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「理想的なペンテコステの教会」

Ideal Pentecostal Church

第八章 物惜しみしない教会

セス・C・リース
Seth C. Rees



「彼らは自分の所有や持ち物を売り、各自の必要に応じてそれを全員に分けた」。「彼らの間には乏しい者が誰もいなかった。なぜなら、土地や家を持つ者たちはそれらを売り払い、売却したものの値を持って来て、使徒たちの足下に置いたからである」。

注意したいのは施しの方法ではなく、この惜しみない行動の背後にある精神である。その現れは変わるかもしれないが、ペンテコステの精神は決して変わることがない。使徒たちの時代から今日に至るまで、ペンテコステの火が人々や諸教会の上に下る時は常に、財布の紐は焼き払われ、その所有者は施しの霊で満たされてきた。霊の稲妻により、吝嗇、物惜しみ、けちけちした精神、強欲さはことごとく焼き尽くされ、我々はふんだんに与えるようになる。その時、我々の目は初めて聖霊によって照らされ、「受けるより与える方が幸いである」ことを真に悟るようになる。持ち物を与えれば与えるほど、神の恵みの法則を我々は理解するようになる。

これはもちろん、人の法則や先例にまったく反する。人の理屈とは正反対である。この世は言う、「富みたいなら、得たものをすべて蓄え、できるだけ多くのものを得よ」と。神は言われる、「行って、自分の持ち物をすべて売り払い、貧しい者に与えよ」と。「自分の息子が飢えているのに、瓶のなかにある最後の僅かな食料を与えるようやもめに求めるのは、まったく馬鹿げたことだ」と、この世は言ったであろう。しかし、やもめが貴重な食物を神の預言者に与えた時、神は彼女に尽きない食料庫をお与えになったのである。これが、尽きない供給をやもめに開く神の方法であった。瓶の底から取った僅かな食料は、間違いなく古くてかび臭いものだったが、無限の蓄えを持つ倉庫を解錠する鍵だったのである。

「施して散らしてかえって増す者があり、与えるべきものを差し控えてかえって貧しくなる者がある」。「物惜しみしない人は肥え、潤す者は自分も潤される」。「少なく蒔く者は少なく刈り取り、多く蒔く者は多く刈り取る」。「しぶしぶ与えたり、必要に迫られて与えてはならない。神は喜んで与える者を愛して下さるからである」。「あなたの財産と、あなたの収穫の初穂とをもって主をあがめよ。そうするなら、あなたの倉は多くのもので満ち、あなたの酒ぶねは新しいブドウ酒で溢れる」。我々が主に与えるものはみな、明らかに利得となり、蓄えるものはすべて失われる。

我々が蓄えた金は火のように我々の肉を食らうであろう。「主の働きに投じる金はどれも、ポケットからなくなった金である」と、我々の教会の多くの人々が感じている。これを思い出すなら、金が必要になる時、「困った」と人々が叫ぶのも不思議ではない。しかし、物惜しみしないで与える者は、決して困ったと不平を鳴らすことがない。惜しみなく主に与える人には、与えるものが常にあるものである。

筆者が奉仕することを許されている諸教会の中で、困った目にあって不平を鳴らしているのは、僅かしか与えない人々や何も与えない人々であった。事実、彼らは何も与えないのである。収入の十分の一という賃料を払わないからである。借金以上の自由意志による献げ物については言うまでもない。

ペンテコステの教会は、神無きキリスト無きこの世と不潔な関係を持って姦淫を犯さなくても、常に多くの金を持つ。金を得るためにこの世に自分を雇ってもらったり、売り渡したりする必要はない。異邦人の奴隷となって、異邦人にカキやアサリやケーキやアイス・クリームを食べさせる必要に陥ることは決してない。神の家を二流の劇場にする必要や、商品で宮の神聖を汚す必要に陥ることは決してない。ペンテコステ的な施しは、我々の教会の負債を清算し、借金を帳消しにし、教会の金庫を溢れるほどに満たす。異教徒の救いのために外国の地に数百万ドル送る。人が聖霊を受ける時、自分の頭にかぶる帽子には五ドル費やし、宣教団の献金箱には五セントしか入れない、ということはなくなる。二十五ドルの外套を着るのをやめて、ついには教会の用途のために、籠の中に四分の一以上投じることができるようになる。

ニュー・イングランドにおける我々の特別集会の一つで、ある裕福な人とその妻が聖霊のバプテスマを求めて祭壇にやって来た。彼らは聖霊の証しが得られないようだったが、我々にはその理由がわからなかった。彼らは翌晩再び戻って来た。案内係が我々に教えてくれたのだが、献金箱が回されて来た時、その紳士は一ペニー中に入れ、その妻は二ペニー中に落とした、とのことであった。招きがなされた時、この夫婦がまたやって来た。このようにけちけちした求め方が無駄に終わったことは言うまでもない。彼らが三セント分の霊的祝福を得たかどうかすら疑わしい。

あるクリスチャンの婦人が、ある日、教会から戻った後、説教の退屈さについて不平を鳴らした。彼女の小さな少年は、彼女の隣の会衆席に座って、彼女の献金額を見ていたのだが、すぐさま、「でも、ママ、五セント硬貨一枚で何が期待できるの!」と答えた。

この気前よさを生み出す天空からの炎以外に、教会を破産や負債の重荷から守るものはない。この炎が下る時、会衆席料、娯楽、バザー、祭、粗末な夕食、他のあらゆる悪魔的馬鹿さ加減は消え去る。主よ、この火を下したまえ。