「明けの明星が昇るまで」(二ペテロ一・十九)
ペテロの第二の手紙は特に再臨の手紙です。彼は特にこの終わりの時代の不信仰や懐疑主義について指摘します。この終わりの時代、人々は進化論の間違った教理に満たされて互いに言うでしょう、「彼の再臨の約束はどうなったのか?(中略)万物は初めのままである」と。彼らは「万物は前にあったものから成長して行き、時代が永遠に次から次へと移り変わって行く限り、進化は続く」と信じています。ですからペテロは手紙を読む人に、無頓着であること、目を覚ましていないこと、この世的であることの危険性について警告します。この手紙の姿勢は「神の日の到来を待ち望み、また早める」というこの句に要約されます。
1.主の再臨の予表としての主の変容
ペテロはこの節で三つの新しい刺激的な思想を私たちに与えます。第一の思想は、主の変容は特に主の再臨の予表であったということです。主の生涯は目立たない生涯でした。悲しみの人である主はこの世を行き巡りましたが、初めに持っていた栄光の輝きをあまり放たれませんでした。そのため弟子たちは、主が何者なのか、また主はやがていかなる者になるのか、忘れるおそれがありました。ですから、しばしばこの覆いは取り除かれ、御父は彼の来たるべき王国の輝きと壮大さを示されました。他の場合よりも特に顕著だったのは、主が最も身近な三人の弟子を呼んでヘルモンの頂にゆっくりと登って行かれた時でした。彼らはガリラヤの務めの光景を遠く離れ、ついに頂の休憩場所に到着しました。すると栄光が下って来て、雲が彼らを覆い、御父の声がしました。モーセがネボ山の寂しい墓場から戻って来て、エリヤが戦車に乗って栄光から下って来ました。そこに現れた光景はまさに再臨の予行演習でした。やがてさらに大きな規模で、またさらに長い期間にわたって、主は再臨されます。
(a)主の再臨の栄光
この出来事は試練に近づきつつある彼らを励ますためであり、主が十字架上で血を流して死なれるのを弟子たちが見る時、主は栄光の王であることを彼らが忘れないようにするためでした。御父はこの光景を示し、愛する御子の実際の威厳、威光、将来の王国を弟子たちに見せました。この光景の中に、キリストの再臨の栄光を特に反映する数々の点が見られます。
主の衣は光のように白くなり、主の御顔は太陽のように輝きました。しばらくの間、弟子たちは愛する主を見つめることができませんでした。そのように、主はやがて栄光の中で戻って来られます。
主は輝かしい姿で来臨されます、
虹と嵐を身にまとって。
再臨するのは悲しみの人ですが、栄光に包まれています。弟子たちがその夜見た主の神性の輝きを描写することはできません。主の神性の輝きをヨハネは少しの間パトモスで目撃しました。パウロはそれをダマスコへの途上、一瞬目にしました。来たるべき栄光の日、私たちはそれを見るでしょう。そしてその時、その光景は私たちを永遠に主に似た者とするでしょう。
(b)死人のよみがえり
次にこの変容の光景において、モーセはよみがえった死人を表しています。神はモーセを大昔に葬られましたが、モーセはここに登場します。彼は死ぬべき人間の装束をまとっていませんでしたし、衰え、弱さ、おぞましい腐敗はなく、栄光をまとっていました。その栄光は、彼がシナイ山から降りて来たとき彼の顔に輝いていた栄光よりも明るく輝いていました。モーセがシナイ山から降りて来た時、人々はモーセの顔に覆いをかけなければなりませんでした。モーセはイエスが再臨される時に復活する死者を表しています。すべての聖徒は同じ栄光の中によみがえります。弱さの中に蒔かれ、力の中によみがえります。朽ちるもので蒔かれ、栄光の中によみがえります。天然の体で蒔かれ、霊の体によみがえります。そして、よみがえった人々の容貌はすばらしい美しさを帯びているでしょう。彼らの姿が稲妻のように空間に閃くでしょう。そして、「義人は御父の王国で太陽のように輝きます」。私たちは人々を墓に葬り、死の鋳型と腐敗の証印の下に置きました。私たちは最後の愛情のまなざしを送りましたが、二度と見たくはありませんでした。そして言いました、「死者を見えないように埋葬して下さい」。しかし、いつの日か、これは一変します!私たちは彼らを認め、彼らの美しさが私たちの顔を照らすでしょう。
(c)生者の携挙
私たちはよみがえった死者を見るだけでなく、携挙された生者をも見ます。なぜなら、エリヤがそこにいたからです。彼は死ぬことなく、火の戦車で引き上げられました。そして、墓を通ることなく栄光の中に入りました。ですから、エリヤはイエスが再臨されるとき地上にいる群衆を表しています。彼らはイエスにあって眠ることなく、最後のラッパが鳴り響く時、「たちまち一瞬のうちに」変えられ、携挙によって引き上げられ、空中で主と会い、愛する者たちと再会します。そして、私たちは永遠に主と共に過ごすでしょう。これが実現する時、その光景は何と壮大なことでしょう!
