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「笹尾鉄三郎説教集」

主の再臨

笹尾鉄三郎



主に愛されている者よ。余が今ここで述べようとしていることは、諸君各自の禍福に直接関係する一大問題であるから、祈りのうちに謙遜、厳粛、かつ熱心な誠意をもってこれを読み、主の告げたもうところを聴かれよ。

一、聖書を貫徹する一大要目

主イエスがまさにこの世を去りたまわんとするにあたり、弟子らに告げて言いたもう「われ汝らのために所を備えに行く。もし行きて汝らのために所を備えば、また来たりて汝らを我がもとに迎えん。わが居るところに汝らも居らんためなり」(ヨハネ一四・2、3)。主が死より甦って四十日後に天に昇りたもうた時、そこに集った者が仰ぎ見ると、「白き衣を着たる二人の人かたわらに立ちて言う、『ガリラヤの人々よ、何ゆえ天を仰ぎて立つか。汝らを離れて天に上げられたまいしこのイエスは、汝らが天に昇りゆくを見たるそのごとくまた来たりたまわん」(使徒一・11)。ペテロ曰く「汝ら心の腰に帯し、慎みてイエス・キリストの現れたもうときに、与えられんとする恵みを疑わずして望め」(ペテロ前一・13)。ヨハネ曰く「若子よ、主に居れ。これ主の現れたもう時に臆することなく、その来たりたもう時に恥づることなからんためなり」(ヨハネ第一書二・28)。モーセ(申命三三・2)、ダビデ(詩篇一二・16)、イザヤ(イザヤ五九・20、六十・1)、エレミヤ(エレミヤ二三・56)、ダニエル(ダニエル七・13)、ゼカリヤ(ゼカリヤ十四・4、5)、その他すべての預言者も使徒も、口をそろえて主の再臨を説いた。目を開いて聖書を読むと、旧約聖書においては主の初降臨(千八百余年前に成就せり)の預言よりも、むしろ再降臨(なお未来にあり)に関する預言の方が多く、新約聖書に至っては、各書に懇々反復、主の再臨を説かないものはない。聖書を読みながらこの一大事を悟らない者は、軽々しく神の言を読み過ごす人でないなら、茫漠なる自己の憶説をもってみだりに聖書を解釈する人である。諸君、諸君はこのような人になってはならない。諸君をしてこの一大事業を対岸の火災視させ、慰楽も痛痒も感じさせないようにする者は、これ実に悪魔であると知ってもらいたい。

二、主の再臨は死と異なる

ある信者が言うには、「我らは各々一度死ななければならない。その日、我らの霊魂はこの波風の荒い浮世を脱し、照り輝く主の御前に行って楽しむであろう。これすなわち各自の上に主が来たりたもうことであって、その後のことは我らの知るところではない」と。ああ、これあたかも神道の高天原、仏教の極楽説のようなものである。神の子たる我らは異邦人の教旨を受けてはならない。すべからく主の言を聞いて、これを受け入れるべきである。ルカ伝二三章34節から、信者がこの世を去る時、その霊魂は主と共にパラダイスに行くことは明らかである。信者の死はもちろん悲しむべきことではない。主にあって死ぬ死人は幸いである。「御霊も言いたもう『しかり、彼らはその労苦をやめて休まん。その業これに従うなり』」(黙示一四・13)。されどその報いを受けて楽しむのは甦りの時である。「正しき者の甦りの時に報いらるるなり」(ルカ一四・14)。これすなわち主イエスの来たりたもう時である。「大牧者の現れたもう時、萎まざる光栄の冠を受けん」(ペテロ前五・4)。「今よりのち義の冠わがために備われり。かの日に至りて正しき裁き主なる主、これを我に賜わん。ただに我のみならず、すべてその現れを慕う者にも賜うべし」(テモテ後四・8)。ゆえに各信者および教会が楽しんで待ち望むべきものは、死ではなく主の再臨である。我らはこの幕屋の中で重荷を負って嘆いているが、これを衣のように脱ぐことを願うのではなく、彼を衣のように着ることを願う。「これ死ぬべき者の命に呑まれんためなり」(コリント後五・4)。なお次を熟読し、主の来たりたもう時、死なずに天に昇る人がいることに注意されよ。

