「思い煩ってはいけません。(中略)あなたたちのうち誰が思い煩ったからといって(中略)なぜ思い煩うのですか?ですから、思い煩ってはいけません。神の王国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、それらのものはみなあなたたちに加えて与えられます」(マタイ六・二五、二七、二八、三一、三三)。
私たちの英語の聖書で「王国」と訳されている言葉の意味は主権的支配であることを、もう一度思い出して、はっきりと念頭に置くことにしましょう。そうするなら、いま読んだこの三三節は新たな意味や価値を帯びるようになることが直ちに明らかになります。「第一に神の主権的支配を求めなさい。そうするなら、それらのものはみな加えて与えられます」。
文脈に注意して下さい。この節は五章から七章のいわゆる「山上の垂訓」のまさに中心にあることがわかります。山上の垂訓には百十一の節があります。これはマタイが記録した主の五つの談話の最初のものです。さらに、この談話はもっぱら主の弟子たちに対してなされたことがわかります。この弟子たちはこの主権、この支配、この王国の核でした。「群衆を見て、彼は山に上られた。彼がそこに座した時、弟子たちがやって来たので、彼は口を開いて彼らを教えられた」(マタイ五・一、二)。ですから、山上の垂訓はこれらの弟子たちと関係していたことは明らかです。弟子たちはこの主権的支配の中に直ちに入り、その意義に本質的にあずかりました。キャンベル・モルガン博士はこの区分のことを、「王なるイエス、その教義と法律の布告」と呼んでいます。山上の垂訓は王とその王国の法律の布告であり、支配者とその支配の布告でした。
神の主権的支配による平安の法則
次に、「神の王国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、それらのものはみなあなたたちに加えて与えられます」が神の主権的支配の法則です。文脈から、この法則は生計を立てる様々な方法や手段に関する心配と関係していることがわかります。特に、明日のことに対する心配と関係しています――ついでながら、この法則は多数の神経衰弱やかなりの神経症のまさに根本原因を突いています。しかし、この問題について扱うことはしません。ある法則、この主権的支配の法則について明確に述べることにします。この法則は何度も繰り返されるこの言葉――思い煩い、思い煩い、思い煩い――を征服するものです。ですから、この法則は神の主権的支配による平安の法則です――あなたは王国の中にいるので平安なのです。私たちはすぐに活動圏や領域のことを思い浮かべてしまいますが、それは二次的なものです。あなたは神の主権的支配の中にあるので、「それらのものはみな」与えられます。
積極的法則
しかし注意して下さい――これは受動的な法則ではありません。親切な人々は至る所で「ああ、心配してはいけません。主があなたを顧みて下さり、その問題の面倒を見て下さいます。万事よくなります」と言っていますが、主イエスはそのようなことを言っておられるのではありません。主はそのようなことは言いません。それは、「神を保険会社の代わりにしなさい。そうすれば、神がすべて面倒を見て下さいます」と主は決して言わないのと同じです。また、主は問題を宗教界に委ねて、「その問題を祭司に委ねなさい。そうすれば、祭司がその問題を処理してくれます」「その問題を教会に委ねて、自分の責任をすべて下ろしなさい」と言っておられるのでもありません。こう述べるのは、私たちが主の御言葉の核心に達するためです。どうにかして、私たちは主の御言葉の真の核心に、この真の意義に達しなければなりません。そして、あらゆる誤解や間違った観念、またあらゆる間違った道を取り除かれなければなりません。「何らかの方策(保険など)や何らかの急場しのぎの方法で、自分の肩から責任や負債を下ろしてどこか他の所に置くことができさえするなら、安心できるようになるのに」と多くの人が考えています。しかし、そのような方法はうまく行きません。あなたは被造物の中で最も手厚く保護されている人かもしれませんが、それでも最もひどい心配、思い煩い、悩みを抱えている人かもしれないのです。責任を放棄しても安心が得られる保証はありません。また、「心配するな。万事よくなる」といった偽りの受動性によって、安心が得られる保証もありません。