(d)小さな群れ
変容の山には小さな群れ――ペテロ、ヤコブ、ヨハネ――がいて、主を見つめていました。彼らは主の再臨を待ち望むイエス・キリストの花嫁を表しています。モーセとエリヤはその予型、先駆者にすぎません。この二人は先駆者としてすでにその中に入りました。私たちもいつか彼らの栄光にあずかります。
意義深いことに、すべての弟子がそこにいたわけではありませんでした。他の弟子たちは山の麓にとどまっていました。彼らは変容の山の栄光について聞きましたが、それを目撃しませんでした。しかし、三人の弟子だけが主の変容の場面に立ち会いました。この三人は主と共にゲッセマネの園に行くことになっていました。また、彼らは喜んで主のバプテスマでバプテスマされ、主の杯を飲み、少しだけ深く苦難を通って主の苦しむ御心に少しだけより近づこうとしていました――この三人が主の変容の場面に立ち会いました。この厳粛なメッセージに耳を傾けようではありませんか。もしかすると今、主は信者の群衆の中から人を選び出して、ご自分の小さな群れを整えておられるのかもしれません。この小さな群れは教会の大多数よりも先に、主の再臨という明けの明星の最初の輝きを目にするでしょう。
(e)力と勝利
別の点にも注意して下さい――それはこれが彼らの生活に与えた力です。翌朝、彼らが山から下りて来た時、彼らは麓で悪鬼に憑かれた子供と悲しむ父親を見ました。弟子たちは悪魔の力の前に無力でした。しかし、山上にいた人々は神の力に満ち、奇跡が続きました。子供は癒され、父親の心は喜びに満たされました。彼らは勝利の内に栄光から世へと下って行きました。これもまた私たちに力を与えて、人生の揉め事や争いに立ち向かわせます。これがペテロが示している幸いな思想です。「私たちは主と共に聖なる山にいた時、主イエスの御力と来臨を見たのです」。
2.さらに堅くされた預言の言葉
(a)旧約聖書の中の預言の言葉
この節が示す二番目の思想は、「また、私たちはさらに堅くされた預言の言葉を持っています」(二ペテロ一・十九)です。これは神の御言葉のことです。この神の御言葉は主の来臨の約束で満ちています。まさに、聖書の土台、また贖いの展望は、イエス・キリストの来臨です。これは後付けの思想ではありません。これは人の堕落とキリストの十字架が暗に示しているものでもありません。神は常にイエス・キリストの王国というこの御計画に基づいてこの世界を形成しようとしてこられました。すべてはこの目的のために形造られてきました。第一の創造は第二の創造の予型となるよう意図されていました。低い地位にある被造物に対する人の主権についてヘブル書と詩篇に明確に述べられていますが、これは私たちがイエス・キリストと共にこの地球と物質的宇宙を治める時に持つことになる、いっそう大きな主権の予型です。アダムの創造と彼の脇からエバが誕生したことは、イエスの御心から取り出された彼の花嫁の予表です。創世記一章は黙示録二十一章に対応します。このように神は常に彼の初臨を彼の再臨と結びつけてこられました。彼方のエデンに神はケルビムを置かれましたが、このケルビムは贖われた人の象徴であり、贖われた人は獅子と雄牛の力、鷲の素早さ、人の姿の美しさを持ちます。ケルビムは主の契約の署名であり、イエス・キリストの来臨の時に神が設立される彼の栄光の王国の象徴でした。
次に、この預言の言葉を聖書全巻にわたって探すと、至る所に見つかります。例えば、アダムから七代目のエノクを見てみましょう。彼は典型的な人であり、完全な人です。エノクは神が人類に望んでおられる在り方の象徴です。エノクが生きていた時、彼は「見よ、主は来られる」というこの一つの偉大な真理を証ししました。エノクがこの真理を宣べ伝えてそれを完遂した後、彼はエリヤより先に死ぬことなく引き上げられ、聖なる栄化された人の完全な模範として移されました。
ノアは洪水を経ました。この洪水は来るべき火の洪水の象徴でした。「古い地は水によって滅ぼされましたが、次に地は火によって滅ぼされます」とペテロは私たちに告げます。エノクは洪水の前に天に上りましたが、これは小羊の花嫁の予型です。主が来臨される時、小羊の花嫁は引き上げられて主と会い、この艱難を逃れるでしょう。洪水を経て新しい世界に到達したノアは、来るべき艱難におけるイスラエルの予型でした。イスラエルはこの洪水を通ります。