三、聖徒及び教会の望み

「愛する者よ、我らいま神の子たり。後いかん、いまだ現れず。主の現れたもう時われら之に似んことを知る。我らその真の様を見るべけれぱなり」(ヨハネ第一書三・2)。我らが常に最も愛する主の晩餐は何のためか。「汝らこのパンを食し、この杯を飲むごとに、主の死を示してその来たりたもう時にまで及ぶなり」(コリント前十一・26)。「この奥義は汝らの内にいますキリストにして栄光の望みなり」(コロサイ一・27)。ここで注意すべきは、甦り及び主の来たりたもうことは、死後各人各々の上に別々の日時や方法で霊魂的に無形に成就するものではなく、有形の一般的な出来事であることである。「それ主は、号令と御使いの長の声と神のラッパと共に、自ら天より降りたまわん。その時キリストにある死人まず甦り、後に生きて残れる我らは、彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎え、かくていつまでも主と共に居るべし」(テサロニケ前四・16、17)。「見よ、われ汝らに奥義を告げん。我らはことごとく眠るにはあらず。終わりのラッパ鳴らん時みなたちまちまたたくまに化せん。ラッパ鳴りて死人は朽ちぬ者に甦り、我らは化するなり」(コリント前十五・51、52)。その時、我らは声を合わせ、「死よ、汝の勝はいづこにかある。死よ、汝の刺はいづこにかある」と歌いつつ天に昇る。ああ、我らシナイ山より発する律法の光の下で既成の罪悪を思い起こすなら、身も心も砕かれるようであるが、カルバリ山上で十字架の麓にひれ伏すなら、感恩の涙とどまるところを知らない。まさに栄光をもって再び来たり、シオンの山に立とうとしておられる主を待ち望むその快楽は、言い難くかつ栄光である。ハレルヤ、主イエスよ来たりたまえ。アーメン。

四、この世の末期

ここでまたある多数の信者が言うには、「この世界はますます文明が発展し、キリスト教は全地に普及し、ついに万民みな悔い改めて神を信じキリストを信ずるに至り、これによりいわゆる黄金世界が現出する。これすなわち神の聖国である」と。ああ、これ彼らの空想であろうか。ああ、この種の人に限って、主の再臨の一事を決して深く念頭に留めないのである。聖霊は教えて言いたもう「末の世には嘲る者あざけりをもて来たり、おのが欲に従いて歩み、かつ言わん『主の来たりたもう約束はいずこにありや。先祖たちの眠りし後、よろずのもの開闢の初めと等しくして変わらざるなり』と」(ペテロ後三・3、4)。「悪しき人と人を欺く者とは、ますます悪に進み、人を惑わし、また人に惑わされん」(テモテ後三・13)。「ノアの時のごとく人の子の来たるもしかあるべし。かつて洪水の前ノア方舟に入る日までは、人々飲み食い、めとり嫁がせなどし、洪水の来たりてことごとく滅ぼすまでは知らざりき。人の子の来たるもしかあるべし」(マタイ二四・37〜39)。「汝らは主の日の盗人の夜きたるがごとくに来たることを、自ら詳細に知ればなり。人々の平和無事なりと言うほどに、滅びにわかに彼らの上に来たらん」(テサロニケ前五・2、3)。兄姉らよ、悪魔が写し出す蜃気楼を夢見て、欺かれることがあってはならない。この姦悪なる世は速やかに滅ぼされるべきものなのである。福音を伝え、悔い改めを命ずる理由は、あたかもこれ難破舟中の乗客に助け綱を投げるように、まさに来たらんとする大いなる禍患からどうにかして彼らを救うためである。主イエス再臨の時、すなわちこの世の末期の時、稲妻が東から西まで閃くように(マタイ二四・27)、忽然として主は来たり、不義者は不義のまま、聖者は聖者のまま、各人に報いたもうのである(黙示二二・11、12)。「そのとき大いなる艱難あらん。世の初めより今に至るまでかかる艱難はなく、また後にもなからん」(マタイ二四・21、黙示六・12〜17)。「そのとき二人の男畑におらんに、一人は取られ一人は残されん。されば目を覚ましおれ、汝らの主の来たるは、いずれの日なるかを知らざればなり。汝らこれを知れ。家主もし盗人いずれの時きたるかを知らぱ、目を覚まし居て、その家をうがたすまじ。このゆえに汝らも備えおれ。人の子は思わぬ時に来たればなり」(マタイ二四・40〜44)。兄姉らよ、我らは用意がすでに備わっているであろうか。おお、主よ、我らを探り、調べたまえ。君はどうか。君は今のままで恐れることなく主の御前に立ち得るであろうか。もし主の再臨が君にとって世界の一大事であることを知りたけれぱ、熱心に聖書を研究されよ。今、次に掲げるところは主の再臨について聖書研究の端緒を開くものであるから、祈りのうちに引照を熟読されよ。