しかし注意して下さい――これは積極的な法則なのです。主は「ああ、心配してはいけません」と言われたのではなく、「第一に求めなさい」と言われました。この法則はとても積極的なものであることがわかります。「第一に求める」なら、責任を取り去られ、他のことについても世話してもらえます。「この神の主権的支配、この神の統治、そして神の義を第一に求めなさい」。これは積極的な原則であり、神の支配にどれだけ役立つかという光に照らしてすべてを見ることです。あなたがこれを行いさえするなら、あなたはここに記されている恩恵を受けることができるようになります。私たち自身の益は二の次であり、最後まで後回しです。主の権益が第一であり、生活がこの原則に基づいて調整されるなら――この原則に基づいて調整されるなら――、そしてこの原則に基づいたものであり続けるなら、他の結果がこれに続きます。神が他の事柄の面倒を見て下さるのです。
入念に生活を調整すること
「生活がこの原則に基づいて調整されるなら」と私は述べました。私たちのうちの幾人かは、長い時間を費やして、生活をこの原則に基づくものにしなければなりません。これは事実です。私たちはかなり長い時間たって初めて、この道に従って自分の生活を再調整し始めるようになります。まあ、たとえ遅くても何もしないよりはましです!しかし、若者や若いクリスチャンに――特に何らかの方法で自分の生活を調整しようとしている若者に―― 一言述べたいと思います。おそらくあなたは結婚生活を始めたばかりか、あるいは結婚生活を送ることを考えているところかもしれません。今こそ、この主権的支配の原則に基づいて生活を調整する時です。今こそ絶好の機会であり、この機会を有効に活用するなら、後になって多くのことを取り消す必要はありませんし、多くの後悔にさいなまれることもありません。この主権的支配のこれらの法則はみな、ご覧のようにとても実際的であり、これはとても実際的なものなのです。どこに住めばいいのでしょう?どんな家を持てばいいのでしょう?これはみな実際的な問題です。あなたはこの原則に基づいてすべてを調整しなければなりません。「これは神の主権的支配にどう役立つのか?」――これが重要な支配的原則であり、これに従ってすべては調整されなければならないのです。
これを第一にするなら、あなたは私たちが様々な場所で見かけた多くの悲劇から逃れることができるでしょう。ああ、良い家、良い家庭かもしれませんが、距離や他の点で主の権益とはまったく無関係なのです。そして、それは悪夢、妨げ、制限となり、主に関する事柄が被害を受けることになります。とてもとても多くの霊的悲劇が生じます――多くの人が主に対して失敗を犯し、霊的度量や主に対する有用性を失い、奉仕や教会に関することで失敗しました。このようにこの原則を拡張することができます。この世の生活全般や、成功と野心の問題――何と広大な領域をこの原則は網羅することか!今、この天の支配の法則あるいは原則に基づいて、あなたは自分の生活を第一に神の権益や神の支配にかなうものとなるように調整しなければなりません。これが第一でなければなりません。もしそうなるなら、あなたは「神が自分のことを顧みて下さる」と確信して安息することができます。あなたは確かに、長期的に損失を被ることはありません。神はご自分の分を忠実に果たして下さいます。
次に、あなたはこの調整された生活を維持し、この原則に基づく生活にとどまらなければなりません。この生活から逸らされるのはいとも容易です。ありとあらゆるものがこの生活を邪魔します。生活上の小さな事柄において、生活全般にわたって、敵は何とかして私たちをこの道から逸らし、引き離そうとしており、また主の権益に取って代わるものを持ち込もうとしています。これを敵は真剣かつ真面目に行っており、私たちは勤勉の限りを尽くし、目を覚まして堅く立たなければなりません。前に述べたように、これは決して受動的なことではありません。これは行き当たりばったりで何とかなることではありません。「第一に求めなさい…」。
神の王国を第一に求めなさい
さて、この「求めなさい(seek)」という言葉は強い言葉です。「探しなさい(seek)、そうすれば見出します」と主は他の箇所で言われました。「なぜなら、探す者は見出すからです」(マタイ七・七、八)。これは勤勉に働く人の絵図です。求めなさい。これに取り組み、これをあなたの仕事とし、これに専念しなさい。神の主権的支配を第一に求めなさい――第一に求め続けなさい。もしあなたが別の道を取るなら――自分自身の事柄や利益を第一にするなら――主はこれをあからさまには語っておられませんが、その結果は極めて明快に示唆されています。なぜなら主は、「あなたたちは思い煩っています。どうして思い煩うのですか?」と言っておられるからです。