アブラハムは彼方にあるものを目指して常に進み続けました。彼は約束されたものを受けませんでしたが、それを確信し、それを目指して走り、それを捕らえました。そして、自分は地上ではよそ者であり巡礼者であることを告白しました。彼は土台のある都を待ち望んでいたのです。アブラハムは嗣業を授けてくれる主の来臨を待ち望んでいました。
ヤコブは死ぬ間際にシロの到来を預言しました。ヨセフの最後の言葉は、自分の骨を携えてカナンに運ぶようにというものでした。それは、イエスが来られる時、彼が自分の民と一緒になるためでした。彼が死ぬ時に抱いた希望は、復活と主の来臨だったのです。
モーセの律法の時代、ヨベルの年は千年期の予型であり、仮庵の祭は神の収穫の予型でした。ダビデの王国はイエスの王国の絵図でした。ダビデの統治中の出来事はみな、イエスが来臨されるとき完全に成就されます。ダビデの前に偽物の王サウルが先立ちました。それと同じように今日、主の来臨を信じないまがい物の本物でない教会がイエス・キリストに先立っています。ダビデが王国を受けた時、彼は最初ヘブロンで小さな群れの統治者にすぎませんでした。七年後、彼はイスラエルの王になりました。イエスはまず彼を待ち望む人々と一緒になり、その後、来て、国々を統治されます。勝利の王ダビデの後を継いだのは平和の王ソロモンでした。そのように、勝利を勝ち取って敵を滅ぼしたイエスは平和の王国をもたらされます。ソロモンは来るべき栄光の予型です。戦いの太鼓が鳴ることはもはやなく、戦いの旗はたたまれ、緊張と争いはやみ、世界は平和に包まれます。
それから少し歴史を下ると、預言者の時代に来ます。この預言者の時代は来るべき王国の燃えるような幻を預言したイザヤから始まり、ヨエルに至ります。ヨエルは主の大いなる恐るべき日について、決断の谷にいる群衆について、イエス・キリストと共に天の軍勢がヨシャパテの谷に降りて来ることについて、最後の大きな戦いについて、そしてユダの谷を流れ下る祝福の流れについて告げます。アモス、ホセア、他のすべての小預言者たちは、何度も何度も立ち上がってこの高尚な主題を繰り返します。これがエゼキエルの後期の幻における特別な負担でした。彼は神の御子と反キリストの軍勢との間の最後の戦いに関する絵図を詳細に私たちに示します。これがダニエルの幻の一つの主題であり、何度も何度も彼はそれを預言ではなくすでに起きた出来事であるかのように書き記します。最後にゼカリヤとマラキがいます。後者は特に、旧約時代終結の日没を要約して日の出を示します。「私の名を畏れるあなたたちには義の太陽が昇り、その翼には癒しがある。あなたたちは進んで行って、牛舎の子牛のように成長する」。旧約聖書はキリスト来臨の希望に満ち、その全ページにこの勝利の音色が鳴り響いています。
(b)新約聖書の中の預言の言葉
新約聖書に来ると、いっそう豊かで明らかになります。イエスの全生涯は彼の再臨の型であり、それと平行します。人々が遙か東方からやって来て贈り物を贈ったように、主が再臨される時、人々がやって来るでしょう。星が道中導いたように、明けの明星が主の来臨を告げるでしょう。主の誕生にヘロデとエルサレムが震撼したように、王が来臨される時、国々は揺れ動くでしょう。
主の地上生涯は彼の再臨に関する多くの絵を示しています。例えば、主が祈るために山に登って行き、弟子たちをガリラヤの海に残された夜のことを考えてみましょう。これは今の暗闇の時代に地上にある教会の絵であり、この間、主は山の上で神に祈っておられます。朝の夜回りの四時に主が来られると、海は大なぎになりました。そのようにこの暗闇の時代の終わりに主は来臨され、地の暴風雨と荒れる大波はやみます。また、務めの最後に主がエルサレムに入城したのを見なさい。主はまずベタニヤに、郊外にいた小さな群れのもとに行かれました。そして人々は個人的に主と会いました。最初がマルタ、次がマリヤでした。主が再臨される時、主は空中で友人たちと会われるでしょう。ラザロが死者の中からよみがえらされたように、死者はよみがえらされ、私たちは彼らに会うでしょう。ベタニヤの宴席は小羊の婚宴の絵です。次の絵はエルサレムへの勝利の登坂です。その行列はオリーブ山の斜面を下って行き、主は宮の中に座られました。子供たちはダビデの子なる主を告げ知らせ、群衆はヤシの枝を主の足下に敷き、イスラエルの王なる主をあがめました。そのように主はイスラエルの王として認められるでしょう。しかしその前に、主は聖徒たちの「王」として、死者の「復活」として、彼の愛する花嫁の花婿として来臨されます。
