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「新創造のこだま」

Echoes of the New Creation

第9章 天よりも高く

Chapter9 Higher than the Heavens

A. B. シンプソン
A. B. Simpson



「天が地よりも高いように、主を畏れる者に対する主のあわれみは大きい。東が西から遠いように、主は私たちの咎を私たちから遠ざけられる。父がその子たちをあわれむように、主はご自分を畏れる者をあわれまれる」(詩篇百三・十一〜十三)。

卓越した愛がこの節の基調です。第一に、詩篇記者は神のあわれみを最高天に達する垂直の線で測ります。それから彼は、「天が地よりも高いように、主を畏れる者に対する主のあわれみは大きい」と私たちに告げます。次に彼は寸法線を横に伸ばします。その線は東の彼方、西の果てにまで達します。そして彼は、もはや二度と交わることのない途方もなく長大な距離の中で交点が消え去るのを見ます。彼は叫びます、「東が西から遠いように、主は私たちの咎を私たちから遠ざけられる」。それから彼は下げ振りを深遠なる深み――父の心、人の最高の愛――の中に垂らして、最高潮に達します。「父がその子たちをあわれむように、主はご自分を畏れる者をあわれまれる」。これが神の卓越した愛の寸法です。天の頂より高く、無限の空間より広く、人の愛の極みより深いのです。少しのあいだ彼に耳を傾けて、この霊的探検の航海をすることにしましょう。

神の愛の高さ

第一に、神の愛の高さを考えることにしましょう。かつて私たちが目にする世界は、子供部屋の四角い壁、遊び場の垣根、小さな農園を囲む森で制限されていました。しかし、仕切りの向こうの広い世界に最初の一歩を踏み出して、自分の視野がいかに狭かったかを悟った日のことを私たちは覚えています。次に、世界がさらに広がる時が来ました。その時、私たちは祖国の国境線を越えてさらに広大な世界、強力な国々、あふれんばかりの人々、地球上の多くの部族や言語を垣間見ました。私たちの視野は広がり続け、私たちは「世界を股にかけて生き」始めました。しかし、この詩篇記者はさらに高遠な世界に私たちを導きます。彼は私たちの目に望遠鏡を覗かせて、広大無辺な空間にひしめく無数の世界を調査するよう私たちに命じます。そして彼は、神の普遍的統治の下にあるこれらの壮大な領域と照らし合わせて、御父の愛と御父の威光とを学んで理解するよう私たちに命じます。

ダビデが夜の天蓋の下でシリアの空の美しい光景を眺めた時、彼の心は引き上げられて、神のあわれみという壮大な観念に思いを馳せました。彼は叫びました、「私は、あなたの指のわざなる天と、あなたが設けられた月と星とを思います。人は何者なので、あなたはこれを御心にとめられるのですか。人の子は何者なので、あなたはこれを顧みられるのですか?」。しかし、現代科学に照らして見る時、この言葉は何と意義を増すことでしょう!望遠鏡を使うと肉眼で見える数千倍の星を見ることができます。また、高等数学により天文学的な星の距離と重さを測れるようになったのです。

これらの巨大な天体の大きさを比較すると、私たちの地球はみかん、月はビー玉、太陽は普通の家に相当します。しかし天文学によると、彼方にはシリウス、宵の明星、カペラ、アルクトゥルスのような他の太陽があります。アルクトゥルスについて大昔ヨブは歌に詠みました。この美しい琥珀色の星は夏の夜空にひときわ明るく輝く星です――これらの星々の重さは私たちの太陽の数百倍もあります。私たちの太陽があるところにアルクトゥルスを置くなら、それは太陽から地球までの距離の三分の二に達します。太陽を家で表すと、アルクトゥルスはちょうど市に相当します。なぜなら、アルクトゥルスを一つ造るには、私たちの太陽が五〇〇〇、〇〇〇個必要だからです。このように、地球の上に広がる天は高遠なのです。