主は「数々の問題に直面している」人々について述べておられますが、これは次のことを示唆します。「もしあなたが自分の利益を第一とするこの別の道を取るなら、あなたは自分でその結果の責任を負わなければなりません」。あなたは神の主権的支配の庇護を受けずに自分の人生の責任を負わなければならないのです。神の法廷で頼るべきものが何もないのは恐ろしいことです。主が本当に万事を益として下さるのを当てにできないのは恐ろしいことです。また、思い煩う必要はまったくないという保証が全然ないのは恐ろしいことです。この重荷を取り、自分自身でこの荷を運び、自分で人生の問題に取り組みなさい。そうするなら遅かれ早かれ、あなたは自分の手に負えない凄まじい状況に出くわすでしょう。これが別の道であり、多くの人は悲惨なことにこの道を歩んだのです。
「しかし」――この言葉で状況は転じて一変し、立場も変わります――「しかし第一に求めなさい……」。すべては私たちの事情や生活の中に働く神の主権的支配の問題に他なりません。私たちは神の主権的支配を知り、それを楽しみ、それを証明し、それが現実であることを経験することができます。素晴らしいことに、ついには私たちは神の主権的支配が現実のものであったことを知るようになるのです。たとえ神が主権をもって働いておらず、神は私たちの益のために働いておられないように思われる時でも、神の主権的支配は現実です。神が少しも働いておられないように思われる所でも、その状況は依然として神の御手の中にあったことを、最後に私たちは知るようになります。そうです――神と共に長生きするなら、当時は主の統治や支配に反するように思われた状況を振り返って、そうした状況は結局のところ益になったことがわかるようになるのです。これは真実です。おそらく、この本を読んでいるあなたは今日、神の主権的御手の痕跡を辿るのが難しい状況の中にあるかもしれません。しかし、神の御言葉は堅固であり、神の御業は確かです。主は言われます、「あなたが私の権益と私の支配を第一にするなら、私がそれ以外のことをすべて世話します――これらのものはみな加えて与えられます」。
この原則は功を奏してきたことをはっきりさせようではありませんか。私たちはこの原則を個人的なものにしなければなりません――なぜなら、思い煩いは個人的なものだからです。そうではないでしょうか?私たちは思い煩い、問題事や心配事、混乱や困難を抱えています。これはみな私たちが抱えているものです。その多くは不必要なものなのではないでしょうか?――私たちはあちこちに出かけ、何かの用事や目的を果たし、取り引きを行ったり、何かの計画を遂行しようとしますが、立ち止まって、「さて、これは主のどんな権益の役に立つのだろう?」と自問しようとしないのです。衝動、気まぐれ、肉欲――自分の好むもの――こうしたありとあらゆるものが生じて私たちの人生行路を支配します。主は言われます、「止まりなさい!最も大切なのは、私の占める地位であり、私の権益のためにどう役立つかなのです」。おそらく、これはとても厳しく思われるかもしれません。律法的だとすら思われるかもしれません。しかし、そうではないのです――これは神の支配の恩恵にあずかる道なのです。
「神の王国と神の義を第一に求めなさい」。ここに二つのものがあります。第一は王国――神の主権的支配――です。言い換えると、「生活の中で神が占める地位に関する事柄、すなわち神の主権的支配を第一に求めなさい」ということです。神は主であり、主権者です。ですから、神の地位に関する事柄を第一に求めなさい。これはとても単純で幼稚に聞こえますが、神の地位こそ最も重要なものなのです。このことで神はどのような地位を占めておられるのでしょうか?神はどこに到来されるのでしょう?神の地位は主権的地位です。主権的支配は神の権利なのです。
神の義を第一に求めなさい
次は神の義です――これは神の性格と関係する事柄です。神に似ていること――敬虔さ――を第一に求めなさい。全聖書はこの義と不義に関する問題でいっぱいです。義とは神に似ていることであり、神に属するものです。「義と裁きとは御座の基です」(詩篇九七・二)。不義とは神に反することであり、預言者や先見者はこれに対して神の不興と怒りを宣告しました。私たちが最優先して求めるべきことは、(1)神が私たちの生活の中で正当な地位に着かれることであり、(2)敬虔さなのです。これがまさにこの法則の核心です。これが意味するのは、あなたや私は第一にキリストに似た者、神に似た者となることを常に求めるべきである、ということです――これは「神のようである(godly)」という言葉を拡張した表現に他なりません。また、私たちはこの似姿、神の性質と性格を状況の中にもたらさなければなりません。また、神がイエス・キリストにおいて啓示されたように、私たちは神の似姿の表現が地上に見出されるようにしなければなりません。これは、私たちは次のことを第一の主要な任務とすべきことを意味します。すなわち私たちは、私たちの家庭を神を実際に知ることのできる場所、神の似姿で特徴付けられた場所とするべきなのです。そのために私たちは全神経を集中して、神をその真の姿にしたがって生活のあらゆる場面にもたらさなければなりません。