主に愛されている者よ、ここで我らが翻って顧み、醒めて覚えるべきは、二十世紀の今日に生きている我らの地位である。ある人は言う。「主の来たりたもう日は誰も知らない。今日か、明日か、あるいは数百年後か、全く知ることはできない」と。これは神の言と己の言葉とを混同したものである。何日の何時に主が来たりたもうかは、我らの知るところではない(マタイ二四・36)。主はダニエルにより詳細にこの世の歴史を予言して、世の終わりのことに及んでいる。「悪しき者は一人も悟ることなかるべし。されど悟き者は悟るべし」(ダニエル一二・10)。

黙示録二章、三章に記されている教会歴史の予言はすでに着々と成就しており、今日の教会はまさに最後のラオデキヤ教会である。冷たくもなく、熱くもない者よ、汝の戸の外に立って叩く者は誰か。汝を呼ぶ者は主イエス・キリストではないか。テモテ後書三章の末世の日の予言は、これ今日の写真である。マタイ伝二四章で主が告げられた世の末のきざしである戦争、飢饉、疫病、地震、キリスト信者の迫害、多くの偽預言者の出現など、ことごとく我らはこれを目にし、耳にするところである。予言の年期とユダヤ人の運動とは、異邦人の時(ルカ二一・24)がまさに満ちようとしていることを示しており、主の再臨の日が切迫していることを告げている。主は言いたもうた「いちじくの樹よりのたとえを学べ。その枝すでに柔かくなりて葉芽ぐめば、夏の近きを知る。かくのごとく汝らもこれらのすべてのことを見ば、人の子すでに近づきて門口に到るを知れ」(マタイ二四・32、33)。かくて我らもし「主の来たる日なお遠し」と言わば、主言いたまわん「汝ら空の景色を見分くることを知りて、時の徴を見分くることあたわぬか」と(マタイ一六・3)。「斥候よ、夜は何の時ぞ。斥候よ、夜は何の時ぞ。ものみ答えて言う、朝きたり、夜また来たる」(イザヤ二一・11、12)。やがて曙の明星(黙二二・16)一たび現れるなら、聖い神の民には喜びの朝となるが、神を敬わない悪者には苦悩の夜となるであろう。「汝ら時を知るゆえに、いよいよしかなすべし。今は眠りより覚むべき時なり。夜ふけて日近づきぬ」(ロマ一三・11、12)。