次に星の数を考える時、この展望はさらに素晴らしいものとなり、この対比はさらに強烈になります。私たちの太陽系は九つの惑星、多くの小惑星、数個の月から成り立っています。しかし、これらの天体の彼方には無数の恒星があり、雲のない夜ならいつでも、私たちはそれらの恒星が文字通り空にひしめいているのを見ることができます。これらの恒星のうち、北半球と南半球の全天で目に見えるのは約六、〇〇〇個です。しかし望遠鏡を使うとこの一万七千倍の恒星を見ることができ、これらの燃え輝く一億以上の天体が巨大な空間を占めています。おそらく、望遠鏡の届かないさらに遠方の領域には、さらに無数の天体があるでしょう。肉眼ではかすかな雲のようにしか見えない星団がありますが、望遠鏡で見ると燃え輝く太陽の集団が見えてきます。ハーシェルによると、眼ではかすかにしか見えないヘラクレス星団の中には、おそらく少なくとも一四、〇〇〇個の個別の太陽があります。もしそれらの太陽の一つ一つが太陽系の中心だとすると、この宇宙には多数の世界があって、さらにその一つ一つの世界の中にも多数の世界があることになります!

さらに先に進んで星々の膨大な距離を考える時、私たちの心は圧倒されてしまいます。私たち自身のちっぽけさと比較するなら、ますます圧倒されます。地球から太陽に行くには、時速六十マイルで二百年かかります。しかし、これは最も近い恒星の場合にすぎません。地球から太陽までの距離を十フィートとすると、地球から月までの距離は半インチ以下です。最も近い恒星まではニューヨークからバッファローまでの五百マイルに相当し、たどり着くのに五千万年かかります。次に近い恒星はシカゴ、三番目はサンフランシスコです。その他の恒星はこの遙か彼方にあり、その距離を見積もることは最高に精密な数学的測量をもってしても不可能です。

次に、さらに時間の要素をこれに加えることができるでしょう。天が示す証拠からわかるように、これまで代々の時代にわたってこれらの天体が形成され形づくられてきました。そして、これらの天体は造物主の御手と御思いによって空間を周期的に運行してきました。私たちはこれを見るとき初めて、「永存する神また永遠の父」という言葉の意味を適切に理解することができるようになりはじめます。

天が地よりもこれほど高いように、私たちの神の威光とあわれみは私たちの思いよりも遙かに高いのです――私たちの小ささ、無価値さ、罪よりも高く、私たちの信仰、希望、最高の観念よりも高いのです。言葉では表現できないほど、また心では感得できないほど高いのです。

これらのことから多くの思想や結論が導かれます。第一に、巨大な天球と比べて神の愛の謙遜さがわかります。「人は何者なので、あなたはこれを御心にとめられるのですか」。

しかし次に、物質的事柄との比較で心に思い浮かぶのは、人間生活と不滅の魂とが持つ価値です。この世界は生きている世界です。彼方の天体のどれかに生物が住んでいるかどうかはわかりません。私たちの最も身近な隣人である月を見ると、月は荒廃して岩が剥き出しになっており、クレーターは口を開け、火山性の岩石が大量に積み重なっています。そこに生命が存在する可能性はなさそうです。巨大な木星を見ると、木星は私たちの惑星の千倍の大きさで、人のような生き物は生存できそうにありません。なぜなら、木星の密度は水以上であり、重力は地球上の二倍半と途方もない大きさだからです。このような重力下でまっすぐ立とうとしたり、地面の上に横たわろうとするなら、どんな人でも骨が砕けてしまいます。太陽系のもっと遠い惑星に私たちのような生き物が住んでいる可能性はさらに低そうです。火星は他のどの天体よりも地球に近いですが、高度な有機的生命体が住めそうな天体を私たちは他に知りません。ですから、私たちの小さな地球に価値があるのです。地球には主が造られた人々がいます。もしかすると、主はこれらの人々が他の惑星や太陽系の開祖となるよう計画されたのではないでしょうか?もしかすると、この地球は小さな子供部屋であり、そこで神は人類を育て養い、他の天体に住まわせようとしておられるのではないでしょうか?教育を受けて完成された人々はこの宇宙を植民地化し、この広大な領域をアダムの子たちではなく神の子たちで覆うことになるのではないでしょうか?神の形に形造られた種族、造物主と被造物とを結び合わせる栄光の種族が、永遠に人と神とを結ぶのではないでしょうか?