主はエルサレムの破壊と、異邦人の時が満ちるまでイスラエルが散らされることについて語られました。また主は、主の来臨のしるしについて、一人は取られ一人は残されることについて、用意の出来ている者が分かたれることについて、大いなる世を後に残すことについて、選民が地の四隅から集められて主と会うことについて語られました。その後、暗黒の恐ろしい艱難が世界の上に降りかかり、それに続いて人の子が大いなる栄光を帯びて現れます。人の子の現れは彼の民のためではありません。なぜなら、彼の民は彼と共にいるからです。人の子の現れはこの邪悪な世を裁くためです。この預言の中に出てくる代名詞に注意するといいでしょう。「それゆえ、あなたたちは目を覚まして、いつも祈っていなさい。それはあなたたちが起ころうとしているこれら全てのことから逃れて人の子の前に立つのにふさわしい者となるためです」。「地のすべての部族は嘆き悲しむ。そして彼らは(あなたたちではなく)人の子が力と大いなる栄光を帯びて天の雲に包まれて来るのを見ます」。
このように、キリストは教えやたとえにより、「さらに堅くされた預言の言葉」を私たちに与えて下さいました。処女のたとえが私たちに教えているのは、聖霊でバプテスマされて用意を整えるべきことです。タラントのたとえは、主の来臨まで仕事に励むべきことを教えます。大いなる宴席のたとえは、福音の行く末について教えます。福音は多くの人から拒絶され、貧民街に下り、異教徒のところに出て行って、まさに無価値な人々を集めます。それから主が来臨されます。救いの物語はやみ、次の時代を迎えます。
書簡や黙示録に記されている預言の言葉について、その概要をどれほど短くまとめたとしても、それですら長すぎてここにはおさまりません。しかし、それらは主の来臨の約束で満ちていると言えば十分でしょう。使徒行伝は何度も何度も主の来臨について述べており、ローマ人への手紙の九章から十一章はこれにあてられています。コリント人への手紙の最も長い章は復活の光景について見せています。テサロニケ人への手紙はすべて主の再臨についてです。ペテロはこの御言葉からわかるように主の来臨について書き記しています。ユダとヤコブ、それに第一ヨハネも、主が現れて私たちが主に似た者となる時の幻で満ちています。
黙示録はキリストご自身の預言です。なぜなら、主は天に昇ってから六十年後にパトモスに下りて来られ、ご自身の口で語ってヨハネに黙示録をお与えになったからです。何度も出てくる知らせは、「見よ、私はすぐに来る」です。そうです、愛する者よ、私たちは「さらに堅くされた預言の言葉」を持っています。この預言の言葉に私たちは「暗いところを照らす光として、よく注意を払います」。
3.明けの明星の啓示
この節が示す三番目の思想は、あなたや私の心に個人的に明けの明星が啓示されることです。二つのこと、夜明けと星について述べられています。夜明けは千年期が世界の上に力強く臨むこと、主の栄光の来臨を意味します。しかし、明けの明星はそれとは全く異なります。明けの明星は夜明け前に現れます。明けの明星が輝くのは、空は暗く、地に太陽が昇っていない時です。それは昼の先駆者です。これが意味するのは、この世が主の来臨を認識するまであなたは待っていてはならないということです。イエスラエルが義の太陽が昇るのを見るまで待っていてはなりません。あなたは明けの明星をいち早く目にしなければなりません。この世が明けの明星について何か知る前に、あなたは自分の心を明けの明星に照らしてもらわなければなりません。あなたは花婿のささやく声、主は近いという個人的な知らせを聞かなければなりません。そして、主が現れようとしているしるしが地や空に何もなかったとしても、あなたは主の来臨の光の中を生きなければなりません。マラキ書を見ると、麗しいことに、主はイスラエルに対して日の出のように現れます。しかし、新約の教会に対して、主は明けの明星のように現れます。