兄姉らよ、今わが良心は聖霊に感じて、主の民を思うこと切である。願わくは主、諸君の心を開き、この一大事が眼前に迫っていることを信じさせ、その備えをさせたまわんことを。「すべて主によるこの望みを懐く者は、その清きがごとく己を潔くす」(ヨハネ第一書三・3)。「幸いなるかな、心の清き者。その人は神を見ん」(マタイ五・8)。「されどもし潔からずぱ、主を見ることあたわず」(へブル一二・14)。兄姉らよ、諸君は全く潔いであろうか。もし一点でも汚れがあるなら、いま世と肉とに付くものを全く捨てて、すべての罪より潔めるキリストの血(ヨハネ第一書一・7)を信じて、主の聖潔を受けられよ。諸君は絶えず目を覚まして祈っているか。今もし主が来たりたまわぱ、不意を打たれ、夜盗人に会うような感はないであろうか(テサロニケ前五・2、4)。マタイ伝二五章1〜13節を見て、自己を戒めよ。その器に聖霊なる油を持っているか。神を愛し隣人を愛する熱火は汝の燈火を燃やし、輝かせているか。「主人が時に及びて食物を与えさするために、家の者の上に立てたる忠実にして智き僕は誰なるか。主人の来たる時、かくなしおるを見らるる僕は幸なり」(マタイ二四・45、46)。「われ新しき戒めを汝らに与う。汝ら相愛すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし」(ヨハネ一三・34、35)。「願わくは主、汝らの相互の愛およびすべての人に対する愛を増し、かつ豊かにして、我らが汝らを愛するごとくならしめ、かくして汝らの心を堅うし、我らの主イエスの、すべての聖徒と共に来たりたもう時、われらの父なる神の前に潔くして責むべき所なからしめたまわんことを」(テサロニケ前三・12、13)。

主は命じて言いたもう「全世界を巡りてすべての造られしものに福音を宜べ伝えよ」と(マルコ一六・15)。ああ、飼う者のない羊のように悩み、また散らされているこの哀れな衆人をどうするべきか。彼らのために泣きたもう主を見上げるなら、我らはどうして黙していることができようか。おお、主よ、我ここにあり、我を遣わしたまえ。兄姉らよ、時はすでに切迫している。主は言いたもう「道や間垣のほとりに行き、人々を強いて連れきたり、我が家に満たしめよ」(ルカ一四・23)。「御国のこの福音は、もろもろの国人に証しをなさんため全世界に宣べ伝えられん。しかしてのち終わりは至るべし」(マタイ二四・14)。一人の霊魂が福音を耳にするたびに、主の来たりたもう日が近づくと知れ。その人が救われるならなおさらである。兄弟よ、主に従え。彼と共に悲しみの人となり、ゲッセマネの園にも行け。カルバリの山にも上れ。常に主にとどまれ(ヨハネ六・56、同一五・5)。励み起って信仰の道を守り、善い戦いを戦い、走るべき途程を尽くせ。主は言いたもう「見よ、我は世の終わりまで常に汝らと共にあるなり」(マタイ二八・20)。兄弟よ、たとえ人は君を技能ある成功した伝道者と賞揚しなくても、君が主の御前に立つ時、彼は君を見て喜んで言いたもうであろう「よいかな、善かつ忠なる僕。汝は僅かなる物に忠なりき。われ汝に多くのものをつかさどらせん。汝の主人の喜びに入れ」と(マタイ二五・21)。その時、君がかつて人知れず主に導いた霊魂は君の冠の玉となり、世々に照り輝くであろう。「汝らも耐え忍べ。汝らの心を堅うせよ。主の来たりたもうこと近づきたればなり」(ヤコプ五・8)。「いま暫くせば来たるべき者きたらん、遅からじ。我につける義人は、信仰によりて生くべし。もし退かば、わが心これを喜ばじ」(へプル十・37、38)。「これはキリストと共に栄光を受けんために、その苦しみをも共に受くるによる。われ思うに、今の時の苦しみは、われらの上に現れんとする栄光にくらぶるに足らず」(ロマ八・17、18)。「願わくは平安の神、みずから汝らを全く潔くし、汝らの霊と心と体とを全く守りて、我らの主イエス・キリストの来たりたもうとき責むべき所なからしめたまわんことを。汝らを召したもう者は真なれば、之を成したもうべし」(テサロニケ前五・23、24)。「これらのことを証しする者いいたもう『しかり、われ速やかに至らん』。アーメン、主イエスよ。来たりたまえ」(黙示二二・20)。