次に、彼方の天を仰ぎ見る時、私たちの神の知恵と力がある程度うかがえます。そして私たちはこの探査結果から、私たちのために大いなる贖いを計画しえた主の御心と、罪とサタンと墓を征服しえた主の御力と、主の子供たちと主の御業の代理人全員の必要をすべて満たすに足る主の資源とをよりよく理解します。

また、天を調べることにより、贖われた者たちの将来の家のために神がすでに備えて下さっている材料の壮大さについて、ある程度うかがい知ることができます。神の霊感を受けて書き記された書の中に一つの都が出てきます。その都の通りは金、門は真珠です。望遠鏡で彼方の色づいた星々の美しい集団を見ると、この上なく素晴らしい青色、極めて見事なエメラルド色、最高の輝きを放つ金色を見ます。これらの色は筆で描くことも、彫刻家が磨き出すこともできません。おそらく、これらの宝石が王の宮殿を飾るでしょう。また、これから私たちは御父の家に関する適切な見解を形成することができます。御父の家には「多くの部屋」があり、今この家を御父は愛をもって用意しておられるのです。

次に、私たちがこの宇宙の巨大な周期を一瞥する時、また過ぎ去った代々の時代――それらの時代を通って天は発展してきたのです――を振り返り、すでに過ぎ去った数十億年という時間から来たるべき諸々の時代を推定する時、私たちは全能者の齢と贖われた者の将来の生活についてある程度見当をつけることができ、また永遠の意味をある程度うかがい知ることができます。神の御前にはこのように代々の時代があり、それらの時代を通して神はご自分の愛と恵みの御旨を成就されます。これを知って私たちは喜びます。神に時間を与えるなら、悪はすべて正され、涙はすべて拭われます。「それは、キリスト・イエスを通して私たちに賜った慈愛の中で、彼の恵みの卓越した富を来たるべき代々に示すためでした」。

さらに、敬虔な天文学者たちがこれまで指摘してきたように、偉大な贖いの奥義を示す象徴が天にないわけではありません。南極点を巡る南十字星は部分的に深紅の星々から成っています。望遠鏡で見ると、時々、天の面に血のように赤い点々が見えることがありますが、これは天体観察者の目に救い主の十字架の物語を告げているかのように映ります。私は来たるべき栄光の日について考えるのが好きです。その日、自然界は贖われた人々と一緒に、創造主であり贖い主である方の栄光を祝うでしょう。その日、一連の過程を経て――これは科学がもたらした驚異からすでに予期されていることですが――距離の問題は解消され、空間は圧縮されるでしょう。そのため、肉眼が望遠鏡の役割を果たすようになり、遙か彼方の天体さえも近くなり、果ての方でした音も耳で聞き取れるようになります。そして、これらの燃え輝く天体はみな、もはや数百マイル単位で測られることはなくなり、まるで御座の周りを巡っているかのようになり、王の宮殿の明かりや宝石のようになります。その時、ヨハネの見た幻が成就されます。「私はまた、天と地と地の下と海の中とにいるすべての被造物が言うのを聞いた、『御座に座している方と小羊に、祝福と栄誉と栄光と力とが、永遠にわたってありますように』」。

神の愛の広さ

第二に、私たちは神の愛の広さを見ます。「神の愛は海のように広い」。いいえ、神の愛は大海原より遙かに広いのです。なぜなら、「東が西から遠いように、主は私たちの咎を私たちから遠ざけられる」からです。神の愛の水平線は無限で、測ることができません。北と南とは両極点で交わります。あなたが北に進み続けるなら、やがて向きを変えて南に向かわなければならなくなります。しかし、東と西とは決して交わることはありません。ニューヨークからカリフォルニアへ、カリフォルニアから中国へ、中国からインドへ、インドからヨーロッパへ、ヨーロッバからニューヨークへ、そしてまたカリフォルニアへ、という具合にあなたは永遠に西に向かって進み続けます。向きを変えて東に進み続けても、やはり東への道のりは無限に伸びています。地球上では、東に向かう人と西に向かう人とは、どこかで必ず出会うでしょう。しかし、東向きの線と西向きの線を地球上ではなく広大な空間面上に伸ばすなら――これが神の測量線です――その二本の線は決して交わることはありません。遠く遠く線の先端は永遠に離れて行き、この旅が続けば続くほど、両者の隔たりはますます大きくなります。このように、愛する者よ、私たちの罪と私たちとは離れて行くのです。私たちの罪は日毎に私たちから遠ざかっています。神は罪人に対する憐れみを次のような絵図で描写しておられます、「私は厚い雲のようにあなたの咎を覆い隠した」「私はあなたの罪を思い出すことをしない」「あなたは彼らの罪をすべて海の深みに投げ入れられます」「イスラエルの罪を探しても見つかることはない」。これらの御言葉はこの美しい御言葉で最高潮を迎えます、「東が西から遠いように、主は私たちの咎を私たちから遠ざけられる」。これを易しく言い換えるとどうなるのでしょう?

