らの罪のためではないか。主が苦痛の極み「われ渇く」(ヨハネ一九・28)と言いたもうたのは、我らの罪の炎すなわち地獄の火が主イエスを焦がしたことによる。この時、罪人は渇きを増す酢を与えた。我らは主の苦しみを減ずることを少しもなさず、ただ増し加えるのみであった。「イエス再び大声に呼ばわりて息絶えたもう」(マタイ二七・50)。ああ、汚れも咎もなき神の御ひとり子はみうせたもうた。人殺しどころか天地の主なる神の命を取ったのである。ああ、これより大いなる罪はどこにあろうか。「その罪人のうちにて我は頭なり」。「それ義人のために死ぬる者ほとんどなし。仁者のためには死ぬることを厭わぬ者もやあらん。されど我らがなお罪人たりし時、キリストは我らのために死にたまいしによりて、神は我らに対する愛をあらわしたまえり」(ローマ五・7、8)。「キリスト・イエス罪人を救わんために世に来たりたまえり」。感謝すべきかな。「こと終わりぬ」(ヨハネ一九・30)。
終わりに味わいたいのは、我らに賜うところの聖霊によって、神の愛が我らの心に注がれることである。なつかしくもみうせし主は、甦り来たりて我らの中に立ち、少しも我らの罪、失敗、不忠実を責めたまわず、彼はそのようなものを全く記憶したまわないのである。ただ釘の跡のある御手と脇とを示し、マリアのように失望している者にも、ペテロのように主を否んだ者にも、トマスのように不信仰な者にも、「平安なんじらにあれ」とこの上もない慰めを与え(ヨハネ二○・19、21、26)、「信ぜぬ者とならで信ずる者となれ」(ヨハネ二〇・27)、「我が手わが足を見よ。これ我なり」(ルカ二四・39)と言いたもうのである。兄弟よ、一言一句呼吸ことごとく愛ならざるはない。兄弟よ、我らは自己の愛なきを嘆き、悩むには及ばない。主はいま愛の息を吹きかけ、「聖霊(すなわち愛なる神)を受けよ」と命じたもう。我らはただ彼を吸入せよ。ただ信じて生きよ。己には冷淡なる感情あるとも、これに頓着せず、我は神を愛し、また人を愛すと信ぜよ。また神は他の兄弟をして同じく神と人とを愛させたもうことを信ぜよ。さらば我ら皆、聖霊に満たされるであろう。
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