預言の真理の絶妙さ――まるで偶然の一致であるかのようです――ほど美しいものはありません。旧約聖書を締めくくる章には「義の太陽」が出てきますが、新約聖書を締めくくる章には、「私は輝く明けの明星です」「見よ、私はすぐに来ます」とあります。主はまるで私たちにこう言っておられるかのようです、「愛する新約のクリスチャンよ、あなたは地上の民イスラエルより少しだけ私に近いのです。私はイスラエルを訪れる前に、あなたのもとに来ます。私は艱難が始まる前に来てあなたを携え挙げますが、イスラエルには艱難を通らせてその後彼らを救います。私は夜が明ける最初の瞬間にあなたのもとに行きます。私はあなたに目を覚まして待っていてほしいのです。私の願いは、たとえ明けの明星がまだ空に見えなくても、あなたが自分の心の中に明けの明星を持つことです」。
明けの明星とは何でしょう?イエスご自身です。ではイエスはどこにおられるのでしょう?聞いて下さい、「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」。明けの明星はどこにあるのでしょう?あなたの心の中です。この観念は単純で次の通りです――あなたの心の中に住んでおられるイエス・キリストは、聖別する方、日々の苦闘であなたを助けて下さる方であるだけではありません。また、友人また慰め主であるだけではありません。あなたの心の中におられるイエスは、彼がすぐに来ることを常にささやく方であり、この栄光の望みの証人であって、彼の花嫁とするためにあなたを整えておられるのです。そして、その時が間近に迫っていることを、主は適切な時にそれとなく私たちに教えて下さいます。あなたたちの内におられるキリストは栄光の望みです。あなたたちの内におられるイエスは、彼が来たりつつあることであなたたちを喜ばせて下さいます。また、あなたたちに義の衣を着させ、準備が整ったことをあなたたちに知らせて下さいます。そして、主の再臨をあなたの人生の中で最も甘美なもの、最も慰めに満ちた動機として下さいます。ああ、あなたは主をこのように知っておられるでしょうか?
一月にカリフォルニアにいた時、特別集会の間でしたが、私はホテルの机のところで何度かある老紳士と席を共にしました。私たちはよく旅の話をしました。彼は娘たちと一緒に少し道草をして、マッターホルンの壮大な景色を見に行った時のことを私に詳しく話してくれました。ホテルにいた旅人たちは何週間も待っていたのですが、まだその山景色を見ていませんでした。空に霧が立ちこめているせいで、その美しい光景が見えないのを、旅人たちは残念がっていました。老紳士が一日費やしてマッターホルンを見に行く話をした時、人々は彼を笑いました。しかし、老紳士は案内人を見つけ、夜中に登る手はずを整えました。それは日が昇るまでに雲と霧を越えるためでした。彼らはゆっくりと登り続け、ついに朝の三時頃、星がちらほら見え始めました。彼らが休憩して少し待っていると、突然、娘の一人が空の奇妙な景色に父親の注意を引きました。まるで大きなたいまつが天からぶら下がっているようでした。案内人の話によると、そこは山頂で日の出の光を浴びたところだったのです。その光景は麓ではまだまだ見られない光景でした。彼らはゆっくりと山を下り、体を休め、昼食時にホテルで友人たちに会って、マッターホルンの美しさを詳しく話して聞かせました。旅人たちは、老紳士の一行がマッターホルンを見るために雲の上に登り、その壮大な光景を見た話を聞かされた時、驚くと共にがっかりしたのです。
老紳士がこの美しい話を私にしてくれている間、まもなく私たちの世界を明るく照らすことになる別の日の出に関する思いが私に臨み続けました。人々の多くはこの日が昇り終わるまで、それを見ることはないでしょう。しかし、私たちは自分たちの心の中にある明けの明星によって、日が昇る前からそれを見ることができます。そして、義の太陽が癒しの翼と共に昇る時、私たちはその場に居合わせることができます。どうか主がこの真理を私たちにとって実際のものとして下さいますように。それはこの真理が私たちの心と生活の中で第一のものとなり、私たちを鼓舞していっそう優れた聖潔、キリストと人のためのいっそう優れた働きへと到らせるためです。
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