神は私たちの罪を覆い隠されるだけでなく、私たちの身代わりなる方の頭上に罪の刑罰を下すことにより、罪を贖って下さいました。神は過ちを見過ごすことなく、すでに十分に一度限り永遠に処罰されたのです。もはや再び罰せられることはありえません。キリストにあって私たちは自分の罪に対して死にました。罪はもはやなく、神の義は罪を思い出すことを私たちに禁じます。「それゆえ今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることがありません」。

これが意味するのは、私たちは赦されただけでなく、義とされたということです。私たちは義と見なされます。私たちは、すべての戒めを守って神の律法と義のすべての要求を満たした者のように扱われます。私たちはイエス・キリストにあって受け入れられ、彼の義はすべて私たちのものと見なされます。私たちは御座の前に立ちます。それは、あわれみにより赦されて当然受けるべき報いを免れた難民としてだけでなく、「神が選ばれた者を誰が訴えることができるのでしょう?神が義として下さるのです」と言える義とされた男女としてです。

これが意味するのは、私たちが罪に対する神の裁きから救われたということだけでなく、罪の力そのものが砕かれたということです。罪の原則は根元から打たれ、私たちの心の中に働かれる聖霊の働きにより、私たちは聖別され、罪の支配から解放され、神の形と神の姿の麗しさに回復されます。

これが意味するのは、私たちはアダムが失ったものを通して回復されるということだけではありません。私たちは上げられて、ある地位とある運命を迎えるよう回復されるのです。その地位と運命は、罪によって贖いが必要にならなかった場合に私たちが迎えたであろう地位や運命よりも遙かに高貴なものです。罪が満ちあふれたところには、さらに豊かに恵みが満ちあふれました。呪いは転じて祝福となり、堕落は転じて救済より遙かに高いものを示す機会となりました――それは造り変えと栄化です。贖われた人々と神の宇宙に住む全知的生命体にとって、これは永遠にわたって驚異と崇敬の賛美の的となります。

神の愛の深さ

さて、神の愛の深さを見ることにしましょう。「父がその子たちをあわれむように、主はご自分を畏れる者をあわれまれる」。神の御心はしばしば地の素晴らしさから転じて、彼の子供たちの内にあるいっそう深い知性や愛を探し求めずにはいられません。ある王と王女の話は誰でも聞いたことがあるでしょう。その王と王女は壮麗な宮殿のただ中にいるのですが、心に悲しみを抱えてそこを離れます。亡くなった愛する者の顔と姿がそこにないからです。愛する者が見つからないので、人をあざ笑うかのようなその壮麗さにうんざりしてしまいます。私たちの御父の御心を満足させるには、星団、燃え輝く太陽、秩序ある調和のとれた輝かしい太陽系以上のものが必要です。神は「天も私を入れることはできない」と言われます。神が満足を求めて探しておられるのはこのようなものではなく、へりくだった砕かれた心です。「主の分はその民、ヤコブは主の嗣業の分け前である」。

私たちの神は力、知恵、威光の化身であるだけでなく、大いなる父の心を持つ方です。神の民の中で最も弱く最も無価値な者ですら、必要な時にあわれみと助けとを求めてこの方に向かうことができます。私たちは父の心を示す絵図を神の御言葉以外のどこに求めればよいのでしょう?。この年を経た命の書の中には、二種類の父親が描写されています。第一の父親は、昔の族長ヤコブの絵図の中に描かれています。ヤコブは優しい愛でヨセフを愛していました。ヨセフは父親を決して嘆かせたことのない良い子であり、彼の若き日の悲劇はこの老人の心を打ち砕いて慟哭させました、「私は嘆き悲しみながら墓に下り、我が子のもとに行こう」。しかし、もう一つの父親の心があります。一人の王がマハナイムの門で待っていました。一日中、王は苦悶と不安の中、そこに座っています。王は戦いの報告を待っています。彼の王国はその戦いにかかっていました。王の子供が王座と王の命を求めて戦っていました。アブサロムは長年にわたって欺きと策略を用い、イスラエル人の心を掌握しました。そして今日、ダビデの最も勇敢な首長たちが、背いた彼の子から彼の王国を救うために戦っていました。使者たちが来ては去るごとに、父親は戦いの知らせについては聞かずに、自分の息子について聞きます。次々と急使が門に到着するたびに、王が熱心に発したのは「戦いはどうなったのか?勝ったのか?」と言う問いではなく、「あの若者アブサロムは無事か?あの若者アブサロムは無事か?」という悲痛な叫びでした。そしてついに、輝かしい勝利の知らせ、戦いに勝利した知らせ、王国が救われた知らせが届きましたが、王はそんな知らせには少しも気をとめませんでした。なぜなら、アブサロムが死んだという恐ろしい知らせが王の耳に届いたからです。王は父親として悲痛な叫びを上げます、「ああ、我が子アブサロムよ、我が子、我が子アブサロムよ。あなたの代わりに神が私を死なせればよかったのに。アブサロム、我が子、我が子よ!」。これは不良少年に対する、無価値な子に対する、恩知らずな息子に対する父の心です。