これはこの御言葉を誇張したものではありません。神の義、神の性格、神の似姿、神ご自身――これを第一にもたらすことをあなたの任務としなさい。そうするなら、まさにその場所で主があなたのために完全に主権的に支配されるのを、あなたは経験するでしょう。単純に述べるのを許して下さい。しかし、私たちはこの節を引用するのが習慣なのです――「神の王国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、それらのものはみなあなたたちに加えて与えられます」。そうです、しかしこれは何を意味するのでしょう?これは進んだ教えであり、主イエスがこれを弟子たちのために取って置かれたのはそれが一つの理由です。救われていない人に山上の垂訓に従って生活するよう求めても全くの無意味です。これは回心していない人のための生活規則ではないのです。これを彼らに与えても実行不可能です。これは王国の子供たちの日々の生活の実際的原則なのです。
神の王国 対 敵の王国
しかし、神の王国のすぐそばには常に、別の王国、別の統治、別の支配、別の神が潜んでいます。この別の王国の目的は神の民を隷属や束縛の中にもたらし、重労働の中にとどめておくことです。あなたは直ちにエジプトを思い起こされるでしょう。イスラエルがエジプトにいたことを聖書が述べているのをあなたは思い出されるでしょう。少し考えてみて下さい。イスラエル(Isra-el)――とは神の王子を意味します。その国民はイスラエルの子たちであり、エジプトで束縛、隷属、たいへんなうんざりするような労働の中にありました。これは絵図です。神の支配の数々の法則は、私たちを解き放ち、解放するためのものであり、私たちに自由と、安息と、繁栄を与えるためのものです。それなのに、この別の支配が常に近くに影を落としているのです。この別の支配はこの哀れな世界を自分の忌まわしい支配下に置くだけでは飽きたらず、とりわけ神の子供たちの上に影響を及ぼして、つらい隷属の中にもたらそうとしているのです。
多数のおびただしい神の子供がそこにおり、思い煩いに悩まされ、この別の王国の恐るべき支配の中にあります。この別の王国は神が御民の間でお受けになる栄光を奪おうとしており、神の子供たちの姿――思い煩い、打ちひしがれ、心配し、恐れに満ちている姿――で神を中傷しようとしているのです!彼らはそれでも神の息子たちです。何という矛盾でしょう!神の子供たちの中には、霊性を失うことを恐れて、決して笑うまいという恐ろしい計画を実行している人がいるようです。これはとても嘆かわしい問題です。御民に対する神の御思いは、御民が解放された自由な民となることです。これは裁きや罪定めや罪の刑罰からの解放を意味するだけでなく、この思い煩いに満ちた心や陰気な表情の圧政からの解放をも意味します。
悪魔が何を狙っているのか、おわかりになったでしょう。この主権の法則には深遠な意義があり、遙か彼方まで影響を及ぼします。これ以外の王国は別の王国であり、別の支配であり、大いに異なっています。この別の王国や支配の主な目的は、神がご自分の血で買い取られた子供たちを思い煩わせることであり、神がキリストにあって彼らのために成就された贖いそのものを否定することです。ですから、悪魔そのものを打ち破るために、悪魔の支配の力を滅ぼすために――「神の主権的支配と神の義を第一に求めなさい」。そうするなら、神が責任を負って下さり、あなたを不要な心配から解放して下さいます。これは実行可能でしょうか?これは重要なことでしょうか?イエスが来られたのはこの王国――この支配とこの体制――をもたらすためであり、この別の王国を滅ぼすためなのです。
ですから、神の王国の到来の背後には、確かに素晴らしい意義があります。「神の主権的支配と神の義――神の性格と性質――を第一に求めなさい――優先しなさい。そうすれば、それらのものはみなあなたたちに加えて与えられます」。
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