この後者の絵図を主イエスは取り上げて、さらに鮮やかな筆致で御父の心に関する永遠の絵図を描き上げました。その絵が福音書の物語の中で輝くのを見なさい。主ご自身が放蕩息子の帰りを門で待っておられます。何度主はそこで待っておられたことでしょう!主がずっと見張っておられたことは、主がずっと遠くにいた放蕩息子を見つけたことからわかります。息子の帰りを見つけそこなう隙は一瞬たりともありませんでした。そして見よ、父親はもう出かけて行って、ぼろ切れの束に向かっています。そのぼろ切れの束が息子だとは、父親以外の誰にもわからなかったでしょう。父親の腕が息子の首を抱き、父親は息子を強く抱きしめて、その哀れな息子の「私をあなたの雇い人の一人にして下さい」という似つかわしくない言葉を遮ります。この言葉は言い終わる前に遮られ、父親の喜ばしい声だけが響き渡ります。「最上の衣を持って来て、この子に着せなさい。手には指輪をはめ、足には靴を履かせなさい」。父親が与えうる最上のものを息子に与えなさい。「私のこの息子は死んでいたのがよみがえり、失われていたのが見つかった」。もう一人の息子に関する絵図が、この絵図の傍らに対を成して立っています。「子よ、あなたはいつも私といます。私のものはすべてあなたのものです」。そうです、神は従順な子に対して父の心を向けておられます。しかし、ああ、父の愛の深さを極みまでも明らかにするには、罪と死の深淵が必要なのです。

人々は一人の母親の物語について告げます。その母親は一生の間ずっと自分の罪深い息子を探し続け、「あの子はじきに戻って来ます。あの子は最後には立ち直ります」と言い続けます。母親は息子をあきらめることができません。ついに母親は、息子がアメリカの牢獄の裏庭に葬られていることを知りました。母親は骨を一本だけ求めました。自分の骨を息子の骨の隣に埋めるためです。これが母の愛であり、父の心であり、救い主の愛です!

神の偉大さと人の極度の脆さとの対比が、詩篇百三篇十四節に見事に述べられています。「主は私たちの成り立ちを知り、私たちがちりであることを覚えておられる」。神は無限のあわれみをもって、ご自分の哀れで、いつか死ぬ運命にある、罪深い、病み苦しむ子供たちを見下ろしておられます。子供たちが無力だからこそ、ますます父親にとって大切なのです。あなたは哀れな身障者の子供が亡くなるのを見たことがあるでしょうか?その子が死んで家からいなくなる時、丈夫な健常者たち以上に大いなる悲しみがあるのです。あなたは母親のこのうめき声を聞いたことがあるでしょうか、「私は他のどの子よりもこの子が恋しいのです。この子はいつも私を必要としているようだったからです」。そうです、これが父たる神の心です。今日、心の傷ついている人、惨めな人生を送っている人、人の希望も地上の助けも見えない罪深い人はいるでしょうか?ああ、聞いて下さい!「父がその子たちをあわれむように、主はご自分を畏れる者をあわれまれる」。

「優しい父親がいなくなった子供を慕うように
神は人が戻って来るのを望んでおられます。
ああ、かくも長く神のあわれみをはねつけてきた罪人よ、
帰りなさい、神のもとに帰りなさい!」